第116話 罠の中で
「なぜ来た……。ここは、罠だ」
独房の奥から響いた猫科の獣人女性のか細い声が、俺たちの動きを凍りつかせた。
直後、通路の向こうから複数の軍靴の音が迫ってきた。
ダンダンダンッ!
壁に反響するその音が、俺たちの侵入が完全に察知されたことを告げていた。
「くそっ! やられたか!」
ヒルダが短剣を構え、忌々しげに吐き捨てる。
「ナオキ!」
ライアンが俺の名を叫んだ。その声には、普段の冷静さからは考えられないほどの焦りが滲んでいた。
'罠だと分かっていて、なぜ俺たちを招き入れた…? いや、今はそれどころじゃない!'
俺は一瞬で思考を切り替え、張り裂けんばかりの声で叫んだ。
「セーラ! 彼女に応急処置を! 最低限動けるようにしろ!」
「ま、任せて!」
セーラはハッとして駆け寄り、猫科の獣人女性の肩に手をかざす。柔らかな光が彼女を包み込むが、衰弱は想像以上にひどい。まるで乾いた大地に水を注ぐように、回復魔法の光が吸い込まれていくだけで、彼女の土気色の肌に血の気は戻らない。
「ヒルダは扉の外、ライアンは通路の角を警戒! 敵の正確な数と位置を把握しろ!」
「おうよ!」
「了解!」
二人が即座に配置につく。ヒルダは扉の陰に身を潜め、ライアンは物音を立てずに通路の角へ滑り込んだ。
軍靴の音は、もうすぐそこまで迫っている。
「バルクは俺のそばに! 鎖を断つ準備をしろ!」
「……わかった」
バルクが力強く頷き、女性を繋ぐ錆びついた太い鎖を睨みつける。その目は、いつでもそれを引きちぎれると語っていた。
「……無駄だ。その鎖は、魔力を帯びている。ただの力では……」
猫科の獣人女性が、苦しげに息を吐きながら呟いた。
「黙ってろ! あんたを助けると決めたんだ、ごちゃごちゃ言うな!」
ヒルダが、通路の向こうを睨みつけながら怒鳴る。その声には、彼女自身の焦りを振り払うような響きがあった。
「しっかりしてください! 今、助けますから!」
セーラが涙目で彼女を励ましながら、必死に回復魔法を集中させる。女性の美しい琥珀色の瞳が、信じられないものを見るように俺たち一人一人を映していた。
軍靴の音が、すぐそこの角でぴたりと止まる。ライアンが指で「十以上」と示した。
音が止んだことで、逆に自分たちの心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り響く。張り詰めた静寂が、俺たちの喉を締め付けた。
* * *
「どうする、ナオキ! このままじゃ袋の鼠だぞ!」
ヒルダが声を潜めて叫ぶ。
「魔力帯びの鎖……か」
俺は舌打ちし、即座にマリエクを起動した。半透明のウィンドウが目の前に浮かび上がる。
'物理的に断ち切るしかない!時間もかけられない。シンプルで、強力で、バルクの怪力と組み合わせれば、どんなものでも破壊できるような……!'
[検索:鎖、切断、強力]
いくつもの工具が表示される。その中で、俺は一つの道具に目をつけた。
[検索結果:高強度ボルトクリッパー 900mm 6,000円]
[送料:2,000円]
[合計:8,000円]
'これならいける!'
転移前の世界、学生の頃に自動販売機泥棒が多発した時に犯行で、よく使われていたやつだ。
俺は迷わず購入ボタンを押した。
【現在の残高:27,654,000円】
ポン、という間の抜けた音と共に、俺の手に黒光りする巨大な鉄の塊が現れる。全長一メートル近い、無骨なボルトクリッパー。ずしりとした重みが腕に伝わる。文明の利器というより、ただ巨大なハサミだ。だが、それが今は何よりも頼もしかった。
「ナオキ、それは……!?」
「説明は後だ! バルク、これを使え!」
俺はボルトクリッパーをバルクに投げ渡す。バルクはそれを軽々と受け取ると、一瞬その奇妙な道具を訝しげに見たが、すぐにその構造を理解したのか、力強く頷いた。
「……行くぞ」
バルクが鎖と壁を繋ぐ連結金具に刃を当て、巨大なハンドルに力を込める。両腕に筋が浮き上がり、ミシミシと金属が軋む音が響く。
バキンッ!!
