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異世界ネットショッピング  作者: たにやん
第2章 帝国の闇編

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133/135

第133話 水車小屋の罠

次回は第2章クライマックスのため、明日は12時と18時の2話更新予定です。

第2章完結まで一気にお付き合いいただけると嬉しいです。

「……近い」


ヒルダのその一言で、湿地の空気が凍りついた。

遠吠えではない。獲物を見つけた獣が、喉の奥で押し殺すような低い唸り。背の高い草の奥で、何かが低く、重く動いている。


猟犬は、もうこちらを外していなかった。


「走るぞ。ノーラ、水車小屋は北でいいんだな」


担架の上のノーラが、痛みをこらえながら頷く。


「ああ……水の音がする方だ。古い木の匂いがした。たぶん、この先にある」


「たぶんで十分だ」


俺は担架の後ろを掴んだ。

バルクが前を持ち、ライアンが横から支える。ぬかるんだ湿地を踏みしめるたび、靴底が泥に吸われた。


「ナオキ、手」


セーラの声が飛ぶ。

ミナを背負ったまま、彼女は俺の右手に巻かれた包帯を見ていた。


「今は持つ」


「また一人で無茶するつもり?」


「必要ならな」


「必要にしないで」


短い言葉だった。

けれど、それだけで足が止まりそうになる。


「……努力する」


「そこは約束しなさい」


「約束する。だから今は走れ」


セーラは小さく息を吐き、それ以上は言わなかった。

説教ではない。心配を、走るための言葉に削ってくれただけだ。


ヒルダが先頭で草をかき分ける。

鼻に頼っているのではない。湿った風、草の倒れ方、水音の響き、泥に残ったわずかな傾斜。それらを拾いながら、道なき道を選んでいる。


「こっちだ。水音が太くなってる」


リーネはフィルを背負ったまま、必死についてくる。

足を取られかけるたび、フィルが細い声を漏らした。


「……リーネ」


「見ないで。私の肩だけ見てて」


リーネの声も震えていた。

それでも、彼女は一度もフィルを下ろそうとはしなかった。背負子の紐を握り直し、ポンチョの端でフィルの顔を隠す。


「怖かったら、私の肩を叩いて。声を出さなくていいから」


守られるだけだった彼女が、今は小さな背中を守ろうとしている。

それを見て、俺は何も言わなかった。

言葉にすれば、その細い勇気まで壊してしまいそうだった。


湿地の先に、黒い影が浮かび上がる。

半分朽ちた木造の小屋。その横に、苔と蔦に覆われた巨大な水車が止まっていた。月明かりを受けても、廃墟というより、長く息を止めていた獣の骨に見えた。


「あそこだ……!」


ノーラがかすれた声を上げる。

俺たちは最後の力で小屋へ駆け込んだ。


扉は古く、蝶番は錆びている。

バルクが内側から押さえ、黒い大盾を扉に当てた。


「支える」


それだけ言って、腰を落とす。

次の瞬間、外の草が大きく揺れた。


来た。


* * *


水車小屋の中は、湿った木と苔の匂いで満ちていた。

床板のあちこちが腐り、壁際には錆びた鎖と割れた樽が転がっている。止まった水車に繋がる太い軸が、天井近くで黒く沈んでいた。


「ライアン、内部を確認。出口を探せ」


「分かりました」


ライアンは小さな魔導灯を手で覆い、光を外に漏らさないようにしながら奥へ進む。

ヒルダは扉の隙間から外の気配を見た。


「真っすぐ来てる。迷ってねえ」


「ノーラたちは水路の入口に寄せる。セーラ、リーネ」


「分かってる」


セーラはミナを背負ったまま、ノーラの担架を水車小屋の奥へ誘導した。リーネもフィルを背負って続く。


「ナオキさん、こちらです」


ライアンが北側の床を指した。

石で組まれた低い段差。その下に、鉄格子のはまった暗い穴がある。古い水路の点検口らしい。格子は錆び、片側が浮いていた。


「この先、北へ続いている可能性があります。ただ、格子が邪魔です。壊せば音が出ます」


「音を出す前に、あいつを止める」


ゴンッ。


扉が揺れた。

小屋全体が、腹の底から震える。バルクの足が床板をきしませる。


「まだ持つ」


短い声。

だが、床の方が先に負けそうだった。


俺はマリエクを開く。

戦う道具じゃない。逃げるために、時間を買う道具だ。


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[合計:18,000円]


【現在の残高:27,290,000円】


箱が現れる。

俺はLEDランタンを一つ取り出し、黒いポンチョの切れ端で覆った。光を絞り、床と水路だけを照らす。


「ヒルダ、外。猟犬の位置だけ見てくれ。ライアン、水門の場所を探せ。水が動けば、水車も動くはずだ」


「了解しました」


「セーラ、ノーラの足を守れ。リーネ、フィルの顔を覆っておけ。大きな音が出る」


「分かったわ」


ゴンッ!


