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五話「新たな影」

7畳の部屋、カオスな住人達が集まり共に歩む空間。


季節は4月。

桜が咲き始め、町は春の空気に包まれております。


「でしゅしゅー! でしゅしゅー!」


サタンちゃんは今日もご機嫌で、尻尾のリボンを春風になびかせております。

桜の花びらがリボンに絡まり、まるで尻尾が開花したようです。


「桜でしゅー!」


「サタンちゃん、走ると転びますよ」


ピピが穏やかに注意しますが、サタンちゃんは聞く耳を持ちません。

幼稚園までの道、商店街を抜けるいつもの道。


春になって町の空気が変わりました。

あの節分の日以来、なない先生――七井瑠亜の姿は消え、

幼稚園からも、町の人々の記憶からも、綺麗に抜け落ちていました。


記憶の消去――

あゆむ達の間では、そう結論付けられています。

邪神は去ったのではなく、痕跡を消した。

しかし、それは平和が戻ったのではなく、『逃がさないという』メッセージです。


(またいつか、来るのでしょうか)


ピピの胸に、微かな安堵と、それよりもずっと大きな不安が同居しています。

けれど、サタンちゃんの笑顔がそれを上書きしてくれます。

少なくとも、今この瞬間は。


「ピピママー! 早くー!」

「はいはい」


ピピは白いワンピースの裾を軽く持ち上げ、小走りでサタンちゃんに追いつきます。

青い髪が桜の風に舞い、町の人達が「おはよう」と声をかけてくれます。


「おはようございます」


コスプレ好きの変わった母娘。

町の人にとって、ピピとサタンちゃんはそういう存在です。

角も尻尾もコスプレだと思われていますし、ピピが霊だなんて誰も思いません。


平和な朝。

そのはずでした。



…………



「おはようございまーす!」


商店街の八百屋の前。

聞き覚えのない、けれど妙に通りの良い男の声がしました。


「おう! 徹くん、今日も早いねえ!」


八百屋のおじさんが、いつになく上機嫌で声を返しています。

ピピが視線を向けると、そこには一人の青年がいました。


黒い短髪に、清潔感のある白いシャツ。

歳は20代半ばほどでしょうか。

八百屋のおじさんの荷物を手伝いながら、爽やかな笑顔を見せています。


「いえいえ、通りがかりですから」

「いつも助かるよ。ほら、これ持ってきな」


おじさんがりんごを手渡すと、青年は「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げます。


町に最近越してきた青年。

名前は佐藤徹。


ピピは初めてその名前を聞いた時、特に何も感じませんでした。

佐藤という苗字はありふれており、珍しくもなんともありません。


けれど。


「あ、おはようございます。可愛いお嬢さんですね」


青年がこちらに気付き、サタンちゃんに視線を向けた、その瞬間――

ピピの身体が、凍りました。


(!!??)


足が動かない。

声が出ない。

心臓が、あるはずもない心臓が、激しく脈打つような錯覚に襲われます。


(なに……これ……)


霊体であるピピに、心臓はありません。

脈も血液もありません。それなのに、全身が震えています。

まるで真冬の氷水に突き落とされたような、骨の髄まで届く悪寒。


「じょー?」


サタンちゃんが不思議そうに見上げます。

ピピの手が震えていることに、サタンちゃんは気が付いていました。


「……な、なんでもありません」


ピピは無理に笑顔を作ります。

しかしその笑顔は、かつてトリエルが見せた『仮面の笑顔』のように、

どこか歪で、冷たいものでした。


「大丈夫ですよ。さあ、幼稚園に行きましょう」


ピピはサタンちゃんの手を引き、足早にその場を離れます。

背中にまだ、あの青年の視線を感じます。


(なぜ……なぜ、あの人が怖いの?)


