第135話 ビーコン
【まえがき】
本日2話目の更新です。
第135話で、第2章「帝都の闇編」完結となります。
ここまで追ってくださった方、本当にありがとうございます。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
朝靄の中、俺たちは低い丘陵地帯の窪地へ身を滑り込ませた。
東の空は白み始めている。だが、太陽はまだ丘の稜線の向こうに隠れていた。水路を抜けたばかりの服は重く、冷えた布が肌に張りつく。指先の感覚は薄く、吐く息だけが白い。
「ここで少し止まる。長くはない」
俺が言うと、バルクとライアンが担架を静かに下ろした。
ノーラは浅い呼吸を繰り返し、唇から血の気が引いている。セーラは背負子からミナを下ろし、リーネはフィルを抱えるようにして座らせた。二人の子供は、泣く力も残っていないのか、紫がかった唇で小さく震えている。
「体が冷えすぎてる。このまま歩かせたら、子供たちが先にもたないわ」
セーラの声は低い。
責めているのではない。今、何を優先するべきかを言っているだけだ。
「分かった」
俺はマリエクを開いた。
[検索:防水ブランケット、携帯食セット、粉末スポーツドリンク、簡易雨具、折りたたみ杖]
[検索結果:
防水ブランケット5枚 8,000円
携帯食セット20食分 10,000円
粉末スポーツドリンク20包 3,000円
簡易雨具10枚 5,000円
折りたたみ杖2本 2,000円]
[送料:2,000円]
[合計:30,000円]
【現在の残高:27,243,000円】
手元に現れた箱を開け、防水ブランケットを取り出す。
まずミナとフィル、ノーラにかけた。次に、濡れた服の上から簡易雨具を被せる。薄い素材でも、風を遮るだけで違う。リーネにも一枚渡すと、彼女は自分より先にフィルの肩へかけ直した。
「自分にもかけろ」
「……うん」
返事はしたが、リーネの手はまだフィルの襟元を直している。
怖がっていないわけではない。震えている。それでも、彼女は自分より先に、背中の小さな命を見ていた。
セーラは粉末スポーツドリンクを、前に買った携帯浄水ボトルの水に溶かす。俺は携帯食を小さく割り、全員に少しずつ配った。一気に食べさせる余裕はない。胃が受けつける量だけでいい。
「ミナ、少しだけでいいから口に入れて」
セーラが言うと、ミナは小さく頷き、欠片を両手で受け取った。
フィルはリーネの袖を掴んだまま、携帯食を見つめている。
「食べられる?」
リーネが囁く。
フィルは一度だけ頷いた。
ノーラにはスポーツドリンクを少し飲ませ、折りたたみ杖の一本を担架の横へ置いた。
「立たせる気はない。ただ、どうしても姿勢を変える時の支えだ」
「……分かっている」
ノーラは掠れた声で答えた。
悔しさは残っている。だが、無理に歩くと言い張るほど、状況を見失ってはいなかった。
セーラは俺の右手に目を向ける。
「右手、見せて」
「今は歩ける」
「手で歩いてるわけじゃないでしょ」
「……それはそうだな」
「そうやって誤魔化すところ、嫌いじゃないけど嫌いよ」
「どっちだ」
「今は怒ってる方」
短いやり取りの後、俺は大人しく手を出した。
セーラは包帯の上から状態を確かめるだけで、ヒールを強く使おうとはしなかった。彼女自身も限界に近い。ヒールがLV3になっても、無限に使えるわけじゃない。
「大きくは悪化してない。でも、あとで洗い直す」
「了解」
「返事だけはいいのよね」
その声に、少しだけいつもの調子が戻っていた。
俺はそれだけで十分だと思った。
* * *
「……ずっと前から思っていたが」
担架の上で、ノーラが俺を見た。
「あんたが出すそれは何なんだ。布も、食い物も、さっきの小さな灯りも」
ミナとフィルも、疲れた目でこちらを見ていた。
ここまで逃げることで精一杯だったのだろう。ようやく、疑問を口にするだけの余裕が戻ってきたのだ。
「商売道具だ」
「商売道具?」
「ああ。必要な物を仕入れて、必要な場所へ出す。俺の仕事はそれだけだ」
