第121話 新たな実験場
『素晴らしいですね、ナオキさん』
金属管を通して響くレナードの声は、すぐ隣で囁かれているかのように明瞭だった。
乾いた拍手の音が、観察室の冷たい空気に薄く残っている。
「レナード……!」
俺は手の中の書類を握りしめ、声が聞こえてくる壁際の金属管を睨みつけた。
「どこにいやがる! 出てこい!」
ヒルダが短剣を構え、吠える。だが、レナードはそれに答えなかった。
金属管の向こうで、小さく笑う気配だけがした。
『七号を退けましたか。実に興味深い』
その声に、背筋が冷えた。
怒鳴り返そうとした俺の喉が、勝手に詰まる。
『特にナオキさん。あなたの道具は、こちらの想定を何度も外してくれる』
'見られている。'
マリエクという名前まで知られているとは思いたくない。
だが、俺がこの世界にない道具を取り出し、使ってきたことは、確実に観察されている。
どこまでだ。
いつからだ。
そう考えた瞬間だった。
プシュー……。
ガラス張りの壁の隙間から、白い霧が静かに流れ込み始めた。
甘く、どこか花のような香りが鼻をつく。だが、その甘さの奥に、薬品特有の嫌な刺激が混じっていた。
「なんだ、この匂い……?」
セーラが眉をひそめる。
「甘い……けど、気持ち悪い……」
ヒルダが顔をしかめ、鼻を押さえた。
その反応に、俺は嫌な予感を覚えて即座にスキルを発動した。
'鑑定!'
半透明のウィンドウが、視界に浮かび上がる。
〔名称〕鎮静薬霧
〔状態〕空気中に拡散中
〔効果〕吸引により意識低下/筋力低下/反応速度低下
〔危険度〕高
〔備考〕長時間の吸引は危険。拘束対象を弱らせる目的で使用された可能性あり。
「吸うな! 毒の霧だ!」
俺は叫んだ。
安全だと思った観察室が、一瞬で別の檻へと変わる。ここは観察室であって、同時に実験場でもあったのだ。
仲間たちは咄嗟に口と鼻を覆う。だが、すでに数度呼吸してしまっている。
白い霧はゆっくりと、しかし確実に部屋の底から満ちていく。
「う……頭が、重い……」
セーラの膝が崩れかける。ライアンが慌ててその肩を支えた。
「いけません。意識をしっかり!」
「鼻が……焼けるみてえだ……くそっ……」
ヒルダも短剣を握ってはいるが、足元がわずかに揺れていた。
リーネはセーラの腕の中で、震えながら口元を押さえている。
「この臭い……檻の中で……嗅いだ……」
その一言で、俺の中の焦りが跳ね上がった。
* * *
「くそっ、このままじゃ……!」
俺は息を浅く抑えながら、マリエクを起動した。
'思考が鈍る前に対処しろ。迷うな。'
[検索:防毒マスク、有機ガス、6個セット]
候補がいくつも浮かび上がる。
性能、価格、個数。細かく比べている余裕はない。今必要なのは、六人分をすぐに確保できることだ。
[検索結果:有機ガス対応 防毒マスク 6個セット 18,000円]
[送料:2,000円]
[合計:20,000円]
【現在の残高:27,590,000円】
ポン、という場違いな音と共に、六つの防毒マスクがアイテムボックスに出現する。
俺はそれを一気に取り出し、仲間たちへ投げ渡した。
「これを着けろ! 急げ!」
俺自身もマスクを顔に押し当て、ゴムバンドを頭に回す。
フィルター越しの空気にはまだ薬品臭が残っていた。完全に防げているわけではない。それでも、直接吸うよりはずっとましだ。
「リーネ、こっち向いて。大丈夫、すぐ着けるから」
セーラは自分の手元もおぼつかないのに、先にリーネのマスクを押さえてやっていた。
「セーラ、自分のも!」
「分かってる……!」
ヒルダも乱暴にマスクを装着し、ライアンとバルクも続く。
だが、吸い込んだ分の影響は消えない。
ヒルダの動きが明らかに鈍い。セーラもリーネを支えながら、壁に片手をついていた。
バルクは体格で耐えているが、肩で大きく息をしている。
『もう対策を。結構です』
レナードの声が、再び金属管から落ちてくる。
