第126話 旧南部搬送路
ゴンッ!という鈍い衝撃音と共に、足元の床がわずかに震えた。
背後で、分厚い鉄蓋がもう一度大きく歪んだのだ。
俺たちは振り返ることなく、狭い保守通路の奥へ数歩下がった。
あの蓋一枚で猟犬を止められるとは思えない。今は、ほんのわずかに距離を取れただけだ。
「……早く離れるぞ」
バルクが低く言った。
黒い大盾を背負い直しながら、左腕を庇うように押さえている。盾は傷一つない。だが、受け止めた本人の腕は小さく震えていた。
「ナオキ、手!」
セーラが俺の右手を見て、顔色を変えた。
ロープを握りしめた手のひらは、皮が裂け、血が滲んでいる。さっき巻いた布も、すでに赤く染まり始めていた。
「あとでいい。動ける」
そう言ったが、指を動かすだけで焼けるように痛む。
かすり傷だ、と自分に言い聞かせるには、少し無理があった。
「よくない。こんな汚い場所で、傷をそのままにする気?」
セーラは俺の返事を待たず、手首を掴んだ。
悠長に手当てをしている時間などない。だが、ここで傷口を汚したまま進むのも危ない。
「ヒールで塞げないのか?」
俺が聞くと、セーラは傷口を見たまま首を横に振った。
「浅い傷なら塞げる。でも、汚れたまま塞いだら駄目。先に洗って、拭いて、それから」
「……なるほどな」
「分かったなら、早く出して」
そう言われ、俺は奥歯を噛みしめてマリエクを起動した。
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手元に、赤いポーチが現れる。
俺はそれをセーラに渡した。
「これを使え」
「……本当に、便利すぎるのも怖いわね」
セーラは短く言い、すぐに中身を取り出した。
消毒液を含ませたガーゼが傷に触れる。
「っ……!」
思わず声が漏れた。
「我慢して。ロープの繊維が残ってるかもしれない」
セーラの手つきは丁寧だった。
慣れているわけではない。けれど、雑ではない。焦りを押し殺しながら、必要なことだけを素早く済ませていく。
汚れを拭い終えると、セーラは俺の手にそっと手をかざした。
「ヒール」
淡い光が、裂けた手のひらを包む。
痛みが少しだけ遠のいた。完全に塞がったわけではない。指を動かせば、まだじくりと痛む。
それでも、ロープを握れないほどではなくなった。
「これで少しは動かせるはず。でも、無理したらまた開くからね」
「助かる」
「分かってない顔してる」
セーラが睨む。
俺は返事の代わりに、小さく息を吐いた。
キィ……、ガリッ……。
背後の鉄蓋から、不気味な音が響いた。
力任せに叩く音ではない。金属の継ぎ目を、硬い爪で探るような音だった。
「……あいつ、開け方を探してやがる」
ヒルダの声が掠れた。
セーラの腕の中で、兎耳の少女がびくりと震える。
リーネが、少女の背中をそっと撫でた。
「大丈夫……まだ、下にいる」
言っているリーネ自身の顔も青い。
それでも、狐耳の少年が彼女の袖を握っているせいか、彼女は必死に前を向こうとしていた。
「バルク、腕を見せろ」
俺が言うと、バルクは黙って左腕を差し出した。
服をめくると、腕の内側が赤黒く腫れている。骨が折れている様子はないが、盾越しに受けた衝撃が相当な負担になっていたのは間違いない。
「ひどい打撲だよ。よくこれで盾を持ってたね」
「動く」
「答えになってない」
セーラはそう言いながら、湿布を貼り、包帯でバルクの腕を手早く固定した。
それから、腫れた腕にもう一度手をかざす。
「ヒール」
淡い光が、赤黒く腫れた腕を包んだ。
だが、腫れは少し引いただけだった。痺れまでは消せていないのか、バルクの指先はまだわずかに震えている。
「ごめん。痛みは少し引いたと思う。でも、これ以上は無理」
