第125話 袋小路のその先に
パキンッ。
三本目のラチェットベルトが断ち切れる音が、通路の奥から響いた。
続いて、鉄格子が嫌な音を立てて軋む。
あと一本。
あれが切れれば、格子扉はもう扉ではなくなる。
俺は錆びた梯子と、背後の闇を交互に見た。
梯子は細く、古い。大人が一人ずつ登るのがやっとだ。救出した獣人は三人。兎耳の少女、狐耳の少年、そして足を痛めた犬種の若い女。自力で素早く登れる状態ではない。
全員が上がるには、どう考えても時間が足りない。
'誰かが下で止めるしかないのか'
その考えが頭をよぎった瞬間、バルクが何も言わずに一歩前へ出た。
黒い大盾を床に叩きつけるように構え、縦坑の入口を背にする。
「上げろ」
低い声だった。
「子供たちを先に上げろ。ここは、俺が塞ぐ」
「バルク!」
「俺は速く走れん。だが、止めることならできる」
自分を捨てる声ではない。
仲間を通すために、己の役目を選んだ声だった。
ヒルダが歯を食いしばる。
「置いていく、なんて言ったら、ぶん殴るぞ」
「置いていけとは言っていない。急げと言っている」
俺は奥歯を噛みしめ、迷いを切り捨てた。
バルクが自分の役目を選んだなら、その時間を絶対に無駄にしない。
「分かった!全員で上がるぞ。誰も置いていかない!」
俺は即座にマリエクを起動した。
'救助用具。ロープ、ハーネス、引き上げに使えるやつ!'
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手元に、ロープと金具の束が現れる。
武器ではない。だが今、この場ではどんな剣より必要なものだった。
「ライアン、固定できるか!」
「梯子ではなく、上の横梁に固定します!あそこなら荷重に耐えられるはずです!」
「ヒルダ、先に登れ!上の安全確認とロープ固定!」
「分かった!全員上げるぞ!」
ヒルダは錆びた梯子に飛びついた。
足場の錆を見切り、壊れそうな段を避けながら上へ駆け上がっていく。
パキンッ!
四本目のベルトが切れた。
次の瞬間、格子扉が大きくひしゃげる。
濁った咆哮。
七号だ。
その奥から、乱れのない足音が重なる。
コツ……コツ……。
猟犬が来る。
狼種獣人の形をしたそれは、二足で立っているのに、肩と膝だけが獣のように低く沈んでいた。吠えもしない。ただ、獲物へ最短で届く姿勢だけを取っている。
「急げ!」
俺が叫ぶと同時に、バルクが大盾を構え直した。
「来い」
その一言の直後、格子扉が破られた。
* * *
「上は狭い!でも通れる!」
縦坑の上からヒルダの声が落ちてきた。
「外じゃねえ!だが空気は流れてる!先に上げろ!」
上から、横梁に通されたロープが降りてくる。
ライアンは即座にそれを受け取り、結び目とカラビナを確認した。
「兎耳の子が先です!一番軽い!セーラさん、ハーネスを!」
「分かった!」
セーラは震える兎耳の少女の肩を抱き、目線を合わせた。
「大丈夫。目を閉じてて。絶対に落とさないから」
少女は声も出せず、ただ小さく頷いた。
簡易ハーネスを体に通し、カラビナをかける。ライアンが結び目を確認し、俺とセーラでロープを握った。
「引きます!」
ロープが軋み、少女の体がふわりと浮いた。
ヒルダが上から引き、俺たちが下から支える。錆びた梯子を一段ずつ登らせるより、はるかに速い。
ゴッ!
背後で重い衝撃が響いた。
猟犬の鉤爪が、バルクの盾を叩いた音だ。
盾は傷つかない。
だが、バルクの足が床を削った。石の床に溝が刻まれ、彼の肩がわずかに沈む。
「続けろ!」
少女が上へ引き上げられた。ヒルダが受け取り、すぐにロープを投げ返す。
次は狐耳の少年だった。
少年は震えたまま、リーネの袖を握っている。
リーネの顔も青ざめていた。
それでも、彼女は少年の手を両手で包み込む。
「大丈夫……上に行けば、ここより息ができる」
「……ほんと?」
「うん。手、離さないで。あたしも、離さないから」
声は震えていた。
でも、その震えた声だからこそ、少年には届いたのかもしれない。
少年は小さく頷き、ハーネスを受け入れた。
ゴッ、ガンッ、ゴオオンッ!