記憶にはない。

見覚えもない。

なのに、身体が、魂が、全力で叫んでいるのです。


『逃げろ』と。



――――



「ピピママ、さっきの人だれでしゅ?」


幼稚園の門の前で、サタンちゃんが首を傾げます。


「……さあ、知らない方です」


ピピの声は平静を装っていましたが、握ったサタンちゃんの手が、まだ冷たいのです。

霊体のピピの手はいつも冷たいですが、今日はそれとは違う冷たさ。

凍てつくような、拒絶の冷たさです。


「でしゅー」


サタンちゃんは気にした様子もなく、あすか先生に向かって駆けていきます。


「あ、あちたととろでしゅー」

「先生は明日も明後日も飛鳥露都でしゅしゅー」


あすか先生がニタァと笑い、例によって元上司をおちょくります。

サタンちゃんは「おちょくるなでしゅ!」と尻尾をペチペチ。

いつもの光景です。


ピピは門の外から手を振り、サタンちゃんが振り返って「ばいばーいでしゅー!」と叫ぶのを確認すると、

帰り道を急ぎます。


一人になった途端、震えが戻ってきました。


(あの人……佐藤 徹……)


名前を心の中で反芻しますが、やはり何も思い出せない。

ピピの記憶は、怨霊時代の浄化でほとんど消えています。

残っているのは自分が怨霊だったことと、生前の死因。


それだけのはず。


(でも、この震えは……まるで、身体が覚えている……)


魂の残滓。

記憶にはないのに、魂が覚えている恐怖。


ピピは商店街を足早に通り抜けます。

すると、また――


「あ、さっきの」


あの青年が、今度は花屋の前にいました。

花屋のおばさんと談笑しながら、花束を選んでいます。


「徹くんはお花が好きなのねえ」

「母が好きなんです。送ってあげようかと」


(どうして、また……)


ピピの足が止まります。

逃げたいのに、身体が硬直して動けない。

青年はピピに気が付くと、軽く会釈します。


「先ほどはどうも。お子さん、幼稚園に送ったんですね」


その声は穏やかで、温かく、何の悪意も感じません。

むしろ好青年そのもの。町の人が彼を歓迎するのも、わかります。


わかるのに。


(この声が……怖い)


声のトーン。

穏やかで、優しくて、聞く者を安心させるあの声。


記憶にはない。

なのに、魂が記憶しているのです。


かつて、この声に似た声を聞いたことがある。

この穏やかさに似たものに、包まれたことがある。


そしてその先には――


(……何があったの? わたくしは、何を忘れているの?)


「あの、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」


青年が心配そうに近づいてきます。

一歩。


ピピの身体が、反射的に後ずさります。


「っ……す、すみません。急いでいますので」


ピピは頭を下げ、逃げるように歩き出します。

青年は「お気をつけて」と、変わらず穏やかな声で見送ります。


花屋のおばさんが、ピピの背中を見ながら呟きます。


「あらあら、ピピちゃんどうしたのかしら。徹くん、何かした?」

「いえ、何も。体調が悪いのかもしれませんね」


青年は困ったように笑います。

その笑顔には、一点の曇りもありません。



――――


数日後。

佐藤徹という青年。彼は、あっという間に町に溶け込みました。


八百屋の荷物を手伝い、花屋で母親に花を送り、

公園のベンチで老人と将棋を指し、迷子の子供を交番に届ける。


商店街では「徹くん」と親しまれ、

お年寄りからは「うちの孫もあれくらいしっかりしてくれたらねえ」と褒められ、

近所のおばさん達には「独身なのかしら?」とまで囁かれる始末です。


完璧な好青年。


なのに――


ピピだけが、その笑顔の前で凍りつく。


サタンちゃんの送り迎えの度に、佐藤徹は商店街のどこかにいます。

毎回違う場所。毎回違う人と話している。

けれど、必ずピピとサタンちゃんの通り道にいるのです。


「あ、おはようございます。サタンちゃん、今日も元気だなあ」

「でしゅー!」


サタンちゃんは彼に愛想よく返します。

ピピはサタンちゃんの顔を一瞥しますが、サタンちゃんは何も感じていないようです。

古い魔族の匂いもしない。瘴気もない。ただの、人間。


(なにかあるなら、サタンちゃんが感じるはず。気にし過ぎ……)


「サタンちゃん、行きましょう」


ピピが手を引こうとしますが、サタンちゃんはもう少し話したそうにしています。


「ピピママ、こいちゅ面白いじょ! 手品見せてくれたでしゅ!」

「えへへ、大したことないですよ。百円玉が消えるだけですから」


「すごいでしゅ!」


サタンちゃんの尻尾がフリフリと揺れ、目がキラキラと輝いています。

ピピの胸に、鋭い痛みが走ります。


(サタンちゃんが……あの人に……)