「十分だ」
バルクは短く答えた。
犬種の若い女の足にも、簡単にテーピングを巻く。
セーラはそこにも軽くヒールをかけたが、歩ける程度に痛みを抑えるのが限界だった。本格的な治療ではない。今は、逃げるための応急処置だ。
その間も、キィ、キィ、という音は続いている。
時間を削られている。
そう感じるだけで、息が詰まりそうだった。
「……この匂い……」
壁際でアルミブランケットに包まっていた犬種の若い女が、ふと顔を上げた。
リーネも同じように、通路の奥を見つめる。
「……やっぱり、そうだ」
リーネは震える指で、暗い搬送路の奥を指した。
「檻を運ぶ台車の油の匂い……錆びた鉄と、古い木と……それに、消毒薬みたいな嫌な匂い。いつも、この匂いがした後に……誰かが連れていかれた」
そこまで言うと、リーネは唇を噛んだ。
ライアンがヘッドライトの光を床へ向ける。
石の床には、古い台車の轍が二本、闇の奥へ続いていた。壁際には削れた木片と、錆びた鎖の一部。ところどころに、爪で引っかいたような細い傷も残っている。
「古い資料では、この搬送路は半世紀以上前に閉鎖されたことになっています」
ライアンの声が低くなる。
「ですが、この轍と痕跡を見る限り、完全に放棄された場所ではありません。リーネさんの記憶が正しければ……ここは、獣人奴隷を帝都へ運ぶ裏道として、今も使われている可能性があります」
誰もすぐには答えなかった。
出口だと思った場所は、ただの逃げ道ではなかった。
俺たちは、帝国の闇から抜け出したのではない。その奥に残されていた、もっと古い道に足を踏み入れてしまっただけだ。
* * *
キィ……という金属を削る音は、まだ続いていた。
だが、ここに留まっていれば、いずれ蓋は開く。
「行くぞ。このままじゃ追いつかれる」
俺の言葉に、仲間たちが頷いた。
先頭はヒルダ。
その少し後ろをライアンが進み、壁や床の痕跡を見ながら道を読む。犬種の若い女にはバルクが右肩を貸し、狐耳の少年はリーネの袖を握ったまま歩く。兎耳の少女は、セーラの腕に抱かれていた。
搬送路は、思っていたより広い。
中央には台車を通すための古いレール跡があり、壁際には細い点検通路が続いている。石壁の一部だけが新しく積み直されていて、完全に忘れられた廃道ではないことが分かった。
「ここ、最近も手が入ってるな」
ヒルダが低く言った。
「埃の積もり方が変だ。誰かが定期的に通ってる」
「保守区画ということは、いずれ本線に合流するはずです」
ライアンが頷く。
「搬送路の規模から考えて、地上へ荷を出すための搬出門もあるはずです。ただし、出口に近づくほど、人の管理も濃くなる」
「外が近いほど危ないってことか」
「はい。楽には出られません」
その時、ヒルダが足を止めた。
床に膝をつき、指で埃の上をなぞる。
「台車の轍だけじゃない。足跡がある」
「帝国兵か?」
「たぶんな。複数。古いのに混じって、新しいのがある。数日以内だ」
空気が一段重くなった。
この道は、誰にも知られていない抜け道ではない。帝国側にとっては、今も管理下にある道なのだ。
その時、背後から響いていた音が、急に止まった。
キィ、という金属音も。
遠くで聞こえていた七号の濁った咆哮も。
何もかもが、すっと消えた。
音がある時よりも、その静けさの方がずっと怖かった。
「……止まった?」
セーラが小さく呟く。
その直後、壁際の古い金属管から、冷たい声が流れた。
『……南の搬送路へ出ましたか』
レナードの声だった。
『そこを使う者は、今も限られています』
「……!」
『猟犬には、別経路を取らせました』
声はそこで途切れた。
ヒルダが舌打ちする。
