第136話 隠された道標
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――第3章 獣人国編 プロローグ――
朝靄の中を歩き始めてから、三十分ほど経っていた。
低い丘が幾重にも重なりながら、北へ続いている。地下水路の淀んだ臭いはもうない。湿った土と草の匂いを運ぶ冷たい風が、濡れた服の上を抜けていった。頭上には天井がなく、背後を振り返っても帝都の外壁は見えない。猟犬の声も、追ってくる足音も聞こえなかった。
逃げ切った。少なくとも、帝都からは。
それでも、ここはまだ帝国領だ。街道も村も、行き交う兵士も、すべて帝国の支配下にある。負傷した獣人と子供たちを連れた九人組など、見咎められた時点で説明がつかない。自由になったというより、檻の形が石壁から広い丘陵へ変わっただけなのかもしれない。
夜来の雨で、足元はひどくぬかるんでいた。一歩進むたびに粘つく土が靴底へまとわりつき、夜通しの逃走で消耗した体から容赦なく力を奪っていく。草の朝露で膝から下は濡れ、服に残った水分が風に冷やされた。
バルクとライアンがノーラの担架を運び、セーラはミナを背負子に乗せて背負っている。リーネはフィルの手を握り、転ばないよう歩幅を合わせていた。斜面を上るたびに担架が傾き、ノーラが苦痛を押し殺すように眉を寄せる。九人全員で進んでいる以上、速度が上がらないのは当然だった。
「……少し止まって」
セーラの声で、一行が足を止めた。彼女は背負子を下ろすと、ミナの靴を脱がせる。踵は赤く腫れ、一部の皮がめくれていた。
「靴擦れよ。これ以上悪くなったら、自分の足では歩けなくなるわ」
ミナは痛みに顔を歪めたが、声は上げなかった。その様子を見ていたリーネも、すぐにフィルを座らせて足を確かめる。
「フィルも……赤くなっています。少し前から歩き方がおかしいと思っていました」
「……すまない」
担架の上で、ノーラが唇を噛んだ。
「私たちがいるから、子供たちまで……」
「あんたのせいじゃない」
俺は首を振った。
「無理に進んで、全員動けなくなる方がまずい。ここで一度、足を診よう」
バルクとライアンが担架を静かに下ろす。バルクはまだ余力を残しているように見えたが、額には汗が浮かんでいた。ライアンの呼吸はさらに荒く、担架から手を離した腕が小さく震えている。
出発前に購入した携帯食と粉末スポーツドリンクを取り出し、全員に少量ずつ配った。ミナとフィルには食べやすいものを選び、ノーラにも無理のない量だけ口にしてもらう。リーネは自分の分を受け取ると、先にフィルへ差し出そうとした。
「半分ずつだ」
俺が言うと、リーネは少し迷ってから頷き、フィルと分け合った。
食料はまだある。水も当面は足りる。だが、足の傷を放置するわけにはいかない。加えて、朝靄が消えれば、この開けた丘陵で俺たちの姿は遠くからでも目立つ。
俺はマリエクを開いた。
[検索:軽量迷彩ネット、靴擦れ保護パッド]
[検索結果:
軽量迷彩ネット・3メートル×5メートル・2枚セット 12,000円
靴擦れ保護パッド・防水タイプ・20枚入り 3,000円]
[送料:2,000円]
[合計:17,000円]
【現在の残高:27,226,000円】
現れた箱から靴擦れパッドを取り出し、セーラとリーネへ渡す。
「傷を拭いてから貼ってくれ」
「あんたの分も必要ね」
「俺は大丈夫だ」
セーラが俺の足元へ目を落とした。
「さっきから右足を引きずってる」
「斜面のせいだ」
「斜面はみんな同じよ」
「……少し擦れただけだ」
「最初からそう言いなさい」
有無を言わせぬ顔で手を差し出され、俺は諦めてパッドを一枚渡した。俺が靴を脱ぐと、セーラは赤くなった踵を手早く処置する。顔が近い。こんな時に気にしている場合ではないのに、妙に落ち着かなかった。
「痛い?」
「いや」
「じゃあ、どうして顔を逸らしてるの?」