懐いている。

その事実が、ピピの魂を刺すのです。


理由がわからないまま、恐怖だけが膨れ上がる。

記憶のない恐怖は、形がないぶん、どこまでも肥大する。


「サタンちゃん。行きますよ」


少し強い口調になってしまいます。

サタンちゃんは「むー」と頬を膨らませますが、ピピの手を握り返します。


「ピピママ、イヤでしゅ?」

「……そういうわけでは」

「でも、いっつも怖い顔しゅるじょ」


ピピは言葉に詰まります。

サタンちゃんの無垢な問いに、答えられないのです。


(怖い……でも、なにが怖いのか、わたくしにもわからない)


「好きじゃないだけですよ」とも言えない。


それを言えば、サタンちゃんは混乱するだけです。

町の誰もが好意的な相手を、自分(ママ)だけが拒絶している。


その構図がどれだけ子供を不安にさせるか、

ピピには痛いほどわかります。


「なんでもありませんよ。さあ、急ぎましょうね」

「……じょー」


サタンちゃんは納得していない顔をしています。

尻尾がだらりと下がり、リボンが地面を引きずります。


ピピは、それを見て胸が張り裂けそうになります。



…………



日が経つにつれ、状況は悪化していきます。


ピピが佐藤徹を避ければ避けるほど、周囲との溝が広がるのです。


「ピピちゃん、徹くんに何か失礼なことされた?」

「あんないい人、なかなかいないわよ?」

「考えすぎじゃない?」


善意の言葉が、ピピを追い詰めていきます。


町の人達に悪気はありません。

彼らの目には、感じの良い青年を理由もなく避ける母親が映っているだけです。


ピピはそれに反論出来ません。


「あの人が怖い」と言ったところで、「なぜ?」と訊かれたら答えられない。

「なんとなく」では、誰も納得しません。


むしろ、ピピの方がおかしいのではないかという空気が、じわじわと形成されていきます。


ある日の帰り道、サタンちゃんが立ち止まりました。


「ピピママ」

「はい?」


「……あいちゅと遊んじゃダメでしゅか?」


ピピの足が止まります。

サタンちゃんは俯いて、尻尾を丸めています。


「幼稚園のしもべもお菓子もらったって言ってたでしゅ。

 妾だけもらってないでしゅ……」


(わたくしのせいで、サタンちゃんが……孤立している)


ピピの目に、涙が滲みます。

しかし霊体のピピの涙は、目に浮かんでも頬を伝う前に消えてしまいます。


「……ごめんなさい、サタンちゃん」


ピピはしゃがみ込み、サタンちゃんを抱きしめます。

冷たい腕が小さな身体を包みます。


「ダメとは言いません。ただ……」


言葉が続きません。


(何と言えばいいのでしょう。わたくし自身にもわからないのに)


