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九話「桜の下の嘲笑」

雲の上の小さな楽園、天界。


神様が住まう宮殿内部、ウリエル様専用の執務室に、彼女はいました。

ブラックコーヒーを片手に、今彼女は真剣な眼差しで一枚の図を見ています。


「……アマテラスは、これを見てほくそ笑んだな」


それは、以前アマテラス様が『悪神マーラ』を見せた際の図です。

大きな輪の中心に描かれた一柱の神。

それが、マーラなのだといいます。


「アマテラスは、これを見せて、なんだと言いたかったのだ」


ウリエル様は頬杖を突きながら考え込みますが、答えは出てきません。

やがて、コーヒーが注がれたマグカップを口へ運びますが――


「不味いな」


気付けば、コーヒーはすっかり冷めていました。


「いっそアイスにするか」


ウリエル様がそう言って、備え付けの冷蔵庫から氷を取り出した時です。

ドアを軽くノックする音が聞こえます。


「ウリエル様、少しご相談が」

「入れ」


ウリエル様が即席のアイスコーヒーを作り、席に戻ると一柱の天使が入ってきます。

ウリエル様はマーラの図を見ながら、「どうした」と、片手間で対応します。

部下の天使は胸にファイルのバインダーを抱えながら、

神妙な面持ちでウリエル様に報告します。


「はい。実は神様が先日競馬で……」

「負けたか」


またか……と、ウリエル様は思いましたが、

それだけならいつもの事。

「わかった。後でシバいておく」と言おうとした時です。


「いえ、万馬券を当てて」

ピタリと、動きが止まります。

「ほう……天界の金庫へ返納したか?」

「……持ち逃げしました」


ウリエル様は強化チタンのマグカップを、

まるで紙コップのようにへしゃげると、

中のコーヒーが吹き出し、マーラの図が危うく汚れそうになります。


部下の天使は、慌てて図を拾い上げる様子を見守ると、

「それ、マーラですか?」と、口にします。


一拍。壁時計の音が聞こえるほど、部屋がしんと静まり返ります。


「知ってるのか?」

「え? あ、はい。以前、インド神界に出向したことがありまして」

「教えろ」

「ええと……インド神界の業務内容は――」

「違う、マーラだ」


部下の天使は、「は、はい」と、少し驚いたようにうなずくと、

掻い摘んで説明をします。


「マーラは、ありとあらゆる煩悩を司る悪神です」

「煩悩?」

「はい。人や神が持つ、悩み、苦しみ、欲望の総称です。それに付け込んで忍び寄るんです」


この時、ウリエル様は『似ている』と思いました。

ニャルラトホテプが心の闇に付け込み、人の業を嘲笑い、背中を押す神ならば、

マーラは煩悩に付け込み、静かに忍び寄る神です。


(アマテラスが言いたかったのはそれか?)


ウリエル様は一瞬そう考えますが、すぐに自ら否定しました。


(違う。アマテラスはもっと食えないヤツだ)


アマテラス様がわかりにくいヒントを出す時、そこに必ず大きな裏がある。

ウリエル様は、これまでのアマテラス様との付き合いで、彼女の性格をそう分析しました。


(たかが似ているぐらいで、アマテラスは食いつかない)


