第102話 ギルドの震撼
水を打ったような静寂。
それが、どれほどの時間続いただろうか。一秒が永遠のように感じられるほどの濃密な沈黙が、アルテナの冒険者ギルドを支配していた。ギルドにいる全ての人間が、時が止まったかのように動きを止め、カウンターの前に広がる非現実的な光景に釘付けになっていた。
そこには、巨大な魔物の死骸が横たわっていた。
黒曜石のように鈍く、しかし確かな存在感を放って輝く外殻。獲物を寸断するために進化したであろう無数の鎌のような脚。そして、ギルドの高い天井に届きそうなほど巨大な頭部。その禍々しくも荘厳な姿の全てが、圧倒的な威圧感をもって、自らが『女王』であったことを雄弁に物語っていた。
「……………」
最初に音を発したのは、誰かがごくり、と渇いた喉で息を呑む音だった。
それが引き金になったかのように、凍り付いていたギルドの空気が、熱を帯びて一気に溶け始める。
「お……おい、なんだよ、これ……」
「センチネル・クロウラー……? いや、違う、この大きさは尋常じゃない……」
「クイーン……? こいつが……『巣のボス』だってのか!?」
さざ波のように広がったどよめきは、瞬く間にギルド全体を飲み込む大津波となった。屈強な鎧をまとった腕利きの冒険者たちが、恐る恐る死体に近づき、その巨体を見上げる。誰もが、目の前の光景が信じられないという顔で、ただただ絶句していた。
「馬鹿な……。こんなやばい魔物が、このアルテナ近郊の、ただの坑道にいたというのか……」
「見てみろ、この外殻を……。俺のミスリルソードでも傷一つつけられそうにないぞ……」
「これを……討伐した……? 一体、どこのどいつが……」
全ての視線が、まるで申し合わせたかのように、一斉に俺たちへと突き刺さる。
驚愕、畏怖、疑念、そしてほんの少しの嫉妬。様々な感情が渦巻く視線の奔流を、俺は黙って受け止めた。
'まあ、こうなるよな'
これだけのものを白昼堂々持ち込めば、騒ぎになることは分かっていた。むしろ、予想通りの反応だ。
「どうだ、すげえだろ!」
ヒルダが腰に手を当て、得意満面に胸を張る。その隣で、セーラはあまりの注目度に気圧されたのか、少し恥ずかしそうに俺の後ろに隠れている。だが、その瞳には以前のような怯えはなく、誇らしげな光が宿っているのを俺は見逃さなかった。
「……ナオキさん」
カイトのパーティの魔法使い、リナが震える声で俺に話しかけてきた。彼女の顔はまだ青白い。
「私たち……本当に、こんな……こんなとんでもないものを倒したんですね……」
「ああ。お前たちの力もあって、な」
俺がそう言うと、彼女は信じられないというように何度も首を横に振った。カイトたちも、自分たちがとんでもない討伐の一員だったという実感が、まだ湧いていないようだった。ただ呆然と、自分たちが戦った相手の亡骸を見つめている。
そんな大騒ぎの中心で、カウンターの向こう側にいた受付嬢が、ようやく我に返った。彼女は真っ青な顔で、わなわなと唇を震わせている。
「ギ……ギ、ギルドマスター! ギルドマスターをお呼びしなくてはなりません!」
彼女はそう叫ぶと、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、カウンターの奥へと続く扉に駆け込んでいった。
* * *
「何事だ! ギルド内で騒ぐなと、何度言ったら分かるんだ!」
数分後。奥の扉が乱暴に蹴り開けられ、怒声と共に一人の大柄な男が現れた。歳は五十代半ばだろうか。熊のようにがっしりとした体躯に、年季の入ったプレートメイルを身に着けている。顔には深い皺が刻まれ、その風格は百戦錬磨の将軍のようだ。このアルテナの冒険者ギルドを束ねる、ギルドマスターのガレスだ。
