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十話「虚像と嘲笑と新しい嘘」

 その日、昼食もそこそこに、トリエルとガブリエルママは早々に帰宅しました。



「今戻りました」



 7畳の部屋では、予想外の帰宅に誰もが振り返りますが、

 普段ならばおちゃらけて見せるガブリエルママが無言であったため、

 皆『何かがあった』と察します。



「昼ならもうないぜ」


 あゆむは会話を繋げようとしますが、

 それ以上の言葉が出てきません。



「もう食べてきました」


 ガブリエルママは、ミカエルさんが座るソファの横に座ります。


「何があったのです。ガブリエル」

 ミカエルさんの問に、彼女は答えません。

 その無言が全てを物語りました。


(ニャルラトホテプ……ですか)


 ミカエルさんは胸の内で呟きます。

 それは7畳の部屋の全員が察するところ。

 わざわざ口に出す必要はないのです。


 それを確認すると、ミカエルさんは小説を開き、

 バアルゼブルは、何も言わず人数分の紅茶を淹れるため、キッチンへ向かいます。


「でしゅ……」

 サタンちゃんだけが、ピピの膝の上から言葉を発し、

 ピピは床に座り込んだままトリエルとあゆむを見つめます。


(信じて待て……と、いうことなのですね)


 あゆむは何も言いません。

 けれど、ピピはそう判断しました。



 ……



「トリエルさーん、ポテチあるぜー!」

 沈黙に耐えかねたのか、おばけ達がトリエルの周りを囲い、

 アッチがポテチの袋を差し出します。



「わーい! ポテチ食べるー!」


 トリエルは、いつも通りの笑顔を向けると、

 おばけ達は安心したのか、部屋の中をぷかぷかと泳ぎだします。

 トリエルはガラステーブルの席に腰掛けると、その袋を開けますが……



 ……パリパリ。



 そこにいつものトリエル食いはありません。



「……妾にもよこしゅでしゅ」


 ここでサタンちゃんがピピを振り切るようにして立ち上がり、

 尻尾で袋を強奪すると、テーブルの上で広げます。


「美味しいでしゅ。みんなも食べるでしゅ。魔王のおごりでしゅよ!」

「俺の金だけどな」


 サタンちゃんなりの気配りに、あゆむは皮肉を交えつつも軽く笑みを浮かべます。

 それを皮切りに、全員がテーブルの周りに集まります。


「ちょうどお茶が入りました。今日は趣向を変えてアールグレイです」


 ここでバアルゼブルが人数分のグラスを置き、

 オン・ザ・ロックのアイスティーを作ります。



「たまにはいいな」


 冷やすことで強調されたベルガモットの爽やかな香りが、鼻腔を抜けます。

 バアルゼブルが窓を開けると、初夏の風が部屋の空気を入れ替えます。



「ふむ……たまにはこうしたものも、お茶うけにはいいものですね」


 バアルゼブルは、そう言ってポテチを一枚つまみ、

 ハンカチで丁寧に粉を拭き取ります。



 ……



「……『美恵お母さん』に『お父さん』が会いに来たんだ」


 やがてトリエルが重い口を開き、7畳の部屋の全員が、

 かの邪神、ニャルラトホテプの新たな化身と的を知ることとなります。


 そしてそれは『手出し無用』を知らせる言葉でもあります。

 この件だけは、自分しか解決出来ない。

 トリエルも、ガブリエルママも、あゆむも、

 誰もがそれをわかっています。


「そうか」


 あゆむの返事はそれだけでした。

 それだけでし十分でした。



 ――――



 一方、桜井邸では――


 美恵が買い物から帰ると、玄関の前に照人が立っていました。

 昨日と同じ黒いスーツに赤いネクタイ。

 しかし、その表情は昨日とは違い、穏やかなものでした。


「……また来たの」

「昨日は言い過ぎた」


