第115話 倉庫の中
「これは……猫科の獣人の匂いだ」
ヒルダの震える声が、宿屋の一室に重く響いた。部屋の空気が一瞬で凍りつく。昨日見た荷馬車にはいなかったはずの、新たな獣人の存在。その事実は、俺たちの判断を一気に急がせた。
「……今すぐ行くぞ!」
最初に動いたのはヒルダだった。椅子を蹴立てるように立ち上がり、ドアへと駆け寄る。
「待て!」
俺は素早くその腕を掴み、力強く引き留めた。
「離せ、ナオキ! あたしたちがもたもたしてる間に、そいつがどうなるか分かんねえだろ!」
「分かってる! だからこそ、無策で突っ込むわけにはいかない!」
俺はヒルダの目を真っ直ぐに見据えて言った。
「無策で突っ込んで、俺たちが捕まったらどうなる? 助けるどころか、囚人が増えるだけだ。それで満足か?」
「……っ、けどよ!」
「ナオキさんの言う通りです、ヒルダ」
ライアンが冷静に、しかし強い口調でヒルダを諭す。
「敵は帝国兵まで動かす巨大な組織です。我々がレクトを発見したことで、倉庫の警備は今頃さらに厳重になっているはず。今、正面から行けば確実に返り討ちに遭います」
「そうよ、ヒルダ……。ナオキの言う通りよ。」
セーラも不安げな顔でヒルダを見上げた。ヒルダはギリ、と奥歯を噛みしめ、掴まれた俺の腕を睨みつけたが、やがて諦めたように肩の力を抜いた。
「……分かったよ。どうすりゃいいんだ」
俺は腕を離し、テーブルに広げられたライアンの地図に視線を落とした。
「目的を再確認する。今夜は、無理に全員を救い出さない。潜入して状況を確認し、助け出せる相手から確実に助ける。決して戦闘を目的にするな」
俺の言葉に、全員が固い表情で頷く。
「そのためには、新しい道具がいる」
俺はマリエクを起動した。キーワードは『潜入』『偵察』。いくつもの商品が半透明のウィンドウに表示される。その中から、俺は一つのアイテムを選んだ。
[検索結果:モニター付き工業用内視鏡カメラ 10,000円]
[送料:2,000円]
[合計:12,000円]
【現在の残高:27,662,000円】
手の中に、小さなモニターと、ケーブルの先に米粒大のカメラが付いた黒い装置が現れる。工業用の内視鏡だ。
「これで、扉や壁の隙間から内部を偵察する。安全が確認できなければ、今夜は引き返す。いいな?」
「……おう」
ヒルダが短く答える。その目には、焦りの代わりに冷たい決意が宿っていた。
「役割分担を最終確認する。ヒルダは匂いでの先行、ただし単独行動は厳禁。ライアンは地図での案内と後方警戒。バルクは物理的な障害の排除と殿。セーラは負傷者が出た場合の回復と周囲警戒」
俺は全員の顔を見渡し、最後に言った。
「俺は全体の指揮と、このカメラでの偵察を担当する。動くのは、見張りの数が最も減り、警戒が緩む深夜二時だ。それまで装備を整え、仮眠を取れ」
俺の命令に、仲間たちは静かに、しかし力強く頷いた。帝都の深い闇が、俺たちの再訪を待っている。
* * *
深夜。帝都が深い眠りにつく頃、俺たちは再びあの倉庫地区に足を踏み入れた。昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、建物の影が怪物のように伸びている。
「……見張りの数、前に見た時より多いな」
俺は建物の屋上から、赤外線暗視単眼鏡で倉庫の周囲を窺う。黒服と帝国兵が、倍近くに増員されていた。
「ライアン、地図を」
「はい。こちらです」
ライアンが広げた精密な地図と、ヒルダの嗅覚だけが頼りだ。
「ヒルダ、頼む」
「こっちだ。風下になってる。この壁の向こう側なら、人の匂いが薄い」
ライアンが地図に目を落とし、小さく頷く。
「見張りの配置も、こちら側が一番手薄です」
俺たちはヒルダの先導で、物音一つ立てずに建物の影から影へと移動する。心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
やがて、俺たちは巨大な倉庫の裏手、ライアンが地図に印をつけていた場所にたどり着いた。そこには、今は使われていない様子の、古びた木製の搬入口があった。
「ここなら、屋上の見張りからも死角になります」
ライアンが声を潜めて言う。問題は、この扉の向こう側だ。
「バルク」
俺が目で合図すると、バルクは静かに扉に近づき、閂の構造を確かめる。そして、問題なく開けられると小さく頷いた。
「待て。俺が中を確かめる」
