第118話 地下排水路
「……レナード」
俺の口から、かすれた声が漏れた。
'なぜ、ここで待っている。'
帝国の人間なら、帝都にいてもおかしくない。問題は、俺たちがこの排水路を選ぶことまで、なぜ読めたのかだ。
「お久しぶりです、ナオキさん。まさか帝都で再会することになるとは」
レナードは、俺の反応を楽しむように、唇の片端をわずかに歪めた。
「王国での件は、ずいぶん派手に動いてくれましたね。おかげで、こちらも予定を少し変えることになりました」
「どういうことだ……なぜ、お前が……」
「質問が多いですね。ですが、今のあなた方に、それに一つ一つ答えている時間があるとは思えませんが?」
レナードはそう言うと、俺たちの背後、退路を塞ぐ帝国兵たちを顎でしゃくった。兵士たちが一斉に槍を構え、じりじりと包囲網を狭めてくる。鉄の穂先が、月明かりを鈍く反射していた。
同時に、目の前の排水路の奥、漆黒の闇から聞こえる重い足音も、着実に距離を詰めていた。
コツリ……コツリ……。
帝国兵の軍靴とは違う。重く、どこか湿った、妙に間延びした音だった。
「くそっ……!」
ヒルダが低く唸り、短剣を握る手に力を込める。いつでも飛び出せる姿勢を取っているが、前後の敵に動きを封じられている。隣ではバルクが大盾を前面に構え、その巨大な体躯をわずかに屈めていた。全身の筋肉が鋼のように張り詰め、地面を踏みしめる足に力がこもる。
ライアンの顔色は悪い。だが、その目は帝国兵の配置と排水路の入口を細かく追っていた。恐怖に飲まれながらも、まだ逃げ道を探している。セーラは俺たちの後ろでリーネを支え、片手で短剣の柄に触れていた。
誰もが、この前後を挟まれた状況の危うさを理解していた。
「さあ、どうぞ」
レナードは芝居がかった仕草で片手を広げ、排水路の入口を示した。
「あなた方には、その鼠の道がお似合いだ。選ぶがいい。我々に捕らえられ、帝国の法の下で裁かれるか。あるいは……その先に待つ『何か』の相手をするか」
奴は、俺たちをここで殺すつもりがない。あえて、この先へ追い込もうとしている。
'なぜだ……? なぜ、俺たちをわざわざこの奥へ行かせようとする?'
考える時間はなかった。
「進め! 抵抗する者は殺しても構わん!」
背後で帝国兵の指揮官らしき男が怒声を上げ、槍の穂先が俺たちの背中に突きつけられる。
もう、選択肢は残されていない。
「……行くぞ」
俺は短く、仲間全員に聞こえるように告げた。
「排水路へ入る! 足元に気をつけろ!」
「正気か、ナオキ!?」
ヒルダが叫ぶ。
「奴の思う壺だぞ!」
「他に道はない! 罠なら、こじ開けてでも進むだけだ!」
俺は覚悟を決め、レナードを真正面から睨みつけた。
「死ぬも生きるも、俺たちが決める。お前の描いた筋書き通りになんて、なるものか!」
俺の叫びに、レナードは心底愉快そうに肩をすくめただけだった。その顔が、無性に腹立たしかった。
* * *
「全員、目を閉じろ!」
俺は叫ぶと同時に、背後の帝国兵たちへ手を向けた。
'光魔法――フラッシュ!'
体の奥から魔力が一気に引き抜かれる感覚と共に、手のひらから白い閃光が弾けた。
「「「ぐわあああっ!」」」
夜の闇に慣れきっていた帝国兵たちが、突然の光に顔を押さえてよろめく。松明の明かりとは比べものにならない白い光が、路地裏を一瞬だけ塗り潰した。槍の穂先が乱れ、包囲の形が崩れる。
「今だ! ヒルダ、行け!」
「任せな!」
ヒルダが地面を蹴り、真っ先に石造りの入口へ駆け込んだ。
「セーラ、リーネを頼む!」
「分かった! リーネ、少し我慢して!」
俺とセーラはリーネの両脇を支え、続く。衰弱した彼女の体が、ずしりと重くのしかかった。
「ライアン!」
「承知!」
ライアンもすぐに俺たちの後ろを追う。
最後尾に残ったのは、バルクだった。
「行けええっ!」
バルクは低く吼え、視力を取り戻しかけた兵士たちの前に立ちはだかる。数本の槍が突き出されるが、バルクの盾がそれをまとめて弾き飛ばした。ガギン、と硬い音が響き、兵士たちが思わず後ずさる。
バルクは入口付近に崩れていた石材を盾で薙ぎ払い、通路の口へ押し込んだ。轟音と共に瓦礫が崩れ、追手の足をわずかに止める。
「今のうちだ!」
バルクも巨大な体を横向きにし、石造りの入口へ身を滑り込ませた。
一瞬、白く残った視界の向こうで、レナードがまだ笑っているのが見えた気がした。
* * *
排水路の中は、完全な闇と、鼻を突き刺すような悪臭に満ちていた。入口のすぐ先には、中央を走る黒ずんだ汚水の溝と、その両側に設けられた細い石の通路があった。俺たちは壁際の通路へ足を下ろす。苔と泥で滑りやすく、少しでも踏み外せば、膝まで汚水に沈みそうだった。
だが、ただの下水ではない。
人が通るための幅がある。壁際の通路には、荷台か何かを押したような擦れ跡も残っていた。中央の汚水溝を挟むように、床石には浅い二本の溝が奥へ向かって伸びている。車輪を落とし込んで、荷台をまっすぐ進ませるための溝に見えた。
'排水路というより……管理用の地下通路か?'
