第130話 撤退戦の始まり
「走れ!」
俺の声が、夜の廃棄物集積場に弾けた。
けれど、走ると言っても、まともな道などない。足元はぬかるみ、腐った布袋と壊れた木箱が積み重なり、錆びた鉄材が暗がりの中で牙のように突き出している。
「壁沿いだ!灯りの正面に出るな!」
先頭のヒルダが、低く鋭く指示を飛ばす。
俺たちはその声だけを頼りに、瓦礫の影から影へと移った。
セーラは兎耳の少女を抱え直し、リーネは狐耳の少年の手を引いている。犬種の若い女は足を引きずっていたが、バルクが無言で肩を貸していた。バルクの左腕はまだ震えている。それでも、倒れそうな者がいれば、その巨体が自然に支えになった。
遠くで松明の灯りが揺れる。
一つではない。二つ、三つ。廃棄物の山の向こうで、巡回兵の声が重なり始めていた。
「こっちに灯りが向いています!」
ライアンが息を殺した声で告げる。
このまま走れば、見つかる。だが、止まれば猟犬が来る。後ろでは、排出口の奥から七号の濁った咆哮が響いていた。
戦う選択肢はない。
逃げるだけでも足りない。
見つからずに、抜けるしかない。
俺はマリエクを開いた。
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手元に黒い布の束と、スプレー缶、折りたたまれた担架、黒いテープと小さな赤色ライトが現れる。
武器ではない。
敵を倒すためのものでもない。
夜と腐臭に紛れ、ほんの数分だけ追跡を遅らせるための道具だ。
「全員、これを被れ。耳も髪も隠せ。黒い塊に見えればいい」
俺は黒色ポンチョを配る。
セーラは兎耳の少女の耳ごとポンチョを被せ、リーネは狐耳の少年の頭をそっと覆った。
リーネの手が、一瞬だけ止まる。
かつては、自分が隠される側だったのだろう。
だが今、彼女は少年の震える肩を包み込むようにポンチョを整えた。
「大丈夫。見えにくくなるだけ。怖くない」
その声は震えていた。
それでも、少年は小さく頷いた。
俺は折りたたみ担架を広げ、犬種の若い女の前に置いた。
「彼女は担架で運ぶ。無理に歩かせるより、その方が速い」
「……私はまだ」
「分かってる。だが今は、速さが優先だ」
ライアンがすぐに担架の持ち手を確認した。
「前は私が持ちます。バルクさんは後ろを。壁側に寄せて進みましょう」
犬種の女は悔しそうに唇を噛んだが、すぐに頷いた。
「分かった。すまない」
「謝るな。生きて出る方が先だ」
俺は消臭スプレーを一本、ヒルダへ渡した。
ヒルダはラベルを一瞥し、すぐに意図を理解する。
「匂いを消すんじゃなくて、散らすんだな」
「ああ。猟犬を完全には誤魔化せない。でも、腐臭と混ぜれば、少しは足を止められるはずだ」
「少しで十分だ」
ヒルダは仲間たちの足元、担架、通った瓦礫、そして周囲の腐った布袋へ容赦なく吹きかけた。
刺激臭が広がる。
腐臭、血、汚水、薬品の匂いがぐちゃぐちゃに混じり、俺自身も顔をしかめた。
「ナオキ、手」
セーラが低く言う。
右手の手袋は破れ、血が滲んでいた。背中にも、猟犬の爪がかすめた痛みが残っている。
「あとでまとめて頼む」
「まとめたら、朝までかかるわよ」
「じゃあ朝まで生きる理由ができた」
「……ほんと、心配させないでよ」
セーラはそう言いながらも、俺の手首に黒い養生テープを巻き、包帯がずれないよう押さえた。
「終わったら、ちゃんと見せて」
「帝国からは逃げるぞ」
「私からは逃げないで」
返事が、一瞬だけ遅れた。
……その言い方は、少し卑怯だろ。
俺は短く息を吐き、前を向いた。
「分かった。まずは、帝国から逃げ切るぞ」
その短いやり取りの間にも、松明の灯りは近づいてくる。
ヒルダが瓦礫の山の隙間を指した。
「伏せろ。灯りが来る」
* * *
俺たちは崩れた荷車と腐った布袋の影に身を滑り込ませた。
黒色ポンチョを体に巻きつけ、動かない。赤色LEDクリップライトは布の内側で足元だけを照らしている。白い光なら一発で見つかるが、この弱い赤なら、外へ漏れる光はほとんどない。
松明の光が、すぐ近くの瓦礫を舐めるように動いた。
「……何か動かなかったか?」
若い兵士の声がした。
「廃棄口の方で騒ぎがあった。気を抜くな」
別の兵士が答える。
足音が近い。
あと数歩踏み込まれれば、黒いポンチョの下に隠れた俺たちが見える。
兎耳の少女が息を吸い込んだ。
悲鳴になりかけたその口を、セーラがそっと胸に抱き込んで塞ぐ。
リーネは狐耳の少年の手を握ったまま、自分も息を止めていた。
バルクは膝をつき、担架ごと犬種の女を庇うように体を低くしている。その巨体が動けば終わりだ。だが、微動だにしない。
松明が上がる。
光が、俺たちの隠れる荷車の縁を照らした。
まずい。
そう思った瞬間、背後の排出口側で、凄まじい轟音が響いた。
ゴォンッ!