ノーラは納得した顔ではなかった。
だが、俺がこれ以上話す気がないことも分かったのだろう。短く息を吐き、ブランケットを握り直した。
「……そうか。商売道具で、命が助かったんだな」
「そういうことにしておいてくれ」
「分かった」
それ以上、ノーラは聞かなかった。
セーラ、ヒルダ、ライアン、バルクも余計なことは言わない。リーネも、フィルの手を握ったまま黙っていた。俺の力が普通ではないことを知ったうえで、今ここで踏み込まないでいてくれる。
その沈黙は、ありがたくて、少し重かった。
ライアンが地図を広げる。
そこには、帝都からの逃走経路と、旧水路の線が新しく書き込まれていた。もう正確な地図ではない。俺たちが命を削って作った、空白だらけの生存経路だ。
「現状を整理します」
ライアンの声は低いが、折れていない。
「帝都の直接的な包囲網は抜けました。しかし、我々はまだ帝国領内です。王国へ戻る正規街道は、帝国領内の検問に拾われる可能性が高い。帝都方面へ戻る道は論外。東と南も危険です」
「なら、北西か」
ヒルダが丘の稜線を見る。
「草と林がある。街道から外れれば、まだ隠れながら進める」
「はい。帝国領北部へ向かい、街道から外れて進むしかないですね」
ライアンは地図の北側、まだ空白の多い場所を指で押さえた。
「ノーラさんの話では、帝国領北部のどこかに獣人の村が残っているという噂がある。さらに北へ進めば、いずれ獣人領方面へ抜ける可能性もあります。ただし、場所は不明です。確実な道ではありません」
「確実な道は、もう塞がれてるだろ」
ヒルダの言葉に、誰も反論しなかった。
ノーラが、かすれた声で続ける。
「帝国の兵が嫌そうに話していた。北の方には、まだ従わない獣人の村がある、と。正確な場所は知らない。でも、帝都よりは……ましなはずだ」
それは地図ではない。
ただの噂だ。
だが、今の俺たちに残された道は、地図に載っていない場所へ向かうことだった。
一瞬、車という選択肢が頭をよぎった。
大型の四輪駆動車か、人も荷物も積める箱型の車があれば、ノーラを担架に乗せたまま歩くより圧倒的に早い。燃料は買える。壊れたら、最悪買い替えればいい。
だが、今は駄目だ。
街道は検問に拾われる。車輪が通れる道を選んだ時点で、帝国の網に近づく。
丘陵地帯と草地を隠れながら進むなら、物理的に車は使いにくい。音も出る。跡も残る。夜なら灯りも要る。
今必要なのは速さじゃない。
見つからないことだ。
俺は遠くの帝都を見た。
夜明け霞の向こうに、都の外壁が黒い線のように横たわっている。あそこからは出た。
だが、帝国領という広い檻は、まだ俺たちの足元に続いている。
アルフレッド王から受けた依頼を思い出す。
商人として帝国へ入り、帝国で何が起きているのかを探ること。レナードが何を目的としていたのか、その手がかりを掴むこと。
王国側にも、確信はなかったはずだ。
俺たちは、答えを全部掴んだわけじゃない。
だが、見てしまった。
檻。獣人たち。猟犬。七号。レナード。
帝国領の中に、獣人を使って何かを試している場所がある。
それが兵器なのか、強化実験なのか、魔物化なのか、完成なのか失敗なのかさえ分からない。
だが、不穏という言葉で済ませられる段階は、もう過ぎている。
問題は、その事実を、証言できる命ごとここで失わずに済むかどうかだ。
「俺たちは、王国へ帰る道を選べる場所にはまだいない」
俺は言った。
「今決めるのは、王国へ戻るかどうかじゃない。ノーラ、ミナ、フィルを守る。この目で見たものを、ここで失わない。そのために、帝国領北部へ抜ける」
セーラが静かに頷いた。
ヒルダは短く鼻を鳴らし、ライアンは地図に新しい線を引く。バルクは担架の持ち手を握り直した。
リーネはフィルの肩に手を置いたまま、北の空を見ている。そこに何を思ったのかは、まだ聞かなかった。
* * *
「……あんたたちは」
ノーラが、少し間を置いて口を開いた。
「何者なんだ」
誰もすぐには答えなかった。
王国の兵ではない。普通の冒険者でもない。ただの商人と言い切るには、背負っているものが重すぎる。
