第129話 横を抜ける
黒い腕具から伸びた鉤爪が、夜の光を受けて鈍く光った。
排出口の鉄格子一枚を隔てた向こうに、猟犬がいる。
背後では、七号が歪んだ扉を叩き続けている。
ゴンッ。
重い音が、廃棄通路の壁を震わせた。
戻る道はない。
前へ出れば、猟犬に狩られる。
止まれば、七号に追いつかれる。
俺は、最初に勝つことを捨てた。
こいつを倒す方法を考えた瞬間、全員が死ぬ。
「……倒すんじゃない」
自分に言い聞かせるように呟く。
「横を抜ける」
セーラが息を呑む気配がした。
ヒルダがこちらを一瞬だけ見る。
ライアンの視線が、鉄格子とその枠を素早く走った。
猟犬は動かない。
だが、その黄金色の瞳は、俺たち全員を順番に見ていた。
兎耳の少女。狐耳の少年。足を庇う犬種の女。盾を構えるバルク。そして、俺の右手。
見られている。
負傷者も、守る順番も、誰が動けば逃走が止まるのかも。
「ライアン、格子の弱いところは」
「右上の蝶番です。錆びて浮いています。下はまだ生きているので、全部は外れません。ですが、片側をこじれば、人ひとり通れる隙間は作れるはずです」
「十分だ」
俺はマリエクを開いた。
戦うための道具ではない。
逃げ道をこじ開けるための、無骨な道具だ。
[検索:小型油圧ジャッキ、平バール、ワイヤー入り防獣ネット、牽引用ロープ、厚手作業マット]
[検索結果:
小型油圧ジャッキ 12,000円
平バール900mm 4,000円
ワイヤー入り防獣ネット 8,000円
牽引用ロープ10m 5,000円
厚手作業マット2枚 4,000円]
[送料:2,000円]
[合計:35,000円]
【現在の残高:27,400,000円】
手元に、ずしりと重い金属の塊が現れる。
油圧ジャッキ。平バール。ロープ。厚手の作業マット。そして、金属線の入った防獣ネット。
「ヒルダ、猟犬の初動を見ろ。どこを狙うか教えろ」
「分かってる」
「バルク、格子の前だ。防御を頼む!ただし正面だけ見るなよ。こいつは盾を避けてくる」
「ああ」
バルクはそれだけ言い、黒い大盾を前に出した。
左腕はまだ震えている。それでも、足は引かない。
「セーラ、リーネ。三人を壁際へ。破片が飛ぶ」
「分かった」
セーラは兎耳の少女を抱き寄せる。
リーネは狐耳の少年の肩を抱き、犬種の女も歯を食いしばって壁へ寄った。
「ナオキ、手」
セーラの目が、俺の右手に向く。
手袋の中が、もう湿っていた。
「今は見なかったことにしてくれ」
「できるわけないでしょ」
「じゃあ、あとで怒れ」
「絶対怒る」
その声が震えていた。
俺は答えず、バールを握った。
* * *
ライアンが、鉄格子の右上へ油圧ジャッキを噛ませる。
俺はその下の錆びた枠へ、平バールの先端をねじ込んだ。
「押します」
「合わせる」
ジャッキのレバーが動く。
ミシ、と錆びた金属が嫌な音を立てた。
その瞬間、猟犬が動いた。
「右。腕じゃない、道具だ!」
ヒルダの声が飛ぶ。
格子の隙間から、鉤爪が滑り込んだ。
狙いは俺ではない。ジャッキの根元だった。
これを外されれば、全部やり直しになる。
「来る」
バルクが半歩出る。
ガギンッ!
鉤爪が黒い大盾に弾かれた。
盾は傷つかない。だが衝撃はバルクの体を通り、足元の錆びた鉄板を軋ませた。
「急げ」
バルクの声は低い。
それ以上は言わない。
俺はバールに体重をかけた。
右手の傷が裂ける。手袋の中で、ぬるいものが広がった。
「ナオキ!」
「止めるな!」
叫んだ直後、猟犬の鉤爪が下から走った。
今度は足場を狙っている。
「下!」
ヒルダの声に、バルクが盾を叩き下ろす。
鈍い衝撃。
足場が跳ね、俺の膝がぐらついた。
こいつはバルクを倒そうとしているんじゃない。
俺たちの作業を止めようとしている。
誰を殺せばいいかではなく、何を止めれば逃げ道が消えるかを見ている。
「ライアン、まだか!」
「もう少しです。右上が浮いています!」
ゴンッ!
