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六話「夢見る霊に残る残滓」

この夜、ピピは初めて夢を見ました。

霊である彼女は本来眠りません。


しかし、その夜だけはどうしようもなく眠く、

電池が切れたおもちゃのようにシーツおばけの姿になり、

やがて、糸が切れた凧のように、力なく浮かび上がります。


…………


(ここは、どこでしょう)


生前記憶がほとんどなく、言うなれば『物心』ついた頃から霊である彼女にとって、

夢などというのは未知のものです。


当然、これが『夢』という認識はなく、意識はあるのですが、

自分が何処かに転移した――まるでそんな認識です。


「あゆむ様と、サタンちゃんが心配です。戻らないと」


今ピピが考えることはそれだけです。


そもそも何故このようところ――

暗く、モヤのかかる空間にいるのか、などとは考える暇もありません。

添い遂げたいと思う者、守りたいと思う者のもとへ戻る。

それだけなのです。


…………


どれほど移動したでしょうか。


当初、ピピは浮いたまま出口を探しましたが、何故だか足が重くなり、

浮くことが困難になっていきます。


ついにはシーツおばけの小さな足が地面につきます。

足が地面に近づくにつれ、空気が重く淀み、普段の浮遊感が失われていくのを感じます。

まるで重力が意思を持ち、彼女の足に鎖を付けているかのようです。


…………


足裏に触れた感触は、冷たくて、でもどこか柔らか。

けれども不愉快。

ガサガサという音とヌメヌメした感触……

まるで虫と海洋生物が混在する背にいるような感触です。


ピピは小さく首をかしげます。

シーツの端が、ふわっと地面に触れて広がり、まるで自分が溶け出しそうになります。


(……あれ?)


視界のモヤが、ゆっくりと薄れていきます。

すると、そこにあったのは真っ暗な空間ではなく、

巨大な、でもどこか懐かしい匂いのする部屋でした。


薄暗い部屋。

6畳ほどの広さでテーブル、本棚、パソコンデスクがあります。

そして、そこには一人の少女が座り、暗がりで光るパソコンのモニターに向かっています。


黒いセミロングの髪、黒縁メガネの18前後の少女。


ピピの足が止まり、霊なのに呼吸が止まります。


「……」


ピピの存在に気がついたのか、少女がゆっくりと振り返ります。


「――!!」


瞬間、ピピの心臓が無いはずの胸が強く脈打ちます。

その顔は――目がありませんでした。

正確には、目に当たる部分が空洞……いえ、闇なのです。

光さえも抜け出せないような、吸い込まれるような深淵。


「――っ!!??」


血管を血液が無理に通ろうとする感覚、息をしない体なのに、苦しくなる呼吸。

押し寄せてくる恐怖。


やがて、少女の体から見慣れた姿の別の少女が出てきます。

青い髪、白い肌にワンピース。


そう、それは普段のピピ。

けれど、その顔に生気はありません。

まるで蝋人形のように瞳孔一つ揺れないのです。


ピピがワンピース姿のそれを見ていると、今度は黒髪の少女の目から、

何者かが這い出てきます。

最初に出てきたのは――手、黒ずみ、朽ちた手。

赤黒く、斑点のある腕。


ピピは動けません。

まるで金縛りにでもあったかのように、

全身が見えない手で掴まれている感覚です。

痛みはないのに、強い力で掴まれているのがわかる。

そんな感覚が走り、体が言うことを聞きません。


(逃げないと!!)