俺はファイバースコープカメラを取り出し、ケーブルを慎重に扉の隙間へと差し込んだ。手元のモニターに、暗視モードで撮影された内部の映像が映し出される。
埃っぽい床と、無造作に積まれた古い木箱。それだけだ。
'……よし'
俺はカメラをゆっくりと動かし、左右、そして上方をくまなく確認する。
「見える範囲に人影はない。入るだけなら、いける」
俺は短く告げ、バルクに目配せした。
「行くぞ」
仲間たちの間に、緊張が走る。バルクが閂に手をかけ、ゆっくりと力を込めた。
* * *
ギ、という微かな音を立てて扉が開き、俺たちは闇の中へと滑り込んだ。ヒルダが素早く内部の匂いを嗅ぎ、近くに人の気配がないことを確かめる。
中に入った瞬間、俺たちは息を呑んだ。外から見た古びた倉庫の印象とは、まるで違う。鼻を突くのは、強烈な薬品の匂いと、鉄錆、そして生々しい血の匂いが混じり合った異様な悪臭だった。
「ひどい……」
セーラが口元を押さえる。床のあちこちには黒い染みがこびりつき、壁には正体不明の器具がいくつも取り付けられていた。
「ただの倉庫じゃねえ。処置室か、拷問部屋か……」
ヒルダが、吐き捨てるように言った。俺たちは武器を抜き放ち、警戒しながら奥へと進む。
やがて、巨大な鉄格子の檻がいくつも並んだ空間に出た。そして、その中に折り重なるようにして囚われている、衰弱しきった獣人たちの姿を発見する。
「ああ……!」
セーラが悲鳴のような声を上げた。檻の中の獣人たちは、俺たちの存在に気づいても、もはや反応する力も残っていないようだった。その瞳からは、完全に光が失われている。レクトが言っていた「泣き声」は、彼らのものだったに違いない。
「助けなきゃ……!」
セーラが檻に駆け寄ろうとする。
「待て!」
俺はセーラの腕を強く掴んだ。
「でも、この人たちをこのままじゃ……!」
「今、全員を連れては逃げられない。騒ぎになれば、俺たちもここで終わりだ」
俺は非情に言い放った。
「……見捨てるってのかよ」
ヒルダの声が低く震えた。
「見捨てない。だが、優先順位がある」
俺はヒルダの目を真っ直ぐに見返し、冷たい声で言った。
「まず、この施設の核心にいるであろう獣人を確保する。情報を得て、敵の正体を暴く。そうでなければ、ここにいる連中も、これから捕まる連中も、永遠に救えん」
「……っ!」
俺の言葉に、ヒルダは唇を噛みしめた。悔しさと無力感が、重くのしかかる。
「……分かったよ。行こうぜ、ナオキ」
最初に沈黙を破ったのは、意外にもヒルダだった。彼女は檻の中の獣人たちに背を向け、倉庫の奥を睨みつけた。
「こいつらのためにも、さっさと元凶をぶっ潰す。それしかねえ」
その目に、決意の炎が燃え盛る。セーラも涙をこらえ、固く頷いた。俺たちは囚われた獣人たちに背を向け、さらに奥深くへと足を進めた。
* * *
薬品と血の匂いが充満する中、ヒルダは床や壁に残るわずかな痕跡を頼りに、迷路のような倉庫の奥へと俺たちを導いた。
やがて、一番奥まった区画で、他とは違う頑丈な鉄の扉の前でヒルダが足を止める。
「……ここだ。この中から、一番強く匂いがする」
扉には、これまでの檻とは比べ物にならないほど複雑で頑丈な鍵がかけられていた。
「バルク」
俺が短く命じると、バルクは頷き、扉の金具に手をかけた。錠前は頑丈だったが、なぜか最後まで掛かっていない。
バルクは力を込め、歪んだ金具を少しずつ押し開いていく。
数秒後、カチリ、と小さな音がした。
俺の合図で、バルクが音もなく扉を開いた。
中は、石造りの小さな独房だった。壁には一本の鎖が伸び、その先には一人の女性が繋がれている。しなやかな体躯、尖った猫の耳、そして長く美しい尻尾。
間違いなく、猫科の獣人だった。
彼女もまた衰弱していた。頬はこけ、手足には枷の跡が残っている。だが、その琥珀色の瞳だけは、まだ死んでいなかった。鋭い警戒心を宿した目が、俺たちを射抜く。
俺たちが部屋に足を踏み入れた瞬間、彼女の瞳が驚愕に見開かれる。警戒から、信じられないという表情、そして深い絶望へと変わった。
彼女は、か細く、しかしはっきりとした声で言った。
「なぜ来た……。ここは、罠だ」
その言葉が、静かな独房に響き渡る。
直後。
ダンダンダンッ!
通路の向こうから、複数の重い軍靴の音が、急速にこちらへ近づいてくるのが聞こえてきた。
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