静寂を切り裂く、けたたましい金属音。火花が散り、鎖そのものではなく、壁に固定されていた連結金具が歪み、砕け飛んだ。
魔力を帯びた鎖はまだ彼女の手首に残っている。だが、壁からは外れた。走るには、それで十分だった。
「よし!」
俺が叫んだのと、通路の角から敵が姿を現したのは、ほぼ同時だった。
「侵入者だ! ここにいるぞ!」
黒服の男が叫び、帝国兵たちが一斉にこちらへなだれ込んでくる。
「バルク、道を切り開け! セーラは彼女を立たせろ! 俺が反対側を支える!」
「任せろ!」
バルクはボルトクリッパーを俺の足元へ放り、黒曜石のように輝く巨大な盾を構えて通路を塞ぐ。
「うおおおおおっ!」
雄叫びと共に、バルクが盾を構えて突進する。先頭の兵士が驚愕に目を見開く暇もなく、バルクの盾が津波のように彼らを飲み込んだ。帝国兵たちの槍が盾に突き刺さるが、甲高い音を立てて弾かれた。
「なっ!? びくともしないだと!?」
「怯むな! 囲んで叩け!」
敵が混乱している隙に、俺は足元のボルトクリッパーをアイテムボックスへ放り込み、セーラと共に猫科の獣人女性を支える。
俺たちはバルクが開けたわずかな突破口から走り出した。
「ライアン、逃走経路は!?」
「こっちです! 事前に確認した最短ルートを!」
ライアンが羊皮紙の地図を片手に叫び、俺たちを導く。背後からは、バルクの盾が敵の攻撃を防ぐ鈍い音と、兵士たちの怒号が追いかけてきた。
「ヒルダは先行! 曲がり角の警戒を怠るな!」
「分かってるっての!」
ヒルダが鼻を鋭く鳴らし、前方の闇を睨む。脱出劇の幕が、最悪の形で上がってしまった。
* * *
「こっちだ! 急げ!」
ライアンの叫び声に従い、俺たちは迷路のような薄暗い通路を駆け抜ける。息を切らし、壁に手をつきながら角を曲がる。背後からはバルクの咆哮と、金属がぶつかり合う不協和音が絶え間なく聞こえていた。
「バルク、引け!」
俺が叫ぶと、バルクは盾で最後の一撃を受け流し、通路を塞ぐように木箱を蹴り倒してからこちらへ走った。
「バルクは大丈夫なのかよ!?」
ヒルダが後ろを振り返りながら叫ぶ。
「あの盾がある限り、そう簡単にはやられん! バルクを信じよう!それより前へ進め!」
俺たちは、先ほど通ってきた鉄格子の檻が並ぶ空間に戻ってきた。
「ああ……!」
セーラが、猫科の獣人女性を支えながら、悲痛な声を上げる。
檻の中では、衰弱しきった獣人たちが、俺たちの逃走劇を虚ろな目で見つめていた。
その中には、助けを求めるように、か細い手を鉄格子の隙間から伸ばす者もいる。
「この人たちも……助けないと……!」
セーラが思わず足を止めようとする。
「セーラ、行け!」
俺は彼女の背中を強く押した。
「でも!」
'ここで立ち止まれば全滅だ。非情になれ。俺はリーダーだ。だが、あの目を見ろ。見捨てていけと、そう言うのか…!'
「駄目だ……」
その時、俺とセーラに支えられながら、猫科の獣人女性が苦しげに囁いた。
「その者たちは……薬で動けない。私のように、ただ鎖を断てば済む話ではない……」
「薬……?」
「ああ……。無理に動かせば、死ぬ。今は……私を外へ。私さえいれば、いずれ……」
彼女の言葉は途切れたが、その意味は痛いほど伝わってきた。彼女自身が、この状況を打開する『鍵』だということか。だとしたら、今は彼女一人を優先するしかない。
「ナオキ!」
ヒルダが俺の顔を見る。その目には、悔しさと怒りが渦巻いていた。
'……クソっ!'
