第123話 決断の先
「……たすけて……」
鉄扉の向こうから聞こえたか細い声が、俺の足を縫い付けた。
左は「搬出口」。
右は「被検体収容区画」。
二つのプレートが、俺に冷酷な選択を突きつける。
頭の中では、答えはとっくに出ていた。左だ。生き残るためには、左の扉へ進むしかない。それが合理的で、今この場の正解だ。
ガンッ! ギャリリッ!
背後でバルクが押さえる扉を、七号がこじ開けようと暴れている。金属が削れる不快な音と衝撃が、俺の決断を執拗に急かしてくる。
「ナオキ、どうするんだ! もう時間がない!」
ヒルダが叫ぶ。彼女の視線は、明らかに左の「搬出口」を向いていた。
「ナオキさん! 生存者の救出は重要です。ですが、我々が全滅しては意味がない! 今は撤退を!」
ライアンの声も、冷静だが焦りを隠しきれていない。彼の言う通りだ。ここで全滅すれば、この地下で行われている非道も、レナードの悪意も、何もかもが闇に葬られる。
分かっている。頭では、痛いほど分かっているんだ。
俺は右の扉に視線を向けた。
扉の向こうには、まだ声の主がいる。俺たちと同じように、この地獄から出たいと願っている誰かが。
セーラに支えられたリーネも、同じように右の扉を見ていた。イヤーマフのせいで、俺たちの会話はほとんど届いていないはずだ。それでも、彼女は扉の向こうにいる誰かの気配だけは感じ取っているのか、震えながらも目を逸らさなかった。
'ここで見捨てたら……'
かつて、俺は見捨てられる側だった。
誰も手を伸ばしてくれなかった時の冷たさを、まだ覚えている。
だが、今は違う。
俺の背後には、俺を信じてここまでついてきてくれた仲間がいる。そして、目の前には、助けを求める声がある。
この声を聞かなかったことにして、俺は本当に、この先胸を張って生きていけるのか?
「……ここで見捨てたら、俺は一生自分を許せないだろうな」
ぽつりと、自分でも驚くほど静かな声が漏れた。
「……は? ナオキ、お前まさか……」
ヒルダが、信じられないといった目で俺を見る。
俺は仲間たちを振り返った。
「悪い。俺のわがままだ」
俺はそう言うと、右の扉――「被検体収容区画」へと、一歩を踏み出した。
「正気かよ、あんた!」
「合理的判断ではありません! 罠の可能性も……!」
ヒルダとライアンが同時に声を上げる。だが、俺は止まらなかった。
「罠だろうが何だろうが、関係ねえ。聞こえちまったんだ。
聞こえちまった以上、見捨てるなんて選択肢は、もう俺の中にはねえんだよ」
俺は振り返らずに言った。
「ここを切り抜けたら、文句でも何でも聞いてやる。だから今は、俺のわがままに付き合ってくれ」
数秒の沈黙。
やがて、セーラがリーネを支えながら、俺の隣に並んだ。
「……分かった。私も、右に行きたい。リーネも、きっと同じ気持ちだから」
「セーラ……」
「ったく、しょうがねえな! 生きて戻ったら、真っ先に説教してやるからな!」
ヒルダも悪態をつきながら、短剣を握り直す。その目には、呆れと、ほんの少しの覚悟が宿っていた。
「……まったく。ですが、決断された以上、最善を尽くすまでです」
ライアンも深いため息と共に、扉の構造を見上げた。
「バルク! こっちの扉を開ける! それまで後ろを頼む!」
「承知した!」
盾の向こうから、バルクの力強い声が返ってきた。
俺は右の扉の前に立ち、アイテムボックスから再びタキタのディスクグラインダーを取り出す。
「さあ、第二ラウンドだ」
* * *
「分厚いな、この扉も……!」
俺は扉のロック部分にグラインダーの刃を押し当てた。
ギャリリリリリリッ!
