第113話 獣の嗅覚
翌朝。
俺たちは冒険者ギルドで薬草採集依頼の完了を報告し、報酬の銀貨五枚を受け取った。
【薬草採集依頼報酬:5,000円】
【現在の残高:27,700,000円】
ギルドを出た俺たちは、黒服の荷馬車を目撃した裏道へ向かった。
あれから一晩。多くの人や馬車が通った石畳に、どれほど匂いが残っているかは分からない。
ヒルダは路面へ視線を落とし、ゆっくりと鼻を鳴らした。
「簡単じゃねえな。人も馬車も通ってる。けど、完全には消えてねえ」
「頼めるか?」
「誰に言ってんだ。任せな」
ヒルダの口元に、好戦的な笑みが浮かんだ。
「よし。なら、役割を決める」
俺は全員の顔を、もう一度見渡した。
「ヒルダは先頭。お前の嗅覚だけが頼りだ。ただし、絶対に一人で突っ込むな」
「分かってるっての」
「ライアンはヒルダの後ろで、周囲の警戒と地図の作成。追跡ルートを正確に記録しろ。後で必ず役に立つ」
「承知しました。」
ライアンが眼鏡の位置を直し、手帳とペンを取り出す。
「バルクは最後尾。俺たちの背後を常に警戒しろ。追跡に気づかれた場合、お前が生命線になる」
バルクは言葉なく、しかし力強くこくりと頷き、センチネル・ガーディアンを背負い直した。
「セーラは俺とライアンの間だ。左右の路地や建物の窓を警戒してくれ。誰かが負傷した時は頼む」
「わかったわ!」
セーラは緊張に顔を強張らせながらも、腰の短剣に手を添えた。
「俺はヒルダの少し後ろで、全体の指揮と前方警戒を担当する。いいか。今回の目的は追跡と拠点の特定のみだ。決して戦闘はするな。分かったな?」
俺が念を押すと、全員が固い表情で頷いた。
「よし。……行くぞ」
ヒルダはしゃがみ込み、石畳に残る匂いを確かめるように、ゆっくりと息を吸った。
ユニークスキル『獣の嗅覚』。あらゆる匂いを嗅ぎ分けるこの力が、今は唯一の手がかりだ。
しばらくして、ヒルダが顔を上げた。
「……こっちだ。まだ残ってる」
ヒルダが、荷馬車の消えた方角へ続く細い路地を指差す。俺たちは周囲を警戒しながら、その後を追った。
* * *
帝都の裏通りは、まるで迷路のようだった。
ヒルダは時折立ち止まり、地面や壁の匂いを嗅ぎながら、確かな足取りで俺たちを導いていく。
「すごい……本当に匂いで分かるんですね」
セーラが感心したように呟く。
「当たり前だろ。あたしの鼻をなめんなよ」
ヒルダは誇らしげに鼻を鳴らすが、その額には玉のような汗が浮かんでいた。帝都の喧騒は、ありとあらゆる匂いの洪水だ。食い物の匂い、人々の汗の匂い、香水の匂い、そして汚水の匂い。その中から特定の痕跡だけを追うのは、相当な集中力を要するのだろう。
「ライアン、状況は?」
「はい。現在、商業区を抜け、貴族街の外れに向かっているようです。地図は順調に作成しています」
ライアンは周囲を常に警戒しながらも、手元の羊皮紙に淀みなく地図を描き込んでいく。その精密さは、もはや職人芸の域だった。
「……ちっ!」
しばらく進んだところで、先頭を走っていたヒルダが突然立ち止まり、忌々しげに舌打ちした。
「どうした、ヒルダ?」
「大通りに出ちまった……! いろんな匂いが混ざりすぎて、分かんねえ!」
目の前には、帝都のメインストリートが広がっていた。行き交う人々の波、辻馬車の往来、そして様々な店から立ち上る匂いの渦。ヒルダの鼻が、ここで飽和してしまったのだ。
「くそっ、どっちに行ったんだ……!?」
ヒルダが焦燥に駆られ、右往左往する。このままでは、せっかく掴んだ尻尾を見失ってしまう。
「落ち着け、ヒルダ。焦るな」
俺はヒルダの肩に手を置く。
「でもよ!」
「こういう時のために、俺たちがいるんだろうが」
俺はライアンに目配せした。
「ライアン、何か気づいたことは?」
「はい。ナオキさん、地面を」
ライアンが指差した石畳には、無数の車輪の跡が刻まれていた。
「ほとんどは軽い辻馬車のものですが……いくつか、ひどく深く、特徴的な轍があります。おそらく、かなりの重量物を積んだ荷馬車のものです」
'これか!'