俺は奥歯を強く噛みしめた。檻の中の獣人たちと、背後のバルク、そして追ってくる敵。全てを天秤にかけ、最も生存確率の高い選択をしなければならない。
「……ライアン! 出口はまだか!」
俺は非情な決断を下し、叫んだ。
「はい! この先です! 古い地下の搬出口を見つけました! おそらく、今は使われていません!」
「よし、そこを破るぞ!」
俺の決断に、セーラは唇を強く噛みしめ、溢れそうな涙を必死にこらえて走り出す。ヒルダは一度だけ檻の方を忌々しげに振り返ると、無言で前を向いた。
俺たちは、檻の中の絶望的な視線を背中に受けながら、地下へ続く扉へ向かった。
背後から、追手の怒号と軍靴の音が迫ってくる。バルクが最後尾で盾を構えながら後退し、俺たちのところまで下がってきた。
「少しでも足を止める!」
バルクが通路を抜けたのを確認してから、俺は振り返り、床へ手を向けた。
'土魔法――アースウォール!'
石床が砕け、低い土壁のように盛り上がる。完全な壁には程遠い。だが、狭い通路で追手の足を止めるには、それで十分だった。
「今のうちだ!」
ライアンが指差した先には、埃をかぶった古い鉄の扉があった。
* * *
地下搬出口は、頑丈な南京錠で固く閉ざされていた。
「この錠前、かなり頑丈です……!」
「どけ!」
俺はライアンを押し退け、先ほど使ったボルトクリッパーを再び構えた。
'身体強化LV3!'
腕と背中に力が巡る。俺は全体重を乗せてハンドルを握りしめた。
バキン!
再びけたたましい音を立てて、南京錠が破壊される。俺たちは雪崩を打って、錆びた鉄の扉を開け放った。
カビ臭く、それでいてひやりと冷たい夜の空気が顔を撫でる。外の路地裏だ。一瞬の解放感。だが、それはすぐに背後から迫る足音によって打ち砕かれた。
「急げ! 追いつかれるぞ!」
俺たちは一人ずつ外へ飛び出す。最後に出た俺が扉を閉めようとした、その時。
ガァン!
内側から、扉に強い衝撃が加わった。敵がもう追いついたのだ。
「ナオキ、早く!」
俺は扉に背を預け、全体重をかけて押さえつける。だが、内側からの力は凄まじく、腕が痺れる。ミシミシと蝶番が悲鳴を上げ、扉が数ミリずつ押し開かれていく。隙間から覗く敵の憎悪に満ちた目が、俺を射抜いた。
「ぐっ……!」
その瞬間、背後から巨大な影が俺を覆った。まるで守護神の降臨だった。
「どけ」
バルクだった。彼は俺を片手で赤子のように引き剥がすと、盾を扉に叩きつけた。
ゴッ! という鈍い音と共に、扉が内側へ弾け飛ぶ。壁に叩きつけられる鈍い音と、短い悲鳴が闇に吸い込まれていった。
「行くぞ」
バルクはそれだけ言うと、俺たちを促した。
束の間の静寂が路地裏を包む。俺とセーラは猫科の獣人女性を壁際に座らせ、彼女は荒い息をついていた。
「あんた、一体……」
俺が彼女に問いかけようとした、その時だった。
ゴオオオォォォン……!
最初は一つ。遠くで鳴り響く、重々しい音。だが、それに呼応するように、次々と鐘の音が増えていく。東から、西から、帝都のあらゆる場所から。それは不協和音の洪水となり、逃げ場のない巨大な檻に閉じ込められたことを告げていた。
ゴオオオォォォン……!
帝都全域に設置された警戒鐘が、一斉に鳴らされている。倉庫という小さな罠から脱出した結果、俺たちは、帝都という巨大な罠に捕捉されたのだ。
ヒルダが天を仰ぎ、奥歯を噛みしめる。ライアンは冷静さを装いながらも、その目は次の一手を求めて激しく動いていた。セーラは女性をかばうように抱きしめ、小刻みに震えている。バルクだけが、変わらず盾を構え、闇の向こうを睨みつけていた。
鐘の音が鳴り響く中、猫科の獣人女性が、絶望に顔を歪ませ、力なく呟いた。
「……もう遅い。あなたたちは、帝国に見つかった」
ここまで読んでいただきありがとうございます!
少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークしてもらえると励みになります!
評価や応援コメントは、とても励みになっています。




