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十一話「サタンちゃんとソロモンの仲間達」

 朝というのは、どのような状況であっても必ず訪れるものです。


 それはここ、包見ヶ丘とて例外ではなく、

 かの邪神――這いよる混沌『ニャルラトホテプ』との戦いなど、

 それこそ、はじめから存在しなかったかのように、町は静かです。


 ですがそれは、嵐の前の静けさ――そう捉えることも出来るでしょう。



(あれから何もないのが不気味です)



 毎朝のルーティーン。


 ピピはサタンちゃんのツインテールを結い、リボンを締めながら、

 窓の外を眺めます。


 空は晴れ、電線には小鳥が止まる。


 変わらない日常、変わらない朝がそこにはありました。



(邪神は諦めたのでしょうか……)



 ピピはサタンちゃんの頭を撫でながら、視線をあゆむへと泳がせます。

 普段よりやや下がったまぶたが、彼女の微かな不安をあゆむへ伝えます。


 あゆむは天井を眺めます。

 そこにあるのは10cm程の小さな染み。

 かつてニャルラトホテプが付けた黒い染み。


(染みはまだ消えていない)



 それは、戦いはまだ終わってはいないことを意味します。



 そう、とても熱い戦いが――


「熱っつい!! なんじゃい!!」


「アッチよーん、あゆむーん!」


 あゆむが唇の違和感を覚え下を向くと、

 そこには朝食のパンケーキを持ったアッチが、

 手掴みで千切ったパンケーキを押し当ててきます!


「ええーい! このナスビが!!」


 あゆむは腕で振り払いますが、

 バランスを崩し椅子から転げ落ちそうに!

 何を思ったか、カップを持つ手を離し、テーブルへ伸ばそうとしますが、

 間に合うことはなく――


「コーヒーがこぼれちゃうわー!」


 そこへ、アッチの後ろにいたもう一匹のナス、タンタが尻尾でカップを掴み……


 どでーん! 


 あゆむは床にすっ転び、周りからは冷笑が飛び交います。


「全く、世話がやけるぜー」


 最後にポンポが腹を叩きながら登場。


 いててともがくあゆむの口を押さえると、

 無理やりこじ開け――


「もぐもぐしましょうねーん!」


 アンポンタンのナス共が、パンケーキとコーヒーをどんどん流し込みます!


「ほげっやっひゃひへほへあ!!」


「あははっ! 面白ーい!」


 これにはトリエルもにっこり笑顔です!


(俺は面白くねえええ!!)



 あゆむのミリタリーシャツには黒い染みと、

 蜂蜜やらバターやらでベチョベチョです!



「あゆむ様、着替えはここに」


 そう言って、ピピがさりげなく畳んだシャツを床に置くと、

 あゆむに白い手を差し伸べます。


 あゆむは、口の周りについたバターを拭きながら、ピピの顔を見ます。

 先ほどの不安げなまぶたは、もうありません。


「助かる」


 あるむはピピに起こされながら、アンポンタンの三匹へ視線を流します。

 彼らもそれに気付いたのか、ニヤニヤと笑みを浮かべています。


 アンポンタンの騒動が、彼女の表情を日常に引き戻したようです。


(こいつらも、たまには役に立つな)


 あゆむは内心そう思いつつも、

 口では「もう二度とやるなよ」とアンポンタンを睨みます。


「反省してまーす」「してまーす」「してるわーん」


 まるで反省していません。


「ピピママー! おくれちゃうでしゅー!」


 サタンちゃんが、玄関先で尻尾をパタパタと振りながら催促します。

 ツインテールのリボンが風に揺れ、慌ただしい日常を運びます。


「はい、ただいま」


 ピピは笑顔でそう答えると、ワンピースの裾を軽く持ち上げながら移動し、

 サタンちゃんの手を取ります。


「いってきまーしゅ!」

「おう。いってら」


 あゆむがひらひらと手を振ると、

 サタンちゃんは尻尾を一振りして、元気よく飛び出していきます。


 玄関から吹き付ける6月の風が、部屋に微かな夏の香りを届けました。



 ――――



「でしゅ、でしゅでしゅー! でっしゅっしゅー!」


 お日様がサンサンと見守る中、

 サタンちゃんはピピと手を繋いでニコニコで通園です。


 尻尾のリボンが元気よく揺れ、

 ピピも尻尾の動きを見つめながら目を細めます。



(わたくしは今、充実しています……)



