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異世界ネットショッピング  作者: たにやん
第3章 獣人国編

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136/155

第136話 隠された道標

本日2回更新になります。

18時に137話更新します。

――第3章 獣人国編 プロローグ――





朝靄の中を歩き始めてから、三十分ほど経っていた。


低い丘が幾重にも重なりながら、北へ続いている。地下水路の淀んだ臭いはもうない。湿った土と草の匂いを運ぶ冷たい風が、濡れた服の上を抜けていった。頭上には天井がなく、背後を振り返っても帝都の外壁は見えない。猟犬の声も、追ってくる足音も聞こえなかった。


逃げ切った。少なくとも、帝都からは。


それでも、ここはまだ帝国領だ。街道も村も、行き交う兵士も、すべて帝国の支配下にある。負傷した獣人と子供たちを連れた九人組など、見咎められた時点で説明がつかない。自由になったというより、檻の形が石壁から広い丘陵へ変わっただけなのかもしれない。


夜来の雨で、足元はひどくぬかるんでいた。一歩進むたびに粘つく土が靴底へまとわりつき、夜通しの逃走で消耗した体から容赦なく力を奪っていく。草の朝露で膝から下は濡れ、服に残った水分が風に冷やされた。


バルクとライアンがノーラの担架を運び、セーラはミナを背負子に乗せて背負っている。リーネはフィルの手を握り、転ばないよう歩幅を合わせていた。斜面を上るたびに担架が傾き、ノーラが苦痛を押し殺すように眉を寄せる。九人全員で進んでいる以上、速度が上がらないのは当然だった。


「……少し止まって」


セーラの声で、一行が足を止めた。彼女は背負子を下ろすと、ミナの靴を脱がせる。踵は赤く腫れ、一部の皮がめくれていた。


「靴擦れよ。これ以上悪くなったら、自分の足では歩けなくなるわ」


ミナは痛みに顔を歪めたが、声は上げなかった。その様子を見ていたリーネも、すぐにフィルを座らせて足を確かめる。


「フィルも……赤くなっています。少し前から歩き方がおかしいと思っていました」


「……すまない」


担架の上で、ノーラが唇を噛んだ。


「私たちがいるから、子供たちまで……」


「あんたのせいじゃない」


俺は首を振った。


「無理に進んで、全員動けなくなる方がまずい。ここで一度、足を診よう」


バルクとライアンが担架を静かに下ろす。バルクはまだ余力を残しているように見えたが、額には汗が浮かんでいた。ライアンの呼吸はさらに荒く、担架から手を離した腕が小さく震えている。


出発前に購入した携帯食と粉末スポーツドリンクを取り出し、全員に少量ずつ配った。ミナとフィルには食べやすいものを選び、ノーラにも無理のない量だけ口にしてもらう。リーネは自分の分を受け取ると、先にフィルへ差し出そうとした。


「半分ずつだ」


俺が言うと、リーネは少し迷ってから頷き、フィルと分け合った。


食料はまだある。水も当面は足りる。だが、足の傷を放置するわけにはいかない。加えて、朝靄が消えれば、この開けた丘陵で俺たちの姿は遠くからでも目立つ。


俺はマリエクを開いた。


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現れた箱から靴擦れパッドを取り出し、セーラとリーネへ渡す。


「傷を拭いてから貼ってくれ」


「あんたの分も必要ね」


「俺は大丈夫だ」


セーラが俺の足元へ目を落とした。


「さっきから右足を引きずってる」


「斜面のせいだ」


「斜面はみんな同じよ」


「……少し擦れただけだ」


「最初からそう言いなさい」


有無を言わせぬ顔で手を差し出され、俺は諦めてパッドを一枚渡した。俺が靴を脱ぐと、セーラは赤くなった踵を手早く処置する。顔が近い。こんな時に気にしている場合ではないのに、妙に落ち着かなかった。