焼けた鉄の臭いが立ち込める中、甲高い金属音と共に、オレンジ色の火花が暗い通路に激しく飛び散る。
「バルク、あとどれくらい持つ!?」
「時間の問題だ! 扉が歪んで、もう長くは……ぐっ!」
ガンッ! と、扉が大きく歪む音が響き、通路全体が震えた。
バルクの大盾はびくともしない。だが、その衝撃を受け止めたバルクの足元が、床を削るようにわずかに後ろへ滑った。
'急げ!'
俺は焦りをねじ伏せ、グラインダーに全体重をかける。火花が腕に飛んで熱い。だが、止めるわけにはいかない。
ロック機構が頑丈に作られている。蝶番を狙うか? いや、それも分厚い。
「ナオキさん、鍵穴の真上! そこが構造上の弱点のはずです!」
ライアンの的確な指示が飛ぶ。
俺は狙いを定め、再び刃を押し当てた。
ギャリィィィン!
これまでとは違う、鈍い手応え。ロックの内部機構が砕けた感触があった。
俺はグラインダーをアイテムボックスに戻し、扉の取っ手を掴む。
「開けええええっ!」
ライアンも加勢し、二人で扉をこじ開けた。
ギギギ、と嫌な音を立てて、重厚な鉄扉が内側へと開く。
その向こうには、薄暗い空間が広がっていた。
薬品と、埃と、獣人の毛が混じったような重い臭いが、俺たちの鼻を突き刺す。
「バルク、こっちへ!」
「承知!」
バルクは最後に大盾で扉を強く押し返すと、処置室側の通路に倒れていた金属製の器具棚を蹴り込んだ。
器具棚が扉の隙間に噛み込み、嫌な音を立ててひしゃげる。
長くは持たない。
だが、数十秒でも稼げれば十分だ。
バルクは大盾を構えたまま、収容区画の入口へ下がった。
リーネはまだ顔色こそ悪かったが、処置室から離れたことで、あの震えは少しずつ収まっていた。彼女はイヤーマフを外し、小さく息を吐く。
壁際には、狭い鉄格子のはめられた檻が並んでいる。
そのほとんどは空だった。
だが、奥の三つの檻だけに、人影があった。
一人は、狐の耳を持つ少年。
一人は、兎の耳を伏せた少女。
もう一人は、犬種らしい若い女だった。片脚を庇うように座り込み、それでも子供たちを隠すように腕を広げている。
俺たちの出現に気づいても、すぐには反応しない。
希望を持つことすら、とうの昔に諦めてしまったかのように。
空の檻の壁には、無数の爪痕が残っていた。
床には黒く変色した薬液の跡と、錆びた番号札が転がっている。
ここが、ただの収容区画ではない。実験体をストックし、使い潰してきた場所なのだと、嫌でも分かった。
「ひどすぎる……」
ヒルダの呟きに、怒りが滲む。
俺たちは、この帝国の最も暗い腹の底に、足を踏み入れてしまったのだ。
* * *
「ナオキさん、待ってください!」
俺が一番手前の檻に近づこうとした時、ライアンが制止した。
「この檻、おそらく無理に壊せば警報が鳴ります。床を見てください。檻の前に、うっすらと魔力の紋様が……」
ライアンが指し示した床には、ほとんど消えかかった魔法陣の跡があった。
「処置室と同じか。警報か、拘束陣か……いずれにせよ、迂闊には触れない」
'どうする。一つ一つ解除している時間はない。'
背後では、七号が障害物を叩き壊そうとしている音が迫っている。
バルクは収容区画の入口で盾を構えたまま、俺たちの背後を守っていた。
「ナオキさん、こっちです!」
ライアンが壁際を走り、檻の固定具を指差した。
「錠ではなく、固定具です!そこだけを断てば、床の陣を起動させずに檻を開けられるはずです!警報の魔力線は、錠の方に通っています!」
「……分かった。やってやる!」
俺は再びグラインダーを構え、ライアンが示した固定具へと近づいた。
その間に、セーラとリーネは檻の中の獣人たちに近づいていた。
「大丈夫! 今、助けるから!」
セーラの必死の声に、獣人たちはぴくりとも動かない。
その時、リーネが檻に一歩近づいた。
まだ顔色は悪い。だが、彼女は逃げなかった。
「あたしも、檻にいた」
リーネのかすれた声に、うずくまっていた狐耳の少年が、ゆっくりと顔を上げた。
「あたしも、あんたたちと同じだった。でも、諦めなかった。だから、今ここにいる。だから……あんたたちも、諦めないで」
リーネの瞳には、涙が浮かんでいた。だが、その声は震えながらも前を向いていた。
彼女の言葉に呼応するように、檻の中の獣人たちの目に、ほんのわずかだが光が戻る。
'……リーネ'
彼女はもう、ただ守られるだけの存在じゃない。
俺は胸にこみ上げる熱いものを感じながら、グラインダーのスイッチを入れた。
「いくぞ!」
ギャリッ!
