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移りゆく景色  作者: 浦賀やまみち


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第06話 移りゆく景色




 今度の帰省は、これまでとは違う目的で行われた。


 確認ではない。

 観察でもない。


 手続きだ。


 駅では、ケアマネジャーさんが待っていた。

 その車に乗り、俺は何度も書類の内容を思い返していた。


 入所申込書。

 診断書。

 身元保証に関する同意書。


 車が止まり、玄関の前に立つと、いつもよりも家が小さく見えた。



「……ただいま」



 インターホンを押す。


 少しの間のあと、足音。


 引き戸が開く。

 父がそこに立っていた。


 以前と同じようで、少し違う。

 表情が、どこか穏やかになっている。



「いらっしゃい」



 俺には目もくれない。

 その視線は、ケアマネジャーさんに向けられていた。



「今日は、お元気ですね」

「おじさんも元気そうで安心したよ。さあ、入って」



 何と言えば、いいのだろうか。

 言葉遣いが幼い気がする。


 その戸惑いが顔に出ていたのだろう。

 小さく首を振るケアマネジャーさんの目線に、表情を戻す。



「おじゃましますねー」



 そして、ケアマネジャーさんに続き、家に上がる。

 まるで、知らない家に来たようだった。


 居間に入ると、荷物は最小限にまとめられていた。

 生活の痕跡は薄い。


 ケアマネジャーさんから、荷物の纏めは済んでいると聞いていた。

 しかし、それが『終わりに向かう準備』が整ったように見えてならない。


 定位置に座った父は、こちらに視線を向けることなく、ケアマネジャーさんと話している。

 その受け答えは、驚くほど自然だった。


 言葉の間も、表情も、これまでより落ち着いている。

 だが同時に、それは『場に合わせているだけ』のようにも見えた。



「今日は、こちらで最終確認をさせていただきますね」



 ケアマネジャーさんがそう言うと、父は軽く頷いた。



「はい、よろしくお願いします」



 やけに素直だな。

 俺はそう思う。


 これまで、ヘルパーさんの訪問すら拒んでいた父が、今は抵抗なく受け入れている。

 その変化は、安心とも取れるし、別の意味では、少し怖くもあった。


 テーブルの上に書類が並べられる。


 俺はその一つ一つに目を通す。


 名前、住所、続柄。


 記入欄は、すでに埋まっているものもあった。

 父が書いたのだろうか。


 字は、少しだけ不揃いだった。



「ここに、ご署名をいただければ、手続きは完了になります」



 ケアマネジャーさんが説明する。

 俺は一度、父のほうを見る。


 父は、窓の外を見ていた。

 何かを考えている様子ではない。


 ただ、そこにある景色を眺めているだけのように見える。



「……いいんだな」



 俺が声をかけると、父はゆっくりとこちらに視線を戻した。



「何?」



 その問いに、俺は一瞬だけ言葉を選ぶ。



「ここに入ること」



 父は少しだけ考えたあと、頷いた。



「お引越しでしょ? いいよ」



 その言葉は、これまでのどの返答よりもはっきりしていた。

 迷いがない。


 俺は小さく息を吐く。

 テーブルに向き直り、書類を手に取る。


 ペンを走らせる音が、やけに静かな部屋に響いた。

 この文字が、これからの生活の境界線になるのだと。


 署名が終わる。

 ケアマネジャーさんが書類を確認し、静かに頷いた。



「ありがとうございます。これで手続きは完了です」



 その言葉を聞いても、不思議と実感は湧かなかった。

 何かが終わったというより、もともと決まっていた流れが、ようやく形になっただけのような感覚だった。



「では、先方に連絡を入れますので、お荷物をお願いします」

「分かりました」



 ケアマネジャーさんがスマホを取り出し、玄関へと向かう。


 あとから送る荷物もあるが、持ってゆくのは手提げ鞄がひとつ。 

 人生を八十年生きてきた持ち物が、これだけなのかと寂しくなった。



「……ここも、長かったな」



 父のぽつりとした呟き。

 俺は息を呑み、持ちかけた鞄から、はっと顔を上げた。


 言った本人が、それを理解しているのかどうかも分からない。

 確かに『父の言葉』だった。


 だが、父の視線はすでに別の場所へと移っていた。

 何事もなかったかのように。


 その切り替わりの早さに、俺は逆に現実を思い知らされる。

 さっきの一瞬は、戻ったのではない。


 ただ、滲み出ただけなのだと。



「準備できましたので、行きましょう」



 ケアマネジャーさんの声に促され、父は玄関へ向かう。

 俺もその後に続いた。


 靴を履き、外に出る。

 家の前の空気は、ひんやりとしていた。


 車に乗り込む。

 エンジンがかかる。


 窓の外に、見慣れた家が映る。

 それはもう、戻るための場所ではなかった。


 車が動き出す。


 父は前を向いたまま、何も言わない。

 俺もまた、何も言わなかった。


 ただ、その一瞬だけ確かに存在した言葉の余韻を、胸の奥に残したまま。




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