十一話「スキーは混沌の味」
雲の上の小さな楽園、天界。
何やら天使達の慌ただしい叫び声が聞こえてまいります。
……まあ、大方の予想はつくのですが、誰かを探しているようですね。
誰でしょうねえ……
きっと、頭ツルツルで髭が長いあの人かなあ……
「どこだー!? どこ行きやがった!?」
天使の一柱が謁見の間をくまなく探しておりますが、対象は見当たらないようです。
天使は苛立ちを隠せず、中央の大きな椅子を思いきり蹴ります。
しかし、打ちどころが悪かったのか、あるいはバチが当たったか、
ぴょんぴょんと飛び跳ねた後、再度蹴ります。
「クソがあ!!」
そこに、他の天使も現れ、先の天使の肩を掴みます。
「遊んでんじゃねーよ! コロヤロー! 探せボケ!」
「やってんだろ! バカヤロー! ガタガタうるせーんだよ! コラ!」
「んだとコノヤロー! ぶっ潰すぞ!」
「やってみろ! バカヤロー!」
天使達はバカヤロー、コノヤローの応酬でケンカを始めてしまいます。
お互いに髪の引っ張り合い、羽のむしり合いが始まり、さあ大変です。
ああ、ついに手が出ました! ついでに足も出ました!
「痛てーな! コノヤロー!」
「こっちのセリフだよ! バカヤロー!」
ここでとうとう凶器攻撃に!
神様の椅子に頭を叩きつけました!
これは痛そうですねえ……
おや、ここで椅子の上で何かあるのを見つけたようですよ?
「んだこれ……おい! 手を離せ! コノヤロー!」
「なんて書いてあんだ!」
『スキーに行きます。探さないでください』
どうやら神様は仕事をサボってスキーに出かけたようですね。
天使達はその紙を握りつぶすと、どこかに電話をかけ始めました。
――――
北欧の神界にある極寒の世界、ニブルヘイム。
ここニブルヘイムでは外貨獲得のため、観光客受け入れ計画が進んでおり、
近年急速にリゾート化。
今や路上に可愛らしいペンギンが歩き、そこら中に雪だるまやら、かまくらやらがあります。
こっちではかき氷売ってますよ。
奥の方を見てみますと、大きな山がありますね。
どうやらスキー場になっているようです。
…………
「ふっふーん! ここなら見つからないんだもんねー!」
一面銀世界のスキー場に一際目立つハゲ……いえ、ツルツルミラー。
長い髭を蓄えたハゲ……ツルツルおじ様は神様です。
どうやら外国の神界まで逃げて、天使達を巻いたようです。
「ヒャッホーイ!」
神様は氷の狼、フェンリルが引く犬ゾリでスキー場を雪煙を上げて駆けております。
フェンリルも尻尾を振って楽しそうですね。
「ワオーン!」
神話では恐ろしい魔獣であるフェンリルも、今ではただの観光大使。
2メートルはあろう銀色の巨体が雪山を滑り降りる様は大迫力です。
「うほほーい! ここは天国じゃのう」
その天国から来たオヤジが何を言ってるんだというところですが、
しかし、楽しい時間などそう長くは続かないようで、
フェンリルはなにかの匂いを嗅ぎとったのか、一目散にそちらの方へ方向を転換します。
「どうどう! およよー!」
神様はバランスを崩してソリの上でスッテンコロリン!
ツルツルミラーが太陽光をピカー! と反射しております。
「どう? ジャーキーは美味しい?」
ここで聞き覚えのある低い女性の声がします。
神様は、何かを察したのか、穴を掘って雪の中をほふく前進しますが、
ツルツルミラーが仇となり、位置が上からバレバレです。
「待てコラ」
そこの炎の大剣が神様の目の前に突き刺さります。
そう、それはウリエル様の大剣です。
「ウリエルちゃんは……ビザがないから来れないはずなのよー……」
現実を見たくないのか、神様は振り返らずに四つん這いで逃げようとしますが、
スキーウェアの端をフェンリルに噛まれて動けません。
「ビザならある。オーディン様に下界のゲームを渡したら作ってくれた」
ああ、彼だけ人気ですもんねー。
なんか斬鉄剣とか持ってたりして。
すると、ウリエル様は背中に背負っていた大きな剣を取り出します。
何やら見覚えのある形で『斬鉄剣』と書いてあります。
どうやらこっちのオーディン様がゲームを真似て作ったようです。
ウリエル様はフェンリルに跨りますと、斬鉄剣を掲げて神様をズババア!!