「近いんだよ」
セーラの手が一瞬止まり、包帯をきゅっと締めた。
「痛っ」
「痛くないんじゃなかった?」
小さく笑ったセーラを見て、ミナの口元にもかすかな笑みが浮かんだ。ほんの一瞬だったが、地下施設を出てから初めて、誰かが笑った気がした。
* * *
足の処置を終え、再び歩き始めて間もなく、先頭のヒルダが片手を上げた。全員が足を止める。ヒルダは斜面の草を見たあと、風の向きと丘の稜線を確かめるように顔を上げた。
「右前の丘だ。馬がいる」
俺には何も聞こえない。ヒルダは足元を指さした。朝露に濡れた草が、一筋だけ帯状に倒れている。少し先には新しい蹄の跡があり、丘の上を飛んでいた鳥も、その一角だけを避けていた。やがて風に乗って、金属が触れ合うかすかな音が届く。
「騎馬が二。歩兵もいる。十人前後……いや、もう少しいるかもしれねえ」
「追手でしょうか」
ライアンが低い声で尋ねた。ヒルダは首を横に振る。
「分からねえ。隊列は急いでない。北部を回ってる巡回かもしれん」
俺は以前購入した双眼鏡をアイテムボックスから取り出し、丘の稜線を確認した。帝国兵だった。だが、こちらを捜し回っている様子ではない。街道から外れた農地や丘陵を、決められた経路に沿って巡回しているように見える。
追手ではない。
それでも、見つかるわけにはいかなかった。負傷者と獣人を連れた九人組など、呼び止められた時点で終わる。
「街道へ下りる前に、やり過ごす」
俺は箱から迷彩ネットを取り出した。
ヒルダが素早く周囲を見回し、雨で削られた斜面の溝を見つける。上側から見れば浅い窪みにしか見えないが、斜面の下側は胸ほどの深さがあった。
「ここなら入る。急げ」
バルクとライアンが担架を傾けないよう慎重に下ろす。二枚のネットを重ね、ヒルダが周囲の枯れ草と細い枝を散らして輪郭を消した。ライアンは丘の上から見える角度を確かめ、ネットの端をさらに低く引く。俺は石と土で端を押さえ、風で不自然に持ち上がらないよう固定した。
九人と担架を隠すには、余裕などない。バルクの大盾を地面と平行に寝かせ、その下へ荷物をまとめる。ノーラの担架は傷に響かない角度を保ったまま、溝の一番深い場所へ収めた。俺たちは身を寄せ合い、その下へ体を収める。
セーラがミナを胸元へ抱き寄せた。リーネはフィルの手を両手で包んでいる。自分の指も震えているのに、離そうとしない。
「大丈夫。ここにいるから」
声はかすかだったが、フィルはリーネを見て小さく頷いた。
やがて、馬具の音と複数の足音が近づいてきた。蹄が湿った地面を踏み、鎧と剣の金具が擦れる音が重なる。ネット越しに、帝国兵の脚が見えた。
「西側、異常なし」
「次は古い農道だ。日が高くなる前に回るぞ」
聞こえた会話は、それだけだった。
巡回隊の大半は、俺たちが潜む溝から十数メートル離れた場所を通り過ぎていく。遠目には地面の起伏に見えても、近くで立ち止まられれば分からない。誰かが身じろぎするだけで、枝や草が不自然に揺れる。
フィルの呼吸が速くなった。リーネは何も言わず、その手をさらに強く握る。ノーラが痛みに耐えかねたのか、唇の隙間から息を漏らしかけた。バルクが担架の縁を支え、揺れを止める。
その時、隊列の端を歩いていた一人が斜面の縁へ寄り、古い木杭に足を引っかけた。
「邪魔だな」
兵士が杭を蹴る。腐っていた根元が折れ、こちらへ倒れ込んできた。
ネットに触れれば、不自然に揺れる。
俺が手を伸ばすより早く、バルクの腕が動いた。大きな手が倒れてきた杭を途中で掴み、音も立てずに止める。腕の筋肉が盛り上がったが、表情は変わらない。杭を支えたまま、巡回隊が通り過ぎるのを待った。
「遅れるな!」
前方から声が飛んだ。
兵士は倒れた杭へ一度だけ目をやったが、舌打ちすると隊列へ戻っていく。
足音が遠ざかっても、ヒルダが合図を出すまで誰も動かなかった。やがて丘の向こうから鳥の声が戻り、張り詰めていた空気が少しずつ緩んでいく。