背後で、七号がさらに扉を叩いた。
今度は金具が弾ける音が混じった。
「ギシャアアアアアッ!」
濁った咆哮が、廃棄通路の奥から反響してくる。
距離が近い。
もう時間はほとんどない。
猟犬の空気が変わった。
黄金色の瞳が細くなる。
次の一撃で、ジャッキごと潰すつもりだ。
「真ん中。重いのが来る!」
ヒルダが叫んだ。
猟犬が格子の隙間から、槍のように腕を突き出す。
狙いはバルクの盾の中心。
受けた瞬間、押し切って、その奥のジャッキを壊す軌道だ。
「ふんっ!」
バルクが両足を踏みしめた。
ゴォンッ!
これまでで一番重い衝突音が響いた。
バルクの膝が沈む。足元の鉄板が嫌な音を立てて歪んだ。
だが、盾は抜かせない。
センチネル・クロウラー女王の素材で作られた大盾は、伊達じゃない。
だが、それを受け切るバルクもまた、伊達じゃなかった。
「今だ!」
俺はバールに全体重をかけた。
ライアンも油圧ジャッキのレバーを押し込む。
バキンッ!
錆びた蝶番のボルトが一本、弾け飛んだ。
続けて、もう一つ。
ギギギギッ、と鉄格子が片側だけ外側へ歪む。
完全には開かない。
だが、格子の右端が壁枠から浮き、外側へ斜めに押し出された。
猟犬が塞いでいる真正面ではない。
その脇に、人ひとりが身を滑り込ませられるだけの細い隙間が生まれた。
「開いた!」
その瞬間、猟犬のもう片方の腕が格子を掴んだ。
歪んだ鉄格子を、外側から押し戻そうとしている。
「ヒルダ!」
「今しかねえ。網、顔だ!」
俺はワイヤー入り防獣ネットを掴み、格子の隙間越しに猟犬の頭部へ投げつけた。
バサッ!
網が広がり、猟犬の視界を覆う。
だが、完全には絡まない。
鉤爪がすぐに網を裂き始める。
一秒。
いや、二秒もない。
「行け!」
* * *
ヒルダが最初に隙間を抜けた。
作業マットを排出口の縁に掛け、牽引用ロープを外側の錆びた支柱に回す。
「落差はあるが、下は廃棄物の山だ!受ける!」
外からヒルダの声が返る。
「子供たちから!」
セーラが兎耳の少女を抱え、猟犬の真正面を避けるように、右脇の隙間へ押し出す。
外側でヒルダが受け止めた。
続けて、リーネが狐耳の少年を支える。
「怖いなら、私の手を見て」
リーネの声は震えていた。
だが、少年は小さく頷き、その手を離さなかった。
「次、犬種の女!」
「支えてくれれば、行ける」
犬種の女は、痛む足を引きずりながらも自分で隙間へ向かった。
ライアンが肩を貸し、セーラが反対側を支える。
背後で、瓦礫が崩れる音がした。
七号の影が、通路の奥に見えた。
歪んだ扉の向こうから、太い腕が瓦礫を払いのけている。
「急げ!」
バルクが盾を構えたまま叫ぶ。
猟犬は網を裂き終えようとしている。
金属線が、ぷつぷつと切れる音がした。
「セーラ、リーネ、外へ!」
「ナオキは!?」
「すぐ行く!」
セーラは何か言いかけたが、唇を噛んで隙間を抜けた。
リーネもそれに続く。
ライアンが最後にロープを確かめてから外へ出た。
中に残ったのは、俺とバルクだけだった。
「バルク、行け!」
「お前が先だ」
「またそれか!」
「進め」
バルクは短く言い、盾で俺の背を押した。
抗う余裕はなかった。
俺は隙間へ身を滑り込ませる。
その瞬間、猟犬が網を引き裂いた。
黄金色の瞳が、真っすぐ俺を捉える。
鉤爪が伸びた。
「ナオキ!」
外からセーラの声がする。
俺はロープを掴もうと手を伸ばした。
右手の傷が焼けるように痛む。
爪が背中をかすめた。
服が裂け、熱い線が走る。
「ぐっ……!」
だが、次の瞬間、外側から誰かの手が俺の腕を掴んだ。
セーラだ。
ヒルダとライアンも一緒に引く。