ジャキーーーーン……
神様は真っ二つになりました。
まあどうせ死なない人……いえ、神様ですからね。
「つまらぬものを斬ったな」
本当につまらなそうにしてます。
――――
一方下界のあゆむの7畳の部屋では――
「雪ですね……」
まだ11月だというのに、外では雪が降り出しました。
ミカエルさんはスマートフォンを片手に、窓の外、薄く雪化粧をする朝の町並みを眺めております。
次に視線を落とすと、そこに書かれているのはゲームの話題。
『人気ゲームに奇跡の聖女現る』という見出しのまとめサイトのようです。
曰く、ある人気ゲームに『ミカエル』という名のプレイヤーがいて、
次々と奇跡を連発。
彼女が敵を倒すとどれだけドロップ率が低いアイテムでも必ず落とす……
ということで、多くのトレジャーハンターに目を付けられ、
彼女がログインするやいなや、PT申請がバババっと飛んできてチャット欄は罵声の荒らしだとか……
ある日のこと――
「ふざけんな! コノヤロー! こっちは昨日から待ってんだ!」
「知るか! バカヤロー! 早いもん勝ちだ!」
「ズルしてんじゃねーよ! コノヤロー!」
「人のこと言えんのか! バカヤロー!」
画面の向こうでは、現実のミカエルさんが死んだ魚のような目で、
「またですか」と呟きながら、人間の欲に呆れ返っています。
まるで天界から下界の争いを眺めるような、ため息混じりの視線です。
彼女はただ平穏に過ごしたいだけなのに、至る所で奇跡を起こしてしまう体質……
そのせいでこうして人の欲に巻き込まれてしまうのです。
ミカエルさんはため息を吐くと、静かにぽつり。
「神よ……この欲深き者たちに慈悲を」
やはりそこは落ちぶれても元大天使なのでしょう。
ミカエルさんは罰ではなく、慈悲を求める祈りをすると、
ゲーム内のアバターも勝手に祈りのポーズを取ります。
するとどうでしょう。
ミカエルさんのアバターの周囲に羽が散るエフェクトが現れ、送られたPT申請が次々と通ります。
通常は4人が限界のゲームなのに、32人PTという一つの軍隊が作られます。
チャット欄が「聖女の慈悲キタ!」「これでボス即死確定w」と一転、歓喜の嵐に。
その日は大天使ミカエルが率いる軍勢でレイドボスを蹂躙し、
レアドロップをガッツリ落とさせ大盛り上がりだったとか。
そんな事がまとめサイトで取り上げられ、
コメント欄は妬みや嫉妬の荒らし。
「嘘乙」
「自慢乙」
新たな憩いの場として見つけたはずのゲームでも、結局ミカエルさんは有名になってしまい、
こうして悩める天使として、その力で雪を降らせているのでした。
…………
「わたしに憩いの場はないのですね……」
ミカエルさんはすっかり落ち込み、雪はどんどん降り積もります。
あゆむは首を横に振ると、キッチンでホットミルクを作ります。
「これでも飲めい」
ミカエルさんは渡されたホットミルクをしばらく眺めると、
ふう……と、軽く息を吹きかけてマグカップを口に運びます。
「わー! 雪だー!」
するとここで破壊神代表のトリエルが目を覚まし、窓に手をついて目を輝かせます。
そしてその声に反応するかのように、怪獣も目を覚まします。
「ピピー! 雪でしゅ! 遊ぶでしゅ!」
サタンちゃんは尻尾をフリフリさせて嬉しそうです。
尖端に巻かれた赤いリボンが、まるで新体操の演技のような軌道を描いています。
すると今度は、そのサタンちゃんの尻尾に反応したおばけ達が新体操を外で始め、
「あはは! 楽しそー!」とトリエルが指で指揮を始めます。
外では白鳥の湖が鳴り、おばけ達がクルクルと踊っています。
その中でも一際目立つのはやはりというか、アンポンタンです。
彼らは顔だけピピになって、あゆむをおちょくるようにクルクルと踊っています。
「あゆむーん!」「うふーん!」「ピピよーん!」
あゆむは窓辺で拳を握り、「この顔、絶対に後でナスの塩漬けにしてやる……」と闘志を燃やしますが、
外の雪はそれを笑うかのように、ますます本気モードで積もり始めます。
あゆむは「待っておれ!」とキッチンから塩を取り出し、外へ出て塩入り雪玉を作って投げつけますが――
「大リーグ雪玉ボールじゃい!」
アンポンタンはそれを華麗にかわすとリボンで掴んで、
「お返しよーん!」と投げ返します!
それはあゆむの顔面にボカーン!