続けて、鉄がひしゃげる音。
七号だ。
あの失敗作が、排出口の残骸を力任せに破壊している。
「なんだ今の音は!」
「廃棄口だ! 何か出てくるぞ!」
兵士たちの松明が、一斉にそちらへ向いた。
光が逸れる。
排出口の方角から、七号の濁った咆哮が夜に響いた。
「ギシャアアアアアアッ!」
兵士たちがざわめく。
剣を抜く音。誰かが応援を呼ぶ声。
七号は味方ではない。あれはこちらも殺す。
だが、その暴走が今だけ、帝国兵の視線を奪っていた。
「今だ」
ヒルダが囁く。
俺たちは一斉に動いた。
黒いポンチョを揺らさないよう、瓦礫の影から影へ移る。バルクとライアンが担架を持ち上げ、犬種の女を運ぶ。足元を照らすのは、布の内側から漏れる赤い光だけだ。
兵士たちは七号の方を見ていた。
俺たちはその背後を、息を殺して通り抜ける。
喉が焼けるように乾く。
一歩ごとに、靴底がぬかるみに沈む。
それでも、誰も声を上げなかった。
やがて、廃棄物の山の切れ目に、外壁沿いの細い作業道が見えた。
石壁に沿って、暗い溝のように続く道だ。
「入れ。早く」
ヒルダが先に滑り込む。
俺たちは次々とその暗がりへ身を入れた。
背後では、帝国兵が七号へ向かって怒号を飛ばしている。
「矢を放て!」
「近づくな、囲め!」
「何だ、あれは!」
七号の咆哮が、その全てを押し潰す。
俺は振り返らず、作業道の奥を睨んだ。
まだ終わっていない。
むしろ、本命はここからだ。
* * *
作業道に入ってしばらく進むと、ヒルダが足を止めた。
声は出さない。
壁に手を当て、背後の空気の流れと足音の反響を確かめるように、じっと耳を澄ませている。
「どうした」
俺が小さく聞くと、ヒルダは唇だけを動かした。
「来る」
それだけで分かった。
猟犬だ。
七号の騒ぎに紛れて、あいつは最短でこちらへ向かっている。
消臭スプレーも腐臭も、完全には止められなかった。
「真っすぐではありません」
ライアンが背後を見ながら言う。
「一度、廃棄物の山の方へ逸れています。匂いが乱れているのでしょう。ですが、戻ってきます」
「数分どころか、数十秒か」
「おそらく」
十分だとは言えなかった。
でも、ゼロよりはましだ。
「この先は?」
「外堀に繋がる水路脇へ出ます。そこまで行けば、帝都の管理区域からは外れます。ただし一本道です」
「一本道なら、追いつかれたら終わりだな」
ヒルダが短く笑った。
笑いというより、息を吐いただけに近い。
俺は手元に残した消臭スプレーを握った。
そして、自分の裂けた服の背中側を少しだけ切り取る。猟犬の鉤爪がかすめ、血と汗の染みた布だ。
セーラが目を見開く。
「何してるの」
「囮を作る」
「血の匂いなんて、余計に追われるでしょ」
「だから使う。追うなら、別の方へ追わせる」
俺は黒色ポンチョの一枚にその布切れを結び、消臭スプレーを半分ほど吹きかけた。
俺たちの匂いと、薬品臭と、廃棄物の腐臭。
全部を混ぜて、ひどい塊にする。
「ヒルダ、あそこの曲がり角に掛けられるか。見えすぎず、隠れすぎない場所」
「できる」
「猟犬は馬鹿じゃない。完全には騙されない」
「分かってる。一歩止まれば勝ちだろ」
ヒルダはポンチョを受け取ると、音もなく先へ走った。
数秒後、曲がり角の奥に黒い影が引っかかる。
ぱっと見れば、誰かが壁際にうずくまっているようにも見えた。
コツ。
背後から、硬い足音が響いた。
七号の咆哮でも、兵士の怒号でもない。
静かで、速くて、無駄のない足音。
猟犬だ。
「伏せろ」
俺たちは壁の窪みに身を寄せた。
赤い光を消し、息を殺す。
闇の奥に、黄金色の瞳が浮かんだ。
猟犬は曲がり角の黒い影の前で足を止める。
すぐには飛びかからない。
匂いを確認し、周囲を見る。
床のぬかるみ。壁についた水滴。瓦礫の欠片。
そこに残る、本物と偽物の痕跡。