彼はいかにも不機嫌そうな顔でギルド内を見回し、そして、カウンターの前に横たわる巨大な存在に気づき、言葉を失った。
「……な……」
ガレスは、大きく見開いた目を瞬かせることも忘れ、ただ呆然とクイーンの死骸を見つめる。その表情は、怒りから驚愕へと劇的に変化していた。
「こ、これは……センチネル・クロウラー……!? いや……この大きさは……まさか女王個体か!?」
彼はよろよろと死体に近づくと、その黒光りする外殻に、まるで聖遺物にでも触れるかのようにそっと手を置いた。長年の経験が、目の前のそれがただの魔物ではないと告げているのだろう。
「この大きさ……この威圧感……間違いない。女王個体……!」
ガレスの震える声が、再び静まり返ったギルドに響き渡る。
「おい……貴様ら。これを討伐したのは、あんたたちなのか?」
血走った鋭い視線が、まっすぐに俺を射抜く。
「そうだ」
俺は短く答えた。
「信じられん……。一体どうやって、この化け物を仕留めたんだ? 見る限り、外殻にはほとんど傷がない。これほどの状態の良さで持ち込まれたボス個体など、前代未聞だぞ」
ガレスの問いに、ギルド中の視線が再び俺に集中する。
'さて、どう答えたものか'
「業務用殺虫剤で神経系を麻痺させて、弱った所にとどめを刺しました」などと正直に言えるはずもない。
誰も信じないだろうし理解不能だ。
俺は背後に立つ仲間たちを一瞥し、そしてガレスに向き直った。
「仲間たちと、力を合わせた。それだけです」
「……仲間、だと?」
「俺たちだけじゃない。そこにいる『蒼き流星』もだ。全員で、死力を尽くして戦った結果です」
俺の言葉に、カイトたちがはっとしたように顔を上げる。彼らを見捨てず、同じ戦友として名を挙げたことに驚いているようだ。
ガレスは俺の顔と、カイトたちの顔を交互に見て、そして、ふっと息を吐いた。
「……そうか。そうか……」
彼は何かを納得したように力強く頷くと、再びクイーンの死体へと向き直った。その瞳は、もはやただの冒険者を見るものではなく、稀代の宝物を鑑定する専門家のそれに変わっていた。
「この外殻を見てみろ。傷一つないこの胸部の部位は、とんでもない強度だ。これだけの素材があれば、一級品の防具を仕立てることも出来る」
「そして、この無数の複眼。一つ一つが最高純度の魔力水晶だ。高位の武器や魔道具、大魔法のスクロールを作る際の触媒として、言い値で取引される代物だぞ」
ガレスの言葉に、周囲の冒険者たちから「おお……」と感嘆と羨望の入り混じった声が漏れる。
「極めつけは、これだ」
ガレスは、クイーンの頭部の中心、わずかに砕けた外殻の奥で鈍い光を放っているものを指さした。
「クイーンの魔石……。これほど巨大で純度の高い魔石は、そう簡単にお目にかかれる代物ではない」
ガレスは興奮を隠しきれない様子で、熱っぽく語った。彼の言葉の一つ一つが、俺たちが成し遂げたことの途方もなさを、改めて俺たち自身に突きつけていた。
* * *
ガレスはクイーンの亡骸へ視線を向けた。
「本来、このクイーンの素材は全て討伐者であるお前たちの所有物だ。もし譲ってもらえるなら、ギルドとして買い取らせてほしい」
俺は少し考え、巨大な外殻へ目を向ける。
「外殻は残したい。仲間たちの装備に加工する予定なんだ」
ガレスは納得したように頷いた。
「承知した。では外殻はお前たちへ返却しよう」
ガレスは一拍置いて、クイーンの頭部へ目を向けた。
「それと、魔石はどうする?」
「魔石?」
「ああ。魔石は武具や魔道具の核になることもある。これ程の魔石......使い道があるなら手元へ残した方がいい。」
俺は少し考え、頷いた。
「……なら魔石も残しておく」