俺は膝をつき、その跡を指でなぞる。他の跡よりも明らかに深く、轍の幅も広い。昨日見た荷馬車と同程度の大きさなら、この跡である可能性は高い。
「この跡を辿れば……」
「ええ。しかし、大通りでは他の馬車の跡と混ざり、すぐに追えなくなるでしょう。何か、他に目印になるものは……」
ライアンが思案顔で呟いた、その時だった。
「……待て」
ヒルダが、一点を睨みつけたまま、ぴくりと鼻を動かした。
「どうした?」
「この匂い……さっきの荷馬車の匂いに、微かに混じってた匂いだ……」
ヒルダはそう言うと、ふらふらと匂いの源を探して歩き始めた。そして、ある薬問屋の軒先で足を止める。そこからは、独特の薬品の匂いが漂っていた。
「薬品……?」
「ああ。鉄臭さと、獣人たちの匂い、それから、この鼻につく薬品の匂い。あの荷馬車には、その三つが混じってた」
「何の薬かまでは分かるか?」
「そこまでは無理だ。けど、匂いを追う目印にはなる」
薬品の正体は分からない。今は、荷馬車へつながる痕跡であることだけで十分だ。
「ヒルダ、その匂いを追えるか?」
「ああ! この匂いなら、他の生活臭とは混ざりにくい! これならイケる!」
ヒルダの顔に、再び自信が戻る。
「ライアン、車輪の跡と薬品の匂い。二つの情報を合わせて、ルートを絞り込め」
「はい!」
鼻と目。それぞれの専門家の力が合わさり、追跡の精度が格段に上がった。俺たちは、今度こそ確かな手応えを感じながら再び走り出す。
* * *
追跡は、帝都の華やかな中心部から、徐々に寂れた外縁部へと俺たちを導いた。
きらびやかな建物は姿を消し、代わりに並ぶのは古びた倉庫や、打ち捨てられた家々だ。人通りもまばらになり、不気味なほどの静寂が辺りを支配している。
「……この辺りだ。匂いが、どんどん強くなってる」
ヒルダが声を潜め、前方の巨大な倉庫を指差した。
それは、この地区でも一際大きく、そして古びたレンガ造りの倉庫だった。窓は全て板で塞がれ、入り口の巨大な鉄の扉は固く閉ざされている。
「あそこか……」
俺たちは近くの建物の陰に身を隠し、倉庫の様子を窺う。
すると、倉庫の屋根や、周囲の建物の物陰に、複数の人影が潜んでいるのが見えた。
「……見張りか」
「かなりの数ですね。ざっと見ただけでも、十人は超えています」
ライアンが険しい顔で報告する。しかも、その装備はただの見張りではない。黒服の連中に加え、見慣れた意匠の鎧を着た者たちもいる。
「……あれは、帝国の正規兵だ」
バルクが、低い声で呟いた。
'黒服と、帝国兵が同じ場所を警備している……。少なくとも、両者が無関係とは思えない'
追跡を始めてから数時間。空はすでに茜色に染まり、古い倉庫の周囲には夜の闇が広がり始めていた。
肉眼では、建物の陰に潜む見張りの姿を捉えにくい。
俺はマリエクを起動した。
[検索結果:赤外線暗視単眼鏡 20,000円]
[送料:2,000円]
迷っている時間はない。俺は購入ボタンを押した。
【現在の残高:27,678,000円】
手の中に現れた黒い単眼鏡の電源を入れ、倉庫へ向ける。
暗闇の中に、建物の周囲を巡回する複数の人影が浮かび上がった。黒服だけではない。その中には、帝国兵と同じ鎧を身につけた者も混じっている。
警備の配置、兵士たちの装備、そして彼らの視線の動き。全てが、プロのそれだった。素人が手を出せるレベルではない。
「ヒルダ、匂いはどうだ?」
「間違いない。昨日の荷馬車と同じ匂いだ。この倉庫の中から、強く匂ってくる」
ヒルダの断言に、俺は頷いた。
目的地は、ここで確定だ。
「よし、今日のところは撤退す……」
俺がそう言いかけた、その時だった。
ギィィ……ッ!
重く錆びついた音を立てて、倉庫の鉄の扉がゆっくりと開き始めた。
* * *
俺たちは息を殺し、開いていく扉を凝視した。
中から現れたのは、二人の黒服の男。そして、彼らに両脇を抱えられ、引きずられるようにして出てきた一人の男だった。
「……!」
その男の顔を見て、俺たちは息を呑んだ。
見覚えがある。間違いない。先日、冒険者ギルドから理由もなく連行されていった、あの冒険者だ。
「……解放、されたのか?」
ヒルダが信じられないといった様子で呟く。
黒服たちは男を両側から支えたまま、倉庫を離れていく。
「どこへ連れていくつもりだ……?」
俺たちは見張りに気づかれないよう倉庫から離れ、黒服たちの後を追った。
数本先の人気のない路地で、黒服たちは男を壁際へ座らせると、振り返りもせず立ち去った。
完全に姿が見えなくなるまで待ち、俺たちは男へ駆け寄る。
「おい、大丈夫か?」
男はゆっくりと顔を上げた。
焦点の合わない目が、俺たちの顔を順番に見つめる。
「あんた、先日ギルドで黒服に連れて行かれた冒険者だろ?」
「……黒服?」
男が掠れた声で聞き返す。
「覚えていないのか?」
男は頭を押さえ、苦しそうに眉を寄せた。
「名前は分かるか?」
「……レクトだ。冒険者をしている」
自分が誰なのかは分かっている。
「ギルドで何があった?」
男は答えようとして口を開く。だが、どれだけ考えても言葉が出てこない。
やがて、怯えたように俺たちを見上げた。
「俺は……あれから今まで、どこにいたんだ?」
その問いに答えられる者は、ここにはいなかった。
俺は、倉庫のある方角を振り返った。
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