まずい。
迷っているのではない。
仕分けている。
「今しかない」
ヒルダの囁きが耳元を刺した。
俺は手を振った。
全員が動く。
担架を持ったバルクとライアンが先に進む。
セーラは兎耳の少女を抱え、リーネは狐耳の少年の背を押した。
俺は最後尾で、その残りを床と壁へ乱暴に噴きかける。
猟犬がこちらを向いた。
気づかれた。
「走れ!」
鉤爪が石壁を削る音が、背後で鳴る。
猟犬が囮を無視し、こちらへ体を向けたのが分かった。
だが、その一歩目が遅れた。
たった一歩。
それだけで十分だった。
俺たちは水路脇へ続く狭い通路に飛び込んだ。
ヒルダが自分の黒色ポンチョを脱ぎ、入口の突起に引っかけた。
物理的に止めるためではない。
猟犬の目と判断を、ほんの一呼吸だけ遅らせるためだ。
背後で、布が裂ける音がした。
「ナオキ!」
セーラが俺の腕を掴む。
右手に鋭い痛みが走る。だが、ここで振り返れば終わる。
水の匂いが強くなった。
土の匂いが混じる。
石壁の湿りが薄くなる。
そして、足元の感触が変わった。
硬い石ではない。
湿った草だ。
* * *
俺たちは、草の上に転がり出た。
最初に感じたのは、冷たい風だった。
汚水と腐臭にまみれた体を、その風が容赦なく撫でていく。
だが、それは地下の風ではない。
石の隙間から流れ込む空気でもない。
本物の夜の風だった。
俺は肩で息をしながら顔を上げた。
そこには、石の天井も、錆びた格子も、薄暗い魔導灯もなかった。
夜空があった。
雲の切れ間から月が見える。
遠くでは、帝都の警鐘が鳴っている。
七号の出現と、俺たちの脱走。もう、あの街は眠らない。
「……外」
リーネが、かすれた声で呟いた。
その隣で、狐耳の少年が空を見上げたまま動かない。
兎耳の少女も、セーラの腕の中から何度も瞬きをしていた。
犬種の女は担架の上で、目を閉じて大きく息を吐いた。
ここは、帝都外壁と外堀のさらに外側に広がる草地だった。
完全な安全地帯ではない。
だが、少なくとも、あの地下施設でも、外壁直下の管理区域でもない。
俺たちは、檻の外に出た。
背後の水路の奥で、布が裂ける音がした。
猟犬はまだ追ってくる。
七号も、レナードも、帝国兵も終わっていない。
それでも、俺たちの頭上には、石の天井ではなく、本物の夜空がある。
「……終わったの?」
セーラが、俺の隣に膝をついた。
泥と汗に汚れた顔で、それでも目だけはまっすぐ俺を見ている。
「いや」
俺は首を横に振った。
「まだ終わってない」
破れた手袋の下で、右手の傷が脈打つように痛む。
背中の痛みも、まだ消えていない。
痛みだけが、ここが夢ではないと教えてくれる。
「でも、檻の外には出た」
俺はそう言って、仲間たちを見た。
全員、ぼろぼろだった。
誰も笑えない。
それでも、誰も諦めた顔はしていなかった。
ヒルダが草地の先を見据える。
「灯りが動いてる。休むなら、もっと奥だ」
ライアンも頷く。
「外堀沿いに離れましょう。夜明けまでに、少しでも帝都から距離を取るべきです」
バルクが担架の持ち手を握り直した。
「進める」
それだけ言った。
セーラが、俺の右手を見る。
「今度こそ、少し止まったら手当てするから」
「ああ」
「絶対だから」
「分かってる」
セーラは疑うように俺を見たが、それ以上は言わなかった。
遠くで警鐘が鳴り続けている。
帝都の灯りは、まだ背後にある。
だが、俺たちはもう、あの石と鉄の腹の中にはいない。
俺は血の滲む右手を握りしめ、暗い草地の先を睨んだ。
逃げ切ったわけじゃない。
けれど、檻の外には出た。
ここからは、ただの逃走じゃない。
守りながら引く、撤退戦だ。
「行くぞ」
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