第132話 裏の道
北へ続く古い農道は、道と呼ぶにはあまりにも荒れていた。
ぬかるんだ土がブーツにまとわりつき、一歩進むたびに足首まで沈む。崩れた石垣の影には背の高い草が絡まり、古い轍には黒い水が溜まっている。帝都の警鐘は遠ざかったはずなのに、背中にかかる重さだけは消えなかった。
「……これは、想定より厳しいですね」
ライアンが息を詰める。
彼とバルクが担いでいる担架の足が、また深いぬかるみに沈み込んだ。木枠がぎしりと鳴り、担架の上のノーラが痛みを噛み殺すように唇を歪める。
「持つ」
バルクが短く言い、腰を落とした。
ライアンもすぐに合わせる。二人で担架を引き上げると、泥が吸いつくような音を立てて外れた。
「すまない……」
「謝るな」
バルクはそれだけ返して、また前を向いた。
責める響きはない。ただ、進むために言葉を削っているだけだ。
セーラはミナを抱き直し、足元を睨んだ。ミナは声も出せず、セーラの服を両手で握りしめている。少し離れた場所では、リーネがフィルの手を引いていた。フィルの足が泥に取られるたび、リーネは立ち止まり、彼の肩にかかった黒いポンチョを直してやる。
「大丈夫。私の服、掴んでて」
リーネの声は小さい。
それでも、フィルはその言葉に従って、震える手でリーネの裾を握った。
怖がっていないわけじゃない。リーネの指も、冷たく強張っている。それでも彼女は、その手を離さなかった。
「ナオキ、このままじゃ消耗が激しすぎるわ」
セーラの額にも汗が滲んでいた。
ヒールで多少は痛みを散らせても、泥の重さまでは消せない。俺は自分の右手に巻かれた包帯を見た。さっき試した頼りない光が頭をよぎる。
治す魔法は、まだ俺には使えない。
なら、今使うべきはそっちじゃない。
「少しでもマシな場所は?」
先行していたヒルダが、茨の絡まった低い石垣を指さした。
「あそこだ。数分だけ止まる。長くは無理だ」
石垣の影にたどり着き、バルクが担架を静かに下ろす。
全員の呼吸が荒い。ただ歩いているだけなのに、体力が削られていく。追われているという意識が、足より先に心臓を疲れさせていた。
ライアンが膝をつき、ぬかるみに残った轍を指でなぞる。
「農作業用にしては深い。しかも、車輪の幅が揃いすぎています」
「荷馬車か?」
「おそらく。ただ、道の曲がり方が不自然です。畑に沿っているというより、見つからない場所を選んで曲げているように見える」
その言葉に、担架の上のノーラがかすかに顔を上げた。
「……この曲がり方、覚えがある」
「本当か?」
俺が聞くと、ノーラは苦い顔で頷いた。
「はっきりとは分からない。目隠しされていた時間も長かった。でも、揺れ方が似てる。急に曲がって、車輪が泥に取られて……そのたびに、誰かが怒鳴っていた」
リーネの指が、フィルの手を強く握った。
フィルも顔を伏せる。何かを思い出したのか、それとも思い出したくなかったのかは分からない。
ライアンが地図の空白部分を見つめた。
「帝都の正規街道を避ける裏道。表に出せない荷を運ぶための道……そう考えた方が自然です」
「北へ続いてるんだよな」
「はい。推測ですが、このまま進めば帝都の外堀沿いを迂回し、さらに北側へ抜けます。その先は、いずれ帝国と獣人領の境にも近づくはずです」
獣人領。
その言葉に、リーネがわずかに顔を上げた。
だが、今はそこを目指すと決められる状況じゃない。南は捜索隊が広がっている。東の森は担架を抱えて進むには暗すぎる。北へ押し出されている。それだけだった。
「選べる道じゃなく、残った道か」
「……そうなります」
ライアンは悔しそうに答えた。
俺は泥に沈みかけた担架を見下ろす。このままでは、道が残っていても足がもたない。
「なら、運び方を変える」
俺はマリエクを開いた。
[検索:黒色パラコード、荷締めベルト、カラビナ、防音用ゴムシート、軽量折りたたみ背負子]
[検索結果:
黒色パラコード30m 3,000円
荷締めベルト4本セット 4,000円
カラビナセット 2,000円
防音用ゴムシート 4,000円
軽量折りたたみ背負子2台 14,000円]
[送料:2,000円]
[合計:29,000円]
【現在の残高:27,308,000円】
手元に現れた箱を開ける。
現代の道具は、こういう時に遠慮なく役に立つ。だが、買っただけで逃げ切れるわけじゃない。ここから先は、使い方を間違えればただの荷物だ。
「ライアン、担架の横揺れを止める。バルク、片側を少し上げてくれ」
「任せろ」
バルクが担架を持ち上げ、ライアンがすぐに荷締めベルトを受け取る。
俺はノーラの体を圧迫しない位置を選び、パラコードとベルトで担架と体を固定した。傷のある右足には触れない。防音用のゴムシートを細く切り、木枠の当たる部分に巻きつける。こすれる音と振動を少しでも殺すためだ。
