魂の約束
わたしには、生まれる前の記憶がある。
光り輝く魂の楽園。子どもと〝先生〟しかいないその場所で、わたしはクリスと出会っていた。
大きな扉をくぐるために歩いていたわたしは、扉の近くでつまらなそうにしゃがみ込んでいる子どもに気付き、そちらに近付いた。扉の管理をしている〝先生〟が「はやくしなさい」と促すが、どうしても、わたしはひとりぼっちの子どもが気になってしまった。
「そんなところでなにしてるの?」
手元を覗き込めば、子どもは雲の大地を木の棒でほじくっていた。
「たのしいの、それ」
「……ううん」
まるい頬を揺らしながら、子どもは首を小さく振る。
「あなたも今日、生まれる日なの?」
「ちがう」
「じゃあ、あっちでみんなとあそんでいたら? ひとりでいてもつまらないでしょ? すごくなかよくなれば、家族になれるかもって〝先生〟がいってたよ」
「ぼく、生まれちゃだめっていわれてるから」
ぽつりと落とされた悲しい言葉に、わたしまで胸が痛くなった。
「どうして? ここは、みんなが生まれるための場所なのに」
「……しっぱいなんだって。みんなのかなしみを少しずつけずって、それからぼくをつくったから、生まれないほうがしあわせなんだって」
「そんな……」
「いいよ、もう。きみは、はやくいきなよ」
くるりと背中を向けてしまう。
すべてを諦めたような小さな背中に、かける言葉を見つけられなかった。
「どうするの? そろそろ扉を閉めちゃうよ」
〝先生〟が急かす。わたしは意を決して、子どもの手を掴んで扉に向かって走った。
「え……っ、な、なに……?」
驚いている子どもに、わたしは笑いかける。
「いっしょに生まれようよ! かなしみなんて、わたしが守ってあげるからだいじょうぶ! 手をにぎっていれば、きっと家族になれるから! ずっとそばにいて、守ってあげる!」
止まりなさい、と焦った〝先生〟の声を振り切り、わたしは扉に突っ込む。子どもは─────クリスは、ぎゅっと手を握り返してくれた。
「うん! ありがとう、おねえちゃん」
✻ ✻ ✻ ✻ ✻ ✻
全身が沸騰したように熱くなる。
気付いたときには周囲は血の海で、着飾った紳士淑女は全員、ぴくりとも動かない肉塊になっていた。
「な、な………なんということを……アリス……ッ!」
がたがたと震え、血走った眼でこちらを睨むご主人様に、わたしは短剣を構える。
(これは、誰のものだったっけ)
手足を縛っていた縄を自力で引き千切り、クリスにまた毒を飲ませようとしていた男から奪った気がするけれど、どうでもいい。
クリス以外、もうどうなってもいい。
「これまで育ててやった恩を……仇で返す気か! 貴様らのような奴隷風情がッ!」
「……………」
これが、ご主人様の本音か。
不思議と、なにも感じなかった。
冷たい氷が、心の中にあるかのようだ。そこからどんどん冷えがひろがって、楽しかった記憶は凍りつき、純粋な殺意だけが残る。
「やはりさっさと売っておけばよかった……クソっ! クリスが金儲けに使えるからと、手放さなかったせいでこんなことに……!」
ああ、だから。
だからクリスは、わたしとの約束を破って能力を使い、自分の利用価値をこの男に示したのか。
正確な年齢はわからないけれど、わたしくらいの年齢の女を奴隷として買うということは、少なからずそういう意図があることは明白だ。
それがわかっていたから、クリスは、わたしを守るために。
(ああ、クリス……)
どこまでもやさしいクリス。お人好しで愚かなクリス。
わたしのことなんて、気にしなくてよかったのに。
わたしは、クリスが無事ならそれでいいのに。
でも、悪いのはこの男だ。この男が〝いい人〟なら、こんなことにはならなかった。
クリスに助けられたことに感謝して、慎ましく生きていけばよかったのに。
ちゃぷ、と粘着質な水音を立てながら、わたしは男に近付く。
短剣を振り上げるわたしに、男は醜く嗤った。
