第133話 水車小屋の罠
次回は第2章クライマックスのため、明日は12時と18時の2話更新予定です。
第2章完結まで一気にお付き合いいただけると嬉しいです。
「……近い」
ヒルダのその一言で、湿地の空気が凍りついた。
遠吠えではない。獲物を見つけた獣が、喉の奥で押し殺すような低い唸り。背の高い草の奥で、何かが低く、重く動いている。
猟犬は、もうこちらを外していなかった。
「走るぞ。ノーラ、水車小屋は北でいいんだな」
担架の上のノーラが、痛みをこらえながら頷く。
「ああ……水の音がする方だ。古い木の匂いがした。たぶん、この先にある」
「たぶんで十分だ」
俺は担架の後ろを掴んだ。
バルクが前を持ち、ライアンが横から支える。ぬかるんだ湿地を踏みしめるたび、靴底が泥に吸われた。
「ナオキ、手」
セーラの声が飛ぶ。
ミナを背負ったまま、彼女は俺の右手に巻かれた包帯を見ていた。
「今は持つ」
「また一人で無茶するつもり?」
「必要ならな」
「必要にしないで」
短い言葉だった。
けれど、それだけで足が止まりそうになる。
「……努力する」
「そこは約束しなさい」
「約束する。だから今は走れ」
セーラは小さく息を吐き、それ以上は言わなかった。
説教ではない。心配を、走るための言葉に削ってくれただけだ。
ヒルダが先頭で草をかき分ける。
鼻に頼っているのではない。湿った風、草の倒れ方、水音の響き、泥に残ったわずかな傾斜。それらを拾いながら、道なき道を選んでいる。
「こっちだ。水音が太くなってる」
リーネはフィルを背負ったまま、必死についてくる。
足を取られかけるたび、フィルが細い声を漏らした。
「……リーネ」
「見ないで。私の肩だけ見てて」
リーネの声も震えていた。
それでも、彼女は一度もフィルを下ろそうとはしなかった。背負子の紐を握り直し、ポンチョの端でフィルの顔を隠す。
「怖かったら、私の肩を叩いて。声を出さなくていいから」
守られるだけだった彼女が、今は小さな背中を守ろうとしている。
それを見て、俺は何も言わなかった。
言葉にすれば、その細い勇気まで壊してしまいそうだった。
湿地の先に、黒い影が浮かび上がる。
半分朽ちた木造の小屋。その横に、苔と蔦に覆われた巨大な水車が止まっていた。月明かりを受けても、廃墟というより、長く息を止めていた獣の骨に見えた。
「あそこだ……!」
ノーラがかすれた声を上げる。
俺たちは最後の力で小屋へ駆け込んだ。
扉は古く、蝶番は錆びている。
バルクが内側から押さえ、黒い大盾を扉に当てた。
「支える」
それだけ言って、腰を落とす。
次の瞬間、外の草が大きく揺れた。
来た。
* * *
水車小屋の中は、湿った木と苔の匂いで満ちていた。
床板のあちこちが腐り、壁際には錆びた鎖と割れた樽が転がっている。止まった水車に繋がる太い軸が、天井近くで黒く沈んでいた。
「ライアン、内部を確認。出口を探せ」
「分かりました」
ライアンは小さな魔導灯を手で覆い、光を外に漏らさないようにしながら奥へ進む。
ヒルダは扉の隙間から外の気配を見た。
「真っすぐ来てる。迷ってねえ」
「ノーラたちは水路の入口に寄せる。セーラ、リーネ」
「分かってる」
セーラはミナを背負ったまま、ノーラの担架を水車小屋の奥へ誘導した。リーネもフィルを背負って続く。
「ナオキさん、こちらです」
ライアンが北側の床を指した。
石で組まれた低い段差。その下に、鉄格子のはまった暗い穴がある。古い水路の点検口らしい。格子は錆び、片側が浮いていた。
「この先、北へ続いている可能性があります。ただ、格子が邪魔です。壊せば音が出ます」
「音を出す前に、あいつを止める」
ゴンッ。
扉が揺れた。
小屋全体が、腹の底から震える。バルクの足が床板をきしませる。
「まだ持つ」
短い声。
だが、床の方が先に負けそうだった。
俺はマリエクを開く。
戦う道具じゃない。逃げるために、時間を買う道具だ。
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箱が現れる。
俺はLEDランタンを一つ取り出し、黒いポンチョの切れ端で覆った。光を絞り、床と水路だけを照らす。
「ヒルダ、外。猟犬の位置だけ見てくれ。ライアン、水門の場所を探せ。水が動けば、水車も動くはずだ」
「了解しました」
「セーラ、ノーラの足を守れ。リーネ、フィルの顔を覆っておけ。大きな音が出る」
「分かったわ」
ゴンッ!