サタンちゃんはピピの胸の中で、小さな声で呟きます。


「ピピが怖がるなら、妾も怖がるじょ」


それは、5歳の魔王が出せる、精一杯の答えでした。


ピピは唇を噛み、サタンちゃんの頭を撫でます。

桜の花びらが二人の上に降り注ぎます。


穏やかな春の夕暮れ。

けれど、ピピの魂は冬のままです。



――――



夜、23時。


7畳の部屋は静かでした。

おばけ達は天井裏で丸くなり、ベッドの上で寝息を立て、

トリエルはアンポンタンを枕にして眠っています。


ガブリエルママとバアルゼブルは奥の壁際で、

ミカエルさんは窓のそばで、それぞれ静かに休んでおります。


あゆむは、本を読んでいました。

明日は休みということもあり、いつもより遅くまで起きています。


ふと、視線を動かすと――ピピがいません。


「……ヒミ?」


あゆむは小さく呼びかけながら目を走らせると、

窓辺に白い影を見つけます。


ピピがそこにいました。

彼女は窓枠に手を置き、遠くの山を眺めていました。


かつて廃ホテルがあった、あの山。

ピピにとっては、今でも忌まわしい記憶の場所です。


「ピピ、どうかしたか?」


あゆむは本を閉じ、そっと立ち上がります。

ピピは振り返りません。

ただ、窓枠に置いた手が、微かに震えているのが見えました。


普段なら、ピピはあゆむの足音を聞いただけで振り返り、

「いいえ、なんでもありません」と笑顔を作ります。


今夜は、それがありません。


「ヒミ」


もう一度、呼びかけます。今度はヒミツの呼び名で。

ピピの肩が小さく跳ね、やっと振り返ります。


彼女は――震えていました。静かに、確実に。


「……あゆむ様」


やっと出た声は、掠れていました。


「わたくし……わたくしは……」


彼女は、震えていました。

まるで祭りの喧騒の中に、一人取り残された幼子のように。


「どうした。話してみろ」


あゆむはピピの肩にそっと手を置きます。

触れた瞬間、その冷たさに息を呑みました。


凍っている。

そう思えるほどの冷たさです。


「ピピ、お前……」


「……あの方が、怖いのです」


ピピは、ようやく口を開きます。


「佐藤徹……あの方が、怖い……」


「何かされたのか?」


ピピは首を横に振ります。


「何もされていません。一度も。あの方はいつも礼儀正しくて、穏やかで……

 町の方々が好意的になるのも、わかります」


「なら、なぜ」

「わかりません」


ピピの声が震えます。


「わかりません……わかりません……」


繰り返すたびに、声が小さくなっていきます。


「ただ……身体が動かなくなるのです。あの方の声を聞くと。

 あの方の笑顔を見ると。逃げなければと、魂が叫ぶのです」


あゆむは黙って聞いています。

ピピの言葉を、一つも逃さないように。


「記憶にはないのです。あの方の顔も、名前も、わたくしの中にはないのです。

 なのに……なのに、この震えだけが、止まらないのです」


ピピの手が、あゆむのミリタリーシャツの裾を掴みます。

力なく、けれど離すまいとするように。


「わたくしは……何を忘れているのでしょう」

「わからなくていい」


「……あゆむ様」


「お前が怖いと感じるなら、それは本当のことだ。俺は町の人間じゃない。お前の味方だ」

「……ありがとう、ございます」


「もう大丈夫です。あゆむ様は休んでください」

「……わかった」


あゆむはそれ以上踏み込まず、ピピが求めるようにします。


(俺がいる)