「承知した。残りの部位はこちらで解体し、解体費用を差し引いた上で売却代金を支払わせてもらう」
「それで頼む」
ガレスは頷き、受付嬢へ視線を向けた。
「まずは依頼達成報酬を支給してくれ」
受付嬢が革袋を二つカウンターへ置く。
その時だった。
「……おい、俺たちの分は?」
俺が革袋を受け取ろうとすると、隣からカイトが口を挟んだ。
「あん? お前らの分だと?」
ヒルダが訝しげな顔でカイトを見る。
「ああ。俺たち『蒼き流星』の分の報酬だ。そいつを、全部ナオキたちに渡してくれ」
「……はあ?」
「俺たちは、こいつらに命を救われた。報酬を受け取る資格なんてない」
カイトは、真剣な目でガレスに言った。彼の仲間たちも、黙って頷いている。その目には、以前のような傲慢さはない。
「……ふん」
俺は鼻で笑うと、カイトの胸に革袋の一つをぐいと押し付けた。
「何をする!」
「受け取れ。お前たちも戦っただろ。それに、まだ借りを返してもらってない」
「借り……?」
「ああ。今夜の祝宴代だ。全部お前が奢るって約束だったはずだぞ」
俺がニヤリと笑うと、カイトは一瞬きょとんとした顔をし、そして、苦笑しながらその革袋を受け取った。
「……へっ、わかったよ。今夜は覚悟しろ。潰れるまで飲ませてやる」
「望むところだ」
そのやり取りを見て、ヒルダは呆れたように、しかしどこか嬉しそうに笑っていた。
「ったく、素直じゃねえ奴らだな、お互い」
そんな騒ぎの中、セーラは周囲からの視線の変化に戸惑っていた。以前の彼女に向けられていたのは、侮蔑や憐れみ。だが、今は違う。賞賛と、尊敬と、そして畏怖。彼女は、自分の力で、仲間と共にその評価を覆したのだ。その事実が、彼女の胸を熱くしていた。
「素晴らしいパーティですね」
いつの間にか隣に来ていたライアンが、静かに呟いた。
「ナオキさん達と旅をするようになって、改めて実感しました」
「何をだ?」
「私は、とんでもないパーティに加わったんですね」
「今さらか」
俺が苦笑すると、ライアンも小さく笑った。
ライアンは心からの笑顔を浮かべた。
* * *
「よし、話はついたな!」
ガレスがパン、と手を叩き、場を仕切った。
「クイーンの解体と素材の査定には、最低でも数日はかかる。お前さんたちには、しばらくこの街に滞在してもらうことになるが、構わんな?」
「ああ、問題ない」
「うむ。査定が終わり次第、お前さんたちが泊まっている宿に連絡を入れる。それまでは、ゆっくり羽を伸ばしてくれ」
ガレスの言葉は、この長い一日の終わりを告げていた。
「よし! 聞いたかお前ら!」
ギルド中に響き渡るような大声で叫んだのは、ヒルダだった。
「解散! 祝宴だ! 肉を食いに行くぞ!」
「おう! 任せとけ! 街で一番うまい店に連れてってやる!」
カイトが、待ってましたとばかりに胸を叩く。
俺たちは顔を見合わせ、誰からともなく笑い出した。
ギルドを出ると、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
死闘を終えた俺たちを、夕焼けが静かに照らしていた。
「さて、と」
俺は大きく伸びをしながら、仲間たちに向き直る。
「行くか」
俺の言葉に、全員が力強く頷いた。
その先頭に立ったヒルダが、大きく息を吸い込む。
「よーし! 今日は食うぞーー!!」
彼女の元気な声が、アルテナの夕暮れの空に、高らかに、いつまでも響き渡っていた。
【依頼報酬】
・呪われた坑道調査依頼:金貨25枚(カイトPTへ金貨25枚譲渡)
【現在のマリエク残高:16,035,000円】
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