 照人は頭を下げます。

 それは深く、誠実に見える礼でした。


 美恵は買い物袋を握りしめ、照人を見下ろします。

 十年前と同じ。彼が謝る時の姿勢は、いつもこうでした。


「……中には入れないわよ」

「構わない。ここで話そう」


 照人は玄関の段差に腰を下ろすと、美恵を見上げます。


「やり直さないか」


 美恵の指が、買い物袋の取っ手に食い込みます。


「なにを今更……」

「今更だからこそだ。僕は十年逃げた。それは認める。

 恵美に囚われる君に疲れたんだ」


「そう」

 美恵の返事は、石ころに話しかけるように冷たいものです。


「だけど、一度やり直すことは出来る」

「独りよがりだわ。私は孤独だった」

「だから今度は謝りに来た」

「それを今更だと言っているの。今更なのよ」


 照人の声は静かで、言葉は一つ一つに力がありました。

 美恵が好きだった声。実直で、嘘を嫌い、物をはっきり言う人。


 恵美はそれらを冷たくあしらいますが、

 しかしてどうしてでしょう。

 次第に目線が彼に向かいます。


「君はまだ39だ。今ならやり直せる。

 いや……最後のチャンスだ」


 その言葉の意味を、美恵は正確に受け取りました。

 新しい家族。新しい子供。

 恵美の代わりではない、本当の意味でのやり直し。


「……子供のこと?」


 照人は何も言いません。

 しかし、その沈黙が肯定であることを、美恵は知っています。


 39歳。

 医学的にはまだ可能です。しかし、余裕があるとは言えません。

 美恵自身、それを考えなかったわけではありません。


 恵美を亡くしてからの十年、母であることを失った空白。

 その空白を、トリエルが――エミエルが、埋めてくれていました。

 けれどそれは、照人の言葉を借りれば『逃げ』でもある。


 本当の家族を作り直すことが、最も正しい選択に見えてしまう。


「……考えさせて」


 美恵は自分でも驚くほど、その言葉が自然に出ました。

 照人は静かにうなずくと、立ち上がり、スーツの埃を払います。


「明日、また来る」


 照人の背中が住宅街に消えると、

 美恵は玄関に座り込み、買い物袋を抱えたまま、動けなくなりました。



 ――――



 その夜、美恵は綺麗に整頓された子供部屋にいました。

 かつて人生の全てだった恵美の微笑みに満ちていた部屋。


 恵美亡き後、時が止まり、

 恵美の痕跡を、鍋に僅かに残ったスープを薄めて食いつなぐように、

 何度も何度も思い出で薄めて、引き伸ばした部屋。


 トリエルと出会った後、新たな時間を刻み始めた部屋。


 この部屋は、美恵にとって、とても一言では言い表せない部屋です。


「…………」


 美恵は棚からひとつのアルバムを取り出すと、そっと広げます。

 そこにあるのは恵美の写真、

 恵美が初めて生家に訪れ、母の顔で我が子を抱く自分。


「…………」


 美恵は、腹部をそっと撫でました。



 ――――



 翌日、初夏の曇り空湿った空気を桜井邸へ運びます。

 それは今の美恵の迷いを映し出しているかのようです。


 正直、美恵とて何度もやり直そうとしました。

 婚活マッチングアプリで、再婚を目指しました。

 その中には、交際まで発展したこともあります。


 けれど、最終的には自分から逃げました。

 恵美の痕跡をどうしても消せなかったからです。


「恵美……」


 美恵は恵美が残してくれた木箱――

『いつも笑顔でいてね』と書かれたびっくり箱を開きます。


「恵美…………」


 迷いの中、時間切れを知らせるかのようにインターホンが鳴ります。


「……トリエルちゃん?」


 そこにいたのはトリエルとガブリエルママです。

 美恵は一瞬だけ目閉じます。


(決断を下す時なのかもね……)


