第119話 失敗作
コツリ……。
石を削るような硬質な爪の音が、暗い地下排水路に反響する。
それは一歩、また一歩と、俺たちとの距離を確実に詰めていた。
背後から、帝国兵の軍靴は聞こえてこない。
フラッシュでまいたのか。
いや、違う。
レナードが、あれだけで俺たちを見失うとは思えなかった。追ってこないのではない。追う必要がないのだ。
俺たちはもう、奴が用意した檻の中に入ってしまっている。
「……なんだ、この臭い……」
先頭にいたヒルダが、低く唸る。彼女の鼻が、警戒するようにひくついていた。
「薬品と……獣の血が腐ったような……。ただの獣じゃねえ。何か、ぐちゃぐちゃに混じったみてえな……!」
その言葉に、俺とセーラに支えられていたリーネの体がこわばった。
「その臭い……知ってる……。檻の奥の部屋から……いつも……」
彼女の琥珀色の瞳が、過去の恐怖を映して大きく見開かれる。
俺はヘッドライトの光を、音のする闇の先へと集中させた。光の輪が壁を滑り、やがて闇の中からぬるりとした輪郭が浮かび上がる。
それは、人型に近かった。だが、まともな生き物の姿ではなかった。
不自然に長い四肢。ところどころ体毛が抜け落ち、紫色に変色した皮膚。石畳を引きずる左足と、不気味なほど長く伸びた両手の鉤爪が、何より異様だった。首には鉄の輪が残り、手首と足首には拘束具の跡が深く食い込んでいる。
そいつは、俺たちの光を認識しても怯むことなく、ぎこちない足取りでこちらへ歩みを進めてくる。焦点の合わない濁った目が、こちらを見ているのかどうかすら分からなかった。
「……なに、あれ」
セーラが、息を呑んで呟いた。
'こいつが、レナードの言っていた『何か』か……!'
俺は咄嗟にスキルを発動する。
'鑑定!'
半透明のウィンドウが、俺の視界にだけ表示された。
〔名称〕強化検体 七号(失敗作)
〔種族〕獣人
〔LV〕38
〔状態〕自我崩壊/強制強化/痛覚鈍化/命令刻印
〔危険度〕極めて高い
〔HP〕860/860
〔MP〕測定不能
攻撃力:240
守備力:170
力:340
素早さ:95
知力:判定不能
運の良さ:判定不能
〔備考〕薬物投与と魔法的干渉により、肉体と精神が著しく損傷している。
「……くそっ」
俺は思わず奥歯を噛みしめた。ウィンドウに表示された無機質な文字列が、この帝国で行われている非道の何よりの証拠だった。
「どうした、ナオキ!」
「あれは……獣人を元に、無理やり作り替えられたものだ。失敗作として、ここに捨てられたんだ」
俺の叫びに、仲間たちが息を呑む。
「自我が壊れてる。痛みもほとんど感じない。まともに戦う相手じゃない!」
失敗作でこれかよ。
喉の奥に、冷たいものが落ちた。もし帝国がこれを完成させているのなら、ライアンが語っていたAランク冒険者を壊滅させた何かも、同じ系統の存在かもしれない。
俺がそう思ったのと、化け物が甲高い雄叫びを上げたのは、ほぼ同時だった。
「キシャアアアアアアアッ!」
鼓膜を突き破るような金切り声が通路に響き渡り、そいつは不自然な四肢をめちゃくちゃに動かして、一直線にこちらへ突進してきた。
* * *
「バルク!」
俺が叫ぶより早く、バルクが前に出ていた。黒い大盾を地面に突き立て、通路いっぱいに立ちはだかる。
「来い!」
バルクの咆哮が響く。強化検体は速度を緩めることなく、その長く鋭い爪を振りかぶった。
ゴオォォンッ!
金属と骨がぶつかるのとは違う、腹の底まで響き渡る轟音。バルクの大盾が、強化検体の渾身の一撃を受け止めた。だが、その衝撃は凄まじく、バルクの巨体が数センチ、地面を削りながら押し込まれる。
「ぐっ……! なんだ、この……力は……!」
バルクの腕の筋肉が、見たこともないほどに張り詰め、ミシミシと軋む。盾そのものは耐えている。だが、それを持つバルク自身の体が悲鳴を上げていた。一撃の重さが、尋常ではないのだ。
「キシャアアッ!」
強化検体は構わず、二撃、三撃と、狂ったように爪を叩きつける。その度に轟音が響き、バルクの足元から火花が散った。
「まずい! このままじゃバルクが押し切られる!」
ライアンが叫ぶ。
「ナオキ、どうする!?」
「ライアン、後ろ! 道はあるか!」
俺は迫りくる化け物を睨みつけながら叫んだ。
「この先に点検用の横道が! 地図では行き止まりですが、一時的に身を隠すことはできます!」
「そこへ逃げ込むぞ! 俺が時間を稼ぐ!」
'いや、俺一人じゃ無理だ!'
俺は即座に思考を切り替える。
'こいつを止められるような、都合のいい道具は……。獣……デカい獣を捕まえるものなら!'