「ノーラ、きつくないか」
「大丈夫だ。……さっきより、揺れない」
「痛みは?」
「ある。だが、我慢できる」
強がりだろう。
それでも、ノーラの目にはさっきより力があった。運ばれるだけではなく、自分もこの逃走に参加している。そう思おうとしているのが分かった。
次に、折りたたみ背負子を広げる。
金属のフレームを見てセーラが一瞬だけ眉をひそめた。
「また変な物を出したわね」
「子供を背負う道具だ。ミナを抱いたままだと、あんたの両手が塞がる」
「……便利なのは認めるわ」
「珍しく素直だな」
「今は言い返す体力が惜しいだけ」
セーラはそう言いながらも、俺が示した通りに背負子を装着した。ミナを座らせ、ベルトで軽く固定する。ミナは不安そうにセーラの肩にしがみついたが、腕で抱かれるより姿勢は安定した。
「苦しくない?」
ミナが小さく頷くと、セーラの表情が少しだけ緩んだ。
「よし。絶対に落とさないから」
リーネもフィルを背負う。
最初、フィルは怯えて体を硬くしたが、リーネが自分のポンチョを背負子の上から掛けてやると、少しだけ肩の力を抜いた。
「顔、隠れる?」
「……うん」
「なら、そのままでいい。怖かったら、私の肩を叩いて」
リーネはそう言って、ベルトをもう一度確かめた。
守られる側だった彼女が、今は小さな背中を守ろうとしている。その変化を見て、俺は何も言わなかった。言葉にすると、たぶん今は壊れてしまう。
「進める」
バルクが担架の持ち手を握り直した。
改良したとはいえ、泥道が楽になるわけではない。ただ、担架の揺れは明らかに減った。金具の擦れる音も、ゴムシートのおかげで鈍くなっている。セーラとリーネの両手が空いたことで、足場の悪い場所でも体勢を立て直しやすくなった。
「よし。急ぐぞ」
俺たちは再び北へ進み始めた。
* * *
道具で負担は減った。
だが、闇と泥はそのままだ。
古い農道は畑跡の間を蛇のように曲がり、崩れた石垣の横を抜けていく。どこかで水が流れる音がした。放置された用水路が、この一帯をまだ細く濡らしているのだろう。
ヒルダが先頭で片手を上げた。
全員が止まる。
「前だ」
その声は低かった。
俺たちは草の間から道の先を見る。松明の灯りが、闇の中でいくつも揺れていた。縦に進む灯りではない。道を塞ぐように横へ並んでいる。
「……捜索隊です」
ライアンの声が硬くなる。
「農道の出口を押さえています。こちらが北へ抜ける可能性も、読まれていたのかもしれません」
「正面は無理だな」
セーラが背負子のミナを庇うように、体を少し横へ向ける。
突っ込めば終わりだ。ノーラを乗せた担架も、子供たちもいる。戦って突破する場面ではない。
「別ルートは?」
ライアンは地図に目を落とし、すぐに首を振った。
「地図にはありません。ですが、農地なら水路があります。外堀へ流すための古い水路が残っていれば、松明の列を横から抜けられる可能性があります」
「ある」
ヒルダが短く答えた。
彼女は背の高い草の向こう、地面がわずかに落ち込んでいる場所を指さす。
「水の音がする。石も湿ってる。人ひとりなら通れる幅だ」
「担架は?」
「そのままじゃ無理だ」
全員の視線がノーラへ向いた。
ノーラは悔しそうに歯を食いしばる。
「置いていけとは言わない。……だが、無理なら私を歩かせろ」
「却下」
俺より先に、セーラが言った。
「骨は折れてない。でも、歩かせたら傷が開く。ここまで来て悪化させる気?」
「だが……」
「だが、じゃない。運ぶって決めたの。黙って運ばれてなさい」
きつい言い方だったが、責めてはいない。
ノーラもそれを理解したのだろう。悔しそうに目を伏せたが、もう反論はしなかった。
「バルク、担架を傾けて通す。ライアン、下で受けろ。ヒルダは先を見てくれ」
「任せろ」
「分かりました」
ヒルダは先に草の中へ消えた。
すぐに、低い声が戻ってくる。
「水路だ。古い点検道がある。ただし、狭い。急げ」
俺たちは水路の入口へ向かった。
石造りの細い溝が、草と泥に半分埋もれて口を開けていた。黒い水が足首ほどの深さで流れている。壁際には、ぎりぎり人が歩けるだけの石の段が残っていた。
「ノーラ、少し揺れる。歯を食いしばれ」
「……ああ」
バルクが担架の前を持ち、俺とライアンが後ろを支える。
セーラはミナを背負ったまま、ノーラの足が壁にぶつからないよう位置を見た。リーネはフィルを背負い、落ちかけたポンチョの裾を片手で押さえながら、空いた手でノーラの肩側を支える。
「押すぞ。音を立てるな」
水路の中は冷え切っていた。