『では、次の反応を見せてください』
それだけだった。
説明も、種明かしもない。
だからこそ腹が立つ。こいつは俺たちを会話相手として見ていない。反応を見るための対象として扱っている。
「この部屋、どこかに……出口は……」
ライアンが壁に手をつき、白い霧の流れを追っていた。
「諦めるのは早いです。この部屋は不自然です。霧が、完全には滞留していない」
「どういうことだ!」
「流れています。わずかですが、一方向へ。送り込む仕組みがあるなら、抜くための仕組みもあるはずです」
ライアンはマスク越しに目を凝らし、天井の隅を指差した。
照明の影になった場所に、金属製の細いスリットがある。
「あそこです。あの奥に、排気用の点検路があるかもしれません」
「バルク! 届くか!」
「……やってみる」
バルクは短く答え、ライアンを担ぎ上げた。
* * *
ライアンはバルクの肩の上で天井のスリットに手を伸ばした。だが、カバーは固く、びくともしない。
「駄目です……! 錆びています。固定具も内側から締められている!」
「どけ。あたしがやる」
霧の影響で足元がおぼつかないながらも、ヒルダが歯を食いしばって前に出た。
バルクの肩に片足をかけ、短剣の切っ先をカバーの隙間へねじ込む。
「くそっ……! 力が、入らねえ……!」
ギリギリと金属の擦れる音はする。だが、カバーは外れない。
'ダメだ。このままでは全員動けなくなる。'
俺はアイテムボックスから、以前使ったボルトクリッパーを取り出した。
「ヒルダ、少し下がれ!」
俺はバルクの肩に乗り、ボルトクリッパーの刃を固定具に噛ませようとした。だが、角度が悪すぎる。狭い天井際では力が逃げ、刃先がうまく入らない。
その時、閉ざされた扉の向こうから、七号の雄叫びが響いた。
「キシャアアア!」
ドン、ドン、と鉄扉を叩く音が続く。
遠ざかったと思った爪音が、また近づいている。
'前は七号。部屋には薬品の霧。時間がない。'
「ナオキさん、もっと単純に外せる道具はありませんか!」
ライアンが叫ぶ。
'単純に外す道具……いや、外せなくてもいい。壊せればいい。'
金で解決出来るものならなんでもいい!
そう思いながらも、他に手はなかった。今は格好をつけている場合じゃない。
俺はマリエクを起動する。
[検索:金属、切断、充電式、工具、保護メガネ]
[タキタ充電式ディスクグラインダー40Vmax 37,000円]
[保護メガネ 1,000円]
[送料:2,000円]
[合計:40,000円]
【現在の残高:27,550,000円】
手の中に、タキタらしい独特な色の電動工具が現れた。
奮発して18Vじゃなく40Vだからパワーもある!
ネジを外す必要はない。
留め具ごと切ればいい。
「耳と目、少し我慢しろ!」
俺はサンダーのスイッチをONにし、金属カバーの端に刃を押し当てた。
ギャリリリリリッ!
甲高い音と同時に、火花が白い霧の中へ散った。
錆びついた留め具が赤く削れ、焼けた鉄の臭いが薬品臭に混じる。
「ナオキ、派手すぎ!」
「文句は後だ!」
もう一か所、固定されている部分へ刃を当てる。
ギャリッ、と嫌な音を立てて金属が裂け、カバーが片側から浮き上がった。
「開いたぞ!」
カバーの奥には、人が一人やっと通れるほどの狭いダクトが闇の奥へ続いていた。
冷たい空気が、そこからわずかに流れてくる。
「ライアン、先に!」
「はい!」
ライアンが先にダクトへ身を滑り込ませる。
続いてセーラがリーネを押し上げ、ヒルダが歯を食いしばって中へ入った。
「バルク、殿を頼む!」
「ああ」
ドンッ!
扉の向こうで、また七号が鉄扉を叩いた。
俺は最後に振り返る。白い霧に満ちた観察室の向こうで、ガラス壁がぼんやりと光を反射していた。
観察室。
いや、檻だ。
俺とバルクがダクトに滑り込んだ直後、背後で霧の噴き出す音が一段強くなった。
プシューッ!
