第120話 音に群がるもの
「……敵は、一体じゃなかった」
俺の呟きは、カビと薬品の悪臭が充満する横道に吸い込まれた。
直後、背後の入り口で、湿った何かが石床を引きずる音がした。
ギチ……ギチ……。
ワイヤーネットを引き裂いた強化検体七号が、狭い横道の入口に姿を現していた。絡みついたワイヤーの残骸を体にぶら下げたまま、濁った目でこちらを見ている。
いや、見ているのかどうかすら分からない。
だが、こちらへ来る。
「来やがった……!」
ヒルダが低く吐き捨てた。
「バルク! 後ろを頼む!」
「……ああ」
バルクは即座に振り返り、狭い通路を黒い大盾で塞いだ。
次の瞬間、七号の爪が大盾に叩きつけられる。
ゴオォンッ!
腹の底まで響く衝撃。バルクの足が床を削り、石片が跳ねた。
「ぐっ……! こいつ、まだ……!」
七号は止まらない。痛みを感じていないのか、壊れた体をさらに前へ押し込み、盾ごとバルクを押し潰そうとしてくる。
背後は、バルク一人でかろうじて塞いでいるだけだ。
そして、前方の闇の奥からは、壁や天井近くの隙間を伝って、別の爪音が響いていた。
一つではない。
二つ、三つ。
さらに奥にも、何かがいる。
「どうすんだよ、ナオキ! 袋の鼠じゃねえか!」
ヒルダが背後と前方の闇を交互に見ながら叫んだ。
「セーラ、リーネを頼む!」
「分かってる! リーネ、私から絶対に離れないで!」
セーラは震えるリーネを庇いながら短剣の柄に手をかけ、いつでも動けるように身構えた。
「ライアン! 何か道は!?」
「待ってください! 壁の造りが……妙です……! この横道、ただの物置ではありません。奥に別の区画へ繋がる扉があるはずです!」
ライアンが床の溝と壁の継ぎ目を食い入るように見比べて叫ぶ。だが、ヒルダの呻きがそれを遮った。
「臭いが多すぎる……! 奥から来る奴ら、正確な数が分からねえ。けど、一体や二体じゃねえぞ!」
前門の虎、後門の狼。いや、前後どちらも正体不明の化け物だ。バルクがいつまで持つか分からない。
俺は壁に打ち付けられた「廃棄」の札を睨みつけた。
'ここは奴らを捨てる場所。そして、俺たちを始末するための処刑場だ。'
レナードの歪んだ笑みが脳裏に浮かぶ。
その時だった。
ガシャン!
ヒルダが後ずさった拍子に、足元のガラス瓶を蹴り飛ばしてしまった。
瞬間、闇の奥から響いていた爪の音が、ぴたりと止む。
わずかな静寂の後。
コツ、コツ、コツコツコツコツ……!
速度を増した複数の足音が、ヒルダが音を立てた場所を目がけて殺到してくる。
* * *
「……今の、は……」
ヒルダが自分の失態に息を呑む。
「音だ……」
か細く呟いたのは、セーラに抱かれたリーネだった。
「檻の中にいた時……遠くで大きな音がすると……壁の向こうで、何かが暴れる音がした……。看守たちはそれを『餌の時間』って……」
餌の時間。
'こいつら、目に頼ってない。音に反応して集まってくる!'
鑑定で見た「自我崩壊」の文字が頭をよぎる。視覚や思考ではなく、聴覚と破壊衝動だけで動いているのなら……!
「突破口は、それしかない!」
俺は即座にマリエクを起動した。
[検索:防犯ブザー、大音量、まとめ買い]
[検索結果:大音量防犯ブザー 10個セット 7,000円]
[送料:2,000円]
[合計:9,000円]
【現在の残高:27,610,000円】
ポン、という音と共に、手のひらサイズのブザーが十個、アイテムボックスに現れた。
「ナオキ、それは!?」
「説明は後だ! 音で誘導する!」
俺はブザーを一つ取り出し、仲間たちに見せる。
「こいつは、奴らが聞いたこともない凄まじい音を出す。これで注意を引きつけ、その隙に右手の扉まで走る!」
「しかしナオキさん、敵は前後両方です! どちらに使うんですか!」
「両方だ」
俺は仲間たちにブザーを手渡した。
「背後の通路に二つ。俺たちが進む方向の左右にも投げ込む。音を散らせば、奴らの動きも散る。その隙に中央を抜ける!」
仲間たちがゴクリと唾を呑む。博打に近い。だが、他に道はなかった。
「ライアン、扉までの距離は!」
「この先、二十メートルほどです! 右手の壁に、鉄製の扉があるはずです!」
「二十メートル……稼げる時間は、十数秒だ!」
俺は盾で必死に攻撃を防いでいるバルクに叫んだ。
「バルク! 合図で後退しろ! 一瞬でいい!」
「……分かった!」
盾の向こうから、くぐもった返事が返ってきた。
俺はブザーのピンに指をかけ、深く息を吸う。心臓の音を、無理やりねじ伏せた。
「投げたらすぐ耳を塞げ!」
「リーネ、耳ふさいで!」
「ナオキ、これで耳が壊れたら承知しないからね!」
「生きて出られたらな!」
セーラの叫びに返しながら、俺はブザーのピンを抜き、通路の奥、闇の深い方へと全力で投げつけた。
* * *
ジリリリリリリリリリリリッ!
耳を劈く甲高い電子音が、通路に響き渡った。この世界に存在するはずのない、無機質で不快な警告音だ。
セーラとリーネが思わず耳を強く塞ぐ。
直後、ヒルダとライアンもピンを抜き、通路の奥、左右の壁際へとそれぞれ投げ込んだ。
ジリリリリッ! ジリリリリッ!