直撃したあゆむは思わず「ほげぇ!?」
おばけ達はケラケラ。
ついでにお尻フリフリで煽り散らします。
「このナス共がー!」「面白そうだじょー!」
おばけ達の新体操で我慢ができなくなったのか、サタンちゃんも外に飛び出し、
雪玉を作っておばけ達にポンポン投げます。
「サタン魔球だじょー!」
「いやーん」
あゆむの雪玉は交わすくせに、サタンちゃんの雪玉は食らってくれるおばけ達対して、
あゆむは軽くムカつきつつも雪を払って部屋に戻ります。
その後、サタンちゃんに続き、トリエルが「トリエルも雪合戦するー!」と指を鳴らすと、
外ではおばけ達がわざとらしくボーリングのピンのように整列し――
ゴロローーーーン!!
当たった雪玉に対して派手に転がり、雪玉戦争がエスカレート。
サタンちゃんの尻尾のリボンが雪玉に絡まって、まるで即席の雪だるま新体操に変わります。
こうなってしまうと、もうあゆむでは止められません。
トリエルがガブリエルママに対して「ガブリエルママー」と手を振ると、
ガブリエルママは大喜びで外へ飛び出し、「ママも遊ぶー!」と絶叫します。
「あー、これはあかんなあ……」
あゆむは一抹を遥かに通り越した十抹の不安を抱えながらもどうすることもできず、
微かな期待を込めてミカエルさんへ視線を送りますが、それは新体操のリボンのように軽やかに流されます。
最後の期待も潰えたあゆむは、仕方なくその行く末を見守ることにします。
「トリエル、もっと広いところで遊びたーい!」
「妾も広いところがいいでしゅ!」
ぴょんぴょんと期待に満ちた瞳でガブリエルママを見つめる怪獣二人、
それに応えるべく、メガネを天へ放り投げるとそれが眩い光を放ち、
やがて大天使ガブリエルのハローを形成します。
大天使となったガブリエルママは、上空へ飛翔すると、場所を探すように周囲を見渡します。
すると、丁度いい場所を見つけたのか、少し離れた廃ホテルがあった、あの山を指さします。
「ママビーーーーム!!」
いつそんな技を作ったのか、彼女はわざとらしく叫ぶと、指から黄色い光線が放たれ、
それは山に命中すると光が放射状に広がっていきます。
するとどうでしょうか。
灰色の雲から光の柱が漏れ、そこからヘルメットを被った天使が舞い降りると、
重機を駆り、あっという間に山を整備してスキー場にしてしまいます。
「なんでやねん!」とあゆむは思わず突っ込みますが、
ガブリエルママの天使の権能は『繁栄』なので、きっとそういうものなのでしょう。
あゆむは盛り上がる面々に諦めの意味でため息を吐くと、
「バアル、紅茶をくれ。俺の金なんだ、よいな?」と彼に視線を送ります。
すると、バアルゼブルは珍しくあゆむに敬礼し、
「お代はつけておきますね」と皮肉で答え、温かい紅茶のタンブラーを渡します。
あゆむはそれを奪うようにして受け取ると、その場ですすって気を紛らわせます。
かくして、あゆむ達一行は、スキー場と化した近所の山を目指すのでした。
――――
スキー場となった山では、既に多くの人とマスコミが物珍しさで集まっておりました。
なんといっても天使の力であっという間に作られたスキー場です。
これには墨俣一夜城を築いた豊臣秀吉も驚きでしょう。
既にドローンがブンブンと上空を飛び、
記者が「秀吉もびっくり! 突如現れた謎のスキー場です!」と興奮気味でレポートする中、
あゆむは吐き捨てるように呟きます。
「まあそうなるわな……」
するとそこへ、白いスキーウェアに身を包んだ青髪の美少女が現れます。
「あゆむ様、わたくしと滑りましょう」
それはピピでした。
天使が運営するスキー場では必要な物は無料でレンタルされ、既に準備万端のピピが手を差し伸べます。
その後ろではちゃっかり、青いスキーウェアのミカエルさんもいますね。
あゆむが周囲を見ると、ゲレンデではトリエルとサタンちゃんが雪だるまを作って遊び、
おばけ達は雪合戦をしているようです。
時々一般の子供も混じって一緒になって雪玉を投げあっています。
一方の大人代表(?)のバアルゼブルとガブリエルママは、離れに設けられたログハウスで優雅に休憩中です。
「飲みますか?」
「ええ、いただくわ」
と、このように、家から持ってきた紅茶を紙コップに注いで楽しんでおります。
