第128話 外の風
「……最悪だ」
ヒルダが吐き捨てるように言い、髪に絡みついた腐った藁くずを乱暴に払った。
俺も廃材の山から身を起こす。全身を打った鈍い痛みに顔を歪め、鼻を突く悪臭に咳き込んだ。
「全員、無事か!」
俺の声に、あちこちから苦しげな呻きが返る。
セーラの腕の中で兎耳の少女が震え、狐耳の少年はリーネの袖を固く握っている。足を庇いながら、犬種の女もゆっくりと体を起こした。
そんな中、バルクだけが既に大盾を構え、周囲を警戒していた。
「動けるか?」
「問題ない」
バルクは短く答えた。
庇っていた左腕はまだ微かに震えている。それでも、盾を支える姿勢は崩れていない。
「……風」
狐耳の少年が小さく呟いた。
その言葉に、俺たちは一斉に顔を上げる。
淀んだ腐臭の中に、確かに違う空気が混じっている。湿ってはいるが、淀んでいない。どこかから流れ込んでくる、外の空気だ。
「あっちだ」
ヒルダが通路の奥を指さす。
廃材の山の向こう、闇のさらに先に、糸のような光が漏れていた。
帝都の外周を照らす灯りか、あるいは月明かりか。
どちらにせよ、出口は近い。
希望が胸をよぎった瞬間、背後の斜路上部から重い金属音が響いた。
ゴンッ!
俺たちが塞いだ扉を、何かが叩いている。
「七号か」
ライアンの声が低くなる。
知性で追っているわけじゃない。
命令と暴走で、ただこちらへ迫ってくる失敗作。
だが、だからこそ止まらない。
「まだ時間は稼げそうだな」
「稼げても、戻る道はないってことよ」
セーラが吐き捨てる。彼女は俺の右手を見て、眉をひそめた。
廃材に突っ込んだ衝撃で包帯が緩み、血がまた滲んでいる。
「ナオキ、手。また開いてる」
「大したことない」
「言うと思った」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
セーラは俺の返事を待たず、包帯を締め直す。
治療に時間を使っている余裕はない。だが、この先の床が濡れているなら、素手と普通の靴で進む方が危ない。
俺はマリエクを起動した。
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派手な道具じゃない。戦える武器でもない。
だが、汚水と錆びた金具だらけの通路を、負傷者を連れて進むには必要なものだ。
「これを使え。足元を滑らせたら終わりだ。手袋もつけろ。錆びた鉄で手を切るな」
「……あんたって人は」
セーラは呆れたように息を吐きつつ、俺の分を真っ先に押しつけてきた。
「自分の分を後回しにしようとしたでしょ」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
言い返せなかった。
俺は黙って手袋を受け取り、血の滲む右手にゆっくり通した。
「戻ったら、本当に説教だから」
「ああ。全部聞く」
「軽い」
「今はこれが精一杯だ」
セーラは一瞬だけ目を伏せ、それ以上は何も言わなかった。
ライアンがすぐに状況を理解し、子供たちと犬種の女に合うものを選んで渡していく。
犬種の女は、戸惑いながらも受け取った。
「……すまない」
「礼は、ここを出てからでいい」
俺は短く返し、光が漏れる通路の奥へ目を向けた。
* * *
「行くぞ。長居は無用だ」
ヒルダを先頭に、俺たちは再び動き出した。
彼女の読み通り、通路はひどい状態だった。床はぬかるみ、壁からは絶えず水が染み出している。普通の靴では、一歩進むごとに足を取られていただろう。
長靴カバーの滑り止めが、ぬめる床をかろうじて捉えてくれる。
ゴン……ゴン……!