「痛い?」


「いや」


「じゃあ、どうして顔を逸らしてるの?」


「近いんだよ」


セーラの手が一瞬止まり、包帯をきゅっと締めた。


「痛っ」


「痛くないんじゃなかった?」


小さく笑ったセーラを見て、ミナの口元にもかすかな笑みが浮かんだ。ほんの一瞬だったが、地下施設を出てから初めて、誰かが笑った気がした。


* * *


足の処置を終え、再び歩き始めて間もなく、先頭のヒルダが片手を上げた。全員が足を止める。ヒルダは斜面の草を見たあと、風の向きと丘の稜線を確かめるように顔を上げた。


「右前の丘だ。馬がいる」


俺には何も聞こえない。ヒルダは足元を指さした。朝露に濡れた草が、一筋だけ帯状に倒れている。少し先には新しい蹄の跡があり、丘の上を飛んでいた鳥も、その一角だけを避けていた。やがて風に乗って、金属が触れ合うかすかな音が届く。


「騎馬が二。歩兵もいる。十人前後……いや、もう少しいるかもしれねえ」


「追手でしょうか」


ライアンが低い声で尋ねた。ヒルダは首を横に振る。


「分からねえ。隊列は急いでない。北部を回ってる巡回かもしれん」


俺は以前購入した双眼鏡をアイテムボックスから取り出し、丘の稜線を確認した。帝国兵だった。だが、こちらを捜し回っている様子ではない。街道から外れた農地や丘陵を、決められた経路に沿って巡回しているように見える。


追手ではない。


それでも、見つかるわけにはいかなかった。負傷者と獣人を連れた九人組など、呼び止められた時点で終わる。


「街道へ下りる前に、やり過ごす」


俺は箱から迷彩ネットを取り出した。


ヒルダが素早く周囲を見回し、雨で削られた斜面の溝を見つける。上側から見れば浅い窪みにしか見えないが、斜面の下側は胸ほどの深さがあった。


「ここなら入る。急げ」


バルクとライアンが担架を傾けないよう慎重に下ろす。二枚のネットを重ね、ヒルダが周囲の枯れ草と細い枝を散らして輪郭を消した。ライアンは丘の上から見える角度を確かめ、ネットの端をさらに低く引く。俺は石と土で端を押さえ、風で不自然に持ち上がらないよう固定した。


九人と担架を隠すには、余裕などない。バルクの大盾を地面と平行に寝かせ、その下へ荷物をまとめる。ノーラの担架は傷に響かない角度を保ったまま、溝の一番深い場所へ収めた。俺たちは身を寄せ合い、その下へ体を収める。


セーラがミナを胸元へ抱き寄せた。リーネはフィルの手を両手で包んでいる。自分の指も震えているのに、離そうとしない。


「大丈夫。ここにいるから」


声はかすかだったが、フィルはリーネを見て小さく頷いた。


やがて、馬具の音と複数の足音が近づいてきた。蹄が湿った地面を踏み、鎧と剣の金具が擦れる音が重なる。ネット越しに、帝国兵の脚が見えた。


「西側、異常なし」


「次は古い農道だ。日が高くなる前に回るぞ」


聞こえた会話は、それだけだった。


巡回隊の大半は、俺たちが潜む溝から十数メートル離れた場所を通り過ぎていく。遠目には地面の起伏に見えても、近くで立ち止まられれば分からない。誰かが身じろぎするだけで、枝や草が不自然に揺れる。


フィルの呼吸が速くなった。リーネは何も言わず、その手をさらに強く握る。ノーラが痛みに耐えかねたのか、唇の隙間から息を漏らしかけた。バルクが担架の縁を支え、揺れを止める。


その時、隊列の端を歩いていた一人が斜面の縁へ寄り、古い木杭に足を引っかけた。


「邪魔だな」


兵士が杭を蹴る。腐っていた根元が折れ、こちらへ倒れ込んできた。


ネットに触れれば、不自然に揺れる。


俺が手を伸ばすより早く、バルクの腕が動いた。大きな手が倒れてきた杭を途中で掴み、音も立てずに止める。腕の筋肉が盛り上がったが、表情は変わらない。杭を支えたまま、巡回隊が通り過ぎるのを待った。