「みんな楽しんでおるようじゃな……」
あゆむはにこりと笑うと、天使から装備一式を借り、既に待つ二人と合流するとリフトへ――
「落ちぶれても元大天使、このミカエル、天使の技を見せましょう」
「天使は関係ないんじゃあ……」
ゲレンデのてっぺんまで来るとミカエルさんは見栄を切り、一気に滑り降りますが、
それはなんのことはないただの直滑降です。
しかし、ミカエルさんの背中からは光の羽が散って見え、
彼女は盛り上がった斜面を、まるで翼があるかのように華麗な大ジャンプで飛んでみせます。
皆思い思いのスキーを楽しみ、珍しく平和に終わりそう……
そう思われた時でした。
あゆむ達が滑り終わると、下のリフト周辺では大人達が殴り合いの争いをしていました。
拳やストックが肉を叩く鈍い音が雪原に響き、
周囲に響く怒号や呻き声は、これまでの和やかな空気を一気に地獄へと変貌させます。
その騒ぎの中心、そこには見覚えのある、黒いモヤが立ち込めています。
「瘴気……」
あゆむがポツリとそう呟くと、ミカエルさんが即座にあゆむの前に立ち塞がり、
「この穢れ……危険ですね」と低く唸ります。そして――
「これって一体……」
不安そうな表情を浮かべながらも、ピピとエミエルが次々と駆けつけ、
あゆむを守るように両サイドを固めます。
「ピピー」
少し遅れてサタンちゃんもやってくると、尻尾を震わせてピピの裾を掴み、
「ピピママは妾が守りましゅ」と健気に強がりながらも小さな声で呟き、空気が重く淀みます。
「何者かが瘴気を放っているのでしょう。まあ大方の予想はつきますが」
最後にやってきたガブリエルママは、メガネを押さえながら瘴気の渦を睨みつけ、
その言葉に賛同するように、バアルゼブルが静かに付け足します。
「かの邪神……ですね」
これまでその邪神は、巨大なタコのような見た目で現れ、
無数の目の生えた触手であゆむ達を襲撃しようとしてきました。
それらは尽く失敗しましたが、ハロウィンでは人に近い姿を取り、言葉まで発しました。
邪神は学習しているのです。
「奴はきっとこの周辺にいる……どこかで様子を見て笑ってるんだ」
あゆむの読み通り、それはログハウスの上にいました。
黒いスーツを着るその姿はさらに人間に近く、見た目は20歳前後の黒髪の青年。
背中からは黒い翼が生えていますが、そこには無数の赤い目があります。
それら一つ一つが独立して会場を見つめ、そして『嗤って』います。
一見して人間のようですが、なんとも不気味な姿です。
「あそこにいるじょー!」
サタンちゃんが指を指すとそれは空中を飛び、赤い目を光らせます。
すると会場は一気に黒いモヤ――瘴気に包まれ、至る所で殴り合いが始まります。
「やめて! みんなの笑顔を消さないで!」
エミエルは訴えるように叫びますが、その邪神は止めるどころか、さらに勢いを加速させます。
まるで桜色の微笑みの天使、エミエルを嘲笑うかのようです。
「心外だな……僕も笑顔を作っているのに」
その言葉に、あゆむは驚愕します。
(完全な人の言葉だ)
かの邪神、名も知れぬそれは、やはり成長していました。
そしてついには、この世界の人間の言葉までも理解したようです。
しかし、人を暴走させる瘴気をもって『笑顔』などという邪神の言葉に、あゆむは憤りを覚えます。
「ふざけろ! これのどこが笑顔だ!」
あゆむのその言葉に、邪神はふむ……と一瞬考えると、その赤い目であゆむを睨みます。
すると、あゆむの中で一瞬ドス黒い感情が生まれますが、それはすぐにかき消えます。
手に温かいものを感じ、視線をやるとエミエルがあゆむの手を握っていました。
彼女の『笑顔』の権能があゆむを守っているのです。
「やっぱり興味深いね。その力は……すごい力だ」
「こっちの質問に答えろ!」
あゆむは未だ上空を飛ぶ邪神に拳を振りかざし、強い怒りをあらわにします。
邪神は少しかったるそうな、そんな表情で眉をひそめると、ゆっくりと両手を広げて語りだします。
「人が最も快楽を覚える瞬間は、何かわかるかい?」
邪神の問いかけに、あゆむは心当たりがありました。
初めて瘴気を目にした花見会場の席、トリエルが初めて『笑顔』の権能をフルに発動させた席で、
あゆむは人を凶暴にさせるその瘴気に対してこう考えたのです。