 そんなことをピピは考えていました。


 人生に絶望し、自ら命を絶った自分が、

 怨霊として、多数の人間を取り込んだ自分が、

 今はこうして大切な人と共に暮らしている。


 自分を母と呼んでくれる少女がいる。



(いつか罰が下りそうです)



 ピピがサタンちゃんの手を強く握ると、

 サタンちゃんは「じょー?」と言ってピピを見上げます。


 ピピがにこりと微笑むと、サタンちゃんの尻尾を大きく振って答えてくれました。



 ――――



 包見ヶ丘商店街のアーケードでは、

 朝の空気はまだ涼しく、初夏の風がピピの青い髪を揺らします。


「おはようでしゅー!」


 サタンちゃんの挨拶は、商店街の名物になりつつあります。


 八百屋の大将が「おう、サタンちゃん! 今日も元気だねえ!」と笑い、

 花屋のおばさんが「サタンちゃんおはよう」と手を振ります。


「みつぎものはないでしゅか!」

「サタンちゃん」

「……おはようございましゅでしゅ」


 ピピに窘められ、サタンちゃんは渋々ながらも挨拶をやり直します。

 大将がケラケラ笑いながら、しーっと指を立て、

 みかんを一つ持たせてくれました。


「よきにはからへでしゅ!」

「まだ開店前だから、内緒な」


 ピピが苦笑しながら歩を進めると、

 やがて見慣れた園の門が見えてきます。


 サタンちゃんの足が、少しだけ遅くなります。


「どうしました?」

「……でしゅ」


 サタンちゃんは何でもない顔をしますが、

 ピピの手を握る力が、少し強くなります。


(甘えん坊さんですね)


 ピピはしゃがみ込み、サタンちゃんと目線を合わせます。


「お迎えに来ますからね」

「……でしゅ?」


 サタンちゃんが小指を差し出します。

 ピピの冷たい指に、サタンちゃんの小さくて温かい指が絡みます。


「嘘ついたら、はりせんぼんのましゅでしゅ!」

「サタンちゃんの針なら飲めそうです」


 二人の指が離れ、サタンちゃんは園庭に駆け出していきます。

 尻尾が左右に揺れ、リボンが踊ります。


「サタンちゃーん! おはよー!」


 園児達の声がサタンちゃんを迎え入れ、

 彼女はあっという間にその輪の中心に収まります。


 ピピは門の外から、その光景を見つめます。


(サタンちゃんの居場所が、ここにもある)


 ピピは微笑むと、静かに背を向けます。

 その足取りは軽く、商店街へと消えていきました。



 ――――



「はーい、みんなおはようございます!」


 あすか先生の明るい声に、

 園児達が元気よく「おはようございまーす!」と返します。


 サタンちゃんも「おはようございましゅ!」と声を張り、

 声の大きさだけなら間違いなくクラス一です。


「今日のお当番さんはー……ふじこちゃんだよー!」


「はーい!」


 ふじこちゃんと呼ばれた女の子が立ち上がります。

 おさげ髪にそばかす、おとなしそうに見えて芯の強い子です。


 するとサタンちゃんも勢いよく手を挙げます。


「妾もやるでしゅ!」

「サタンちゃん、魔王様は見る番だよー?」


 あすか先生がニタァと笑うと、園児達の笑い声が広がります。

 ここで、サタンちゃんは椅子の上に立ち上がり、腕を組んで宣言します。


「なら、妾はふじこの護衛をしてやるでしゅ!」

「ごえい?」


 ふじこちゃんが首を傾げると、

 隣のたけしくんが「ボディガードってことだろ」と通訳します。


「ぼでぃがーど! かっこいー!」


 ふじこちゃんが目を輝かせると、

 サタンちゃんは「ふっふっふ」と得意気に鼻を鳴らします。


「では、お当番のふじこちゃんと、護衛のサタンちゃんで、

 今日のお花にお水をあげてきてねー」


(あーー……疲れるぜ)