心の中のその声は、ピピにも届いている。

あゆむはそう確信していました。


――――


暗い。どこまでも暗い空間。

サタンちゃんは、黒い水の中に立っていました。

水は足首まであり、ぬるく、不快な温度です。


「……どこでしゅ?」


声が反響します。

天井も壁もなく、ただ暗闇が広がっています。


けれど、遠くに何かが見えます。

白いもの。

水の上に、誰かが蹲っています。


サタンちゃんは歩き出します。

水を蹴る音だけが、暗闇に響きます。


近づくにつれ、それが誰なのかわかりました。


白いワンピース。青い髪。

けれど、それは今のピピとは少し違います。


もっと幼い。もっと傷ついている。

膝を抱えて、泣いています。


「ピピ……?」


サタンちゃんが声をかけると、その少女はゆっくりと顔を上げます。


大きな黒縁のメガネ。

黒いセミロングの髪。

澄んだ、けれど全てを諦めたような目。


それはサタンちゃんの知らない顔でした。

ピピの顔ではない。けれど、ピピの『中』にいる誰か。


少女は何かを言おうとします。

口が動いています。けれど、声が聞こえない。


サタンちゃんは、さらに近づこうとします。

その時です。


少女の背後に、影が立ちました。


黒い影。

顔はわかりません。

ただ、人の形をした闇がそこにあります。


影は笑っていました。

声は聞こえないのに、笑っていることだけがわかる。

口が三日月のように歪んでいる。


「……うー」


サタンちゃんは、本能的に尻尾を丸めます。

あの影は、瘴気ではない。魔族でもない。

七井瑠亜の時に感じた『古い魔族の匂い』とも違う。


もっと生々しい。もっと人間的な悪意。


そして、その影が口を開きました。



「大丈夫。最初だけだよ」


穏やかで、優しくて、そして――聞く者を安心させる声。


――あの声でした。


町で聞いた、あの青年の声に、どこか似ている。


少女が身体を震わせ、蹲ります。

水面が波立ち、黒い水が少女を呑み込もうとします。


「ダメでしゅ!!」


サタンちゃんは走り出します。

水が重く、足がもつれます。

少女に手を伸ばしますが、届きそうで、届かない。


影が少女の肩に手を置きます。


その手は――


ほくそ笑んでいました。

手が、指が、掌が、全てが『嗤って』いる。


「触るなでしゅ!!」


サタンちゃんは叫びます。

瞬間、影が揺らぎます。


その隙に、少女がサタンちゃんに視線を向けます。


目が合いました。


少女の口が、もう一度動きます。

今度は――聞こえました。


「……にげて」


その声は、ピピの声でした。


けれど、ピピの声ではない。

もっと幼く、もっと震えていて、もっと――壊れそうな声。


影が再び少女を包み込もうとした、その瞬間――



…………



「ピピママ!!」


サタンちゃんが跳ね起きました。


汗だくです。

小さな身体が震え、尻尾は力なく床に垂れています。

魔族の本能が、恐怖に反応しているのでしょう。


「サタンちゃん!?」


ピピがすぐさま反応し、サタンちゃんを抱きしめます。


「どうしました? 怖い夢でも見ましたか?」


サタンちゃんは何も答えません。

ただ、ピピのワンピースをぎゅっと掴み、顔を埋め、

尻尾がピピの腕に巻き付きます。


「……ピピママ」


「はい。ここにいますよ」


「夢の中に、ピピママがいたでしゅ」


ピピは微かに息を呑みますが、表情は崩しません。


「でも、違う人でしゅた」


サタンちゃんの言葉は、幼くて、曖昧で、何を見たのか正確には伝わりません。

けれど、ピピにはわかるのです。


サタンちゃんが見たのは、自分の『中』にある何か。

浄化で消えたはずの、残滓。


「黒い水の中で、泣いてたでしゅ。メガネかけた、黒い髪の……」


ピピの手が、止まります。


(メガネ……黒い髪……)


それはピピの記憶にはない姿です。

けれど、ピピの魂のどこかが、その言葉に反応します。

心臓のない胸が、再び脈打つ錯覚。


「それで……」


「後ろに、黒い人がいたでしゅ。顔はわからなかったけど……笑ってたでしゅ」


サタンちゃんは俯きます。


「その人が言ったでしゅ」


ピピは、息を止めます。


「『大丈夫。最初だけだよ』って」


…………


部屋の空気が、変わりました。


「ピピママ……あの男、ダメでしゅ」


サタンちゃんは、夢で見たものの正体がわかりません。

あの影と町の青年が同じかどうかも、確信はありません。


けれど、5歳の魔王の直感が、繋げたのです。

ピピの震えと、夢の中の恐怖を。


「あの男は、ピピママを泣かせる人でしゅ」


それは論理ではありません。

幼い子供が、大切な人を守ろうとする本能。


我思う故に我あり。

サタンちゃんがそう叫んだのは、自分の存在を肯定する言葉でした。


けれど今、サタンちゃんの中にあるのはもう一つの確信。


『妾の大切な人を脅かすやちゅは敵でしゅ』


あゆむも目を覚ましていました。

サタンちゃんの叫びで目を覚まし、二人のやり取りを聞いていました。


「……サタン」


「あの男に、ピピママを近づけちゃダメでしゅ」


サタンちゃんの目には涙がありましたが、

それは恐怖の涙ではなく、怒りの涙です。


小さな魔王の、精一杯の怒り。


あゆむは二人を見つめ、そしてもう一度天井に視線を向けます。

そこはかつて黒い染みがあった場所です。


(お前の仕業か)


七井瑠亜が消えた後に、新たな影が現れました。


(偶然じゃない)