マリエクを起動し、キーワードを叩き込んだ。
[検索:獣、大型、拘束、網、ワイヤー]
いくつもの候補が浮かび上がる。その中で、最も頑丈で、即効性のありそうなものを選んだ。
[検索結果:ワイヤー入り大型防獣ネット 8,000円]
[送料:2,000円]
[合計:10,000円]
【現在の残高:27,619,000円】
ポン、という音と共に、ずしりと重いネットの塊が手の中に現れた。
「これを使え!」
俺はネットを床に叩きつけるように広げた。指先ほどの太さのロープに、きらりと光る金属ワイヤーが編み込まれているのが見える。
「バルク! もう一撃だけ耐えろ! その隙にこいつを仕掛ける!」
「……任せろ!」
バルクが歯を食いしばる。
「ヒルダ、ライアンはネットの端を持て! 俺の合図で奴の前に広げるぞ!」
「おう!」
「了解!」
二人が即座にネットの左右に回り込み、その端を固く握りしめた。
「セーラはリーネを連れて、横道の前まで後退しろ!」
「分かった! リーネ、行くよ!」
セーラがリーネを支え、慎重に後ろへ下がる。準備は、一瞬で整った。
「バルク、今だ!」
俺が叫ぶ。バルクは最後の一撃を盾で受け流すと同時に、大きく後ろへ跳んだ。
がら空きになった空間へ、俺とヒルダ、ライアンが三人掛かりで防獣ネットを投げ広げた。
* * *
「キシャアアッ!」
強化検体は、目の前に現れた障害物にも気づかず、勢いのままネットへと突っ込んだ。
ブチッ! ギチギチッ!
頑丈なワイヤーが、化け物の歪な体に深く食い込む。勢いに任せて数歩進むが、全身を締め付ける網に動きを阻害され、ついに床へと倒れ込んだ。
「やったか!?」
「いや、まだだ! もがいてる!」
強化検体は床の上で暴れ、ワイヤーを引きちぎろうと必死にもがいていた。長くは持たないだろう。
「今のうちに横道へ逃げるぞ!」
ライアンが指し示したのは、壁に空いた、人が一人やっと通れるほどの狭い通路だった。俺たちはセーラとリーネを先頭に、次々とその狭い横道へと滑り込んだ。
中は、これまで以上に悪臭がひどかった。埃とカビ、そして薬品のツンとする匂いが混じり合い、息をするのも苦しい。
「なんなんだ、ここは……」
ヒルダが、ヘッドライトの光で周囲を照らしながら吐き捨てた。そこは通路というより、物置に近い空間だった。壁のあちこちには、「廃棄」「失敗作 七号」「汚染体 四号」といった文字が走り書きされた木札が、無造作に釘で打ち付けられている。
床には、割れた茶色い薬瓶や、細い管のついたガラス器具の破片が散らばっていた。黒く変色した布切れや、折れた拘束具の金具も転がっている。
「ひどい……」
セーラが口元を押さえる。
その時、リーネが壁に打ち付けられた一枚の札を見て、はっと息を呑んだ。ヘッドライトの光が、その札を照らし出す。
「失敗作 十二号……廃棄」
「……リーネ?」
「見たことがある……。檻から引きずり出されていく仲間たちに……こんな札が付けられていた……」
彼女の声は、恐怖に震えていた。
'ここは、ただの横道じゃない。'
'実験に失敗した獣人たちを、『廃棄』するために使われた通路だ。'
'帝国の非人道的な行いの残骸が、この狭い空間に凝縮されていた。'
俺たちが言葉を失い、そのおぞましい事実に立ち尽くしていた、その時だった。
* * *
ブチンッ!
背後、俺たちが入ってきた通路の入り口から、何かが断ち切れる、鈍い音が響いた。
続いて、ブチブチブチッ!と、ワイヤーが連続して引き千切られる音が、はっきりと聞こえてきた。
「嘘だろ……あのネットを、もう破ったのかよ!」
ヒルダが、信じられないといった声で入り口を振り返る。
俺たちは咄嗟に息を殺した。通路の入り口から、強化検体の低い唸り声と、引きずられる足音が近づいてくる。
'背後には、さっきの一体。'
そう思った瞬間だった。
コツリ……。
音は、背後からではなかった。
俺たちが今いる、この横道の、さらに奥。
ヘッドライトの光が届かない、漆黒の闇の中からだった。
コツリ……コツ……リ……。
先ほどの化け物と全く同じ、石を削る爪の音。
壊れた体を引きずる、あの不気味な足音。
俺はゆっくりと、震える手でヘッドライトを奥の闇へ向けた。
光の輪が壁を滑り、闇の最深部を照らし出す。
そこには、何もいなかった。
だが、音は確かに近づいてきている。
いや、違う。
壁だ。
壁の亀裂や、天井近くの隙間。そういった闇の向こう側から、別の『コツリ』という音が聞こえていた。
一つではない。
二つ、三つ。
少しずつ、数が増えている。
「……まずい」
俺の口から、乾いた声が漏れた。
'ここは逃げ道などではなかった。'
'廃棄された失敗作たちが徘徊する、巨大な檻の中そのものだったのだ。'
「ナオキ……」
セーラがリーネを抱き寄せ、短剣の柄に手をかけた。
背後からは、ワイヤーネットを引き裂いた一体。
そして、奥の闇からは、同じ気配を持つ複数の敵。
俺の唇から、絶望的な呟きがこぼれた。
「……敵は、一体じゃなかった」
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