「名乗れる名が必要かもしれません」
ライアンが静かに言った。
俺は、まず共にここまで来た四人を見た。
セーラ、ヒルダ、バルク、ライアン。
その向こうで、リーネがフィルの手を握り、ノーラがミナとフィルの顔を見ている。今この場にいる全員が、次の言葉を待っていた。
「ビーコン」
口にすると、朝の冷たい空気の中で、その言葉だけが小さく残った。
「ビーコン?」
セーラが聞き返す。
「俺のいた世界の言葉だ。標識灯とか、誘導灯みたいな意味がある。暗い場所で迷った時、そこへ向かえばいいと分かる目印の灯りだ」
俺は濡れた手を握った。
「俺たちは勇者でも、騎士団でもない。立派な旗を持ってるわけでもない。けど、暗い場所で道を失った奴を見つけて、見捨てて進めるほど器用でもない」
ミナが、セーラの服を握ったままこちらを見ている。
フィルはリーネの腕の中で、黙って耳を傾けていた。
「だから、ビーコンだ。俺たち自身が道を見失わないための目印でもある。迷った時、どっちへ進むべきかを思い出すための名前だ」
少しだけ沈黙が落ちた。
最初に息を吐いたのはセーラだった。
「……ナオキらしいわ」
「褒めてるのか」
「半分はね」
「もう半分は?」
「格好つけてるのに、結局お人好しだなって思ってる」
ヒルダが肩をすくめる。
「泥まみれの灯りか。悪くねえ」
バルクは短く言った。
「灯りか」
それだけだった。
だが、その一言で十分だった。
ライアンは地図から顔を上げ、静かに頷く。
「名乗るには十分です。覚えやすく、意味もある」
リーネがフィルの手を握ったまま、小さく呟いた。
「……目印の灯り」
ノーラは少しだけ目を伏せた。
ミナとフィルを見てから、俺へ視線を戻す。
「なら、私はその灯りに拾われたわけか」
「拾っただけじゃ終わらせない」
俺は言った。
「連れていくと決めた。なら、途中で手は離さない」
ノーラは何か言おうとして、やめた。
代わりに、短く頷いた。
「なら、決まりだ」
俺はもう一度、セーラたちを見た。
「俺たちの名は、ビーコンだ」
ただの名前だ。
だが、その名前は、泥と水と血の匂いの中で、確かに俺たちの間に置かれた。
格好いい旗ではない。勝利を約束する剣でもない。
それでも、道を失いそうになった時、立ち返る場所にはなる。
そして今、その灯りは、ノーラたちを照らすためにも必要だった。
* * *
夜が終わる。
東の空が白くなり、朝靄が丘の斜面を薄く流れていく。濡れた服はまだ重い。傷も、疲労も、恐怖も消えていない。帝国領は広く、俺たちはその中でまだ追われる側だ。
それでも、全員が立ち上がった。
バルクが担架を持つ。
ライアンが地図を畳む。
ヒルダが丘の稜線と草の揺れを読む。
セーラがミナの背負子を背負い直し、リーネがフィルの手を握る。
ノーラはブランケットの中から、北の空を見ていた。
「行くぞ」
俺は短く言った。
「街道は使わない。丘の陰を抜ける」
誰も反対しなかった。
背後には帝都。
檻と、実験体と、レナードの冷たい目が眠る場所。
前には、地図にない道。
獣人の村があるかもしれないという、頼りない噂だけがある。
それでも、俺たちは進む。
見てしまったものを、証言できる命ごと、ここで失わないために。
ビーコン。
暗い場所で、道を失った者が向かう目印。
俺たちはその名を背負い、帝国領北部へ続く朝靄の中へ歩き出した。
第135話までお読みいただき、ありがとうございます。
これにて第2章「帝都の闇編」は完結です。
王命を受けて帝国へ向かったナオキたちは、帝都の地下で何を見て、何を抱えることになったのか。
第2章はここで一区切りとなりますが、ナオキたちの旅はまだ続きます。
次章では獣人国へと物語が進んでいきます。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
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次章もよろしくお願いいたします。