「回り込む気か」
「それだけじゃない」
ライアンの顔が険しくなる。
「この先のどこかで、我々を挟むつもりです」
「ライアン、この通路の構造は分かるか!」
「完全ではありません。ですが、この先に分岐があるはずです。旧南部搬送路なら、搬出門へ向かう道と、資材搬入口へ向かう道が分かれているはずです」
俺たちは足を速めた。
救出した三人を抱え、怪我人を抱え、猟犬に追われながら進むには、全員の体力が削れすぎている。
それでも、止まるわけにはいかない。
やがて、前方に二手に分かれた分岐路が見えた。
壁には、埃をかぶった古い案内板がかかっている。
← 資材搬入口
→ 南部搬出門
「南部搬出門……」
ライアンの声がわずかに明るくなった。
「こちらが地上に近いはずです」
その一言で、全員の顔に一瞬だけ希望が浮かぶ。
だが、その希望はすぐに薄れた。
南部搬出門と示された通路の奥から、複数の灯りが揺れている。
かすかに人の話し声も聞こえた。
鎧の擦れる音。規則的なブーツの音。
「……帝国兵だ」
俺は即座に手を上げ、全員を壁際の影へ押し込んだ。
少なくとも五、六人。巡回か、搬出門の警備か。どちらにせよ、正面からぶつかれば救出した三人を守り切れない。
バルクが無言で前に出ようとする。
大盾を構え、体で通路を塞ぐつもりなのだろう。
「待て」
俺はその肩を掴んだ。
「今はまだ正面から当たる場面じゃない。お前の盾は、最後まで取っておく」
「……」
バルクは短く息を吐き、半歩だけ下がった。
不満は言わない。ただ、盾だけはすぐ構えられる位置に残している。
兵士たちの灯りは、少しずつこちらから遠ざかっている。
巡回なら、隙はある。
'今なら抜けられるかもしれない'
そう思った、その時だった。
コツ……。
石畳を踏む音がした。
コツ……、コツ……。
前でも、後ろでもない。
分岐の左側。「資材搬入口」と書かれた通路の奥からだ。
それは、巡回兵の気の抜けた足音ではなかった。
揃いすぎている。
こちらに向かってくることを隠そうともしていない、冷たい軍靴の音だった。
「……罠です」
ライアンが、低く呟いた。
「搬出門へ向かわせ、前方で止める。逃げ道として残した資材搬入口側から、別働隊で塞ぐつもりだったのかもしれません」
背後には、音を消した猟犬。
前方には、南部搬出門を巡回する帝国兵。
そして側面からは、こちらへ向かってくる別働隊。
出口は近い。
だが、その出口こそが、もっとも厳重に塞がれていた。
俺は奥歯を噛みしめた。
逃げ場は、まだ完全には消えていない。
だが、次に選ぶ一歩を間違えれば、全員がここで終わる。
その時、狐耳の少年が俺の袖を引いた。
「……あっち」
少年が震える指で、案内板の下を指す。
埃と煤で黒ずんだ板の端に、まだ文字が隠れていた。
俺はヘッドライトの光を向け、袖で乱暴に埃を拭った。
古びた案内板の下段に、かすれた三つ目の表示が浮かび上がる。
↓ 廃棄搬入口
ライアンが息を呑む。
「……廃棄物を搬出するための下層口です。正規の搬出門ではありません。狭く、危険で、管理記録にも残りにくい」
「つまり、兵士も少ない可能性があるってことか」
「可能性はあります。ですが、まともな道ではないはずです」
まともな道。
そんなものは、とっくになかった。
前方からは兵の灯り。
左からは別働隊の足音。
背後のどこかでは、猟犬が音もなく道を選んでいる。
俺は案内板の三つ目の文字を睨み、マリエクの検索窓を開いた。
もう、なりふり構っている場合じゃない。
次に買うものが、全員の生死を分ける。
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