トラウマ
クリスと再会できて安心したということもあり、私とクリスが目を覚ましたのは、すっかり陽が昇ったお昼時だった。
「お腹すいた……」
「そうだな……」
ぐう、とどちらともなく腹の虫が鳴く。
この世界にきて、はじめて感じた空腹だった。
(お金もないし、ご飯、どうすればいいのかしら……)
困っていると、コンコン、とドアをノックされる。
警戒したように、クリスが身構えた。
「アリス様、クリス様、アナトラと申します。開けてもいいですか?」
聞いたことのない女性の声だったが、敵意は感じられない。
顔を見合わせ、クリスが頷くのを見て、わたしは「どうぞ」と言った。
「失礼します」と入ってきたのは、長い灰色の髪を後ろで一本に結んだ、気の強そうな少女だった。
少しだけ年上だろうか。背はわたしたちより高い。
彼女は手にトレーを持っていて、ぽかぽかと湯気を上げるお椀を二つ、近くのテーブルに置いた。
食欲をそそる匂いに、さらに空腹を感じる。
「街でスワンフォード殿下が配っていたお昼ご飯です。あたしは母と殿下のお手伝いをしていて、殿下に頼まれたので持ってきました」
「スワンが……」
「それじゃあ、あたしはまだやることがあるので、これで」
「あ……、ありがとうございます」
慌ててお礼を言うと、ぺこりと頭を下げ、アナトラは部屋から出て行った。
わたしとクリスは再び顔を見合わせ、急いでベッドから降りてテーブルに駆け寄る。
お椀の中身は、煮込まれた野菜と肉の欠片が入ったスープだった。
アナトラが置いて行ってくれたスプーンを取り、一口飲んでみる。
「………おいしい」
「……………!」
ほっとする味付けに、肩から力が抜ける。向かいの席で、クリスも野菜を口いっぱいに頬張っていた。
「おれたちにも分けてくれるなんて、やさしい人なんだな」
「……うん。きっと、いい人なんだと、思う」
スプーンですくったスープには、自信なさげに眉を下げたわたしが映っていた。
(そういえば、クリスのことで頭がいっぱいで、スワンがどういう人なのかって、ぜんぜん気にしてなかった……)
もちろん、悪人ではないと思う。お城の復興よりも孤児院や街の復興を優先しているようだし、こうしてご飯を分けてくれるし、なにより、クリスの救出に付き合ってくれたし。
(聖女がどうのって言っていたのは意味がわからなかったけど、わたしなんかが役に立つなら、協力してもいいかな……)
そんなことを考えていると、あっという間にスープを飲み干してしまった。
わたしもクリスも、たくさん食べるほうではないので、十分お腹は満たされた。
「おれ、街に行ってみようかな。異世界でなら、おれたちは奴隷でも見世物でもないんだろ? なにができるかわからないけど、仕事探して、自由に生きたい」
「あ……、あのね、クリス」
「ん?」
立ち上がったクリスの手を繋ぎとめるように握り、わたしはこちらの世界にきてからのことを彼に話すことにした。
(といっても、わたしもぜんぜんよくわかってないんだけど)
それでも、スワンに協力したいことだけは、伝えなきゃと思った。
「アリスが協力したいなら、いいと思うよ」
一通り説明すると、あっけらかんとクリスは肯定してくれた。
「え、そんなあっさり……」
「だって、おれはそのスワンとかクロウとかってよく知らないし。でも、アリスはスワンを信用したんだろ? アリスが協力したいと思えた人物なら、おれは否定しないよ」
「そ、そう……?」
「うん。でもじゃあ、なおさらおれは街で仕事を見つけなきゃな。アリスの世話になるわけにはいかないしさ」
え。
クリスの予想外の言葉に、わたしは戸惑う。
「なんで? クリスには、わたしの傍にいて、支えてほしいって思ってたのに……」
「スワンが必要としてるのは、その、なんだっけ……〝夢見の聖女〟? ってやつなんだろ? それがアリスなら、おれが傍にいてもやれることはないよ」