心の闇を増幅させ、そのままに動かす邪悪な力、それが瘴気。
そして、もしそこに特殊な力や武器があったらどうなるのだと。
心の闇が命ずるままに、強大な力が加わった際の恐ろしさ――
それを、あゆむはかつて想像しました。
同時に理解しました。
心の闇のままに行動する時、人はもっとも残酷になる。
それと一緒に、人はそこに強大な快楽を得ると。
『心の闇』とは、なにも邪悪な思想だけとは限らないのです。
それはその者が『正しい』と思う心にも含まれるのです。
あゆむは周囲の殴り合いを眺め、雪に染まる赤い血痕が、一瞬、瘴気の黒いモヤのように見え――
正義の仮面の下で笑う顔が、自分の鏡像のように思えて息を呑みます。
自分は正しい、だから相手に何をしてもいい。
そう思った時、それこそ『心の闇』が牙を剥き、そして『快楽』を与える瞬間でもあるのです。
「自分が正しいと思った時、正義が命じるままに悪を蹂躙する時だ」
あゆむは自身が感じた瘴気の正体を理解し、こう結論づけました。
瘴気は相手に快楽を与えるもの。しかしそれは歪んでいると。
「わかっているじゃないか。さすが人間だね」
「けどそれは笑顔じゃない!」
あゆむは邪神のそれはただの歪んだ快楽であり、笑顔ではないと否定します。
しかし、邪神はあゆむのその言葉を否定します。
「ならその『笑顔』それがもたらした結果、君はそれをどう考えるんだ」
邪神はそう言うと、おばけ達やサタンちゃんを指さします。
彼らはトリエルの『笑顔』の力で再構成された存在です。
言うなればそれは『強制』です。
強制されたそれは、果たして『笑顔』と言えるのか、
本来の『姿』を消してまで与えたそれは『正しい』のか、
邪神はそうあゆむに、そしてエミエルに問いかけました。
「…………」
あゆむに答えは出ませんでした。考えてしまったのです。
もし、今の自分が『悪』と認定され、『無垢』な存在に書き換えられたら……
自分という存在は、一体どうなるのだと。
その結果がおばけ達であり、サタンちゃんであると、あゆむは知っているからです。
本来の彼らはもう消滅しており、今いる彼らは再構成された存在です。
ならば、消えた彼らは何を思うのかと、そう考えてしまったのです。
ふと視線を落とすと、雪に埋もれたサタンちゃんの尻尾のリボンが、
かつての悪竜魔王の影であるかのように微かに揺れ……消えた彼らの『無念』が、
風に混じって「我はここにいる……」と囁く幻聴のようにあゆむを捉えます。
「僕には君の言う『笑顔』こそ、滑稽に見えるよ。笑顔の強制になんの意味がある」
「なら、破壊の強制に意味があるというの!?」
エミエルは悲しげな表情を浮かべ、邪神に訴えかけます。
しかし、その訴えが届くことはなく、邪神はそれを跳ね除けるように言い放ちます。
「僕は強制はしていない。ただ背中を押しているだけ。暴れたいと思っているのは彼ら自身だ」
「そんな言い訳を!」
エミエルはそう叫び、眷属――クマのぬいぐるみとびっくり箱を召喚すると、
それは周囲を駆け巡り、瘴気を浄化します。
ぬいぐるみの目から桜色の光が零れ、びっくり箱が開くたび笑顔の粒子が瘴気を溶かす中、
浄化された人々が一瞬、無垢な子供のような微笑を浮かべて倒れ込みます。
エミエルは倒れ込んだ人々に視線を送りながらも、邪神を睨みます――
その瞳に、自身の権能の『強制』が鏡のように映り、僅かな揺らぎが生じます。
「わからないな……僕は楽しい空間が好きなだけなのに……笑顔が好きなのは、僕も一緒だよ」
「なら、わたしと握手をしよう? 一緒に笑おうよ」
エミエルは笑顔を作り、邪神の方へ飛んで手を差し伸べますが、
邪神はそれをパァン――と弾き、拒否すると『笑顔』を作ります。
それは『嘲笑』であると、あゆむにはそう見えました。
「君と握手をしたら、僕まで作り替えられてしまう。ごめんだね」
邪神はそう言うと、作り出した暗闇の中に消え、
上空にはいつの間にか止んだ雪と、悲しげな笑顔を見せるエミエルだけが残されました。
灰色に曇る空が、まるでエミエルやあゆむの今の心を表しているようで、
あゆむの胸を、答えの出ない問で突き刺すのでした。
…………
――――
次回 這いよる混沌編最終話。
「這いよる混沌」にご期待ください。