ピピが逃げようと藻掻いているうちに、そのものはやがて顔を出します。


「あ……あ……っ!!」


ピピからそんな声が漏れ、脈が濁流のように激しくなります。

氾濫した川に瓦礫が流れてくるように、

心臓内部の毛細血管を、気色の悪い何かが押し通る感覚が支配します。


せめて身を屈めたいのに、それすら言うことを聞きません。


そうこうしているうちに――顔がハッキリと見えました。

若い男、記憶の奥底にある顔、忌まわしい記憶の断片。


「ダイジョウブ……サイショダケダヨ……」


そのモノは――佐藤徹でした。



――――



「嫌ぁぁぁっ!!」


やっとまともな声が出て、気が付くと、そこは7畳の部屋でした。

ピピは自らの状態を確認するように手足を伸ばします。

脈はありません。汗もありません。呼吸も当然乱れません。

青い髪と白い肌のピピでした。


しばらくし、壁時計の音が聞こえてきます。

続いて、ベッドの上からあゆむとサタンちゃんの静かな寝息。


「ピピ……ママ……」


サタンちゃんの寝言でピピが我に帰ると、

ベッドからサタンちゃんの尻尾がダラりと落ちています。


それはまるで、眠りながらもピピを探しているようです。

その目的が守る為なのか、あるいは母性を求めているのかはわかりません。

ピピの唇に、わずかな微笑みが浮かびます。


「わたくしはここにいますよ」


ピピはそう優しく呟くと、サタンちゃんの尻尾と握手をします。

サタンちゃんの魔竜の尻尾は、少しだけ鱗でカサカサしていて、

けれど柔らかくて温かい。


「夢……というものなのでしょうか」


『生まれた時から』霊であるピピに、夢という概念はありません。

したがって、あれが『夢』という確証はありません。

何者かが魔法でピピの意識を引き込んだと言えば、彼女は疑いもなく信じるでしょう。


今彼女の口から出ている『夢』という言葉は、

普段あゆむやサタンちゃんの夜を見守っている体験から導いた想像に過ぎません。


「こうしていると安心できます……」

(わたくしが守っているつもりが、実際は逆なのかもしれませんね)


ピピはサタンちゃんの尻尾を静かに布団の中に戻してあげると、

彼女の頭を優しく撫でてあげます。

解かれたツインテールがさらりと流れ、ピピの心の中の僅かな瓦礫――

濁流によってやってきたそれを絡め取り、優しさで包み込みました。


「不思議なものですね……」


ピピはそう呟きながら、ふよふよと浮かび鼻ちょうちんを作るおばけ達を眺めます。

彼らも『霊』ではありますが、夜になると寝て、朝に目を覚ます生態を持っています。

当然彼らは生きているもの達同様に夢も見ます。


(同じ霊でもわたくしだけが寝ない……不思議です)


ピピはおばけの一匹を掴むとお腹を撫でます。

その腹部はピピ同様に冷たくはあるものの、

呼吸に合わせて、その滑らかな腹部は波のように上下します。


「こうして見ると可愛いですね」


そう言ってピピは、おばけをトリエルに持たせてあげました。


…………


翌朝、ピピは何事もなかったかのように振る舞います。

4時前に目を覚ますバアルゼブルのために、お湯を用意し、

一緒におはよう時代劇を見ながら紅茶の香りを楽しみます。


「ふむ……今日の香りは、少しだけ薄いようですね」


バアルゼブルはそれしか言いませんでしたが、

普段通りに行動しようと気を張るピピ。


彼女が用意したお湯が、沸騰させ過ぎて酸素が減り、

それが紅茶の香りを弱くしました。

普段のピピならやらないことです。


バアルゼブルは静かに目を閉じると、息を吐き、

鼻腔の中のダージリンの香りを外へ逃がします。


彼はそれ以上は何も言わず、しかし、何かを察したようにピピを一瞥すると、

カップに残った紅茶を飲み干しました。

その視線は一瞬でしたが、ピピの心が少しだけ軽くなるのを感じます。


(ありがとうございます)


ピピは心の中でそうお礼を言いました。

きっとバアルゼブルは無理に問い質すと、ピピは頑なになると思ったのでしょう。

その判断は正しく、彼があえて沈黙を選んだことで、

ピピはそれを『信用』と受け取ります。


『必要な時は声をかけなさい』


ピピはバアルゼブルの無言の優しさ、思いやりを確かに受け取りました。


…………


やがて6時になるとサタンちゃんが起きる時間です。


「ゲスー、ゲスー」


ゲザイトリオのゲンゲでしょう。

彼は寝ボケてサタンちゃんの尻尾に当たると、尻尾はゲンゲを勢いよく叩き、

「ゲスー!」とゲンゲは二、三度床をバウンドして、最終的にサタンちゃんのお腹に着地します。


「じょー……プールでボール遊びする夢を見たでしゅー」


きっとそれはゲンゲの影響ですね。


「ふふっ、夢は楽しかったですか?」

「ボールがお腹に当たって冷たかったでしゅ!」


ピピは軽く笑みを浮かべると、サタンちゃんの髪を手ぐしで整えてあげますが、

サタンちゃんは何かを感じたのか、不思議そうにピピの顔を見つめます。


それはいつも通りの白い顔。でも今日はいつもより白く見えました。


「じょー? ピピママ顔色悪いでしゅ」

「ピピはいつも顔色悪いぞ」

「お前は黙ってるでしゅ!!」


のそりと起きたあゆむの軽い一言に、サタンちゃんの尻尾は鞭のようにしなります。


「いて! 尻尾で叩くな!」


するとここで、ピピ――の顔したアンポンタンが乱入します!