 あすか先生も慣れたものです。

 サタンちゃんの『魔王語』を、日常の語彙に翻訳する技術は、

 この数ヶ月で飛躍的に向上しています。


「いくでしゅ! ふじこ!」

「うん!」


 サタンちゃんがじょうろを両手で抱え、ふじこちゃんと園庭に出ていきます。


 尻尾がじょうろの水を跳ねて、

 サタンちゃんの靴がびしょびしょになります。

 でも、本人は気にしていません。


「サタンちゃん、尻尾が濡れてるよー」

「これはせいすいでしゅ」

「せいすい?」

「魔王には効かないでしゅ!」


 ふじこちゃんはよくわかっていませんが、「そうなんだー」と笑います。


 教室の窓から、その様子を眺めていた

 たけしくんが、

 隣の男の子に、ぼそっと呟きます。


「魔王、いっつもお当番やりたがるよな」

「魔王だから部下の面倒を見るんじゃない?」


 たけしくんは「なるほど」と腕を組みますが、

 5歳の「なるほど」にどれほどの理解があるかは定かではありません。



 ――――



 やがてソロモン幼稚園では給食の時間です。


 今日のメニューは、鶏の唐揚げ、ピーマンの胡麻和え、

 野菜スープ、そしてデザートにゼリーです。


 サタンちゃんはトレーを受け取ると、唐揚げに目を輝かせます。


「からあげでしゅ! これは妾のこうぶつでしゅ!」

「サタンちゃん、座ってからね」

「むー」


 席に着くと、サタンちゃんは唐揚げを真っ先に頬張ります。

 小さな口で齧り付き、目を閉じて至福の表情。


「美味しいでしゅー……」


 尻尾が幸せそうにゆらゆらと揺れます。


 しかし、その視界に入るのは緑の脅威。

 ピーマンの胡麻和え。

 サタンちゃんの箸が、ぴたりと止まります。


「…………」


「サタンちゃん、ピーマンも食べるんでしゅよー?」


 あすか先生がニタニタと促しますが、

 サタンちゃんは首をぶんぶんと横に振ります。


「これは毒でしゅ。魔王は毒を見抜く目を持っているでしゅ」

「だせーな、魔王は」


 たけしくんが自分のピーマンをひょいと食べて見せます。


「俺は平気だぜ」

「たけしには耐性があるだけでしゅ!」

「あすかの夫だからな!」

「離婚しまーす」


 こんな軽いやり取りも、もはや名物です。


 ここで、向かいに座るふじこちゃんが、

 自分の唐揚げを一つ摘まみ、サタンちゃんの前に差し出します。


「サタンちゃん。ふじこのと交換しよ? ふじこ、ピーマン欲しい」

「でしゅー!」


 サタンちゃんの目がぱあっと輝きますが、

 すぐに「いや待つでしゅ」と腕を組みます。


「ふじこのからあげ一個と、妾のピーマン二個で交換でしゅ」


 ふじこちゃんは少し考え、こくりとうなずきます。


「いいよ。ふじこ、ピーマン好きだもん」


 取引成立。


 サタンちゃんはピーマンを二つ、ふじこちゃんの皿に移し、

 ふじこちゃんの唐揚げが、サタンちゃんの皿に移ります。


「魔王の勝利でしゅ!」


 勝ったのかどうかは微妙ですが、本人は満足気です。


「魔王様ー、ピーマンはお皿にまだ残ってるよー?」


 あすか先生の冷静な指摘に、サタンちゃんの尻尾がしゅんと垂れます。

 取引で増えたふじこちゃんのピーマンが、まだ皿の上にあります。


「…………しょぼーん」


 周囲の園児たちが「サタンちゃんがんばれー」と声をかけ、

 サタンちゃんは覚悟を決めたように箸を構えます。


「魔王の……いげんにかけて……!」


 ピーマンを口に入れ、咀嚼すること三秒。


「……ま、まずいでしゅ」


 正直な感想ですが、ちゃんと飲み込みました。


「サタンちゃんすごーい!」

「やったじゃん!」


 クラスから拍手が起こり、サタンちゃんは涙目ながらも「当然でしゅ」と胸を張ります。