湿った石と苔の匂いが鼻を刺す。担架を斜めに傾け、少しずつ押し込む。木枠が石に触れそうになるたび、ゴムシートが鈍い音を吸った。それでも、完全に無音にはならない。布が擦れる音、誰かの息を呑む音、足元の水が跳ねる音がやけに大きく聞こえた。
松明の灯りが、草の隙間から近づいてくる。
「止まれ」
ヒルダの声がした。
俺たちは水路の中で動きを止めた。冷たい水が靴の中に入り込み、足先の感覚を奪っていく。
鎧の擦れる音が、頭上を通り過ぎた。
「こっちはどうだ」
「足跡は農道の先へ続いています」
「なら出口を固めろ。犬が戻るまで逃がすな」
帝国兵の声だった。
誰も息をしなかった。ミナが震え、セーラの肩に顔を押しつける。フィルもリーネの首元にしがみついていた。リーネは小さく、何度もフィルの背を撫でる。
足音が遠ざかる。
それでも、すぐには動けなかった。
ヒルダが指を二本立てる。
まだ二人、近くに残っているという合図だ。
長い数十秒だった。
やがて、草を踏む音も遠くなり、ヒルダが小さく頷いた。
「今だ」
俺たちは再び担架を押した。
水路は狭く、何度も木枠が石に当たりかけた。バルクが体を壁に押しつけて幅を作り、ライアンが担架の角度を細かく直す。セーラはノーラの足を守り、リーネはフィルを背負ったまま、震える手で荷締めベルトを押さえていた。
誰か一人でも崩れれば、音が出る。
その音で見つかれば、終わる。
最後の段差を越えた時、俺は自分が息を止めていたことに気づいた。
* * *
水路を抜けた先は、背の高い草が茂る湿地だった。
帝都の灯りはかなり遠くなっている。警鐘も、もう薄い。代わりに、湿地の奥から水車の軋むような古い音が、風に混じって聞こえた気がした。
俺たちは草の中に身を沈め、荒い息を整える。
ノーラの包帯を確認すると、血は滲んでいるが大きくは広がっていない。セーラが短く息を吐き、手をかざした。
「少しだけよ」
淡い光がノーラの足首を包む。
傷を塞ぐ光ではない。痛みの角を削るような、弱くて安定した光だ。ノーラの強張っていた肩が、ほんの少しだけ落ちる。
「助かる」
「礼は、歩けるようになってからでいいわ」
セーラはそう言って、すぐに周囲へ視線を戻した。
頼もしい。だが、彼女のMPも無限ではない。ヒールがLV3になっても、奇跡が安売りになるわけではなかった。
「……撒けましたか」
ライアンが息を潜めて聞く。
「捜索隊は、な」
ヒルダは地面に膝をつき、泥の表面を見ていた。指先で草の倒れ方を確かめ、次に風上へ顔を向ける。鼻に頼っているのではない。斥候として、空気の流れと痕跡を読んでいる。
やがて、その表情がわずかに険しくなった。
「猟犬が戻ってきた」
空気が冷えた。
「農道の出口じゃない。こっち側に曲がってきてる。足跡を拾ったんじゃねえ。たぶん、俺たちが選びそうな道を読んでる」
やはり、ただの獣じゃない。
匂いだけなら、消臭剤や泥で多少は乱せる。だが、あいつは痕跡を選んでいる。逃げる側の心理までなぞるように、追ってきている。
「この湿地では隠れにくいです」
ライアンが低く言った。
「身を伏せる場所はありますが、担架がある。夜明けになれば見つかります」
「なら、夜明け前に屋根のある場所へ入るしかない」
「……水車」
担架の上で、ノーラがかすれた声を出した。
「水車小屋だ。古い、大きな水車があった。たぶん、この先……北だ」
「見たのか?」
「目隠しの隙間から、一瞬だけ。水の音と、古い木の匂いがした。誰かが『まだ残っていたのか』って言っていた。使われていない小屋だと思う」
ノーラは息を整え、必死に記憶を拾い上げていた。
逃げるためではなく、俺たちを進ませるために。
「距離は?」
「分からない。でも……遠くはなかったはずだ」
ヒルダが湿地の奥を見た。
「水の音はする。北だな」
ライアンが地図の空白に指を置く。
「この湿地の先に水路が続いているなら、水車小屋があってもおかしくありません。地図には載っていませんが、隠れるならそこしかない」
セーラがミナの背負子を背負い直した。
「行くしかないわね」
「ああ」
バルクが担架を持ち上げる。
「進める」
その一言で、全員が立ち上がった。
足は重い。息も浅い。夜はまだ終わらない。それでも、進む場所があるだけマシだった。
「夜明けまでに、その水車小屋へ入る」
俺がそう言った直後だった。
湿地の向こう、背の高い草の奥で、低い唸りが一度だけ響いた。
遠吠えではない。獲物を見つけた獣が、喉の奥で押し殺すような音だった。
ヒルダの顔色が変わる。
「……近い」
猟犬は、まだ俺たちの背中を見失っていなかった。
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