「サタンちゃんいいわよー!」「あゆむをボコボコよー!」「ママとお呼びー!」


「でしゅー!」


ぺちーん! と尻尾が唸り、アンポンタンもあゆむの顔を、ぺちぺちとピピの顔で叩きます!


「やめーい!」

「サタンちゃん、そろそろ許してあげましょう」


ピピに笑みがこぼれ、サタンちゃんは安心したのか、尻尾ビンタを止めると、

アンポンタン達も、あっかんべーとお尻ペンペンをして戻っていきました。


「わかったでしゅー」


「……朝から酷い目にあったわい……」


あゆむは赤くなった頬をさすると、ピピの顔を見つめます。

あゆむにはいつものピピですが、サタンちゃんの言葉を信じ、

「で、ピピよ、何かあったのか?」と尋ねます。


ピピは顔を俯かせると、夢の内容を思い出します。


やはり何かあった――部屋の空気が一気に重くなります。

普段はトリエル中心で無関心を決め込むガブリエルママでさえ、

トリエルを抱っこしつつも、手はポテチに、顔はピピに向けています。


ミカエルさんは朝から小説を開いてはいますが、

開くだけで読んではいません。


皆、声には出しませんが、ピピのことを心配しているようです。

その様子を見て、ピピも黙っているのは建設的ではないと判断したのでしょう。

「実は……」と、おもむろに口を開き――その一挙一動に注目が集まり、

部屋はしん……と静まり返ります。


――――


「夢?」

「はい。夢を見たのです」


ピピの言葉をオウム返しにするあゆむに、ピピは静かにうなずくと、

事実を繰り返します。


あゆむは眉をひそめ、首を傾げます。


「その内容が特別悪いものだったのか」


(あ、いや……違うな)


ここであゆむも、ピピが『夢を見た』と告げた意味を理解します。


「待て。ピピ、お前は眠る必要がないのではなかったのか?」

「はい。死んでこの方、寝たことはありません」


「寝ないはずのピピが眠りに落ち、夢を見た……か」


あゆむは天井を眺め、かつて黒い染みがあった箇所に視線を送ります。

そこに染みはなく、その夢の原因がニャルラトホテプにあるのか否か、

その判別はあゆむにはつきませんでした。


するとここで、ガブリエルママがトリエルを脇に座らせると、

すうっと立ち上がり、粛々と語りだします。


「霊が……この場合、ピピのような純粋な霊が夢を見るというのは意味があります」

「意味……ですか?」


ピピの問に、ガブリエルママはこくりとうなずきます。

黒いメガネから覗くその表情は真剣で、普段の親バカとは完全に異なります。


ガブリエルママは、そこで一度言葉を止め、ミカエルさんへと視線を向けます。

ミカエルさんは小説を静かに閉じ、ピピを見つめます。


「……ピピ。少し、わたしに診せてもらえますか」


その一言は、いつものぶっきらぼうさとは少し違う、大天使としての真剣さを帯びていました。

部屋が静まり返る中、サタンちゃんがピピのワンピースの裾をそっと掴み、

不安げな表情で見上げます。


「診る……?」

「落ちぶれても元大天使。わたしには天使統括として、人ならざるものを『診る』力があるのです」


ミカエルさんは髪をかきあげると、そっと右手を差し出します。

ピピはそれに合わせるように、向かい合う左手を出すと、

ミカエルさんはそっと目を閉じ、意識を集中させます。


やがてミカエルさんの頭上に光が集まり、ハローを形成します。

背に光の翼が四枚浮かび、それは大きく広がると部屋を包むようにして消え、

金色に輝く羽がピピに優しく触れます。


「どうですか? ミカエル」

「どうやら、彼女の霊体内に生前の残滓が残っているようです」


「残滓……ですか?」


わかりにくいと感じたのか、ミカエルさんは視線を軽く泳がせ、

言葉を探ります。


「言い方を変えましょうか。『消えたくない』と願っていた心が残っていたと、そういうことです」

「ピピは元は怨霊でしたね?」


ガブリエルママの問に、ピピは躊躇いなくうなずきます。

ミカエルさんはそれを見届けると、言葉を繋げます。


「その怨霊が浄化される際、『嫌だ』と願う微かな心、生前の思いが残っていたのです」

「それが霊が夢を見る意味ですか?」


ミカエルさんは「はい」とうなずくと、

「なにかの切っ掛けがあって、生前の思いが呼び起こされているのです」


ミカエルさんがそういった時、あゆむは一瞬トリエルを見ます。

今でこそ、エミエルと交代出来るようになったトリエルですが、

当初はエミエルこと、桜井恵美の生前の記憶に触れる度、

恵美が表に出てきていました。


あゆむはそれに当てはめて考えたのです。


(生前のピピ……ヒミが呼び起こされた切っ掛けか)