ここでウリエル様は、心配そうに覗き込む部下の天使に気が付きます。


「ああ……一人で考え込んでいた」

「マーラがなにかしたのですか? インド神界に掛け合いますか?」

「いや、そうじゃない」


ウリエル様は、一度深く息を吸い、呼吸を整えます。


「マーラの特性を、もう少し詳しく教えてくれ」

「あ、はい」


今度は部下の天使が、息を吐きます。


「マーラは人の煩悩に付け込んで忍び寄り、破滅へと導く悪神です」

「うん」

「その力は強大で、少しでも煩悩があるものには、マーラは倒せません」

「……うちのハゲには無理そうだな……」


部下の天使が苦笑いすると、ウリエル様はある事実に気が付きます。


「うん……? いや待て。マーラは不死性の神か?」

「はい。煩悩の悪神ですし、そのように窺っていますが」

「今マーラは何をしている」

「さあ……」


ウリエル様は眉をひそめ、部下の天使を見上げます。

彼女は困惑した表情で、胸にファイルのバインダーを添えます。


「……知らないのか? ここは重要なところだぞ」

「その……知らないというか……既に撤退しているので」


今度はウリエル様が驚愕の表情を浮かべます。

マーラとニャルラトホテプとの関連を考えていたところで、

まさかのマーラ不在という事実。


しかし、先程聞いたマーラの強大さからは、それは結びつかない事柄です。

何せ無敵のはずの存在がいない。

例えるならば、目が覚めて窓の外が明るいから出てみたら夜だった。

それぐらいの衝撃です。


「なんでいないんだ?」

「ええと……それは」


部下の天使が結果を言おうとした時――


「いや、やはり言うな」

そう制しました。

ウリエル様はアイスコーヒーを口に含み、

腕を組みます。


…………


しばらく沈黙が流れ、ウリエル様は答えにたどり着いたようです。


「アマテラス……お前、もしかして……とんでもないことを企んでるな……?」


ウリエル様は窓の外、どこまでも続く白い雲の地を眺め、

部下の天使は不安と困惑が混ざったような顔で、ウリエル様を見守っていました。



ちなみに、神様はこの後数分後に取り押さえられ、

ウリエル様にシバかれました。

「次舐めたことやったら、アゴもツルツルにするからな」

「ひ、ひぃぃぃぃぃぃ!!」



――――



ここは7畳の部屋、いつもの狭い空間です。

「あゆむーん! 朝ごはんよーん!」


あゆむの食事は、今日も今日とて朝からカオスです。

白ナスビことアンポンタン、彼らがピピが置いていった朝食を強奪します。


まずはアッチが「隙ありー!」と床から飛び出して奇襲。

あゆむのアゴを押さえると、「あーーーーん」と口を開けます。


「あへへ! あへひゅひゃー! (おのれい! 負けるかー!)」


あゆむも毎回負けっぱなしではありません。

強引に開けられた口を力いっぱい閉じ、歯茎むき出しで必死の攻防が続きます。


「俺の飯が食えねってのか!!」


アッチも尻尾で脇をくすぐったりしますが、あゆむはなかなか強情です。


「いにに! ふににーーーー!!」


あゆむの叫びが7畳の部屋に響き、今日は引き分けか……と思われた時でした。

ふわり……と、背後から桜の香りがあゆむの鼻を刺激し、

背中に温かくて柔らかい感触を覚えます。


「え……!?」

「えへへっ、ぷにーーーー!!」


振り向くと、そこには指を突き立て、満面の笑みを浮かべるトリエルがいました。

トリエルはあゆむに抱きついたまま、桜色に染まる頬を近付けて来ます。


「エミ……」

つい、言ってしまいました。

「トリエルだよ?」

見た目がエミエルと一緒なだけに、あゆむの口は思わず緩んでしまいます。

北風よりもやはり太陽が勝ちます。


「ぽげげへへへへ!!」


ただ、対象がコードではなく、口ですが。

突然のトリエルのハグで動揺した瞬間に、アッチがあゆむの口を制し、

タンタが朝食のオムレツを流し込み、ポンポがケチャップで味付けします。


「グッ!! ゴフッ!!」


気管に入ったのか、思い切り咳き込むあゆむの鼻にオムレツが侵入し、

あゆむは床にのたうち回ると、トリエルからは「あははっ! 面白ーい!」と笑われ……

(俺は面白くねー!)


ガブリエルママからは「……フッ!!」と鼻で笑われ、

ミカエルさんからは「……近づかないでください」とガチで避けられる始末。


一方で……「紅茶飲みますか?」と、何故かバアルゼブルは優しくしてくれましたが、

顔が笑っていました。


(クソが!! この家の主は俺じゃい!!)