背後からは、定期的に七号が扉を叩く音が響く。
それはもはや恐怖というより、戻れないという事実を突きつける杭打ちのようだった。
「ライアン、出口まであとどれくらいだ」
「この通路の構造が古い資料通りなら、あと五十メートルほどで開けた場所に出るはずです。そこが、おそらく廃棄物の最終集積所兼、搬出口です」
「警備は?」
「正規の搬出門よりは手薄なはずです。ですが、ゼロとは考えない方がいい」
ライアンの冷静な分析が、浮つきかけた希望を現実に引き戻す。
ぬかるみで足を取られそうになった狐耳の少年を、リーネがとっさに支えた。彼女自身もふらついているが、その目は前を向いている。
犬種の女は、まだ痛む足を引きずりながらも、壁を伝って自力で歩いていた。バルクが差し出した肩を一度だけ見て、静かに首を振る。
「……まだ、歩ける」
「無理はするな」
「分かっている。だが、今はこれが一番速い」
彼女の目には、諦めではない、強い意志が宿っていた。
全員の疲労は限界に近い。だが、出口という目標が、かろうじて足を前に出させていた。
「……止まれ」
先頭を歩いていたヒルダが、低く声を上げた。
彼女は壁に手をつき、通路の奥から流れてくる空気を確かめるように息を浅く吸った。
「どうした」
「空気が変わった」
ヒルダは慎重に言葉を選ぶ。
「腐臭と汚水の奥に、鉄錆と油の匂いがある。それと……生臭い。古い血じゃない」
セーラの腕の中で、兎耳の少女がびくりと体を震わせた。
「血……?」
「多い。少なくとも、一人や二人じゃない」
通路の空気が、一段重くなった。
背後から響く打撃音は変わらない。
だが、前方の光が、さっきまでとは違う意味を持ち始めていた。
バルクが音もなく前に出て、大盾を構え直す。
ライアンは壁の配管跡と、記憶の中の地図を照合するように眉を寄せた。
「……この先だ」
ヒルダは短く言い、再び歩き出す。
だが、その歩みはさっきよりもずっと慎重だった。
光は、もうすぐそこに見えている。
* * *
やがて、狭い通路は終わりを告げた。
俺たちは、少しだけ開けた空間に出る。天井は高く、壁際には錆びついた箱や、壊れた台車が山と積まれていた。
そして、その奥。
俺たちの正面に、外へと続く出口が見えた。
大きな扉ではない。
壁の上部に設置された、鉄格子のはまった四角い排出口だ。ここから廃棄物を外の集積場へ落としていたのだろう。
鉄格子の隙間から、ひときわ強く、冷たい夜の空気が流れ込んでいる。
「……出口」
誰かが、かすれた声で呟いた。
その言葉に、全員の肩から力が抜けかける。
「出られる……の?」
セーラの声が、わずかに震えた。
リーネに支えられた狐耳の少年も、排出口の光を見つめている。
排出口までは、錆びた鉄製の足場が続いていた。幅は狭いが、一人ずつなら渡れそうだ。
「急ぐぞ。ここを抜ければ……」
俺がそう言いかけた、その時だった。
「待て」
ヒルダが、俺の前に腕を伸ばして制止した。
彼女は排出口の鉄格子を、鋭い目つきで睨みつけている。
「どうした。早くしないと追いつかれる」
「静かすぎる」
「は?」
「外が、静かすぎるんだよ」
ヒルダの言葉に、俺は耳を澄ませた。
風の音は聞こえる。
だが、それだけだ。
帝都の外周だ。遠くの巡回、外堀の水音、虫の声。
何かしら聞こえてきてもいいはずなのに、外から届くのは風だけだった。
背筋が冷える。
後方から、ゴン、と鈍い音が響いた。
七号は、まだ諦めていない。
だが、本当の脅威は後ろだけではなかった。
ヒルダがゆっくりと後ずさり、俺たちに目配せする。
声には出さない。
だが、その目が告げていた。
いる。
* * *
排出口の鉄格子の向こう。
その闇の中に、二つの黄金色の光が浮かび上がった。
俺は息を呑んだ。
それは目だった。
風の音に紛れ、気配を殺して、ただそこに立っていた。
先回りしていたのだ。
俺たちがこの出口にたどり着くことを、正確に読んで。
コツ。
鉄格子の向こう側で、硬い床を踏む音がした。
影が、ゆっくりと光の中に姿を現す。
狼種獣人の形を残した、二足の狩猟兵器。
完成検体一号――『猟犬』。
猟犬は、鉄格子の隙間から、俺たちを順番に見ていた。
セーラに抱かれた兎耳の少女。
リーネに支えられた狐耳の少年。
壁際で息を殺す、犬種の女。
大盾を構えるバルク。
そして、俺。
その黄金色の瞳には、何の感情も浮かんでいない。
怒りも、憎しみもない。
ただ、逃走経路と人数と負傷者を、冷静に確認しているだけだった。
ゴンッ!
背後の通路から、ひときわ大きな破壊音が響いた。
続けて、金具が弾ける嫌な音。
歪んだ扉が、限界に近づいている。
七号の濁った咆哮が、通路の奥から反響してきた。
「ギシャアアアアアアッ!」
前方には、知性を持って待ち構える一号。
後方には、破壊の衝動だけで迫る七号。
唯一の出口は、猟犬によって塞がれていた。
「……下がれ」
バルクが低く言い、大盾を前に出す。
だが、下がったところで、後ろからは七号が来る。
俺は血の滲む右手を握りしめた。
ここを抜けなければ、外には出られない。
そして、ここを抜けるには――あいつの横を通るしかない。
その時、猟犬が動いた。
吠えない。
唸らない。
威嚇もしない。
ただ、静かに体を低く沈める。
獣が獲物に飛びかかる、その直前の姿勢。
黒い腕具から伸びた鋭い鉤爪が、夜の空気を反射して、鈍く光った。
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