「あがって」


 美恵はぎこちない笑顔で受け入れ、

 やがて、二階の自室に案内します。


「ここで待っていて」


 美恵は罪悪感を浮かべた表情で、目を合わせずそう言うと、

 逃げるように一階へと降りていきます。


「…………」


 そこにあったのは仏壇、飾ってある遺影は『自分(恵美)』でした。



 その頃、時同じくして、再びインターホンが鳴り響きます。



「照人さん……」



 照人は約束通り桜井邸を訪れました。

 今度は、トリエルとガブリエルママがいる時間帯に。


 インターホンがなった瞬間、

 二階では二人は状況を把握し、トリエルはエミエルに変わり、

 ガブリエルママはメガネをかけ直します。


「お邪魔するよ」

「……どうぞ」


 美恵は照人を自室へ案内します。


「お邪魔していますよ」


 牽制したのはガブリエルママです。

 顔はにこやかですが、声は刃のように鋭いものです。


 照人はあぐらをかくと、トリエルを一瞥します。


「やあ、また会ったね」

「うん」


 ぎこちないエミエルに返事に、照人は一瞬だけ目を細めます。


「おばさんの……昔の知り合いだよ」

「知ってるよ」


「少しいいかな、彼女と話がある」


 照人がそう言うと、

 エミエルとガブリエルママは美恵の表情を伺います。

 美恵が「リビングにコーラがあるから」と言うと、

 二人は一階へ降りていきます。



 …………



「考えてくれたか?」

「……ええ」


 美恵は照人の正面に座り、両手を膝の上で握ります。


「やり直すことは……出来ないわ」

「理由を聞いてもいいかな」


「あの子がいるから」


 照人は表情を変えません。

 ただ、口角が微かに……ほんの微かに上がります。


「あの子、君は友人だと言ったね」

「ええ。大切な……友達よ」


「その友達の為に、自分の人生を犠牲に出来るのか?」


 美恵は答えません。

 照人は腕を組み、言葉を変えます。


「僕は君に新しい家族を提案している。

 本物の家族だ。君が母親として、笑顔を作れるものだ」


「……わかってる」


「わかっているなら、何が君を引き止めている?

 君はまた逃げるつもりか?」


「逃げてない……!」


 美恵の声が上擦ります。

 照人は静かにうなずき、少し間を置きます。


「なら、証明してくれ」


「……え?」


「あの子との関係を終わらせてくれ。

 逃げていないと言うのなら、それが出来るはずだ」


 美恵の呼吸が止まります。

 照人の言葉は正論です。

 逃げていないなら、エミエルとの関係はいつでも手放せるはず。

 手放せないのは、そこに執着があるから。

 執着があるのは、そこに『逃げ』があるから。


 完璧な論理。一切の隙がありません。


「あの子は……私の……」


 美恵は言葉に詰まります。

 友達、と言おうとしました。

 けれど、その言葉が喉の奥で凍りつきます。


 その時です。


「おばさんが幸せなら、それでいいよ」


 扉の向こうから、声がします。

 エミエルの声です。


 照人の顔が一瞬鋭い顔になりますが、

 すぐに『笑み』を浮かべると、

 黒い瞳の奥に赤い輝きが宿ります。


 それは『嘲笑』でした。



 美恵が扉を開けると、エミエルが立っていました。

 ガブリエルママがその後ろで、唇を強く噛んでいます。


「トリエルちゃん……」

「聞こえちゃった。ごめんね」


 エミエルは照人の脇を通り、美恵の前に立ちます。


「おばさんが新しい家族を作って、幸せになれるなら、

 わたしはそれでいいの。本当に」


 美恵の目から涙が溢れます。


「わたしのことは気にしないで。

 おばさんの人生は、おばさんのものだから」


 エミエルの声は穏やかで、一切の嘘がありません。

 本心です。

 エミエルは本気で、美恵の幸せを願っています。


 それが――最も残酷な言葉でした。


 照人がソファから立ち上がり、美恵に近づきます。


「聞いただろう。あの子も理解している。

 さあ、逃げていないなら、前に進もう」


「……」


 美恵は目を閉じます。

 エミエルの言葉と、照人の言葉が、頭の中でぶつかり合います。


 やがて、美恵は目を開け、照人を真っ直ぐに見つめます。


「……出来ない」


 照人の眉が、微かに動きます。


「出来ないのか。しないのか」

「しない。あの子を手放すことは、しない」


「何故だ? 彼女は君のなんだ?

