第134話 夜明け前の出口
本日18時に第135話を更新予定です。
次話で第2章「帝都の闇編」完結です。
旧水路の中は、どこまでも暗く、冷たかった。
壁を伝う水滴の音と、足元を流れる水の音だけが、狭い闇の中でやけに大きく響く。小型LEDランタンの光は黒い布で覆い、足元だけを淡く照らしていた。光を広げれば歩きやすい。だが、上に兵がいれば、それだけで見つかる。
背後からは、まだ水車小屋の軋む音が聞こえている。
濡れた木材が割れるような音も、時折混じった。猟犬が暴れているのか、水車が古い小屋を壊しているのかは分からない。
ただ、その音は水車小屋の中で乱れているだけだった。
こちらへ伸びてくる足音ではない。
「……来てねえな」
先頭を行くヒルダが、振り返らずに呟いた。
「猟犬か」
「ああ。水と瓦礫に足を取られてる。今のところ、こっちの水路までは拾えてねえ」
その一言で、背中に刺さっていた牙の気配が少しだけ遠のいた。
勝ったわけじゃない。倒したわけでもない。
だが、猟犬の追跡はここで一度切れた。
ここから先の敵は、あいつの爪ではなく、帝国領に張られた網だ。
「ナオキ」
セーラの声が後ろから届く。
ミナを背負ったまま、彼女は担架の上のノーラを見ていた。ノーラの呼吸は浅く、包帯の端には血が滲んでいる。フィルもリーネの背中で小刻みに震え、歯が鳴る音を必死に噛み殺していた。
「体が冷えすぎてる。このまま歩かせたら、子供たちが先にもたない」
「……分かった。壁際に寄る」
水路の途中に、石壁が少しだけ削れた窪みがあった。広いとは言えないが、担架を斜めに置くくらいはできる。俺はそこで全員を止め、マリエクを開いた。
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手元に現れた箱を開ける。
まずカイロをミナとフィル、ノーラに渡した。服の内側に入れ、直接肌に当たらないようにする。防水靴下は全員分ではない。足が冷えきっている子供たちとノーラ、それから担架を支えるライアンとバルクに優先して回した。
血の滲んだガーゼと濡れた布は、簡易防水ポーチにまとめる。匂いを消せるわけではないが、水路に血を落とし続けるよりはましだ。蓄光テープは小さく切り、担架の角と、最後尾から見える壁の低い位置にだけ貼った。光は弱い。けれど、ランタンを大きく広げずに進むための目印にはなる。
「俺とヒルダは後でいい」
「後で、ね」
セーラが俺の右手の包帯をちらりと見る。
「その後でって、だいたい来ないのよ」
「今回は来る」
「信用はしてない。でも今は信じる」
短いやり取りだった。
それ以上言えば、足が止まる。セーラもそれを分かっているから、怒りを飲み込んでミナの背中にカイロを入れた。
「……あったかい」
ミナが小さく呟く。
その声だけで、周囲の空気がほんの少しだけ緩んだ。
リーネはフィルの手にカイロを握らせ、背負子の紐を確かめる。フィルの呼吸が速い。狭い水路の圧迫感と、上を通るかもしれない兵の気配に怯えているのだろう。
「フィル、声を出さなくていい」
リーネが囁いた。
「苦しかったら、私の肩を二回叩いて。一回なら大丈夫。二回なら止まる。いい?」
「……うん」
フィルは小さく頷き、リーネの肩を一度だけ叩いた。
大丈夫、という合図だった。
それでも呼吸は浅い。俺は携帯酸素缶を一本だけ渡し、リーネに短く使わせた。深く吸わせすぎない。落ち着くきっかけを作るだけだ。
リーネは振り返らず、ただ頷く。自分の指も震えているのに、彼女はフィルの震えを先に受け止めていた。
ノーラには栄養補助ゼリーの残りを少し飲ませ、足の包帯を確認する。セーラが手をかざしたが、すぐに光を強めることはしなかった。
「今は痛みを少し鈍らせるだけにするわ。ここで塞いだら、汚れも閉じ込める」
「ああ。それでいい」
淡い光が、ノーラの足首を短く包む。
傷は消えない。血も止まりきらない。それでも、ノーラの肩からわずかに力が抜けた。
「助かる」
「お礼は、外に出てから聞くわ」
セーラはそう言って、すぐに立ち上がった。
休息は終わりだ。
* * *