「きゃっ!」
暗闇の中で、セーラが短い声を上げた。リーネを支えたまま、ぬめる石に足を取られたらしい。
「大丈夫か! みんな、いるか!」
俺が叫ぶと、壁に反響した声が戻ってくると同時に、すぐ近くから仲間たちの声が返ってきた。
「いるぜ! けど、マジで真っ暗だ!」
「足元、滑る! リーネは私が支えるから、ナオキは前見て!」
セーラの声には、恐怖よりも必死さがあった。
'このままでは、移動すらままならない。追手が来なくとも、ここで消耗しきってしまう。'
'光がいる。それも、ただの松明じゃない。両手を塞がずに使える光が必要だ。'
俺はマリエクを起動した。
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ポン、という軽い音と共に、手の中に六つのヘッドライトが現れた。俺はすぐに一つを自分の額に装着し、スイッチを入れる。鋭い白色光が闇を切り裂き、濡れた石壁と黒い水面を照らし出した。
「これを!」
俺は残りのヘッドライトを仲間たちへ手早く渡した。ヒルダ、セーラ、ライアン、バルクがそれぞれ装着し、リーネの頭にもセーラがそっと固定する。
そこは、苔と汚泥にまみれた石造りの通路だった。中央に汚水の溝が走り、その両側に狭い点検路が続いている。天井は低く、壁からは絶えず水が染み出していた。
「ナオキ、無茶しすぎ」
リーネを支え直しながら、セーラが小さく息を吐いた。
「無茶しない方法があるなら、今すぐ買いたい」
「……それ、売り切れだね」
短いやり取りだったが、セーラの声にはまだ力が残っていた。俺は頷き、前方へライトを向ける。
「生きて、ここを出る。今はそれだけ考えろ」
「うん。リーネは任せて」
ヒルダも「ぐずぐずしてられねえな」と吐き捨て、ライアンも地図を握ったまま静かに頷いた。
* * *
視界が確保され、俺たちは再び奥へと進み始めた。ヘッドライトの光が、この場所の異常さを次々と暴き出していく。
「……待て」
先頭を行くヒルダが、不意に足を止めた。彼女の光が、壁の一点を捉えている。俺もそちらにライトを向けた。
壁の低い位置に、いくつもの錆びた鉄製の金具が、等間隔に打ち付けられている。荷台や檻を一時的に固定するための輪にも見えた。そして、その金具には長い毛が絡みついていた。
「これは……」
「獣人の毛だと思う。薬の臭いと、汗の臭いが染みついてる」
ヒルダが顔をしかめる。彼女の鼻がかすかに動いていた。
さらに、床の中央には細く平行な二本の溝が奥へと続いていた。荷台の車輪が何度も通ったような跡だ。溝の縁は削れ、黒い水と泥がたまっている。壁には、荷台の角が擦ったような横長の傷も残っていた。
「この道は……地図にありません」
ライアンが息を呑みながら、羊皮紙と通路を見比べる。
「構造を見る限り、古い排水路を改修したものだと思います。少なくとも、ただの排水施設ではありません。荷台を通すための造りです」
「つまり、誰かがここを使って何かを運んでいたってことか」
「はい。それも、何度も」
その時、ヘッドライトの光が、通路の分岐点に打ち付けられた一枚のプレートを捉えた。文字が半分消えかかっているが、辛うじて読み取れる。
俺はプレートに近づき、ぬるりとした泥を指で拭った。そこに刻まれていた無機質な文字に、喉の奥が冷たくなる。
「――検体搬送路 三号」
「検体……?」
ライアンが、呆然と呟いた。
その言葉が持つ、命をモノとして扱う冷たい響きに、全員が言葉を失う。
「……この音、聞いたことがある」
俺たちに支えられていたリーネが、かすれた声で呟いた。
「檻の中で揺られていた時……車輪の音と、この臭いがしていた」
リーネの指先が、小さく震えている。
「ここを通ったんだ。私たちは……たぶん、ここを通って運ばれた」
俺はプレートから視線を外せなかった。
検体。
その二文字が、喉の奥に冷たい鉛のように沈む。
ここでは、獣人は人ではない。荷物でもない。それ以下の、番号を振られた何かとして扱われている。
ここは逃げ道ではなかった。
帝国が獣人たちを奥へ運ぶために使っていた、地下の搬送路だった。
俺たちがその事実に言葉を失った、まさにその時だった。
進行方向の奥。ヘッドライトの光が届かない闇の向こうから、再びあの音が聞こえてきた。
コツリ……。
コツリ……。
帝国兵の軍靴ではない。石を叩く爪の音と、重い体を引きずるような足音が、闇の奥から近づいてくる。
獣に近い。
だが、普通の獣の歩き方ではなかった。
一歩ごとに、同じ場所を擦るような音が混じる。まるで、壊れた体を無理やり前へ進ませられているようだった。
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