第109話 見て見ぬふり
街道を歩き続けて数日。
単調だった景色が、ある一点を境に一変した。
地平線の先に、巨大な壁がその姿を現したのだ。
「……おいおい、なんだありゃ……」
ヒルダが呆然と呟く。無理もない。
それは、俺たちが今まで見てきたどんな街の城壁とも比較にならない代物だった。天を突くほどの高さ。どこまでも続くかのような長さ。まるで、自然にできた山脈か何かのように、圧倒的な存在感でそこに鎮座していた。
「……あれが、全部……街、なんですか?」
セーラが信じられないといった様子で俺の服の袖を掴む。その声はわずかに震えていた。
「おそらく。あれが帝都ガルダスです」
ライアンが眼鏡の位置を直し、冷静に告げる。だが、その声にも隠しきれない驚愕の色が滲んでいた。バルクは何も言わない。ただ、その巨躯をさらに緊張させているのが分かった。
近づくにつれて、その威容はさらに現実味を帯びてくる。
壁には無数の監視塔が並び、鎧を着た兵士たちの姿が豆粒のように見えた。そして、巨大な城門へと続く道には、おびただしい数の人や馬車が列をなし、まるで蟻の行列のようにゆっくりと進んでいる。
「うへえ……。アルテナが田舎の村に見えるぜ」
ヒルダが大げさに肩をすくめる。
「門を通過するだけで、かなり時間がかかりそうですね」
ライアンの言葉に、俺たちは顔を見合わせた。
あの商人が言っていた「地獄」。その入り口は、想像を絶するほど巨大で、そして無機質だった。
「……覚悟を決めろ。ここから先は、アルテナとは訳が違う」
俺の言葉に、仲間たちは静かに頷いた。
長い長い行列の最後尾に、俺たちは黙って加わった。
* * *
太陽が真上から照りつけ、じりじりと肌を焼く。
何時間並んだだろうか。ようやく俺たちの番がやってきた。
「止まれ! 荷物を全て改める!」
巨大な城門の前では、十数人の兵士たちが機械的に検問を行っていた。全身を鋼の鎧で固めた彼らの視線は、人間を見るというより、ただの物体を検分するかのように冷たい。
俺たちの前で検問を受けていた商人は、荷物を乱暴に地面へぶちまけられ、必死に何かを訴えていた。
「お、お願いです! これは大事な商品で……!」
「黙れ。少しでも怪しいと判断すれば、即刻拘束する。それが帝都の法だ」
兵士は商人の言葉を鼻で笑い、高価そうな陶器を無造作に放り投げる。ガシャン、と虚しい音が響いた。
'……ひどいな'
これが、日常。力を持つ者の横暴を、周りの誰もが当たり前のように受け入れている。俺は自分の拳を固く握りしめた。
「次!」
兵士の鋭い声が飛ぶ。俺たちが前に出ると、複数の兵士が値踏みするように俺たちを取り囲んだ。
「全員、荷物を下ろせ。武器もだ」
ヒルダがカチンときたように一歩前に出たが、俺はそれを手で制した。ここで騒ぎを起こしても、連行されるだけだ。
俺たちは言われるがまま、武器を地面に置いた。
「荷物なら、いくらでも調べてくれて構わない」
俺は自分の腰にある、何も入っていないポーチを指差す。もちろん、マリエクのアイテムボックスのことを言っているのだが、彼らに中身を調べる術などない。
隊長らしき男が、やがて面倒くさそうに手を振った。
「……行け。だが、街で問題を起こすなよ。牢の中になっても知らんぞ」
脅し文句を背中に受けながら、俺たちはようやく巨大な城門をくぐった。
門の向こうに広がっていたのは、まさに別世界だった。
どこまでも続くかのような、広大な石畳の大通り。道の両脇には、見たこともないほど豪華で高い建物がひしめき合っている。行き交う人々の服装も、アルテナのそれとは比べ物にならないほど華やかだ。辻馬車が軽快な音を立てて走り抜け、街の活気が肌を粟立たせる。
「すっげえ……! なんだここ、祭りでもやってんのか!?」
ヒルダが子供のようにはしゃいでいる。
「それより腹減った! なんか、あっちの屋台からすげぇいい匂いするぞ!」
「あれだけ並んでたんですから、もうお昼を過ぎていますしね」
セーラが苦笑する。
「帝都に着いて最初の感想がそれか」
俺が呆れて言うと、
「腹が減ってちゃ帝都観光もできねぇだろ?」
ヒルダは悪びれもせず胸を張った。
「……それは否定できません」
セーラがくすっと笑う。
だが、俺はその華やかさの裏にある、歪なものを見逃さなかった。