 たけしくんが「もう一個あるぞ」と指を差すと、

 サタンちゃんの顔が青ざめます。


「……さっきのは一回限りの奇跡でしゅ」


 結局、最後の一個はたけしくんが食べてあげました。



 ――――



 午後の自由時間。

 園庭には初夏の日差しが降り注ぎ、

 園児たちの影が芝の上に短く揺れています。


「かくれんぼしようぜ!」


 たけしくんの声に、クラスの大半が反応します。

 ブランコから飛び降りる子、砂場から駆けてくる子、

 あっという間に園庭の中央に十人ほどが集まりました。


「妾もやるでしゅ!」


 サタンちゃんが尻尾を振りながら輪に加わると、

「サタンちゃんも来たー!」と園児たちが声を上げます。


「さいしょはグー! じゃーんけーん――」


 最初の鬼はじゃんけんで決まりました。

 骨川くんです。


「よーし、数えるから隠れろよー!」


 骨川くんが園庭の大きな桜の木に顔をつけ、

 目を閉じて数え始めます。


「いーち、にーい、さーん……」


 園児達が蜂の子を散らすように駆け出す中、

 サタンちゃんも全速力で走ります。

 尻尾が風になびき、リボンが踊ります。


(ここでしゅ!)


 サタンちゃんが選んだのは、園庭の隅にある大きなイチョウの木の後ろ。

 幹の太さは十分。サタンちゃんの体は完全に隠れます。


 ――体は。


「…………」


 サタンちゃんは幹にぴったりと背中をつけ、息を殺します。

 心臓がドキドキしています。

 かくれんぼは魔王の威信がかかった戦いです。


 やがて、骨川くんの「もういいかーい!」が聞こえます。


「もういいよー!」


 あちこちから声が返り、骨川くんが目を開けて走り出します。


 ……


 まず一人目、滑り台の影いた女の子、しずかちゃんが見つかります。


「あー! みーっけ!」

「きゃー! 骨川さんのえっちー!」


 次に、ベンチの下に潜り込んでいた男の子、伸太君。


「みーっけ!」

「ちぇー、バレたか!」


 骨川くんの足音が、イチョウの木に近づいてきます。


 サタンちゃんは呼吸を止め、体をさらに小さくします。


(来るな……来るな……来るなでしゅ……!)


 骨川くんが木の横を通り過ぎ――


「あ、尻尾」


「!!??」


 サタンちゃんが振り返ると、尻尾がイチョウの幹から大きくはみ出し、

 リボンが風に揺られて存在感を主張しています。


「サタンちゃん、みーっけ!」


「なんでバレたでしゅか!!」


 骨川くんが尻尾を指差すと、

 サタンちゃんは自分の尻尾を見て、目を見開きます。


「う、うらぎりものでしゅーーー!!」


 サタンちゃんが尻尾を掴んで叱りますが、

 尻尾はどこ吹く風で、ぶんぶんと揺れ続けます。


 周囲からは笑い声が弾けます。


「もう一回やるでしゅ!!」



 …………



 結局、何回やっても

 頭隠して尻尾隠せず。

 サタンちゃんの最後まで負けました。



 ――――



 夕方。

 日差しが柔らかくなり、園庭に長い影が伸び始めた頃、

 お迎えの時間がやってきます。


「魔王様ー、ママがお迎えでしゅよー」


 あすか先生のにやけ声で振り向くと、

 門の外にピピが立っています。


 白いワンピースに青い髪が夕風に揺れ、

 柔らかな微笑みを浮かべています。


「ピピママー!!」


 サタンちゃんが園庭を横切り、ピピに飛びつきます。

 ピピがしっかりと受け止め、サタンちゃんを抱き上げます。


「重くなりましたね」

「魔王は成長が早いでしゅ!」


 ピピが笑い、サタンちゃんを下ろすと、

 二人は手を繋いで帰路につきます。


「あちたろともまたでしゅー!」

「それを言うならアスタロトで、先生は飛鳥露都だよー」


(いい加減覚えろよ……)