あゆむには一つしか心当たりがありません。


『佐藤徹』


彼と会った日から、ピピが怯えるようになりました。

そしてそれは、寝ない霊が夢を見るにまで至りました。


「ミカエルさん、わたくしはどうすればいいのですか?」


ミカエルさんはソファに座ると、手のひらを向け、ピピにも座るように促します。

ピピはミカエルさんと向かい合うようにソファに座ると、

サタンちゃんが隣に立ってピピの手を握り、

それを見届けて、ミカエルさんはゆっくりと、しかし力強く口を開きます。


「道は二つあります」

「二つ……?」


ミカエルさんは指を立てて説明します。


「そうです。一つはもう一度浄化し、完全に生前と切り離すこと。

 そうすることで、件の男とも、貴女は『無関係』になれます」


「もう一つは?」


ミカエルさんは数秒沈黙し――


「もう一つは、生前の残滓を増幅し、向かい合うこと。

 自分自身と向かい合い、解決に導けばそれは消えるでしょう」


つまり、どちらにせよ、夢の問題は消えるという見解でした。

違う点は人に頼るか、自ら立ち向かうかの差です。


「ピピ、貴女がどちらを選んでも、わたしは貴女を尊重しますよ」

「妾も、ピピママの好きな方にすればいいと思うでしゅ!」


その言葉を受けて、ピピはしばらく沈黙します。

指先を膝の上で静かに重ね、視線を落とし、

まるで自分の内側を覗き込もうとするように、目を細めています。


「……少し、考えさせてもらえますか」

「もちろんです」


ミカエルさんは静かにうなずきます。

ピピの答えを急かす者は、この部屋には誰もいません。

ガブリエルママはトリエルを膝に戻し、

バアルゼブルは窓の外へと視線を逃がします。


あゆむだけが、ピピの横顔をじっと見ていました。


(忘れたくない……のか)