 友達なら、距離を置いても関係は続く。

 なぜそこまで固執する?」


 照人の問いが、壁のように美恵に迫ります。


「あの子がいないと、生きていけないから?

 それは依存だ。逃げと何が違う?」


「違う……!」


「なら説明してくれ。たかが友達になぜそこまで執着する?

 おかしいだろう。そこまで苦しむ理由がない」


 照人の言葉は一歩、また一歩と心の距離を詰めます。

 その目は鋭く、かつて美恵が好きになった実直な目。

 嘘を許さない、真っ直ぐな目。


「答えてくれ、美恵。あの子は、何だ?」


 美恵の唇が震え、視界が涙で歪みます。


「あの子は……」


 言葉が喉まで上がってきます。

 言ってはいけない。言えば全てが壊れる。

 これまで守ってきた『優しい嘘』が。


 けれど、照人の追及は止まりません。


「友達じゃないんだろう。

 君がそこまで固執する理由は一つしかない」


「やめて……」


「恵美の代わりだ」


 照人がその言葉を口にした瞬間、美恵の中で何かが切れました。


「代わりなんかじゃない!!」


 美恵の悲鳴が部屋に響きます。

 エミエルが目を見開き、ガブリエルママが息を呑みます。


「あの子は……あの子は、恵美の生まれ変わりの天使なの!!

 恵美の魂が……戻ってきてくれて、あの子を引き合わせてくれた!!

 代わりなんかじゃない!! あの子は恵美の……恵美が遺した……!!」


 美恵はそこまで叫んで、自分が何を言ったのかに気付きます。


 両手で口を覆い、エミエルの方を振り向きます。

 エミエルは――動きません。

 表情も変わりません。

 ただ、静かに美恵を見つめています。


 リビングに沈黙が落ちます。

 壁時計の音だけが、残酷なほどに響いています。


「……言ってしまったね」


 照人の声が、静寂を切り裂きます。

 その口元には、不敵な笑みが浮かんでいました。


「君はまだ、恵美に縛られている。十年経っても、何も変わっていない」


 美恵は床に崩れ落ちます。

 膝が、フローリングの固い感触を伝えます。

 けれど、痛みは感じません。

 胸の中の方が、はるかに痛いから。


「なるほど。

 あの子が恵美だと思って接していたんだな。

 友達だなんて、誰を騙していたんだ?