また扉が鳴る。

今度は板が裂ける音が混じった。猟犬の爪が、外側から扉を抉っている。


「バルク」


「支える」


大盾が軋む。

盾は壊れない。だが、その衝撃を受けているのはバルクの腕と足だ。床板が湿っているせいで、踏ん張るたびに靴がじわりと沈む。


俺は防水テープを手早く扉の金具に巻き、ワイヤーロックを扉の輪金と水車の古い支柱に通した。完全な封鎖にはならない。だが、扉が一気に弾け飛ぶまでの数秒は稼げる。


「ナオキさん、水門です」


ライアンが壁際の錆びたレバーを見つけていた。

半分木枠に埋まり、苔と錆で固まっている。


「動くか」


「推測ですが、まだ繋がっています。ただ、かなり固い」


「十分だ」


俺は折りたたみノコギリを渡す。


「格子の周りの腐った木を切れ。格子そのものを壊すな。音が出る」


「はい」


ライアンが水路の入口に向かう。

俺はレバーに肩を入れた。


びくともしない。


「くそっ」


「手を貸すわ」


セーラが寄ろうとする。


「ミナを背負ったまま無理するな」


「無理じゃないわ。押す方向だけ言って」


言い返す時間はない。

俺とセーラがレバーに体重をかける。右手の傷が焼けるように痛んだ。


「ナオキ」


「分かってる」


「分かってない顔してる」


「あとで怒られる」


「今も怒ってる」


それでも、セーラは手を離さなかった。

ミシ、と錆びた金属が鳴る。


外で、猟犬が低く唸った。


ゴンッ!