また扉が鳴る。
今度は板が裂ける音が混じった。猟犬の爪が、外側から扉を抉っている。
「バルク」
「支える」
大盾が軋む。
盾は壊れない。だが、その衝撃を受けているのはバルクの腕と足だ。床板が湿っているせいで、踏ん張るたびに靴がじわりと沈む。
俺は防水テープを手早く扉の金具に巻き、ワイヤーロックを扉の輪金と水車の古い支柱に通した。完全な封鎖にはならない。だが、扉が一気に弾け飛ぶまでの数秒は稼げる。
「ナオキさん、水門です」
ライアンが壁際の錆びたレバーを見つけていた。
半分木枠に埋まり、苔と錆で固まっている。
「動くか」
「推測ですが、まだ繋がっています。ただ、かなり固い」
「十分だ」
俺は折りたたみノコギリを渡す。
「格子の周りの腐った木を切れ。格子そのものを壊すな。音が出る」
「はい」
ライアンが水路の入口に向かう。
俺はレバーに肩を入れた。
びくともしない。
「くそっ」
「手を貸すわ」
セーラが寄ろうとする。
「ミナを背負ったまま無理するな」
「無理じゃないわ。押す方向だけ言って」
言い返す時間はない。
俺とセーラがレバーに体重をかける。右手の傷が焼けるように痛んだ。
「ナオキ」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
「あとで怒られる」
「今も怒ってる」
それでも、セーラは手を離さなかった。
ミシ、と錆びた金属が鳴る。
外で、猟犬が低く唸った。
ゴンッ!
扉の一部が内側へ割れ、黄金色の瞳が隙間から覗いた。
ただの獣の目じゃない。考えている目だ。こちらの人数、荷物、逃げ道を数えているように見えた。
ヒルダが舌打ちする。
「まずい。扉じゃなくて、足元を狙う気だ」
猟犬の爪が、扉の下の腐った板を剥がし始めた。
俺たちが水路へ逃げる前に、低い姿勢で潜り込むつもりだ。
「バルク、下だ!」
「持つ」
バルクが大盾の角度を下げる。
その瞬間、猟犬の爪が盾の下端を叩いた。衝撃でバルクの膝がわずかに沈む。
「まだ行ける」
だが、長くはない。
「ライアン、格子は」
「あと少しです!」
ノコギリの音が小屋の奥で小さく続く。
俺はレバーにもう一度力を込めた。
「動け……!」
セーラが息を合わせる。
錆びたレバーが、嫌な音を立ててわずかに落ちた。
その瞬間、外の水路から重い水音が響いた。
* * *
最初は、ただの濁った水音だった。
次に、水車の軸が悲鳴を上げる。
ギギギギギッ。
長く止まっていた巨大な水車が、ゆっくりと回り始めた。
苔と泥を剥がしながら、木の羽根が水を受ける。小屋全体が軋み、壁に吊られていた錆びた鎖が震えた。
「開いた!」
奥でライアンが叫ぶ。
腐った木枠が外れ、鉄格子が片側だけ浮いている。人ひとりなら身を滑り込ませられる。担架は、ぎりぎり斜めにすれば通せる幅だ。
「全員、水路へ!」
俺が叫ぶのと同時に、扉の下が破れた。
猟犬が低い姿勢で中へ滑り込もうとする。
バルクが大盾で押し返す。
だが、猟犬は正面から受けない。床を蹴り、横へ回り込む。こちらの狙いを読んでいる。
「ナオキ、右!」
ヒルダの声。
俺は咄嗟に大型防臭袋へ、血のついたガーゼと泥だらけの布を放り込んだ。口を縛らず、わざと半分だけ開ける。濃い血と消毒液の匂いを含んだ袋を、水車側の暗がりへ投げた。
猟犬の目が、一瞬だけそちらへ動く。
騙されたわけじゃない。
だが、匂いの強い塊を無視もしなかった。その一瞬で、バルクが盾を押し込み、ライアンがノーラの担架を水路へ滑らせる。
「今!」
セーラがノーラの足を庇う。
リーネはフィルを背負ったまま、ミナの背負子のベルトが引っかからないよう押さえた。
猟犬が低く唸り、こちらへ跳んだ。
その足が、腐った床板にかかる。
いや、正確には床板だけではない。水車が動き出したことで、床下の水が戻り、腐った支えが一気に緩んだのだ。
バキッ。
床板が割れ、猟犬の前足が沈む。
猟犬は即座に爪を立てて戻ろうとした。だが、動き出した水車の軸が、床下の歯車と古い鎖を引っ張る。垂れていた鎖が猟犬の脚に絡み、濁流が床下から吹き上がった。
「行け!」