大通りの喧騒から一本外れた路地裏。そこには、光の当たらない薄暗い世界が広がっていた。壁にもたれて虚ろな目をする者、痩せこけた子供たち、物乞いの老人。
きらびやかな大通りと、すぐ隣にある貧困のコントラスト。
そして、何より奇妙なのは、人々の表情だった。
誰もが笑顔で語らっているように見える。だが、その瞳の奥には、常に周囲を窺うような警戒心と、見えない何かに対する怯えが宿っていた。
'……何かがおかしい。この活気は、作り物だ'
過去の経験が、俺に警鐘を鳴らす。
ここは、表面的な豊かさの下に、深い闇を隠している街だ。
* * *
「はあ? 一泊で金貨二枚だあ!?」
ヒルダの素っ頓狂な声が、宿屋のロビーに響き渡った。
帝都に着いてから、俺たちは宿を探して歩き回っていた。しかし、目につく宿はどこも信じられないほど高価で、俺たちの予算を遥かに超えていたのだ。
「お客様、ここは帝都ですよ。それが相場でして……」
受付の男は、困ったように笑うだけだ。
「ちっ、足元見やがって……」
結局、何件も見て回った後、俺たちは大通りから外れた古びた宿にたどり着いた。
ようやく見つけた手頃な宿。一部屋一泊で銀貨10枚。それでもアルテナの倍以上だ。
「部屋、四つ頼む」
俺が銀貨40枚を差し出すと、無愛想な宿の主人が、値踏みするような目で俺たちをじろりと見た。
「……見かけねえ顔だな。冒険者か?」
「ああ。今日着いたばかりだ」
「ふん。まあいい。金さえ払えば客だ」
主人は銀貨を受け取ると、カウンターの奥から四つの鍵を取り出した。そして、それを渡す直前、ふと思い出したように口を開く。
「……一つ、忠告しといてやる」
その声は低く、どこか疲れ切っていた。
「この街じゃ、余計なことには首を突っ込むな。見て見ぬふり、聞いて聞かぬふり。それが、この街で長生きするコツだ」
「余計なこと、ですか?」
ライアンが静かに尋ねる。
「……それを聞こうとするのが、もう余計なことなんだよ」
主人はそれだけ言うと、鍵をカウンターに置き、さっさと奥へ引っ込んでしまった。
残された俺たちの間に、重い沈黙が落ちる。ギルドの受付嬢、逃げてきた商人、そしてこの宿の主人。誰もが同じようなことを口にする。
この帝都には、間違いなく何かがある。
俺たちは言葉少なに鍵を取り、それぞれの部屋へと向かった。
【現在の残高:27,695,000円】
* * *
部屋の窓から、夕日に染まる帝都の街並みを眺める。
赤レンガの屋根がどこまでも続く光景は、一見すると絵画のように美しい。
'だが、この美しい景色も、すべてが張りぼてに見える'
俺がそんなことを考えていると、ふと、下の通りで異様な光景が目に飛び込んできた。
黒一色の制服に身を包んだ男たちが、五、六人で一人の市民を取り囲んでいる。
「離せ! なぜだ! 俺は何もしていない!」
市民の男が必死に抵抗の声を上げる。だが、黒服の男たちは構わず、その両腕を掴んで力ずくで引きずっていこうとした。
「あ……!」
隣の部屋の窓から見ていたらしいセーラの、小さな悲鳴が聞こえた。
俺は息を呑んで、通りの様子を注視する。
驚くべきは、周囲の反応だった。
夕暮れの買い物客や、家路につく人々。誰もがその光景を一瞥するだけ。そして、何事もなかったかのように、すぐに目をそらし、足早にその場を通り過ぎていく。
誰も、助けようとしない。
誰も、声を上げない。
まるで、そこに誰もいないかのように。
「……なんだよ、ありゃあ……」
ヒルダが忌々しげに呟く。
「……あの商人が言っていたのは、この事ですね」
ライアンの声が、静かに部屋に響いた。
黒服の男たちは、抵抗する男の腹に容赦なく拳を叩き込み、ぐったりとした彼を引きずるようにして、路地の闇へと消えていった。
後に残されたのは、見て見ぬふりをして雑踏に紛れていく、無数の市民たちの背中だけ。
'これが、この街のルールか'
力を持つ者が、理由もなく人を連れ去る。
そして、それを見た者は、沈黙する。
俺は、ガラス窓に映る自分の顔が、冷たく、そして凍えるほど無表情になっていることに気づいた。
帝都ガルダス。この街の闇は、俺が想像していたよりも、ずっと深く、そして根が張っているらしかった。
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