俺は排出口から外へ転がり落ちた。
廃棄物の山が、嫌な音を立てて体を受け止める。
「バルク!」
俺が顔を上げた時、バルクはまだ内側にいた。
背後から七号の腕が迫る。
前からは、猟犬の鉤爪。
逃げ場は、ほとんどなかった。
「……ふんっ!」
バルクは盾を縦に構え、猟犬の鉤爪を受け流す。
そのまま盾の角度を変え、体を斜めにして隙間へ突っ込んだ。
前回のように引っかからない。
最初から、抜ける角度を決めていたのだ。
だが、七号の腕が背後から伸びる。
「バルク!」
七号の指先が、バルクの肩に触れかけた。
その寸前、猟犬がこちらへ伸ばした腕と、七号の腕が狭い排出口の内側で交差する。
ほんの一瞬、二体の進路がぶつかった。
戦っているわけではない。
ただ、同じ獲物へ伸びた腕が、同じ狭い出口で干渉しただけだ。
その一瞬を、バルクは逃さなかった。
「進め」
誰に向けた言葉か分からない。
だが、その声と同時に、バルクの巨体が外へ転がり出た。
黒い大盾が廃棄物の山に突き刺さり、鈍い音を立てる。
「全員、出たな!」
「ああ!」
ヒルダが答える。
出た。
俺たちは、確かに外へ出た。
* * *
外の風は、冷たかった。
汚水と腐臭にまみれた体に、その冷たさだけがやけに現実離れして感じられる。
だが、自由の風ではなかった。
ここは帝都外壁の下に広がる、廃棄物の集積場だった。
壊れた木箱。腐った布袋。錆びた鉄材。処分された台車。積み上げられた廃棄物の向こうには、高い外壁の影が黒くそびえている。
遠くで、松明の灯りが揺れた。
一つではない。
二つ、三つ。
巡回兵だ。
「……まだ帝都の管理内です」
ライアンが低く言った。
「外には出ました。ですが、ここはまだ外壁の影です。見つかれば、すぐに封鎖されます」
背後の排出口では、猟犬が裂けたネットを払いのけていた。
鉄格子の隙間から、黄金色の瞳がこちらを見る。
通路の奥では、七号の濁った咆哮が近づいている。
完全な安全など、どこにもなかった。
「動ける奴から、あの壁沿いの影へ」
ヒルダが短く言う。
「灯りがこっちを見る前に離れるぞ」
バルクが犬種の女を支え、リーネが狐耳の少年の手を握る。
セーラは兎耳の少女を抱き直し、俺の背中の傷を一瞬だけ見た。
「……あとで全部見るから」
「ああ」
「今度は逃げないでよ」
「逃げるなら、帝国からだけにする」
セーラは怒ったような顔をした。
だが、その目は泣きそうだった。
その時、壁際に埋め込まれた古い金属管から、かすれた声が漏れた。
『……そこまで出ましたか』
レナードの声だった。
たった一言。
だが、その声だけで、背中に冷たいものが走る。
俺は反射的に鑑定を向けようとした。
声の主。金属管。そこに繋がる何か。
だが、表示は浮かばなかった。
頭の奥に薄い膜を張られたような感覚だけが走り、文字になる前に情報が崩れる。
まただ。
レナードに関わるものだけ、鑑定が深く届かない。
「ナオキ?」
ライアンが俺を見る。
俺は首を振った。
「今はいい。走るぞ」
遠くの松明が、こちらへ向きを変える。
背後では、鉄格子が軋む音。
その奥から、七号の咆哮。
そして、黄金色の瞳。
外へは出た。
だが、帝国の闇は、まだ背中に爪をかけている。
俺は血の滲む右手を握りしめ、外壁沿いの暗い道を睨んだ。
ここから先は、もう檻の中じゃない。
なら、まだ逃げ道はある。
「走れ!」
ここまで読んでいただきありがとうございます!
少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークしてもらえると励みになります!
評価や応援コメントは、とても励みになっています。




