第05話 戻らない場所
三ヶ月ごとの帰省が、ひとつの区切りではなく、連続した変化の途中にあると気づいたのは、いつからだっただろうか。
俺は駅に降り立った瞬間、前回までと同じように空気を吸い込みながら、わずかに違う『何か』を探していた。
だが今回は、それがすぐに分かってしまった。
不安の質が、変わっている。
これまでは『違和感』だった。
今は、はっきりと『危機』に近い感覚がある。
タクシーに乗る。
運転手に行き先を告げると、いつも通り車は発進した。
窓の外の景色は変わらない。
それでも、俺の中では確実に何かが変わっている。
家に近づくほど、その感覚は強くなる。
「ただいま……。」
玄関の前に立ち、インターホンを押す。
応答はすぐにはなかった。
少し長い沈黙のあと、ようやく足音が近づく。
引き戸が開いた。
そこに立っていた父は、俺の顔を見て、ほんの一瞬だけ固まった。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……どなたですか?」
その言葉に、俺はすぐには反応できなかった。
前回までは、時間をかければ認識に至っていた。
しかし今回は、その『到達点』に辿り着かない。
「俺だよ」
短く答える。
父は眉をひそめたまま、しばらく俺を見つめ続けた。
「ああ……。」
やがて、小さく声を漏らす。
だが、それは確信ではなく、思い出した『ふり』に近い響きだった。
「……入れ」
父はそう言って、背を向けた。
家の中に入る。
空気が、これまでよりも明確に違っていた。
静か、というより、重い。
居間に入ると、俺はすぐに違和感に気づく。
家具の配置が、さらに変わっている。
それだけではない。
玄関から居間までの短い道中で分かった。
家の一部が、使われていないまま放置されている。
生活の中心が、狭くなっている。
「ここ、ちゃんと使ってる?」
俺が尋ねると、父は少し遅れて振り返った。
「……ここ?」
その問いに、俺は言葉を選ぶ。
「この家、全体」
父はしばらく考えたあと、視線を落とした。
返事は返ってこなかった。
俺はテーブルの上を見る。
薬の管理は、もはや管理とは呼べない状態になっている。
空になったシートがいくつも重なり、飲み忘れかどうかも判別できない。
「薬、どうしてる?」
尋ねると、父は眉間に皺を寄せた。
「……俺はどこも悪くない」
その言葉に、俺は一瞬、目を閉じる。
父の認識と現実がどれほど乖離しているかは、もう確認するまでもなかった。
沈黙の中で、父がぽつりと口を開く。
「でも……。不便なことが増えた」
その言葉は、これまでのどの発言よりも、はっきりとした自己認識を含んでいた。
俺は顔を上げる。
「分かってるのか?」
「……分かってるような、分からんような」
父は苦笑するように言った。
その表情には疲れが滲んでいる。
俺は、その言葉をきっかけに、これまでの帰省を思い返す。
三ヶ月ごとに変化を確認し、様子を見てきた。
だが、もはや『様子見』の段階ではない。
線は、すでに越えている。
「一人暮らし、続けられると思う?」
俺が尋ねる。
父はすぐには答えなかった。
「……母さんは、まだ帰らないのか?」
長い沈黙のあと、寂しそうに漏らした。
俺は、その言葉を聞いて、胸の奥に重さが押し寄せる。
決めなければならない。
何を続けるのか。
何を終わらせるのか。
居間には何も音がしない。
父は定位置に座り、視線を前に向けている。
何も映っていないテレビを見て。
俺は、しばらくその横顔を見つめていた。
そして、ゆっくりと息を吸う。
「施設、考えよう」
その言葉に、父はすぐには反応しなかった。
数秒の間。
それから、小さく頷く。
「……腹が減った」
見当違いの答え。
その反応が、逆に現実の重さを際立たせる。
俺は理解する。
この決断は、突然のものではない。
三ヶ月ごとに積み重ねてきた変化の、到達点に過ぎない。
この家は、すでに限界を超えていたのだ。
俺は視線を落とす。
ただ一つ確かなのは、次の帰省は、これまでとは違う形になるということだった。