あゆむは床にあぐらをかき、アンポンタンから皿を奪うと、

残りのオムレツやらキャベツやらをかき込みます。


「早食いは体に悪いよー!」

「盛大なブーメランが刺さってるぞ、トリエル」

「トリエル、ブーメランは使わないよ?」

「そういう話じゃないんだわ」


(まるで双子だよな)


あゆむは苦笑しながらトリエルを眺めていると、

サタンちゃんを幼稚園に送ったピピが帰ってきました。


「サタンちゃんがなかなか離れてくれなくて、遅くなりました」

「そういう割に、顔は嬉しそうだな」


あゆむの皮肉をピピは微笑みで返すと、

一泊を置き、表情が一気に真面目なものに変わります。


あゆむもその意図を察し、(くだん)について尋ねます。


「どうだった?」

「同じでした」


『同じ』

これが意味するところ、すなわちそれは――


「七井瑠亜と一緒か……」

「……はい」


『七井瑠亜』

この名が出た途端、部屋の空気が一気に重々しくなります。

そして、同時に、誰もが『同じ』という言葉の意味も理解しました。


「覚えていなかったんだな?」


ピピは何も言わず、静かにうなずきました。


(佐藤徹もか……)


「サタンちゃんの送迎がてら、帰りに商店街に寄ったのですが……」



――――



朝の商店街、ピピはアーケード内の八百屋の大将と話をしています。

まだ開店前ですが、掃除をしている大将と顔を合わせます。


「あ、ピピちゃんおはよー。今日も美人さんだね」

「ふふっ、どうも」

「そうだ、昨日美味しいじゃがいも仕入れたんだよ」


大将はそう言ってじゃがいもを4つほど持たせてくれました。


「ありがとうございます」


ピピは大将に笑顔を向けると、確信に迫ります。


「大将」

「ん?」

「佐藤さん。佐藤徹さんは、最近どうですか?」


一瞬、二瞬程の間が空き、大将がキョトンとします。


「ん……? 佐藤って……誰?」



――――



7畳の部屋では、あゆむが唇を噛み、天井を見つめます。

そこは、かつてクリスマスイブにニャルラトホテプが染みをつけた箇所です。


(……また染みが浮いている?)


そこには、以前は消えた染み、ニャルラトホテプがつけた黒い痕跡。

それがまた浮かんでいました。


(お前はまた別のターゲットを見つけたということか……)


あゆむはそう判断し、天井の染みを睨みます。

それは何も答えはしませんが、

あゆむには確かに『嗤って』いる顔のように見えました。



――――



昼前、7畳の部屋では昼食の支度が進んでいました。


「お昼はポテチがいいなー」

「おのれは年中ポテチじゃろー」

「一年中じゃないよー? 350日ぐらいだよ?」

「それを年中って言うんだわー」


あゆむとトリエルの、そんな他愛もないやり取りが続いていた時です。

トリエルに持たせたスマートフォンの通知が鳴り、

彼女がそれを確認すると、表情が一気に明るくなります。


「おばさんだー!」


『お昼一緒に食べない?』


メッセージアプリにはそう書かれていました。


「行くのか?」

「うん」


トリエルはガブリエルママを一瞥すると、

ガブリエルママはトリエルの手を握ります。


「ママも行ってもいい?」

「うん! ガブリエルママも一緒に行こー!」


ガブリエルママは「わーい!」と飛び跳ねると、

トリエル以上にウキウキして、まるで恋人とのデートであるかのように、

鏡の前で前髪をいじります。


(……大丈夫か……)


