第112話 目撃
老人が闇に消えた後も、俺たちはしばらくその場から動けなかった。カビ臭い路地裏には、老人が残した不気味な謎だけが満ちている。
「……宿に、戻りましょう」
セーラの震える声で、俺たちは我に返った。
無言で頷き合い、薄暗い路地を抜けて大通りへと戻る。偽りの活気が、再び俺たちを包み込んだ。
「あのジジイ、一体何者なんだよ……」
宿への道を歩きながら、ヒルダが忌々しげに吐き捨てた。
「敵じゃないと言っていたが、信用できるのか?」
「さあな。だが、奴が言っていたことは無視できない」
俺は腕を組み、頭の中で情報を整理する。
黒服に連れ去られ、記憶を失って戻ってくる人間。そして、煙のように消える獣人の奴隷たち。
「連れ去られた人たちの記憶と、獣人の神隠し……。この二つは、本当に関係しているのでしょうか」
ライアンが、眼鏡の奥で鋭い光を宿して言った。
「関連してるに決まってんだろ! きっとあの黒服の奴らが、人も獣人も攫ってんだよ!」
「だが、老人の話では獣人の失踪に黒服の目撃情報がない。そこが奇妙だ」
俺の指摘に、ヒルダはぐっと言葉を詰まらせる。
「それに……もし連行された人間が記憶を失うのが本当なら、それは単なる脅しや暴力とは次元が違う。魔法か、あるいは……」
'……薬物か'
俺はそこまで口にするのをやめた。セーラをこれ以上不安にさせる必要はない。
「ナオキさん……あの、獣人さんたちは、どうなってしまうんでしょうか……」
セーラが、今にも泣き出しそうな顔で俺の服の袖を掴む。
「……分からない。だが、いいようにはなっていないだろう」
俺は率直に答えた。
「だったら、さっさと動こうぜ! ぼーっとしてる場合じゃないだろ!」
ヒルダが拳を握りしめて息巻く。
「待て。それは早計だ」
俺はヒルダを制した。
「なんでだよ! 黙って見てろってのか!?」
「そうは言っていない。だが、証拠もない。敵の規模も、目的も、どこに拠点があるかも何も分からない。今動けば俺たちも消される側になるだけだ」
俺の言葉に、ヒルダが押し黙る。ライアンも静かに頷いた。
「ナオキさんの言う通りです。今の我々には、情報があまりにも不足しています。敵の正体も、目的も、規模も分からないまま動くのは危険すぎます」
「じゃあ、どうすんだよ……」
ヒルダが悔しそうに俯く。
俺は一度立ち止まり、仲間たち一人一人の顔を見回した。
「まずは、足元を固める。俺たちは冒険者でもある。表向きは、その立場を利用する」
「冒険者を……?」
「ああ。簡単な依頼を受けながら、この街を知る。地理、人の流れ、黒服の動き……どんな些細なことでもいい。情報は武器だ」
俺は、かつて自分が生きていた世界を思い出す。情報戦。それは、剣や魔法がなくとも人を殺せる戦いだ。
「感情で動くな。冷静になれ。まずは情報を集める。敵の正体も分からないまま動くほど、俺たちは強くない」
俺の静かな決意に、仲間たちは息を呑んで頷いた。バルクもまた、傍らで力強くこくりと頷く。
「……分かった。あんたがそう言うなら、従う」
ヒルダが、ようやく納得したように言った。
俺たちは再び歩き出す。宿の灯りが、すぐそこに見えていた。
* * *
翌朝、俺たちは再び冒険者ギルドの重い扉を開けた。
昨日とは違い、ギルド内の喧騒は俺たちの耳にただの情報として入ってくる。荒くれ者たちの怒声、依頼を自慢する声、酒の注文。その全てから、この街の空気と流れを読み取ろうと神経を集中させる。
「さて、どうする? 手始めにゴブリンでも狩りに行くか?」
ヒルダが依頼ボードを眺めながら、腕を鳴らした。
「いえ、討伐依頼は目立ちすぎます。我々の目的は情報収集。戦闘は極力避けるべきです」
ライアンが冷静に彼女を諌める。
「ちぇっ。分かってるっての」
俺は依頼書がびっしりと貼られたボードの中から、いくつかの依頼に目星をつけた。
「これだ」
俺が指差したのは、『帝都近郊の丘陵地帯における、ヒーリングハーブの採集』だった。
「薬草採集?」
「ああ。採集依頼なら帝都周辺の地形も見て回れる。まずは土地勘を掴むことを優先する」
「なるほど……。確かに、それなら目立たずに情報を集められますね」
セーラが納得したように頷いた。
「よし。じゃあ、まずはこの薬草採集からだ。半日もあれば終わるだろう」
俺は採集依頼の依頼書を剥がし、受付カウンターへ向かった。
受付には昨日と違う気だるそうな男がいた。
「……ああ? ヒーリングハーブの採集? お前らみたいなのがやる依頼じゃねえぞ」
男は俺たちの装備、特にバルクの巨大な盾を見て、訝しげに言った。
「たまにはのんびりしたいんでな。それに、帝都に来たばかりで土地勘もない」
「……ふん、まあいい。依頼主はそこの薬屋だ。詳しい話は直接聞け」
男はそう言うと、依頼書に判を押し、無造作にこちらへ返した。
俺たちは薬屋で簡単な説明を受け、すぐに帝都の門を抜けた。
情報収集という、静かな戦いが始まる。
* * *
依頼は、拍子抜けするほど簡単だった。
目的の薬草は丘陵地帯に群生しており、一時間もかからずに必要な量を集めることができた。
「楽な仕事だったな! こんだけで銀貨五枚なら、悪くねえ!」
ヒルダが満足そうに背伸びをする。
「帰りましょうか。少し、日が傾き始めていますし」
セーラの言葉に、俺たちは帝都への帰路についた。
大通りは相変わらず人でごった返している。俺は無意識に、人混みを避けて一本裏の道を選んだ。昨日、老人と話したような暗い路地裏ではない。商人たちが荷運びなどに使う、少し広めの裏道だ。
その時だった。
前方の角から、複数の足音と、重い車輪が石畳を軋ませる音が聞こえてくる。
俺は咄嗟に仲間たちを手で制し、近くの建物の陰に身を隠した。
「……どうした、ナオキ?」
「静かに」
やがて、角からその一団が姿を現す。
俺は息を呑んだ。
黒服だ。
昨日ギルドで見たのと同じ、黒一色の外套に身を包んだ男たちが六人。
そして、その中央には……。
'……荷馬車?'