あゆむに確証はありません。

佐藤徹がニャルラトホテプの化身なのか、あるいはピピの過去に関わる存在なのか、

それとも両方なのか。


けれど一つだけ、確かなことがあります。


あの青年は、この家の誰かを壊しにきている。


「わかった。明日から俺がサタンの送り迎えをする。ピピは無理するな」


あゆむの言葉に、ピピは小さく首を横に振ります。


「いいえ……わたくしが、行きます」


「ピピ」


「逃げたら、サタンちゃんがもっと不安になります。

 わたくしが怯えている姿を見せたら……あの子の世界から笑顔が消えます」


ピピの声は、まだ震えています。

けれど、その目には、微かな光がありました。


「わたくしは、サタンちゃんのママですから」


「三人なら怖くないじょ!」


サタンちゃんは、ピピには小さな手を、

あゆむには尻尾の先を向け、川の字で握手をします。

サタンちゃんの笑顔が、あゆむとピピに確かな勇気を与え、

その絆を強めるのです。



――――



翌朝。


あゆむとピピとサタンちゃん、三人で商店街を歩きます。

いつもの道。

桜はもう散り始め、花びらが風に舞っています。


エミエル達には昨夜の事を伝えてあります。


バアルゼブルは静かに紅茶を淹れながら、

「必要とあらば、いつでも」とだけ言いました。


ミカエルさんは小説を閉じ、

「わたしも準備しておきます」と、珍しく即答でした。


ガブリエルママはメガネの奥で目を細め、

「無茶はしないこと」とだけ。


皆、覚悟を決めているようでした。


…………


そして、商店街に差し掛かった時です。


「おはようございます」


いました。

八百屋の前に、佐藤徹が立っています。

今日は老婦人の買い物袋を持ってあげているようです。


「おはようございます。あら、今日はお父さんも一緒なのね?」


老婦人がサタンちゃんに笑いかけます。


「でしゅ! きょうはこいちゅとピピママと三人でしゅ!」


サタンちゃんは明るく返します。

しかし、その手はピピのワンピースをしっかりと掴んだままです。


彼がこちらに気付き、穏やかに微笑みます。


「おはようございます。今日は賑やかですね」


あゆむは軽く会釈を返します。

彼の目を、真っ直ぐに見ます。


(……普通の目だ)


瘴気も、赤い光も、不自然な深みもない。

ただの穏やかな目。好青年の目。


七井瑠亜の赤い瞳とは、何もかも違う。


「初めまして。ピピさんのご主人ですか?」

「……まあ、そんなところだ」

「お子さん、いつも元気で可愛いですね」


「でしゅー!」


サタンちゃんが反射的に返しかけますが――

途中で口を閉じ、あゆむとピピに視線を向けます。


そして、もう一度佐藤徹の方を見ました。


じっと、見ました。

昨日までは「町の優しいお兄さん」でした。

けれど、今日は違う。


夢を見たから。ピピの震えを知ったから。


サタンちゃんの中で、何かが変わったのです。


「……お前、誰でしゅ」


静かな声でした。

幼いながらも、明確な怒りを込めた声。


佐藤徹は一瞬、目を瞬かせます。

そして――微笑みます。


「忘れちゃった? 僕は佐藤徹だよ」


その声は穏やかで、優しくて、何の悪意もない。

町の誰が聞いても、好青年の対応にしか聞こえないでしょう。


「そんなことは聞いてないでしゅ」


けれど、あゆむは見ました。


一瞬。ほんの一瞬だけ――サタンちゃんの言葉の後、

彼の瞳の奥で、赤い光が走ったのを。


七井瑠亜の赤とは違う。

もっと深く、もっと古く、もっと――愉しげな赤。


それは一瞬で消え、元の穏やかな黒い瞳に戻ります。

けれど、サタンちゃんも、それを見ていました。

尻尾がピンと立ち、小さな身体が強ばります。


(見た……あの赤は)


あゆむは佐藤徹に、穏やかな表情のまま告げます。


「すまんね。人見知りなんだ、コイツは」


「いえいえ、気にしないでください。それじゃ」


彼は爽やかに手を振り、去って行きます。

その背中に、異常なものは何一つありません。


普通の青年の、普通の背中。


「行くぞ」


あゆむはサタンちゃんの手を握り、歩き出します。

ピピはあゆむの腕にそっと触れ、震えを押し殺しながら並びます。


サタンちゃんが一度だけ、彼の消えた方を振り返りました。


桜の花びらが風に舞い、青年の姿はもう見えません。

代わりに、散った花びらの中に一瞬だけ、黒いモヤが混じった気がしました。


気のせいかもしれません。

けれど――


あゆむは確信します。


(こいつは……七井瑠亜とは違う。もっと厄介な奴が来た)


ピピの震え。

サタンちゃんの夢。

そして、あの一瞬の赤い光。


点と点が、まだ繋がらない。

けれど、あゆむの中で、嫌な予感だけが確かに膨らんでいきます。


(ニャルラトホテプ。お前の手口は知っている。

 直接手を下さず、心を揺さぶり、自滅に追い込む。

 だが、今回は違う……今回は、ピピの過去に関わるものを使ってきているのか?)


答えは、まだ出ません。



…………



次回 落ちてきた天使と同居することになった件。


「夢見る霊に残る残滓」にご期待ください。


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