 あの子をか? 自分をか?」


 照人の言葉が、一つ一つ、美恵の背中に突き刺さります。

 ガブリエルママが拳を握り、一歩前に出ようとした時です。


「知ってたよ」


 その声に、全員の動きが止まりました。


 エミエルは美恵の前にしゃがみ込み、

 崩れ落ちた美恵の手を、そっと両手で包みます。


「知ってた。全部」


 美恵が顔を上げます。

 涙で歪んだ視界に、エミエルのオッドアイが映り、

 背中の翼が広げられます。


 天使の正体を晒し、照人が見る前でその翼で美恵を包み込みます。


「おばさんが、わたしの正体を知ってること。

 わたしが恵美(わたし)の魂から生まれたこと。

 おばさんがそれを知った上で、知らないフリをしてくれていたこと」


「トリエル……ちゃん……」


「わたしも同じだったの」


 エミエルは美恵の手を握ったまま、微笑みます。

 それは権能ではありません。


「おばさんが気付いていること、わたしも気付いてた。

 でも、言ったらおばさん……お母さんが過去に縛られると思って。

 だから、知らないフリをしてた」


 美恵の目から、声にならない嗚咽が漏れます。


「ずるいよね。お互いに嘘をついて。

 でも、わたしは嬉しかったし、幸せだったよ」


 エミエルは美恵の手を額に当て、目を閉じます。


「全てから逃げて、恵美に戻りたい。

 お母さんの子供に戻りたい。

 ……ずっと、思ってた」


 美恵が声を上げて泣きます。

 エミエルを抱きしめ、何度も「ごめんね」と繰り返します。

 エミエルも美恵の背中に腕を回し、目を閉じたまま、呟きます。


「謝る必要なんてないよ。

 ……ありがとう」


 エミエルは翼を美恵の背中に回し、

 手は彼女の髪を優しく撫でます。


 ガブリエルママはメガネを外し、涙を拭います。

 掛け直した時には、その目は再び母の目に戻っていました。


 照人は――嗤っていました。


「美しい話だ。感動的だね」


 その声に、部屋の温度が一気に下がります。


「でも、結局は何も変わらない。

 君達は嘘の上に嘘を重ねているだけだ。

 お互いが知っていた? なら尚更滑稽じゃないか」


 照人は立ち上がると、両手を広げ、

 芝居がかった仕草で周囲を見渡します。


「知っていて、なお嘘を続けた。

 それは優しさじゃない。ただの共依存だ。

 二人とも、恵美の死から一歩も動けていない」


「黙りなさい」


 ガブリエルママが一歩前に出ます。

 その声は低く、これまでの彼女からは想像できないほど冷たいものです。


「いい加減、つまらない芝居はやめなさい」


 照人の嗤いが、一瞬だけ深くなります。


「さて、何のことかな」

「セラフを……大天使を舐めないことです。

 貴方の体には風が通っていない。

 人の体には微かな風の流れがある。呼吸も、血流も。

 けれど、貴方にはそれがない」


 照人は――いいえ、照人の形をしたものは、肩をすくめます。


「『僕』は『桜井照人』だよ。

 それ以上でも、以下でもない」


 声色が変わります。

 照人の実直な声から、あの聞き覚えのある、耳に纏わりつくような声に。


「でも、僕が言ったことは全部本当だよ?

 嘘は一つもない。彼女達が逃げているのも、共依存なのも、

 全部事実だ。僕はそれを見せてあげただけさ」


 ガブリエルママが風を纏おうとしますが、

 照人の姿はゆらり、と陽炎のように揺れます。


「ああ、怒らないくれ。もう用は済んだ」


 嘲笑う照人の体が薄くなり、輪郭がぼやけていきます。


「面白いものを見せてもらったよ。

 母娘ごっこが崩れた後、どうするか……

 今度はそれを『見守る』よ」


 その声は天井に吸い込まれるように消え、

 照人の姿は完全に溶けて、何も残りませんでした。


 部屋には、美恵とエミエルとガブリエルママだけが残されます。

 開きっぱなしの扉と、壁時計の音。


 そして――


「……お母さん」


 エミエルが小さく呟きます。

 美恵はまだエミエルを抱きしめたまま、声を出せません。


 ガブリエルママはメガネを掛け直すと、小さく息を吐きます。

 ガブリエルママは無言で廊下に出ると、

 今度こそリビングへ向います。



 二人はしばらく、『母娘』に戻りました。



「恵美……」

「エミエル」

「え……?」

「それが……今の名前なの」



「……とってもいい名前ね」



 …………



 やがて二人がリビングに戻ると、ガブリエルママが窓際に立っていました。


 三人の視線が合います。


 お互いに知っている。

 お互いに知っていることを知っている。

 もう、『優しい嘘』は成立しない。


 ――そのはずでした。


「あーーーー!! ダメですよーーーー!!」


 突然、ガブリエルママが大声を上げます。

 美恵とエミエルが驚いて振り返ると……


「てやんでーーーーい!!」


 おばけの一匹、てやんでいがガブリエルママのセーターから出てきます。

 ガブリエルママはてやんでいを捕まえようとしますが、


 ガブリエルママはてやんでいを捕まえると、

 二人を巻き込んで、わざとらしく転び、頭をぶつけます。


 ゴンッ!!