一撃ごとに、盾ではなく、受け止めるバルクの腕と膝へ負担が積み重なっていく。
その背後で、七号が涎を散らしながら突っ込んできた。
「ギシャアアアア!」
七号の巨腕が、猟犬の背後から振り下ろされる。
だが猟犬は振り返りもしない。最小限の動きで避け、七号の腕は壁を砕いた。
猟犬の黄金色の瞳が、少し上を向く。
猟犬が見ているのは、縦坑と梯子。そして、上へ引き上げられていく子供たちだった。
「まずい!逃げ道を狙ってる!」
俺が叫んだ瞬間、猟犬が壁を蹴った。
バルクの脇を抜け、梯子の根元へ跳ぶ。
「させん!」
バルクが盾を横へ振る。
猟犬は盾の縁に鉤爪をかけ、弾かれる力すら利用して、軌道を上へ変えた。
「アイスバインド!」
俺は反射的に氷魔法を叩きつけた。
倒す魔法ではない。
一秒でいい。二秒でもいい。今は、少しでも時間が欲しい。
猟犬の着地点に白い霜が走る。
鉤爪が錆びた梯子に届く寸前、猟犬の足がわずかに滑った。
ギャリィッ!
爪が梯子の下段をかすめ、錆びた鉄が嫌な音を立てて歪む。
完全には折れない。
だが、下から三段目は裂け、もう人が体重をかけられる状態ではなくなった。
「梯子が!」
上のヒルダが怒鳴る。
「ロープで上げるしかねえ!急げ!」
狐耳の少年が上がった。
次は犬種の若い女だ。
彼女は片脚を庇いながら、悔しそうに唇を噛んだ。
「……あたしは最後でいい。足が邪魔になる」
ヒルダの声が上から飛ぶ。
「邪魔かどうかは、助ける側が決める。黙って掴まれ!」
犬種の女の目がわずかに揺れた。
それでも彼女は黙ってハーネスを掴む。
俺たちは、滑車を通した反対側のロープを引いた。
負傷した大人一人分の重さが、ロープ越しに手のひらへ食い込む。横梁の金具が軋み、犬種の女の体が少しずつ持ち上がっていく。
「もっと引いて下さい!」
ライアンが叫ぶ。
俺、セーラ、リーネは必死にロープを引いた。上ではヒルダが犬種の女を受け止めようと、身を乗り出している。
バルクの盾に、猟犬の爪が再び叩き込まれた。
衝撃で、バルクの膝が一瞬落ちる。
「まだ、立っている!」
返ってきた声は荒かった。
左腕が痺れているのか、盾の角度がわずかに遅れる。
それでも彼は下がらない。
犬種の女が上へ引き上げられた。
ヒルダが受け止め、すぐに声を落とす。
「次!セーラ!」
セーラはハーネスを付けられながら、俺を睨んだ。
「ナオキ、絶対に下で死なないでよ!説教の予約、まだ終わってないんだから!」
「生きて戻ったら、まとめて聞いてやるよ!」
俺とライアン、リーネでロープを引き、セーラを上げる。
上に回ったセーラは、すぐにロープを握った。
「次、リーネ!」
リーネは一瞬だけ、縦坑の下を見た。
バルクの盾に、猟犬の爪がまた叩き込まれる。
ゴオンッ!
「見るな!早く上がれ!」
ヒルダの怒鳴り声が落ちてくる。
リーネは唇を噛み、ハーネスを受け入れた。
ヒルダとセーラが上から引き、俺とライアンが下から支える。リーネの体が縦坑の上へ消えた。
下に残ったのは、俺とライアンとバルクだけ。
「ライアン、次だ!」
「ナオキさんが先です!」
「上で引く人数が要る。行け!」
ライアンは一瞬だけ迷い、それでも頷いた。
ハーネスを体に通し、カラビナをかける。
「上に着いたら、すぐ引け!」
「分かりました!」
ライアンが上がる。
これで、下に残ったのは俺とバルクだけになった。
「バルク、次だ!」
「最後でいい……」
「お前を最後にするわけには――」
「行け……」
短い言葉だった。
だが、それ以上の反論を許さない重さがあった。
猟犬の爪が、再び盾に叩き込まれる。
衝撃でバルクの膝が沈む。それでも、黒い盾は縦坑の入口を塞いだまま動かない。
「行け」
バルクはそれだけ言った。
「くっ!」
俺はバルクの覚悟と、己の無力さと悔しさを感じ、奥歯を噛みしめ、ハーネスを体に通した。
上から落ちてきたロープにカラビナをかける。
「引き上げろ!」
体が宙へ浮く。
その直後、猟犬が跳んだ。
鋭い鉤爪が、俺の足元をかすめた。
次の瞬間、腰に回したハーネスの補助ベルトが、一本、音もなく裂ける。
「っ……!」
体が一瞬、縦坑の中で沈んだ。
ロープが軋み、上からセーラの悲鳴が落ちてくる。
あと数センチ。
あと一瞬遅ければ、俺は引き上げられる前に、あの爪に引き戻されていた。
「ふんっ!」
バルクが盾を押し込む。
猟犬の爪が盾に弾かれ、縦坑の壁を削った。
俺はロープにしがみつく。
手のひらに焼けるような痛みが走った。体重を支えるロープが皮膚に食い込み、裂けたところから血が滲む。
痛い。
だが、離せば終わりだ。
「ナオキ!もう少し!」
俺の体が縦坑の縁に引き上げられた。
床に転がりながら、俺はすぐに身を起こす。
「バルクを!」
下では、バルクが一人で盾を構えていた。
猟犬が低く身を沈める。
七号の濁った咆哮が、その背後で響いている。
バルクは一歩も下がらない。
黒い盾を構えたまま、最後に残った男として縦坑の下に立っている。
「バルク!」
「引け」
バルクは短く言い、片手でハーネスを体に通した。
完全ではない。だが、迷っている時間はない。
俺たちは全員でロープを掴んだ。
ヒルダ、セーラ、ライアン、リーネ、そして俺。全員で、滑車を通したロープを引く。
バルクの巨体が、ゆっくりと浮いた。
重い。大盾まで抱えているのだから、普通の大人一人分どころではない。
横梁がミシミシと鳴り、ロープの繊維が悲鳴を上げる。
猟犬の瞳が、宙に浮いたバルクではなく、ロープを捉えた。
「ロープを狙ってる!」
俺が叫んだ瞬間、猟犬が壁を蹴った。
鉤爪が、張り詰めたロープへ伸びる。
「引け」
バルクが低く言った。
吊られたまま、バルクが体を捻る。
黒い大盾が、ロープと猟犬の間に割り込んだ。
ガギンッ!