水路はしばらく進んだ先で二つに分かれていた。
右は石組みが新しく、水の流れも速い。左は壁の一部が崩れ、淀んだ水が低く流れている。見た目だけなら、右が正しい道だった。
ライアンがランタンの光を絞り、壁と水面を見比べる。
「右が本流です。おそらく北側の水門か貯水池へ出ます。地図にはありませんが、使われている出口があるならこちらでしょう」
「左は?」
「古い排水路です。途中で塞がっている可能性もあります」
その時、頭上の鉄格子の向こうから声が落ちてきた。
「北側の水門出口は押さえたな」
帝国兵の声だった。
全員が動きを止める。ミナがセーラの背に顔を押しつけ、フィルはリーネの肩紐を強く握った。
「はい。第三部隊が網を張っています」
「水車小屋の方は一号に任せる。俺たちは出口を塞げ。古い農地へ抜ける水路も見落とすな」
「しかし、あの水路はもう使われていないはずでは?」
「だから見落とすなと言われているんだ。対象は妙な道具を使う。普通の逃亡者だと思うな」
足音が遠ざかる。
だが、誰もすぐには息を吐かなかった。
「正規の出口は罠ですね」
ライアンの声は低い。
悔しさが滲んでいた。正しい道を選べば、そこに網がある。レナードは、こちらが北へ抜ける可能性をすでに読んでいた。
「なら、左だ」
ヒルダは迷わず、古い排水路を見た。
「本気か」
「右は兵がいる。左は分からねえ。分からねえ方がまだマシだ」
「行き止まりなら終わりだぞ」
「終わりじゃねえ」
ヒルダは膝をつき、水面に指を近づけた。
流れは弱い。だが、完全には止まっていない。彼女は壁の苔、石の乾き方、足元の空気の冷たさを一つずつ確かめる。
「空気が動いてる。水も死んでねえ。壁の染みも、行き止まりの溜まり水じゃない。長い時間、乾いて、濡れて、また乾いてる。どこかで外と繋がってる証拠だ」
鼻に頼っているわけじゃない。
斥候として、そこに残った痕跡を読んでいる。
ライアンは数秒だけ黙り、地図の空白へ新しい線を引いた。
「……推測ですが、旧排水路は本流の管理用に作られた退避路かもしれません。正規の水門を避けるなら、ここしかありません」
「決まりだ」
俺は左の暗闇を見た。
「連中の地図に残っていない道を行く」
* * *
古い排水路は、右の本流よりさらに狭かった。
水は膝下まであり、底にはヘドロが溜まっている。壁の石はところどころ浮き、天井からは根のようなものが垂れていた。ノーラの担架を通すたび、木枠が壁に擦れ、ゴムシート越しでも鈍い音が響く。
「止まれ」
先頭のヒルダが手を上げる。
その先で、天井の一部が崩れかけていた。大きな石が斜めに落ち込み、人が屈めば通れる程度の隙間しか残っていない。担架をそのまま通すのは無理だった。
セーラが息を呑む。
「ここを通るの?」
「戻れない。通す」
俺が言うと、バルクが静かに前へ出た。
彼は黒い大盾を外し、崩れかけた壁と天井の間へ斜めに噛ませた。盾が支えになり、落ちかけた石の重みを受け止める。バルクはその下に肩を入れ、両足を水路の底に沈めた。
「支える」
「長く持たせるな。全員、急ぐ」
それ以上の言葉はいらなかった。
盾は壊れない。だが、重みを受けているのはバルクの腕と膝だ。水路の底はぬるく、踏ん張りは効きにくい。彼の肩が、わずかに沈む。
「ライアン、角度を見ろ。セーラ、ノーラの足。リーネ、フィルの頭を庇え」
「分かりました」
「任せて」
担架を斜めにする。
ライアンが前で角度を読み、俺が後ろを持つ。セーラはノーラの右足が岩に触れないよう、片手で包帯の位置を守った。リーネはフィルを背負ったまま、ポンチョでフィルの頭を覆い、低い姿勢で進む。
「もう少し右です。違う、担架の頭側だけ下げてください」
ライアンの声は抑えられているが、焦りはない。
指示通りに動かすと、担架の木枠が岩の下を紙一重で抜けた。ノーラは歯を食いしばり、声を上げない。包帯に血が広がりかけたが、セーラがすぐに押さえる。
「抜けた!」
最後にヒルダが通り、俺はバルクを振り返った。
「バルク、もういい。下がれ」
「……ああ」
バルクが盾を外し、後ろへ退いた。
