第110話 歪んだ活気
翌朝。
宿屋の食堂には、石のように硬いパンと、色ばかりで味のしないスープが並んでいた。帝都の物価を考えれば文句は言えないが、アルテナの心のこもった食事が恋しくなる。
「くそー、昨日の屋台の串焼き、食っとけばよかったぜ! あんなにいい匂いさせてたのに!」
ヒルダがパンを無理やりかじりながら、心底悔しそうにテーブルを叩く。昨夜の重苦しい空気を振り払うかのような、わざとらしいほど明るい声だった。
「ヒルダ、もう! 昨日はそれどころじゃなかったでしょう」
セーラが呆れたように言うが、その顔色はまだ少し青白い。昨夜、路地裏で見た光景が、彼女の心に重くのしかかっているのは明らかだった。
「……あの後、眠れましたか?」
ライアンが気遣わしげにセーラへ尋ねる。
「ええ、なんとか……。でも、あの人の叫び声が、まだ耳の奥で……」
セーラは俯き、温もりのないスープの器を両手で包み込んだ。バルクは何も言わない。ただ、いつもよりゆっくりと、そして注意深くパンを口に運んでいる。彼の視線は、時折食堂の入り口や窓の外へ鋭く向けられていた。決して警戒を解いていない証拠だ。
「……まあ、気持ちは分かる」
俺は味のないスープを一口飲むと、静かに口を開いた。仲間たちの視線が俺に集まる。
「だが、今は感情で動く時じゃない。昨日のあれがこの街の日常なら、俺たちが下手に動けば同じことになるだけだ」
「じゃあ、どうすんだよ! あのまま見て見ぬふりしろってのか!?」
ヒルダが食ってかかる。その瞳には、抑えきれない怒りの炎が揺れていた。
「そうは言っていない。相手が誰で、何が目的なのか。何も分からないままじゃ、戦いようもないだろう」
俺の冷静な言葉に、ヒルダはぐっと唇を噛んで黙り込んだ。不満げな顔は変わらないが、俺の言葉の意味は理解したようだった。
「昨日見た連中が何者なのか、それだけでも掴む。話はそこからだ」
「……分かった。あんたがそう言うなら」
ヒルダはパンの最後の一片をスープに浸し、乱暴に口へ放り込んだ。
「よし。方針は決まったな。腹ごしらえが済んだら、早速街へ出るぞ」
俺の言葉に、仲間たちは静かに、しかし力強く頷いた。重く沈んだ空気が、ようやく一つの目標に向かって動き出す。この巨大な帝都の闇に、俺たちは今から足を踏み入れる。
* * *
俺たちは、帝都で最も活気があるという商業区へ向かった。
そこは、アルテナとはまさに別世界だった。石畳の道はどこまでも広く、道の両脇には五階建て、六階建てはありそうな豪華絢爛な建物がずらりと並んでいる。馬車の立てる音、人々の喧騒、様々な店から漂う香辛料や香水の匂いが混じり合い、むせ返るような熱気を作り出していた。
「うわ……! 何だこの服! キラキラしてる!」
「見てください、ナオキさん! あの果物、見たこともないです! 宝石みたい……!」
セーラとヒルダが、ショーウィンドウに飾られた商品に目を輝かせている。王国では大貴族でなければ手に入らないような宝飾品や、異国産の珍しい織物が、ここでは当たり前のように無造作に並べられていた。
「金さえあれば、何でも手に入る街、か」
俺は行き交う人々の流れを眺めながら呟いた。誰もが上等な服を着て、楽しげに買い物をしている。だが、その笑顔にはどこか乾いたものが混じっているように見えた。まるで、精巧に作られた仮面を被っているかのようだ。
'まずは、一番口が軽そうな場所からだ'
俺は、いくつもの露店が並ぶ市場の一角で、人の良さそうな笑顔を浮かべた初老の織物商に声をかけた。
「親父さん、景気が良さそうだな」
「へっへっへ。おかげさまでね。帝都は物が飛ぶように売れるんでさあ」
親父は愛想よく笑う。俺は当たり障りのない会話で間合いを詰め、それとなく本題を切り出した。
「これだけ人がいれば、揉め事も多いんじゃないか? そういえば昨日、街の兵士とは違う、黒い服を着た連中が少し騒ぎを起こしていたが……あれは一体?」
その瞬間、親父の顔から笑顔が張り付いたまま固まった。そして、まるで古びた壁土が剥がれ落ちるように、ゆっくりと無表情に変わっていく。
「……さあね。旅の方かい? あんまり、余計なことには首を突っ込まない方がいい。この街で長く商売を続けたけりゃあね」
声のトーンが三段階は低くなる。それまで饒舌だった口が、ぴたりと閉ざされた。親父は俺から視線を逸らすと、そそくさと商品の布を畳み始めた。
「……そうか。忠告どうも」
俺は早々に話を切り上げ、その場を離れた。
「ナオキ、今の……」
「ああ。分かりやすい反応だ」