猟犬の爪が、盾の縁を叩く。
衝撃でバルクの巨体が縦坑の中で大きく揺れ、ロープが悲鳴のように軋んだ。
「ふんっ!」
バルクは盾を押し返す。
言葉はそれだけだった。
だが、その背中が言っていた。
ここは、まだ通さない。
俺たちは全員でロープを引いた。
手の皮が裂けそうになる。それでも、誰一人として力を緩めなかった。
猟犬が、もう一度跳ぶ。
だがその爪がロープに届く前に、バルクの体が縦坑の縁を越えた。
「今だ!」
俺とライアンがバルクの腕を掴む。
ヒルダとセーラがロープを引き切る。リーネも、震える手で必死にロープにしがみついていた。
バルクの巨体が、床へ転がり込む。
その直後、ヒルダとライアンが重い鉄蓋を閉め、古い閂を落とす。
ガチャン。
金属音が、狭い保守通路に響いた。
それは一瞬だけ、助かったのだと思わせる音だった。
だが次の瞬間、下から何かが鉄蓋を叩いた。
ゴンッ。
鉄蓋が歪む。
全員が息を呑んだ。
続いて、金属を引っかくような音がした。
力任せに壊そうとしている音ではない。
継ぎ目を探している音だった。
「……あいつ、開け方を探してやがる」
ヒルダの声が、わずかに掠れた。
下では七号の濁った咆哮も響いている。
狭い縦坑の中で暴れる七号が、猟犬の動きまで塞いでいるのだろう。
それでも、猟犬は止まっていない。
ただ叩いているのではない。
次に壊す場所を、選んでいる。
「……早く離れるぞ」
バルクが低く言った。
左腕を押さえている。盾は傷一つないが、受け止めた本人の腕は小さく震えていた。
セーラが俺の右手を見て、顔色を変える。
「ナオキ、手!」
「あとでいい。動ける」
「よくない。でも、今は縛るだけ」
セーラは自分の布を裂き、俺の手のひらに巻いた。
きつく縛られ、痛みで息が詰まる。
救出した三人は、通路の壁際でアルミブランケットに包まれていた。
兎耳の少女はまだ震えている。狐耳の少年はリーネの袖を握ったまま離さない。犬種の女は痛む足を押さえながらも、周囲を警戒している。
完全に助かったわけではない。
ただ、下から上へ移っただけだ。
狭い保守通路の奥から、冷たい風が流れてくる。
鉄と油。
古い木材。
そして、どこか獣臭い、湿った空気。
リーネが、ふと顔を上げた。
「……この匂い……」
彼女は震える指で、保守通路の奥を指した。
「……あたしが運ばれた時……檻の中で、何度も嗅いだ匂い……」
セーラが息を呑んだ。
俺には、鉄と油と古い木材の臭いにしか分からない。
だが、リーネの顔から血の気が引いていくのを見れば、それがただの通路の臭いではないことだけは分かった。
ライアンがヘッドライトの光を壁へ向ける。
ひび割れた石壁に、古びた文字が残っていた。
旧南部搬送路 保守区画
「……旧南部搬送路」
ライアンの声が低く沈む。
「帝国南部と帝都を繋ぐ、古い物資搬送路です。表向きは、ですが」
そこで言葉が止まった。
その先を、誰も聞き返せなかった。
リーネの震える指が、もう答えを示していたからだ。
背後で、鉄蓋がもう一度大きく歪んだ。
ゴンッ。
猟犬は下にいる。
七号も、まだ止まっていない。
そして前には、かつて檻を積んだ台車が通ったかもしれない、暗い搬送路が続いている。
出口だと思った場所は、自由への道ではなかった。
俺たちはただ、帝国の闇の一層下から、さらに古い闇の入口へ移っただけだった。
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