「……行った」
全員が、押し殺していた息を吐いた。バルクは掴んでいた木杭を静かに地面へ置く。
「助かった、バルク」
「問題ない」
いつもと変わらない短い返事だった。
* * *
巡回隊が完全に離れたことを確認し、俺たちは溝から這い出た。長く同じ姿勢を続けていたせいで、立ち上がった途端、右足に鋭い痺れが走る。
「……っ」
よろめいた俺の腕を、セーラが掴んだ。
「大丈夫?」
「足が痺れただけだ」
「なら、少し待ちなさい。急いで転んだら、さっき隠れた意味がないでしょ」
正論だった。俺は黙って、痺れが引くのを待った。
その傍らで、ライアンが折れた木杭を拾い上げる。
「境界を示す杭でしょうか」
表側には文字も記号もない。雨風に削られた、ただの古い木材にしか見えなかった。だが、地面近くの、街道とは反対側に三本の傷が刻まれている。長さも深さも間隔も揃っていた。
ヒルダが傷を指でなぞる。
「爪痕じゃねえ。刃物で刻んである」
「何かの目印か?」
「たぶんな。三本とも、同じ方へ傾けてある」
担架の上から覗き込んだノーラの表情が変わった。
「……その印、聞いたことがある」
俺たちの視線が、ノーラへ集まった。
「北へ逃げた獣人たちは、帝国の道標を使わない。見つからないように、自分たちだけが分かる印を残すって」
「この先に獣人の村があるのか?」
「分からない」
ノーラはすぐに否定した。
「私も実際に使ったことはない。もう使われていない印かもしれない」
リーネも三本傷を見つめていた。
「私も……昔、似た印を見た気がします。はっきりとは、覚えていませんけど」
「場所は覚えてるか?」
「ごめんなさい。小さかったから……」
それで十分だった。確かな案内ではない。村がある保証もない。だが、帝国の街道とは別に、獣人たちが使ってきた道が存在する可能性はある。
ヒルダが木杭の周囲へしゃがみ込み、草と土を調べ始めた。折れる前に杭がどちらを向いていたのか。周囲の草がどこだけ低くなっているのか。枝の折れ方や、雨水の流れまで一つずつ確かめていく。しばらくして、木杭が示していた先の茂みへ進んだ。
「こっちだ」
一見すると、草が生い茂っているだけだった。しかし目を凝らせば、一列分だけ草の高さが違う。斜面の陰には古い轍のような窪みがあり、枝も外側ではなく道の内側へ折れていた。人目を避けながら、誰かが長い間通ってきた跡だ。
ライアンが地図を広げる。
「この方向には、街道も村も記載されていません」
「何もないんじゃない」
ヒルダが茂みの奥を見ながら言った。
「載せてねえんだろ」
俺たちは、草を分けて細い道へ入った。獣道よりは広いが、荷車が通れるほどではない。道は丘の斜面に沿って蛇行し、少し進むだけで背後の街道が見えなくなった。
数十歩進んだところで、ヒルダが再びしゃがみ込む。土に残っていたのは、古い足跡だけではなかった。
大人二人分ほどの足跡。その間に、小さな足跡が一つ残っている。昨日の雨が止んだあとについたものらしく、縁はまだ崩れていない。
軍靴ではない。街道を歩く旅人の硬い革靴とも違う。柔らかな布か、薄い革を巻いたような跡だった。小さな足跡の横には、四本の指先のような跡も残っている。
「北へ向かってる」
ヒルダの言葉に、ノーラがゆっくりと顔を上げた。リーネもフィルの手を握ったまま、道の先を見つめている。
道は、草と木々の奥へ続いていた。
帝国の地図には存在しない道。その先に何があるのかは、まだ分からない。獣人の隠れ里があるのか、それとも北へ逃げるための古い通路なのか。まだ、確かめようがない。
それでも、足跡は教えていた。
この道を使う者は、過去の噂の中だけにいるのではない。
地図にない道の先で、今も誰かが生きている。そう思わせるには、十分だった。
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