第03話 名前の消失
三ヶ月という時間は、距離を作るには十分で、変化を見逃すには少し短い。
俺は、今回の帰省でそれをはっきりと理解した。
駅を降りた瞬間、空気の重さが前回とわずかに違う気がした。
季節は同じでも、体感する『時間』はもう固定されていない。
タクシーに乗り、いつもの道を進む。
家に近づくほど、胸の奥にある違和感が、ゆっくりと輪郭を持ちはじめる。
今回は、何が変わっているのか。
「ただいま……。」
玄関前でインターホンを押す。
すぐには反応がない。
少し待つ。
それから、足音が近づいてくる。
引き戸が開いた。
「……どちらさんだ?」
父はそう言った。
俺は一瞬、言葉を失う。
顔は見ている。
だが、その視線には明らかに認識がない。
「……俺だよ」
短く答える。
「ああ……。」
父は目を細め、しばらく俺を見つめたあと、ようやく納得したように頷いた。
「来たのか」
その一言に、安堵とも違う、別の感情が混ざる。
俺は靴を脱ぎながら、内側で小さく息を整えた。
前回とは違う。
確実に、違う。
居間に入ると、父は先に定位置へ座り、リモコンを手に取った。
テレビの音は、前回よりも大きく設定されている。
俺が何も言わずにいると、父は画面を眺めながら言った。
「今日は、いつ帰るんだ?」
その質問に、俺はわずかに眉を動かす。
「まだ着いたばかりだけど」
「そうか……。」
父はそれだけ言って、会話を終えたように視線をテレビへ戻した。
会話が、かみ合っていない。
いや、かみ合わないというより、途中で途切れている感覚に近い。
俺はテーブルの上を見る。
薬のシートは前回よりも雑に置かれていた。
いくつかはケースから外れ、順番も一定ではない。
「薬、飲めてる?」
尋ねると、父は少しだけ考えるような間を置いた。
「ああ……。まあな」
その言葉に、確信はない。
俺はそれ以上追及しなかった。
ふと、居間と続く座敷が目に入る。
三ヶ月前まで、いつも開け放たれていたはずの襖。
だが、今回は閉じられている。
「……隣、使ってる?」
俺が指を向ける。
「いや……、別に」
父は一瞬だけそちらを見てから、答えた。
どこか曖昧だった。
俺は立ち上がり、ゆっくりと扉に近づく。
襖に手をかける。
開ける。
部屋の中には、薄く埃が積もっていた。
長い間、使われていない空気。
障子が開いたままになっている。
そして、部屋の奥に置かれた古い机の上に、写真立てが一つ。
母の写真だった。
俺は無意識にそれに目を留める。
前回と同じ場所にあるはずの写真。
しかし、少しだけ位置がずれている。
誰かが触れた痕跡。
俺は振り返る。
父は定位置に座ったまま、テレビを見ている。
だが、その視線は画面ではなく、どこか別の場所を見ているようにも見えた。
「……ここ、誰か入った?」
俺が尋ねる。
「……ああ、入ったかもしれんな」
父は少し間を置いてから、曖昧に答えた。
記憶としての確信はない。
だが、行動の痕跡だけが残っている。
俺は襖をゆっくりと閉めた。
その瞬間、部屋の中の空気が、外と切り離されたように感じられた。
「たまに、誰かが勝手に入っているんだ」
その呟きに、俺は振り返る。
「誰かって?」
父は少しだけ笑うような表情を浮かべたあと、首を横に振った。
「いや……。なんでもない」
それ以上、話は続かなかった。
テレビの音だけが、一定のリズムで流れている。
俺は、座ることも忘れたまま立ち尽くしていた。
前回よりも、今回。
今回よりも、次。
その変化は、確実に加速している。
俺は理解しはじめていた。
この家は、ただ時間が経っているのではない。
何かが、静かに失われ続けている。