逃げられたのではない。
逃げ道に追い込まれたのかもしれない。
その考えを振り払うように、俺は狭いダクトを前へ進んだ。
* * *
ダクトの中は、ひんやりとした空気が流れていた。
ガスは追ってこない。だが、金属の壁を通して、遠くで鳴る七号の爪音と、どこかで動く機械の低い唸りがかすかに伝わってくる。
俺たちはしばらく無言で這い進んだ。
やがて、前方に白い光が見えてくる。
「出口です」
ライアンの声に促され、俺たちは次々と外へ転がり出た。
そこは、別の管理通路のようだった。
壁際には書類の束が乱雑に積み上げられ、棚の一部は倒れ、床には破れた封筒や折れた封蝋が散らばっている。
慌ただしく撤収したのか。あるいは、必要なものだけを運び出して、不要な記録を捨てたのか。
「……はぁ、助かった……」
セーラがその場に膝をつき、リーネのマスクを外して呼吸を確かめる。
俺もマスクを少しずらし、新鮮な空気を吸い込んだ。
『見事です』
まただ。
この通路にも、声を通すための金属管が走っている。
「レナード……!」
怒りに任せて壁を殴りつけた俺の足元に、書類の束が崩れ落ちた。
その中の一枚が、ヘッドライトの光に照らされる。
「……なんだ、これは」
これまで見てきた実験記録とは、様式が違う。
検体番号ではない。
俺たちのことだ。
【観察対象記録:王国側冒険者一行】
【中心人物:ナオキ】
【危険度評価:再評価中】
・対象一:ヒルダ
人間。斥候役。嗅覚系の特異技能を有する可能性あり。
・対象二:セーラ
人間。近接戦闘および治癒魔法を確認。保護対象への反応が早い。
・対象三:ライアン
人間。地形把握、状況分析に優れる。元軍属、または同等の指揮経験あり。
・対象四:バルク
人間。大盾による防御特化。高い耐久性と護衛行動を確認。
・対象五:ナオキ
能力不詳。未知の道具を複数回使用。最優先観察対象。
「……俺たちの、記録……?」
セーラの声が震えた。
俺は書類を握りしめる。
偶然ここへ逃げ込んだと思っていた。
だが、違う。
少なくとも、この地下に足を踏み入れてからの俺たちは、ずっと見られていた。
逃げ道を探す動きも、マリエクで取り出した道具も、仲間たちの反応も。
すべてが、誰かの記録に残されている。
「いつからだ……」
俺の口から、乾いた声が漏れた。
王国にいた時からか。
帝都に入ってからか。
それとも、この地下に足を踏み入れた瞬間からか。
答えは出ない。
ただ、背中を冷たい指でなぞられるような嫌悪感だけが残った。
『では、次へ』
レナードの声は短かった。
その直後、通路の突き当たりで重い錠が外れる音がした。
ガコン。
これまで固く閉ざされていたはずの重厚な鉄扉が、ギィ、と音を立ててゆっくり開き始める。
扉の向こうは闇ではなかった。
手術室を思わせる、冷たい白い光に満ちている。
扉の上部には、無機質なプレートが掲げられていた。
俺はそこに刻まれた文字を読み、息を呑んだ。
【命令刻印処置室】
その文字を見た瞬間、セーラに支えられていたリーネが、喉を裂くような悲鳴を上げた。
「いやっ……! いやああああああっ!」
彼女は自分の首筋をかきむしるように押さえる。
そこには、首輪の跡とは違う、焼き印のような古い傷跡がうっすらと残っていた。
「あそこは、だめ……! あそこだけは……!」
リーネは完全にパニックに陥り、セーラの腕の中で激しく震え始める。
セーラが必死に抱きしめるが、リーネの震えは止まらない。
その場所が何なのか。
ここで何が行われたのか。
詳しい説明など、必要なかった。
『では、次の区画へ。あなた方なら、まだ進めるでしょう』
金属管の奥から、レナードの声が静かに落ちてきた。
開かれた扉の向こうから、冷たい白い光が俺たちを照らしている。
逃げ道の先に用意されていたのは、リーネの過去そのものだった。
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