それは、そうかもしれないけど。
「……でも、不安だよ。クリス、変なことに巻き込まれやすいもの」
言ってから、しまったと気付く。
これではまるで、クリスを責めているみたいだ。
「それは、おれのせいじゃ……」
俯くクリスの寄せられた眉に、胸が痛む。
ああ、いやな空気にしてしまった。
わたしが悪いのはわかっている。クリスが望んで変なことに巻き込まれているわけじゃないことくらい、知っているのに。
クリスは、特別な子だ。
生まれる前から、特別だった。
そんなクリスを、わたしが守りたい。
誰よりも近くで。
(わたしが……クリスを不幸にしたくないだけなの)
傷ついてほしくない。身体にできる傷だけではなく、心にだって、これ以上は傷一つついてほしくない。だから、離れてほしくない。
伝えたい言葉がたくさんありすぎて、なにから言えばいいのかわからない。
そんな時だった。
「じゃあさ、俺が仕事をあげるよ」
「きゃ……!」
「うわ……!」
突然聞こえた第三者の声に、わたしとクリスはビクッと震える。
いつからそこにいたのか、ドアの前にクロウが立っていた。
(気配が、まったくなかった……)
ぞわりと、背筋に悪寒が走る。
「俺、ちょうど部下がほしかったんだよね。スワンは人使い荒いし、やること多くて困ってたんだ。ああ、心配しなくても大丈夫。俺、強いから、ちゃんと守ってあげるよ」
ぺらぺら喋りながら、クロウがわたしたちに近づいてくる。距離が詰められるたび、謎の威圧感が増す。
彼はわたしとクリスの目の前で足を止め、交互にこちらを眺めて────ふと、首を傾げた。
「で、どっちがクリス? 君たちそっくりでぜんぜんわかんないや」
「お、おれだけど……」
警戒しながらも、クリスはわたしを庇うように一歩前に出た。
「ふうん……」
クリスを見下ろすクロウの瞳は、なにかを探っているように見えた。それは、高いところから獲物を狙う、猛禽類の眼に似ていた。
けれど、すぐに彼は表情を一転させ、笑みを浮かべる。
「お近づきのしるしに、これあげる」
彼が懐から取り出した瓶を見て、わたしは青ざめる。
「ちょっと……っ」
止めようとする前に、悲鳴を上げたクリスが、瓶を持つクロウの手を払う。
ガシャン、と音をたてて、床に落ちた瓶が割れた。
転がった色とりどりの飴玉に、クリスは半狂乱になる。
「あ、ああ……ああああああ!」
「クリス……! クリス、落ち着いて! 大丈夫だから……!」
「いやだ……! いや……たすけて……! 来るな……来ないで……!」
クリスの怯えは、痛いほどわかる。彼にはこの飴玉が、もがき苦しんだ末に吐き出す、毒の宝石に見えている。
けれど、クロウは、こちらの事情など知らない。
「あーあ、もったいない」
低く呟かれた声に、クロウの逆鱗に触れたことを知る。
わたしがクロウに視線を向けようとした一瞬の隙をついて、彼はクリスの顎を掴み、強引に上を向かせた。
かろうじてつま先がつくかつかないかといった位置まで持ち上げられ、クリスは苦しそうに唸っている。
「やめて! クリスに触らないで!」
「うるさい」
「う……ッ」
引き離そうとしたわたしを、クロウは見もせずに片手で突き飛ばした。
「口を開けろ。ほら、ちゃんと食って」
「う……ぐぅ……っ」
クリスの咥内にむりやり拾った飴玉をねじ込んだクロウは、ぱっと手を放した。
どさっと床に落ちたクリスは、激しく咳き込みながら飴玉を吐き出す。小刻みに震えている彼の目じりが濡れていることに気づいた瞬間、激しい怒りがわたしの内側で燃え上がった。
「……してやる……殺してやる、このクソ野郎ッ!」
そこからはもう、めちゃくちゃだった。
駆け付けたスワンが「おまえたち、いい加減にしろ!」と一喝するまで、わたしとクロウは暴れ続け、クリスはトラウマを刺激されて気絶していた。