俺は別の店、今度は香辛料を扱う強面の男に同じ質問をぶつけてみた。男は一瞬、ビクリと肩を揺らした。
「黒服だと? ……知らんな。俺は一日中ここにいたんでね。何も見てないし、何も聞いてないよ」
男はそう言うと、ぷいと顔をそむけ、別の客の対応に戻ってしまった。その目は、明らかに嘘をついている者の目だった。
その後も、何人かの商人に話を聞いてみた。だが、結果は同じだった。
黒服の話題を出した途端、彼らは貝のように口を閉ざす。あるいは、怯えたように目をそらし、聞こえないふりをする。昨日見た、見て見ぬふりをする市民たちの姿が蘇る。この街全体が、巨大な沈黙の共犯者なのだ。
「……ダメだな。この話題は禁句らしい」
俺が諦めて呟くと、ライアンが深刻な顔で言った。
「恐怖による支配……。思った以上に根が深い。おそらく、互いを監視させているのでしょう。隣人がいつ自分を売るか分からなければ、誰もが口を閉ざすしかありませんから」
俺は舌打ちした。過去の記憶が蘇る。会社で、俺を陥れた連中の顔。保身のために他人を売り、嘘で塗り固める。人間のやることは、世界が違えど変わらないらしい。
活気あふれる市場の喧騒が、今はまるで不気味な仮面舞踏会のように感じられた。
* * *
「あーっ、もう! こんな陰気な話ばっかしてっと、腹も減るってもんだ!」
重苦しい空気を破ったのは、やはりヒルダだった。彼女はいつの間にか、近くの屋台で焼かれていた肉の塊を串刺しにしたものを買っていた。じゅうじゅうと音を立て、香ばしい匂いが辺りに広がる。
「情報収集も腹が減っちゃできねえからな! ナオキ、一口いるか?」
「……俺はいらん」
「ヒルダ、もう! 買い食いばかりして……。」
セーラが呆れたようにヒルダを窘める。
「いーじゃねえか、減るもんでもなし! セーラも食うか? うめえぞ、これ!」
「いらないわ!」
頬を赤くして断るセーラと、豪快に肉にかぶりつくヒルダ。その傍らで、バルクがじっと串焼き肉を見つめている。その大きな体躯に似合わず、まるで子犬のような視線だ。
「……バルクも食うか?」
ヒルダが気づいて尋ねると、バルクはこくりと一度だけ力強く頷いた。そのやり取りに、セーラもライアンも思わず苦笑する。張り詰めていた空気が、少しだけ和んだ。
俺はそんな仲間たちを横目に見ながら、改めて市場を見渡した。
金は大きく動いている。あらゆる商品が取引され、莫大な富が生まれている。だが、その富を生み出しているはずの商人たちは、見えない鎖に繋がれたように怯えている。
'金は回るが、人の心は死んでいる。まるで、金メッキの鳥籠だ'
この歪な構造の中心には、一体何があるのか。
俺の中で、この帝都に対する違和感は、確かな警戒心へと変わっていた。
* * *
日が傾き、街が夕暮れの赤い光に染まり始めた頃、俺たちは冒険者ギルドにたどり着いた。
アルテナのそれとは比べ物にならない、天を突くような石造りの巨大な建物。威圧的な装飾が施され、入り口の上ではガーゴイルの石像が冷たく俺たちを見下ろしている。出入りする冒険者たちの装備も、明らかに一級品ばかりだ。
「ここで少し情報を集めて、今日のところは宿に戻る」
俺は仲間たちにそう告げ、重い樫の扉を開けた。
中は広々としていたが、アルテナのギルドのような温かい雰囲気は微塵もなかった。酒と汗と、微かな血の匂いが混じり合った空気が鼻を突く。いくつもの受付カウンターが並び、その向こうでは依頼を巡って冒険者たちが怒鳴りあっていた。
ギルドを出ようとした、その時だった。
入口付近が急にざわつく。
「またか……」
誰かが、息を呑む気配がした。
数人の黒い外套を纏った男たちが、ギルドの中へ無言で入ってくる。
騒いでいた冒険者たちが、一斉に口を閉ざした。受付嬢の表情も強張る。
男たちは一人の冒険者の前で立ち止まった。
「来てもらおう」
低い声。それだけだった。理由も説明もない。指名された冒険者は顔面を真っ青にしながら立ち上がる。
「ま、待ってくれ……俺は何も──」
最後まで言い終わる前に、男たちはその冒険者を連れて行った。
誰も止めない。
誰も声を上げない。ギルドの中は静まり返っていた。
ヒルダが小さく呟く。
「……なんなんだ、あいつら。」
誰も答えない。受付嬢でさえ、目を伏せたままだった。
俺は黒い外套の男たちが去っていく背中を見つめる。
帝都。
この街は、俺が思っていた以上に厄介な場所らしい。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークしてもらえると励みになります!
評価や応援コメントは、とても励みになっています。