小さな火花と共に、固定具が断ち切れる。
ライアンの読み通り、警報は鳴らなかった。
「よし! 次だ!」
俺は次々と檻の固定具を破壊していく。
セーラたちが檻を開け、衰弱した獣人たちを助け出した。全部で三人。皆、立つこともままならないほど弱っている。
「ナオキ、ひとりは歩けない!」
犬種の若い女が、片脚を引きずりながら子供たちを庇おうとしている。
狐耳の少年は震えながらも立とうとしていたが、兎耳の少女は恐怖で声も出せないようだった。
「体温が低い……このままじゃ危険だ」
俺は即座にマリエクを起動した。
[検索:非常用、保温、シート、軽量]
[検索結果:非常用アルミブランケット 10枚セット 3,000円]
[送料:2,000円]
[合計:5,000円]
【現在の残高:27,538,000円】
アイテムボックスから銀色の薄い包みを取り出し、仲間たちへ渡す。
「これで体を包んでやれ! 少しでも体力を温存させるんだ!」
セーラが兎耳の少女を包み、リーネが狐耳の少年にブランケットをかける。
犬種の若い女には、ヒルダが無言で肩に掛けてやった。
「バルク、その人を頼む!」
「ああ」
バルクが犬種の女を片腕で支え、大盾を構え直す。
救い出せた。
だが、安心する暇などなかった。
その、まさに直後だった。
* * *
『ご苦労様です。ですが、そこまでですよ』
金属管を通して、レナードの冷たい声が響き渡った。
「しまっ……!」
ガシャン!
背後の分岐で、左に残してきた「搬出口」の扉が、重い音を立てて外からロックされた。
同時に、俺たちが入ってきた被検体収容区画の扉も、ガコン、と音を立てて閉ざされる。
「退路が……断たれた……!?」
ライアンが愕然と呟く。
背後の扉の向こうでは、七号が障害物を叩き壊す音が、もうすぐそこまで迫っていた。
「くそっ、袋の鼠かよ!」
ヒルダが吐き捨てる。
その時、ライアンが壁の一点を食い入るように見つめた。
「待ってください……この壁……構造が他と違う! 奥に何かある!」
「ライアン、下がれ」
バルクが短く告げ、大盾を構えた。
犬種の女をヒルダに預けると、そのまま壁へ向けて大盾を叩きつける。
ゴッ! と鈍い音を立てて壁が崩れ、その向こうに、さらに奥へと続く未知の搬送路が姿を現した。
「道があったぞ!」
希望が見えた、と思ったのも束の間だった。
コツ……。
コツ……。
コツ……。
その通路の奥、ヘッドライトの光が届かない漆黒の闇の中から、音が聞こえてきた。
七号のような、不規則で狂った足音ではない。
硬い床を、一定の間隔で踏みしめる足音。
獣の荒々しさも、人の迷いも感じさせない、冷たい靴音だった。
俺たち全員が、その不気味な音に息を呑んだ。
その時、俺の隣で、リーネが「ひっ」と小さく喘いだ。彼女の顔から血の気が引き、全身が恐怖で硬直している。
「……この音……」
リーネの唇が、震えた。
「……知ってる……」
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