「いったーーーい!!」

「いたた……」

「な、なに今の……??」



 ……



 数秒の沈黙の後、

 ガブリエルママは頭を押さえ、目をぐるぐると回しながら言います。

 気付くと、てやんでいはもういません。


「あれ……? わたくし、いま何をしていましたっけ?」


「え……」


「確か……お昼ご飯を食べに来たんですよね?

 美恵さんの自慢のミートソースパスタを」


 ガブリエルママは首を傾げながら、キッチンをを見つめます。


「お腹空きましたー。お昼にしましょう」


 美恵が目を見開きます。

 エミエルも、一瞬だけ呼吸を止めます。


 ガブリエルママはメガネを押し上げ、二人を交互に見つめると、

 にっこりと笑います。


「どうしたんですか? 二人とも変な顔して。

 さあ、お昼ですよ!」


 ガブリエルママはキッチンに向かい、

 鼻歌を鍋を指さします。


 美恵とエミエルは顔を見合わせます。


 お互いに、ガブリエルママが『忘れたフリ』をしていることに気付いています。

 大天使が、転んだ程度で記憶を失うはずがありません。


 けれど。


 エミエルの目が、トリエルの色に戻ります。


「おばさーん! トリエルね、パスタ食べたーい!」

「そうね、そうしましょうか」

「やったー!」


 トリエルが美恵に駆け寄り、美恵の腕にぶら下がります。

 美恵はトリエルの頭をそっと撫で、笑みを浮かべます。


 それは新しい笑みでした。

 嘘の上に築かれた笑みではなく、

 全てを知った上で、もう一度選んだ笑みです。


「ミートソースでいい?」

「うん!」


 ガブリエルママが冷蔵庫からコーラを取り出します。

 美恵はキッチンへ向かい、パスタを茹でます。

 しばらくして湯気が立ち上り、

 数分後、ミートソースの匂いがリビングに広がります。


「さあ、頂きましょう!」


 三人が食卓に着きます。

 昨日と同じ食卓。同じメンバー。

 コーラと、ミートソースパスタ。


 けれど、その意味は昨日とは全く違います。


「いただきます」


 三人の声が重なり、フォークがパスタを巻き取ります。


 ガブリエルママが一口食べ、大きくうなずきます。


 トリエルがむしゃごく! と一口で食べます。


「美味しい!」

「おいしー!」


 今度は――嘘ではありませんでした。



 …………



 美恵の食卓に透明な風が窓から吹き込みます。


 それは三人の頭を優しく撫で、

 暖かな空気と爽やかな初夏の香りを運びます。


「おばさん、おかわり!」


 美恵は「はいはい」と立ち上がります。

 その足取りは軽く、

 昨日の玄関前に座り込んだ女性と同じ人には見えません。



 ――――



 数日後、スーパーの帰りです。

 早朝までの雨で、床が濡れていて滑りやすくなっていました。


「うわっ!?」


 一人の男性が転倒し、美恵が手を差し伸べます。


「大丈夫ですか?」

「ありがとう」

「え……!?」


 それは、照人でした。

 けれど、先日までとは明らかに違います。


「……あの、なにか?」


 その声は目の前の女性が美恵であると、

 いいえ……かつての妻であると知らない。

 あるいは、自分にかつて妻がいたことすら知らないような、

 そんな声でした。


(……これが……一番いいのかもしれない)


「気を付けてくださいね」


 美恵はそう微笑みかけて、照人に別れを告げました。


(恵美に合わせてくれて、ありがとう……照人さん)



 ――――



 次回 落ちてきた天使と同居することになった件。


「サタンちゃんとソロモンの仲間達」にご期待ください。


 いよいよ後日談三章もクライマックス真近です。

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