こんな時期に。あゆむはそう思いましたが、

ガブリエルママは、いざとなれば大天使として本気になれます。


あゆむはガブリエルママに任せることにして、そっと見守ることにしました。



――――



一方、桜井邸では、ママ友のガブリエルママも来るということで、

エミエルの生母、桜井美恵は昼食の準備を張り切っておりました。


リビングでは既にトリエルの好物のポテチとコーラが並べられ、

さらにはミートソースパスタが盛られています。

若干歪な昼食ですが、温かみのある食卓です。


「……早く来ないかな」


美恵が恋人を待ち焦がれる彼女のような顔でトリエルを待つと、

玄関のインターホンが鳴りました。


「来た!」


美恵はトリエルが来たと確信し、はーいと元気よく声を上げて、

その扉を開けるのですが……


「はーい、いら――」


その相手に、美恵は大きく目を見開き、一歩二歩と、後ろにたじろぎます。

その相手は――


「照人……さん!?」


――桜井照人、10年前にサインが済まされた離婚届を置いて蒸発した夫です。

10年という歳月は彼を50歳の男性にし、現在39歳の美恵よりも、一段と老け込んで見えました。


彼は黒いスーツに赤いネクタイを着けて、玄関前に立っていました。


「……今更何をしに来たの」

「謝りたかった……いや、正直に言おう」


照人は一瞬取り繕おうとしますが、美恵の表情(かお)をうかがい、態度を変えました。


「君を責めに来た。こういった方が、君も楽になるだろう」

「それが10年ぶりに再開した妻へのセリフ!?」

「元だ」

「帰って……!」


美恵は扉を閉めようとしますが、照人は食い下がります。

彼は扉の隙間に足を入れると、挟まれるのも厭わずに、美恵を真っ直ぐに見つめます。

その目は、かつて美恵が好きになった目でした。


実直で、嘘を嫌い、物をはっきり言う人、

それでいて周囲を照らせる人。


「君はそうやってまた逃げるのか」

「逃げてなんて――」

「ないと言えるか?」


一泊の間が空き、美恵は押し黙ってしまいます。

照人の言葉は、美恵にとっては耳の痛い台詞です。


何故ならば、以前の美恵は、娘恵美の死を受け入れられず、

恵美の痕跡が残る子共部屋に閉じこもり、

恵美が残してくれた木箱を恵美と思い込むことで、ギリギリで生きてきたのです。


それは照人からすれば逃げでしょう。

しかし――


「逃げたのは、貴方も一緒でしょう?」


美恵は鋭い言葉を浴びせます。

照人自身も、かつて心を病んだ美恵から逃げた張本人です。


それを何を今更偉そうに……美恵はそう思っていました。


「だから、そこだけは謝りに来た」

「帰って」


美恵は再び扉を閉めようとしますが、

昼食の匂いを感じたのか、照人は違和感を覚えます。


「食事かい? にしては匂いが強いな。誰からいるのかな?」

「貴方には関係ないわ」


この時美恵は『トリエルに会わせたくない』と、そう思っていました。

万一照人がトリエルの正体に気付き、無神経な言葉を発した場合、

これまでせっかく『優しい嘘』で守ってきた関係が崩れる可能性があります。


そこは美恵は避けたいところでした。


しかし――


運命はそれを『嘲笑い』ます。


「……トリエルちゃん」


美恵のその声に照人も振り向き、彼は『嗤い』ます。


「やっぱり、君はまだ逃げている」

「……やめて」


その場に立ち尽くす美恵を他所に、照人はトリエルに近づきます。

その異様さにガブリエルママが立ちはだかりますが、照人はトリエルに微笑みかけます。


「妻の……美恵のお友達かな?」

「うん。そうだよー」

「……なるほど。娘にそっくりだね」


「美恵さんに何を吹き込んだのです!」

ガブリエルママが腕を伸ばし制すると、照人はふふっと鼻で笑い、

両手を広げて言葉を続けます。


「夫婦のやり取りだ。関係ないと思う」

「関係あります! 彼女はわたくしの友人です!」


すると、ガブリエルママは玄関前で座り込んでしまった美恵を支えます。


「大丈夫ですか?」

「……」


美恵は何も答えませんが、目には涙が溜まっています。

その涙を見て、トリエルの目が茶色く輝き――


「おばさんを泣かせないで」


エミエルに切り替わると、エミエルは照人を……父親を睨みつけます。


「雰囲気が変わったね。さっきまでは幼かったのに」

「貴方は変わっていないのね」

「どういう意味かな」


エミエルは何も答えず、ガブリエルママと同様に、美恵を支えます。


「……嫌われたものだな」


照人はそう言うと、踵を返し、美恵の方へ振り向きます。


「よく考えるといい。そうやって逃げている限り、本当の問題は解決しない。

 娘は……恵美は、死んだんだ」


「帰って!!」


白昼の住宅街に美恵の泣き叫ぶ声が響き、

照人の不敵な笑みが三人を突き刺します。



照人は陽炎の方に住宅街に消え、

アスファルトの照り返しが三人の母娘を焼きます。



(……お母さん)



エミエルは何も言えず立ち尽くし、

ガブリエルママは無言で揺らめく太陽を睨みつけ、

美恵は顔を覆います。



…………



その日の昼食は、酷く不味いものでした。



…………



――――



次回 落ちてきた天使と同居することになった件。


「虚像と嘲笑と新しい嘘」にご期待ください。


次回、解決編です。

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