「遅れるな!」


前方から声が飛んだ。


兵士は倒れた杭へ一度だけ目をやったが、舌打ちすると隊列へ戻っていく。


足音が遠ざかっても、ヒルダが合図を出すまで誰も動かなかった。やがて丘の向こうから鳥の声が戻り、張り詰めていた空気が少しずつ緩んでいく。


「……行った」


全員が、押し殺していた息を吐いた。バルクは掴んでいた木杭を静かに地面へ置く。


「助かった、バルク」


「問題ない」


いつもと変わらない短い返事だった。


* * *


巡回隊が完全に離れたことを確認し、俺たちは溝から這い出た。長く同じ姿勢を続けていたせいで、立ち上がった途端、右足に鋭い痺れが走る。


「……っ」


よろめいた俺の腕を、セーラが掴んだ。


「大丈夫?」


「足が痺れただけだ」


「なら、少し待ちなさい。急いで転んだら、さっき隠れた意味がないでしょ」


正論だった。俺は黙って、痺れが引くのを待った。


その傍らで、ライアンが折れた木杭を拾い上げる。


「境界を示す杭でしょうか」


表側には文字も記号もない。雨風に削られた、ただの古い木材にしか見えなかった。だが、地面近くの、街道とは反対側に三本の傷が刻まれている。長さも深さも間隔も揃っていた。


ヒルダが傷を指でなぞる。


「爪痕じゃねえ。刃物で刻んである」


「何かの目印か?」


「たぶんな。三本とも、同じ方へ傾けてある」


担架の上から覗き込んだノーラの表情が変わった。


「……その印、聞いたことがある」


俺たちの視線が、ノーラへ集まった。


「北へ逃げた獣人たちは、帝国の道標を使わない。見つからないように、自分たちだけが分かる印を残すって」


「この先に獣人の村があるのか?」


「分からない」


ノーラはすぐに否定した。


「私も実際に使ったことはない。もう使われていない印かもしれない」


リーネも三本傷を見つめていた。


「私も……昔、似た印を見た気がします。はっきりとは、覚えていませんけど」


「場所は覚えてるか?」


「ごめんなさい。小さかったから……」


それで十分だった。確かな案内ではない。村がある保証もない。だが、帝国の街道とは別に、獣人たちが使ってきた道が存在する可能性はある。


ヒルダが木杭の周囲へしゃがみ込み、草と土を調べ始めた。折れる前に杭がどちらを向いていたのか。周囲の草がどこだけ低くなっているのか。枝の折れ方や、雨水の流れまで一つずつ確かめていく。しばらくして、木杭が示していた先の茂みへ進んだ。


「こっちだ」


一見すると、草が生い茂っているだけだった。しかし目を凝らせば、一列分だけ草の高さが違う。斜面の陰には古い轍のような窪みがあり、枝も外側ではなく道の内側へ折れていた。人目を避けながら、誰かが長い間通ってきた跡だ。


ライアンが地図を広げる。


「この方向には、街道も村も記載されていません」


「何もないんじゃない」


ヒルダが茂みの奥を見ながら言った。


「載せてねえんだろ」


俺たちは、草を分けて細い道へ入った。獣道よりは広いが、荷車が通れるほどではない。道は丘の斜面に沿って蛇行し、少し進むだけで背後の街道が見えなくなった。


数十歩進んだところで、ヒルダが再びしゃがみ込む。土に残っていたのは、古い足跡だけではなかった。


大人二人分ほどの足跡。その間に、小さな足跡が一つ残っている。昨日の雨が止んだあとについたものらしく、縁はまだ崩れていない。


軍靴ではない。街道を歩く旅人の硬い革靴とも違う。柔らかな布か、薄い革を巻いたような跡だった。小さな足跡の横には、四本の指先のような跡も残っている。


「北へ向かってる」


ヒルダの言葉に、ノーラがゆっくりと顔を上げた。リーネもフィルの手を握ったまま、道の先を見つめている。


道は、草と木々の奥へ続いていた。


帝国の地図には存在しない道。その先に何があるのかは、まだ分からない。獣人の隠れ里があるのか、それとも北へ逃げるための古い通路なのか。まだ、確かめようがない。


それでも、足跡は教えていた。


この道を使う者は、過去の噂の中だけにいるのではない。


地図にない道の先で、今も誰かが生きている。そう思わせるには、十分だった。

ここまで読んでいただきありがとうございます!


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