 …………



「ピピママ、聞いてほしいでしゅ!」


 サタンちゃんは、帰り道の間ずっと今日の出来事を話し続けます。

 身振り手振り、尻尾も総動員で、かくれんぼの一部始終を再現します。


「それで、尻尾がこう、ばさーーってなって!」


 ピピは微笑みながら聞いています。

 夕陽が商店街のアーケードに差し込み、

 二人の足元にオレンジ色の光が広がります。


「ピピママ」


 サタンちゃんの声が、少しだけ静かになります。


「はい?」


「妾、ようちえん好きでしゅ」


 その言葉は、いつもの魔王語ではなく、

 5歳の女の子の、まっすぐな声でした。


 ピピはサタンちゃんの手を握り直し、しゃがみ込みます。

 夕陽がサタンちゃんのツインテールを照らし、

 尻尾のリボンがオレンジに染まります。


「サタンちゃんもみんなに好かれていますよ」

「と、当然でしゅ!」


 顔が赤くなっているのは、夕陽のせいだけではないでしょう。


「ピピママ、はやくー!」


 サタンちゃんがピピの手を振りほどき、少し先を走り出します。

 尻尾が嬉しそうに左右に揺れ、リボンが夕陽に踊ります。


 ピピは微笑み、その後を追おうとしました。


 その時です。


 ふと、ピピの足が止まります。


 夕陽に照らされたサタンちゃんの影が、

 アスファルトの上に長く伸びています。


 5歳の少女の、小さな影。


 その影が――歪みました。


 ほんの一瞬。

 瞬きよりも短い時間。


 小さな影が、巨大な翼を広げた竜の輪郭を描きました。

 角が天を衝くように伸び、尻尾が地を這うように太く広がり、

 それは見覚えのある姿――かつての魔王――悪魔竜王サタンの影でした。


 ピピの目が見開かれます。


(今のは……)


 しかし次の瞬間には、サタンちゃんが振り返ります。


「どうしたでしゅー?」


 首を傾げるサタンちゃんの足元に伸びるのは、

 ただの5歳の少女の影。


 いつもの可愛らしい影です。


「……いいえ。なんでもありません」


 ピピは笑顔を作り、小走りでサタンちゃんに追いつきます。


 サタンちゃんがピピの手を握り、二人は商店街を歩いていきます。


 夕陽が沈み始め、影が伸びていきます。


 ピピは繋いだ手とは反対の手で、

 そっと、自分の胸を押さえていました。


(気のせいです……きっと、気のせいです)


 やがて夕陽がビルの向こうに沈み、

 二人の影は薄くなり、アスファルトに溶けて消えました。



 …………



「あゆむー! 帰ったじょー!」


 サタンちゃんは、帰宅するなり靴を乱暴に脱ぎ捨て、

 それをピピが優しく整え並べてあげます。


(サタンちゃんの靴は、わたくしの隣です)


 サタンちゃんの赤い靴が、ピピの白いローファーの隣に並びます。


「呼び捨てにすんな! サタン!」

「うるしゃいじょ! 家来が口出ししるでないじょ!」


 ペチン! 


 サタンちゃんの尻尾ビンタが炸裂し、7畳の部屋には冷笑が飛び交います。

 ですが、直後には皆目を細めます。


「ピピー! トリエルお腹すいたー!」


 トリエルが翼を広げながらピピのワンピースを引っ張り、催促します。


「はいはい。じゃあ今日は……」

「すき焼きがいいー!」


 トリエルの元気な声が響き、ピピが笑います。


「では材料を買ってこないと行けませんね」


「みんなで買いに行くか」


 あゆむの声に、7畳の全員が黙ってうなずきます。


(わたくし達の帰る場所が、ここにあります)


 ピピは冷たいはずの胸に手を当て、

 その温かさを噛み締めました。


 すき焼きの香りが、すぐそこにあるかのように感じる。

 そんな夕暮れでした。



 ――――



 次回 落ちてきた天使と同居することになった件。


「天照らす笑顔」にご期待ください。


 次回、ニャルラトホテプの嘲笑篇の最終話です。

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