三つのブザーがけたたましい音を立てる。
ギシャアア!?
闇の奥の足音が、明らかに乱れた。
「今だ! 行けえええっ!」
俺は絶叫した。
「バルク!」
ゴッ! という轟音と共に、バルクが入り口から飛び退く。俺は即座に二つのブザーを起動させ、強化検体七号がいた通路の左右へと滑り込ませた。
ジリリリリッ!
背後でも音が鳴り響き、七号が「キシャ!?」と混乱した声を上げる。
「走れえええっ!」
ライアンを先頭に、俺たちは一斉に走り出した。セーラがリーネを支え、ヒルダがその横について補助する。
左右の壁の向こうから、ブザーに引かれた失敗作どものおぞましい爪音が響き、天井近くの隙間からも何かが這い回るような音がした。
「あった! あれです!」
ライアンが叫び、ヘッドライトが右手の壁にある鉄の扉を照らす。
「開けるぞ!」
俺が錆びたハンドルに手をかけた、その時。
「キシャアアアアアアアッ!」
背後から、凄まじい怒りを含んだ雄叫びが響いた。陽動を振り切った強化検体七号が、一直線にこちらへ向かってくる。
「ナオキ、早く!」
「くそっ、固い!」
ハンドルがびくともしない。
「どけえええええっ!」
俺の背後からバルクが突進し、肩で俺をどかして前に出た。彼は大盾を構え、迫る七号へと正面からぶつかった。
ゴオオオオオンッ!
これまでで最も重い衝突音。バルクの巨体と化け物がぶつかり、通路全体が震動する。
「ぐ、おおおおおっ!」
バルクは盾で化け物を押しとどめながら、ミリ単位で後退していく。そのおかげで、数秒の時間が生まれた。
「ライアン、手伝え!」
「はい!」
俺とライアンは二人掛かりでハンドルに全体重をかける。ギギギ、と錆びついた金属が悲鳴を上げ、ついにゴトリと重い音を立ててロックが外れた。
「開いた!」
俺は力任せに扉を引く。
「セーラ、リーネ、ヒルダ! 先に入れ!」
三人が次々と扉の向こうへ滑り込む。
「バルク、今だ!」
俺が叫ぶと、バルクは最後の力を振り絞り、盾で七号を押し返した。化け物が体勢を崩した隙に、バルクはこちらへ反転し、扉の中へ飛び込む。
俺はライアンと共に、全体重をかけて鉄の扉を閉め、内側から閂をかけた。
直後、扉の向こうから、ドンッ! と凄まじい衝撃が伝わる。厚い鉄扉が嫌な音を立てて震えた。
七号は何度か扉を叩きつけた。だが、壊し切る前に、背後で鳴り続けるブザーの音へ意識を引き戻されたのか、やがて爪音はゆっくりと遠ざかっていった。
俺たちは、その場にへたり込んだ。荒い息だけが、静かな空間に響く。
「……助、かったのか……?」
ヒルダの呟きに、誰も答えられなかった。
* * *
ヘッドライトが照らし出したのは、ガラス張りの壁に囲まれた、奇妙な小部屋だった。
「……観察室」
ライアンが壁のプレートを読んで呟く。ここから、廃棄された失敗作を観察していたらしい。
机はひっくり返り、床にはインク瓶や羊皮紙が散乱している。慌ててここを去ったかのようだ。
俺は床に散らばった書類の一枚を拾い上げた。そこには、おぞましい実験記録が無機質な文字で記されていた。
「検体番号 三号。獣人、狼種。過剰強化により肉体崩壊。廃棄区画へ」
「検体番号 八号。獣人、鳥種。命令刻印に精神が耐えきれず発狂。廃棄」
「ひどい……」
セーラの顔から血の気が引いた。
俺は次々と書類をめくった。そのほとんどが失敗記録だ。だが、一枚だけ、他とは明らかに違う書類が目に留まった。
厳重に封をされていたらしい封筒から滑り落ちたもので、「極秘」の印が押されている。
俺はその書類に書かれた文字を読み、息を呑んだ。
「……完成検体、一号」
その言葉に、仲間たちの視線が一斉に俺の持つ書類へと集まる。
名称:完成検体 一号
識別名:猟犬
分類:狼種獣人ベース
状態:安定
命令遂行率:九十八・七パーセント
命令刻印:安定
書類の最後には、血が凍るような一文が記されていた。
「備考:アステル王国東部街道付近にて、外部実戦投入試験を実施。Aランク冒険者パーティ『銀狼の牙』を対象とし、目標の完全殲滅を確認。検体は無傷で帰投。極めて良好な結果を得る」
「……まさか」
ライアンの顔から血の気が引いていく。
「……あの事件だ」
ライアンの声が、かすかに震えた。
「俺が受けた依頼の、発端になった事件です。王国東部街道で、Aランクパーティが全滅した。魔物の群れに襲われたと処理されていましたが……生存者も、目撃者もいなかった」
ライアンは、書類の文字から目を離せないまま続けた。
「まさか……あれをやったのが、帝国の……コイツだったなんて……」
俺は、手の中の書類を強く握りしめた。
失敗作ですら、あの強さだ。
では、成功した『完成検体』は、一体どれほどの化け物なのか。
レナードの言葉が、頭の中で不気味に反響する。
俺たちが足を踏み入れたのは、失敗作の巣などではない。帝国の最も暗く、そして危険な秘密の核心そのものだった。
その時、壁際の金属管の奥から、かすかな音がした。
ぱち、ぱち、ぱち。
乾いた拍手の音。
そして、聞き間違えるはずのない声が、細い管を通って観察室に落ちてきた。
『素晴らしいですね、ナオキさん』
レナードの声だった。
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