馬一頭が引く、大型の荷馬車。荷台は分厚く黒い防水布で完全に覆われ、中身を窺い知ることはできない。だが、その異様さは一目で分かった。ただの荷物を運んでいる雰囲気ではない。厳重な警戒。そして、荷馬車から漂う、微かな淀んだ空気。
俺たちが息を殺して見守っていると、荷馬車の車輪が石畳の大きなへこみにはまった。
ガタンッ!
荷馬車が大きく揺れる。
その瞬間。
ガシャァン!
荷台の奥から、複数の重い鉄鎖がぶつかり合う、鈍い音が響いた。
「「「……っ!」」」
仲間たちの喉が、ひきつるのが分かった。
「ちっ、ちゃんと運べ!」
黒服の一人が苛立ったように舌打ちし、中の様子を確かめるためか、防水布の端を乱暴にめくり上げた。
ほんの一瞬。
布の隙間から、俺たちの目に信じられない光景が飛び込んできた。
長く、先のとがった耳。
汚れた毛に覆われた、痩せた腕。
そして、その手首にはめられた、錆びついた鉄の枷。
'……獣人だ'
中にいるのは、間違いなく獣人だった。一人や二人ではない。荷台の薄暗い奥に、何人もの影が折り重なるようにうずくまっているのが見えた。
黒服の男はすぐに布を元に戻すと、何事もなかったかのように再び歩き始めた。
重々しい車輪の音と足音が遠ざかっていく。
一団が完全に角を曲がって見えなくなるまで、俺たちは金縛りにあったように身動き一つできなかった。
「……今の……」
セーラが、か細い声で呟く。
「ああ……見た」
老人の話が脳裏をよぎる。
あれが、本当に人知れず消えていく獣人たちなのだろうか。
* * *
黒服の一団が消えても、俺たちは動けなかった。荷馬車が残した鉄の匂いと、絶望の気配だけが生々しい。
「……おい、ナオキ! 追うぞ!」
最初に沈黙を破ったのはヒルダだった。建物の陰から飛び出し、血走った目で叫ぶ。
「このまま行かせていいのかよ! 中には獣人の人たちが……!」
「待て!」
俺はヒルダの腕を強く掴んで引き留めた。
「離せ! あいつらを逃す気か!?」
「今、追ってどうなる!?」
俺は低い声で問いかける。
「奴らはプロだ。あれだけの人数で、重要な『荷物』を運んでいる。俺たちが後をつけたと分かれば、警告もなく俺たちを消しに来るぞ」
「……っ、けどよ!」
「お前の気持ちは分かる。俺だって今すぐあの荷馬車を叩き斬ってやりたい。だが、それで俺たちが死んだら、誰が奴らの悪事を暴く? 誰が他の奴隷を救うんだ?」
俺の言葉に、ヒルダは唇を噛みしめ、悔しさに顔を歪めた。掴んだ腕が、怒りで震えている。
「……ナオキさんの言う通りです、ヒルダ。今は、我慢するしか……」
ライアンが静かに言った。
俺は掴んでいた腕を離すと、荷馬車が消えていった方角――帝都の中心部へと続く道を睨み据えた。
'……追わない。だが、忘れはしない'
黒服の人数、六人。大型の荷馬車。そして、それが向かった方角。
俺は、見たもの全てを脳に焼き付けた。
「……宿に戻るぞ」
俺は、仲間たちに背を向けた。
「作戦を立て直す」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
帝都の闇は、想像以上に組織的で悪質だ。
だが、尻尾は掴んだ。
この巨大な悪意にどうやって最初の一撃を叩き込むか。俺は静かに次の一手を思考し始めた。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークしてもらえると励みになります!
評価や応援コメントは、とても励みになっています。