「殺したくば殺すがいい。だが覚えておけ。この世は貴様らにとって地獄だ。私の庇護下から出た貴様らなど、また奴隷にされ、今度こそぼろ雑巾のように使い捨てられるだろう」
「………………」
それは真実だ。
わたしたちには、守ってくれる家族も、身体を休める家もない。世の中も知らない。
それでもわたしは、クリスを守る。クリスを利用する者ならば、誰であろうと排除する。
短剣を振り下ろす。汚い断末魔など聞きたくないから、一撃で。
血の海に沈んだ骸に背を向け、わたしはクリスに駆け寄る。
「クリス、大丈夫?」
弱々しくではあったけれど、こちらを見て反応してくれるクリスにほっとする。
「ああ……っ、よかった、クリス……!」
彼の華奢な上半身を抱き起こして、そのままぎゅっと抱きしめる。
「……アリス、ごめん、おれのせいで……」
クリスの手がわたしの右手を握る。きっと、わたしの手を汚してしまった責任を感じているのだろう。
でも、これはわたしが決めたことだ。
「ちがう、クリスのせいじゃないよ。わたしが許せなかっただけ。わたしのほうこそごめんね、すぐに助けてあげられなくて。ずっと、痛かったよね……苦しかったよね……っ」
さらにきつく抱きしめ、彼の体温と鼓動を全身で確かめる。
(クリス、なんて細いんだろう……)
浮き出た背骨をなぞっていたら、ツンと鼻が痛くなった。
今夜、クリスを助けられてよかった。本当はもっと早く助けられたらよかったけど、変な薬のせいでこれまでの狂宴のことはほとんど覚えていない。やっと薬に耐性ができて、今夜は意識を保つことができた。
もし今夜、クリスを助けられなかったら。
二回もクリスに毒を飲ませようとした彼らの姿を思い出し、わたしはゾッとした。
そんなわたしを宥めるように、クリスの手が背中に回る。
「おれは大丈夫。それよりアリス、早くここを出ないと。貴族を殺したんだ、ただじゃ済まない。迎えの馬車がもうすぐ……」
「安心して、クリス」
最愛の弟の額に自分のそれを押し当て、わたしは微笑む。
「あいつの書棚で秘密の本を見つけたの。それにはね、異世界に行くことができる魔法陣が載っていたわ」
「異世界……?」
「そう。クリスを傷つけるだけの世界なんて捨てて、別の世界に行くの」
わたしはクリスから離れ、指先をペンに見立て、赤いインクに浸す。
「ずっと眺めていたから、覚えてるわ。まず、円を描いて……」
続けて、わたしは魔法文字と複雑な図形を描き足していく。その間、何回もインクを使った。
なぜか、じわりと涙が浮かんできて、血で汚れていない腕で何度も拭った。
そしてついに、魔法陣を完成させた。
「クリス、円に入って」
「…………うん」
魔法陣の内側で、わたしとクリスは向かい合い、両の手を繋ぐ。
─────わかってる。
異世界になんて、行けるはずがない。
この世は理不尽で、搾取される側の人間は、死ぬまでその人生を歩み続けるしかない。
「……ねえ、クリスには、夢ってある?」
またクリスの額にわたしのそれをくっつける。
双子だからなのか、生まれる前からいっしょだったからなのか、クリスとくっついていると安心する。
「……あるよ」
「なに?」
「広い世界を見てみたい」
「えー……」
「えーってなんだよ」
「だってわたしは、落ち着く場所でゆっくり暮らすのが夢なんだもの。離れ離れになっちゃうじゃない」
「帰ってくるよ」
「ほんと?」
「うん」
約束、と言い合って、小指を絡める。
視線が重なって、どちらともなくふふっと笑い、自然な流れで、転がっている短剣に視線を移した。
もう、これ以外に道はない。
「……おれがやるよ」
「え、でも……」
「アリスにばかり、汚いことをさせられないから」
腕を伸ばして血塗れの短剣を引き寄せるクリスをぼんやり見ていると、再びじんわりと視界が滲んできた。
(ごめん、ごめんね、クリス………)
幸せにしてあげられなかった。
苦しくて痛いことばかりの世界に連れてきてしまった。
短剣を握るクリスの顔を目に焼き付け、わたしは目を閉じる。
「守ってあげられなくて……ごめんね」