次の瞬間、支えを失った石が鈍い音を立てて落ちる。水が跳ね、濁った飛沫が壁に散った。俺たちが通ってきた道は、半分以上塞がった。
「戻れなくなりましたね」
ライアンが静かに言う。
「元から戻る道じゃない」
バルクは短く答え、大盾を背負い直した。
腕がわずかに震えていたが、本人は何も言わなかった。
道が塞がれたことで、背後の音は遠くなった。
猟犬も、兵も、もう直接は届かない。
だが同時に、俺たちも戻れない。
前に進むしかなかった。
* * *
どれくらい歩いただろう。
時間の感覚はとっくに消えていた。冷たい水が足の感覚を奪い、肩に背負子の重みが食い込む。誰も無駄口を叩かない。聞こえるのは、水音、呼吸、担架を支える手が布を握る音だけだった。
やがて、先頭のヒルダが足を止めた。
「空気が軽い」
その言葉に、全員が顔を上げる。
水路の奥から、細い風が流れてきていた。地下の湿った空気ではない。草と土と、夜明け前の冷えた風だ。
「出口か」
「たぶんな」
ヒルダの声に、少しだけ力が戻っていた。
俺たちは最後の力で進む。暗闇の先に、薄い灰色の光が見えた。背の高い草に隠れた、古い石積みの排水口。格子は外れ、半分土に埋まっている。
俺が先に外へ出た。
顔を上げた瞬間、冷たい風が頬を打つ。
広がっていたのは、低い丘陵地帯だった。
東の空は、わずかに白み始めている。背後を振り返ると、夜明け霞の向こうに、帝都の外壁が黒い線のように横たわっていた。
都はもう頭上を塞いでいない。
だが、俺たちはまだ帝国領の中にいる。警鐘の音は、ここまでは届かない。
「……外だ」
誰かが呟いた。
セーラがミナを背負ったまま膝をつき、ミナの顔を確認する。リーネはフィルをゆっくり下ろし、その肩を抱いた。ノーラは担架の上で身を起こし、朝になりかけた空を見上げていた。
「包囲網の外ですか」
ライアンが震える息を吐く。
「外側だ。少なくとも、今すぐ囲まれてはいない」
ヒルダは丘の稜線と、街道の方角を見比べた。
「ただし街道は駄目だ。兵がいる。あっちの丘を使う。草と林がある。身を隠しながら進める」
「北西ですね」
ライアンが頷く。
「帝都から距離を取りながら、正規の道を避けられます。王国へ戻る街道は、帝国領内の検問に拾われる。今は、北西へ抜けるしかない」
北。
その言葉に、リーネが空を見上げた。
何か言いかけたが、彼女は口を閉じる。フィルの肩に置いた手だけが、少し強くなった。
ノーラが、かすれた声で呟いた。
「帝国領の北の方には……獣人の村が残っていると聞いたことがある。獣人領に近い辺りだ。帝国の兵が、嫌そうに話していた」
「場所は分かるか」
「分からない。噂だけだ。だが、街道の検問に突っ込むよりは……ましなはずだ」
十分だった。
確かな道ではない。だが、今の俺たちには、帝国の正規街道よりその噂の方が生きる道に近い。
俺は帝国での出来事を振り返る。
アルフレッド王から受けたのは、帝国で何が起きているのかを探る依頼だった。
帝国が何を企んでいるのか。王国側にも、まだ確信はなかったはずだ。
俺たちが掴んだのは、答えそのものじゃない。
けれど、獣人を攫い、檻に入れ、何かを試している場所が帝国の中にあるという事実だ。
猟犬。七号。レナード。
あれが完成なのか、失敗なのか、兵器なのか、進化なのかさえ分からない。
それでも、不穏という言葉で済ませられる段階はもう過ぎている。
問題は、それを生きて持ち帰れるかどうかだ。
「行くぞ」
俺は短く言った。
「街道は使わない。丘の陰を抜ける」
誰も反対しなかった。
全員が疲れ切っている。泥と水に濡れ、傷を負い、まともに休めてもいない。それでも、足は前へ向いた。
東の空が、希望とも絶望ともつかない色に染まり始めていた。
帝都の檻は抜けた。
だが、帝国領はまだ、俺たちを囲む広い檻のままだ。
ここからは、ただ逃げるだけじゃない。
見てしまったものを、証言できる命と一緒に持ち帰るための道だ。
俺たちは朝靄の中、帝国領北部へ続く低い丘陵地帯へ歩き出した。
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