根拠はありません。

ただ、ピピが「考えさせてください」と言った時の声の揺れが、

あゆむにはどうしても、そう聞こえたのです。


…………


やがてあゆむは口を開きます。


「ミカエルさん、一つ確認したい」

「なんですか」

「さっきの話……生前の残滓が呼び起こされている、という話だが」


ミカエルさんは小説を膝の上に置き、あゆむに向き直ります。


「それは……自然に起きたことなのか。

 あるいは、外から意図的に引き起こすことも出来るのか」


部屋の空気が、また変わります。

ミカエルさんの眉がわずかに動きました。

それはほんの微かな変化でしたが、あゆむには十分でした。


「……あゆむ、あなたは」

「ニャルラトホテプだ」


あゆむの発言に、迷いはありません。

それは確信にも近いと言えます。


「奴の手口は直接手を下さないことだ。

 七井瑠亜がそうだったように、人を通して、心を揺さぶる。

 今回は佐藤徹を通して、ピピの残滓を意図的に刺激している可能性がある」


「……」


ミカエルさんは即答しません。

視線が天井へと泳ぎ、何かを検討するように口元が引き結ばれます。


「可能性は……否定できません」

「やはりそうか」

「ただし」とミカエルさんは続けます。


「そうだとすれば、一つ目の選択肢、再浄化には別の意味が生まれます。

 残滓を消せば、干渉する足がかりも消える。

 奴の手が届かなくなる、という意味で、安全策としての意義は増します」


「だがその代わり、ピピの一部が消える」


あゆむはそう言い切ります。

その上でさらに続けます。


「そしてそれは……一つ目の選択は奴も望んでいる気がする」


あゆむのその発言に、部屋中が注目します。


「それはどういう意味ですか?」

ピピの投げかけに、あゆむは一度うなづいてから説明します。


「ニャルラトホテプ。奴は人を唆したり、

 あるいは心の弱み……とりわけ闇を見せて揺さぶり、

 そうして、人がもがく様を楽しむ邪神だ」


「はい」


「思い出して欲しい。去年のクリスマス。奴は何をした?」


あゆむがトリエルの方を見ると、トリエルは目を閉じ、エミエルに変わります。


「心の闇を見せる鏡を出して、バアルゼブルやサタンちゃんを揺さぶったわ」

「そうだ。あの時奴はこう言った。

 『壊せば権能の限界が露呈する』と。

 そのうえで、壊さざるを得ない状況に導こうとした」


あゆむはさらに続けます。


「次に、奴は七井瑠亜として、幼稚園に現れ、サタンを揺さぶった」

「参観日にみんなに昔話と言って、妾のことを話したでしゅ!」


あの時、たけしくんが割って入らなければ、サタンちゃんは完全に孤立し、

孤独に耐えかねたサタンちゃんは逃げていたかもしれません。


そして、次はピピに……


あゆむの声は力強さを増し、それはニャルラトホテプへの静かな怒りに変わります。


「奴は俺達を揺さぶる際に、明確な『逃げ道を作る』

 最初はエミエルの権能、次に園からの逃亡、そして今回は――」


「再浄化……ですね? あゆむ様」


あゆむは、ピピの目を見て大きくうなずきます。

ピピの快晴の空のような目には、その色のようにもう迷いはなく、

答えは決まったように見えました。


「そうだ。奴は逃げ道を用意し、そこに誘い込もうとしている。

 けど、それは罠だ。一度でも逃げたら、次々に逃げなければ行けなくなる」


あゆむがそこまで説明すると、サタンちゃんの尻尾が力強く床を叩きます。


「ピピは妾のママでしゅ! 生前なんか関係ないじょ!! 

 ピピはピピママのままでいいんでしゅ!!

 辛い記憶でも、それはママの一部でしゅ!!」


「サタンちゃん……」


ピピが静かに顔を手で多い、その目からは雫が落ちます。


「ニャルラトホテプ、奴を倒すことはきっと不可能だ。

 でも、対抗することは出来る。

 それは、奴の罠に正面から向かい、打ち破ることだ」


あゆむのその言葉、それは心の光こそが、這いよる混沌を退ける唯一の手段だと、

そう強い確信が込められていました。


「俺達一人では、それはきっと無理だ。でも――」


「一人ではありません」


ピピがあゆむの手を握り、言葉を繋げます。

サタンちゃんがピピの手を両手で掴みます。

小さな指が、冷たいピピの手に絡みついて、ぎゅっと離しません。


「妾も一緒でしゅ! 絶対に離れないでしゅ!」

「サタンちゃん」


ピピの唇に、今日初めての、本物の微笑みが浮かびます。

冷たい手が、サタンちゃんの温かい手に包まれています。


ピピは確かに覚えています、この感触を――あの三つ巴の握手を。

ピピはもう片方の手で、そっとあゆむの袖を掴みます。

あゆむは何も言わず、その手に自分の手を重ねます。

サタンちゃんの尻尾が三人の腕にふわりと巻きつきます。

それはあの夜と同じ、三人の握手でした。


(わたくしは……ひとりではない)


その確信が、ピピの胸の中の冷たい氷を、少しだけ温めます。


…………


部屋の隅で、バアルゼブルが静かに目を閉じます。

ガブリエルママがメガネの奥でそれを一瞥し、

視線をエミエルに戻しながら、小さく呟きます。


「風の大天使もいます」

「笑顔の天使もね」

「天使統括もいますよ……落ちぶれてますが」


ピピの目の雫が雨に変わります。

この部屋の全員が、それぞれのやり方で、

ピピの選択を受け取っていました。


(わたくしは……幸せですね)


――――


その夜、あゆむは眠れませんでした。

サタンちゃんの寝息を聞きながら、

天井の染みが消えた箇所に視線を向けます。


(ニャルラトホテプ)


かの邪神は直接手を下さない。人を通して、心を壊す。

七井瑠亜がそうだったように。

しかし今回は違うと、あゆむは感じています。


七井瑠亜は「外側」から仕掛けてきました。

町の人間の記憶を操り、サタンちゃんを孤立させようとした。


けど佐藤徹は……

(内側に手を突っ込んでいる)


ピピの過去、ピピが忘れている記憶。

そこに直接、指を差し込んでいます。

これははるかに質が悪い。


「……お前は、ピピが何者か知っているのか」


天井に向かって、あゆむは小さく呟きます。

返事はありません。

当然です。


しかし、あゆむの中で、嫌な確信だけが育ち続けます。


(ピピが向き合った先に、何が待っている)


佐藤徹という男のことを、あゆむはまだほとんど知りません。


(一つだけ分かることがある)


「あの男は、ピピの「知らない何か」を知っている。

 その『何か』が、ピピを壊しにくるものであるなら――」


(俺が先に知らなければならない)


あゆむは静かに身を起こします。

夜の部屋で、一人、考え続けます。

その背中を、窓の向こうの春の夜風が、静かに撫でていきました。


――――


次回 落ちてきた天使と同居することになった件。


「永遠の氷美華」にご期待ください。

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