扉の一部が内側へ割れ、黄金色の瞳が隙間から覗いた。

ただの獣の目じゃない。考えている目だ。こちらの人数、荷物、逃げ道を数えているように見えた。


ヒルダが舌打ちする。


「まずい。扉じゃなくて、足元を狙う気だ」


猟犬の爪が、扉の下の腐った板を剥がし始めた。

俺たちが水路へ逃げる前に、低い姿勢で潜り込むつもりだ。


「バルク、下だ!」


「持つ」


バルクが大盾の角度を下げる。

その瞬間、猟犬の爪が盾の下端を叩いた。衝撃でバルクの膝がわずかに沈む。


「まだ行ける」


だが、長くはない。


「ライアン、格子は」


「あと少しです!」


ノコギリの音が小屋の奥で小さく続く。

俺はレバーにもう一度力を込めた。


「動け……!」


セーラが息を合わせる。

錆びたレバーが、嫌な音を立ててわずかに落ちた。


その瞬間、外の水路から重い水音が響いた。


* * *


最初は、ただの濁った水音だった。

次に、水車の軸が悲鳴を上げる。


ギギギギギッ。


長く止まっていた巨大な水車が、ゆっくりと回り始めた。

苔と泥を剥がしながら、木の羽根が水を受ける。小屋全体が軋み、壁に吊られていた錆びた鎖が震えた。


「開いた!」


奥でライアンが叫ぶ。

腐った木枠が外れ、鉄格子が片側だけ浮いている。人ひとりなら身を滑り込ませられる。担架は、ぎりぎり斜めにすれば通せる幅だ。


「全員、水路へ!」


俺が叫ぶのと同時に、扉の下が破れた。

猟犬が低い姿勢で中へ滑り込もうとする。


バルクが大盾で押し返す。

だが、猟犬は正面から受けない。床を蹴り、横へ回り込む。こちらの狙いを読んでいる。


「ナオキ、右!」


ヒルダの声。

俺は咄嗟に大型防臭袋へ、血のついたガーゼと泥だらけの布を放り込んだ。口を縛らず、わざと半分だけ開ける。濃い血と消毒液の匂いを含んだ袋を、水車側の暗がりへ投げた。


猟犬の目が、一瞬だけそちらへ動く。

騙されたわけじゃない。

だが、匂いの強い塊を無視もしなかった。その一瞬で、バルクが盾を押し込み、ライアンがノーラの担架を水路へ滑らせる。


「今!」


セーラがノーラの足を庇う。

リーネはフィルを背負ったまま、ミナの背負子のベルトが引っかからないよう押さえた。


猟犬が低く唸り、こちらへ跳んだ。


その足が、腐った床板にかかる。

いや、正確には床板だけではない。水車が動き出したことで、床下の水が戻り、腐った支えが一気に緩んだのだ。


バキッ。


床板が割れ、猟犬の前足が沈む。

猟犬は即座に爪を立てて戻ろうとした。だが、動き出した水車の軸が、床下の歯車と古い鎖を引っ張る。垂れていた鎖が猟犬の脚に絡み、濁流が床下から吹き上がった。


「行け!」


俺は最後にワイヤーロックを水門のレバーへ引っかけ、戻らないよう固定した。

これで水流はしばらく止まらない。


猟犬が唸る。

怒りではない。計算を乱された獣の声だった。


濁った水が床下へ流れ込み、猟犬の体を横へ押す。巨体が水車側の溝に引きずられ、壁に爪を立てる音が響いた。


死んではいない。

倒してもいない。

ただ、進路を奪っただけだ。


「ナオキ!」


セーラの声に、俺は水路の入口へ身を滑り込ませた。

背後で、猟犬が床板を叩き割る音がした。


「すぐ抜けてくるぞ」


「だが、今すぐじゃねえ」


ヒルダが後ろを見たまま言う。


「初めて、こっちが一歩取った」


その言葉で、胸の奥にほんの少しだけ空気が入った。

勝ったわけじゃない。

だが、追われるだけの時間は、ここで一度切れた。


* * *


地下施設の奥で、レナードは伝令の報告を聞いていた。

あるのは、壁に固定された黒い魔導盤に浮かぶ魔力反応と、息を切らした兵の声だけだった。


「外縁北側、水車小屋付近で魔力反応が乱れました。一号の追跡速度が低下しています」


「水車小屋……」


レナードは細い指で魔導盤の一点をなぞった。


「古い搬送路の残骸ですね。まだ残っていましたか」


声に焦りはない。

だが、周囲の兵は誰も顔を上げなかった。地下施設では七号の暴走が続き、処理室の一部は封鎖されている。壊れた通路、消えた実験記録、逃げ出した獣人たち。今、レナード本人が外へ出れば、隠すべきものまで帝都の目に触れる。


「追跡部隊を増やしますか」


部下の問いに、レナードは首を振った。


「不要です。兵を動かしすぎれば、こちらの事情を外へ運ぶことになる」


「しかし、対象は北へ」


「逃げたのではありません。泳がせているだけです」


レナードは静かに言った。


「一号は止まりません。多少遅れても、痕跡を拾い直す。こちらは七号を回収し、施設を沈黙させる。それが先です」


彼は魔導盤から目を離し、冷えた声で命じた。


「北側の街道を塞ぎなさい。正規の検問ではなく、狩りの網でいい。見つけた者を捕らえ、見つからなければ、彼らが向かう先を記録しなさい」


「はっ」


部下が去る。

レナードは誰もいない空間へ、薄く笑みを浮かべた。


「面白い道具を使う。ですが、それだけです。檻の外に出たからといって、檻が消えたわけではありません」


その声は、感情よりも冷たかった。


* * *


旧水路の中は狭く、暗かった。

壁は苔でぬめり、足元には冷たい水が流れている。小型LEDランタンの光は黒い布で覆い、足元だけを淡く照らした。外から見れば、ただの闇にしか見えないはずだ。


背後からは、水車の軋む音と、猟犬が瓦礫を掻き分けるような音がまだ聞こえている。

遠ざかってはいない。

だが、近づいてもいない。


「……助かった、のか」


ライアンが息を吐く。


「助かってねえよ」


ヒルダが即座に返した。


「止めただけだ。けど、すぐには来られねえ」


「なら、その前に進む」

俺は振り返らずに言った。

時間があれば進める。進めれば、選べる道が増える。今の俺たちには、それで十分だった。


ノーラの担架は、パラコードで角度を固定し、バルクとライアンが慎重に運んでいる。セーラは時折ノーラの呼吸を確認し、ミナの背負子を背負い直す。リーネはフィルの手を、自分の肩紐の上からそっと握らせていた。


「怖かったら、叩いて」


「……うん」


その小さなやり取りが、暗い水路の中で妙に大きく響いた。


「この先は?」


俺が聞くと、ライアンが地図の空白に視線を落とした。


「分かりません。ですが、水の流れは北です。農地用の水路なら、いずれ川か、別の水源に繋がるはずです」


「つまり、賭けか」


「はい。ですが、戻るよりは勝ち目があります」


いい答えだった。

確実な道ではない。だが、最悪ではない。


背後で、濡れた木材が嫌な音を立てた。

猟犬は、まだ諦めていない。

それでも、初めて俺たちは、あいつより一歩だけ先に進んでいた。


「行くぞ。夜明け前に、この水路を抜ける」


小さなLEDランタンの光を足元だけに絞り、俺たちは北へ続く暗い水路を進み始めた。

ここまで読んでいただきありがとうございます!

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