俺は最後にワイヤーロックを水門のレバーへ引っかけ、戻らないよう固定した。
これで水流はしばらく止まらない。
猟犬が唸る。
怒りではない。計算を乱された獣の声だった。
濁った水が床下へ流れ込み、猟犬の体を横へ押す。巨体が水車側の溝に引きずられ、壁に爪を立てる音が響いた。
死んではいない。
倒してもいない。
ただ、進路を奪っただけだ。
「ナオキ!」
セーラの声に、俺は水路の入口へ身を滑り込ませた。
背後で、猟犬が床板を叩き割る音がした。
「すぐ抜けてくるぞ」
「だが、今すぐじゃねえ」
ヒルダが後ろを見たまま言う。
「初めて、こっちが一歩取った」
その言葉で、胸の奥にほんの少しだけ空気が入った。
勝ったわけじゃない。
だが、追われるだけの時間は、ここで一度切れた。
* * *
地下施設の奥で、レナードは伝令の報告を聞いていた。
あるのは、壁に固定された黒い魔導盤に浮かぶ魔力反応と、息を切らした兵の声だけだった。
「外縁北側、水車小屋付近で魔力反応が乱れました。一号の追跡速度が低下しています」
「水車小屋……」
レナードは細い指で魔導盤の一点をなぞった。
「古い搬送路の残骸ですね。まだ残っていましたか」
声に焦りはない。
だが、周囲の兵は誰も顔を上げなかった。地下施設では七号の暴走が続き、処理室の一部は封鎖されている。壊れた通路、消えた実験記録、逃げ出した獣人たち。今、レナード本人が外へ出れば、隠すべきものまで帝都の目に触れる。
「追跡部隊を増やしますか」
部下の問いに、レナードは首を振った。
「不要です。兵を動かしすぎれば、こちらの事情を外へ運ぶことになる」
「しかし、対象は北へ」
「逃げたのではありません。泳がせているだけです」
レナードは静かに言った。
「一号は止まりません。多少遅れても、痕跡を拾い直す。こちらは七号を回収し、施設を沈黙させる。それが先です」
彼は魔導盤から目を離し、冷えた声で命じた。
「北側の街道を塞ぎなさい。正規の検問ではなく、狩りの網でいい。見つけた者を捕らえ、見つからなければ、彼らが向かう先を記録しなさい」
「はっ」
部下が去る。
レナードは誰もいない空間へ、薄く笑みを浮かべた。
「面白い道具を使う。ですが、それだけです。檻の外に出たからといって、檻が消えたわけではありません」
その声は、感情よりも冷たかった。
* * *
旧水路の中は狭く、暗かった。
壁は苔でぬめり、足元には冷たい水が流れている。小型LEDランタンの光は黒い布で覆い、足元だけを淡く照らした。外から見れば、ただの闇にしか見えないはずだ。
背後からは、水車の軋む音と、猟犬が瓦礫を掻き分けるような音がまだ聞こえている。
遠ざかってはいない。
だが、近づいてもいない。
「……助かった、のか」
ライアンが息を吐く。
「助かってねえよ」
ヒルダが即座に返した。
「止めただけだ。けど、すぐには来られねえ」
「なら、その前に進む」
俺は振り返らずに言った。
時間があれば進める。進めれば、選べる道が増える。今の俺たちには、それで十分だった。
ノーラの担架は、パラコードで角度を固定し、バルクとライアンが慎重に運んでいる。セーラは時折ノーラの呼吸を確認し、ミナの背負子を背負い直す。リーネはフィルの手を、自分の肩紐の上からそっと握らせていた。
「怖かったら、叩いて」
「……うん」
その小さなやり取りが、暗い水路の中で妙に大きく響いた。
「この先は?」
俺が聞くと、ライアンが地図の空白に視線を落とした。
「分かりません。ですが、水の流れは北です。農地用の水路なら、いずれ川か、別の水源に繋がるはずです」
「つまり、賭けか」
「はい。ですが、戻るよりは勝ち目があります」
いい答えだった。
確実な道ではない。だが、最悪ではない。
背後で、濡れた木材が嫌な音を立てた。
猟犬は、まだ諦めていない。
それでも、初めて俺たちは、あいつより一歩だけ先に進んでいた。
「行くぞ。夜明け前に、この水路を抜ける」
小さなLEDランタンの光を足元だけに絞り、俺たちは北へ続く暗い水路を進み始めた。
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