第三話 旅の始まり
だが、夕暮れ時の旅立ちはあまりにも危うい――そう判断したアンタエウスは、結局出発を翌朝に延期することにした。無理をして命を落としては意味がない。
旅とは、時に慎重さも必要なのだ。そして夜が明ける。朝日がミズガルズの空をゆっくりと染めていく。アンタエウスはすでに起きていた。
いや――ほとんど眠れなかったのかもしれない。胸の奥にある期待と不安が、彼を静かに目覚めさせていた。準備はすでに整っている。
手には地図。旅用の頑丈な鎧を身にまとい、腰には小さな護符を携帯している。それはガイアが昔から持たせていた、お守りだった。村を出れば、そこから先は未知の世界だ。
村の人々が眠る静かな朝、彼は深呼吸をひとつした。肺いっぱいに朝の空気を吸い込み、そして静かに吐き出す。それは、これまで過ごしてきた場所への小さな別れのようでもあった。
十七年間育った村。母が待つ家。人々の笑い声。そのすべてを胸に刻みながら、彼は小さく笑う。
「さて……まずはどこに行こうかな!」
旅に出ると決めたものの、世界は広い。九つの世界が存在するこの大地には、まだ彼の知らない場所がごまんとある。
アンタエウスはふと、最近ミズガルズで聞いた噂を思い出した。
それは――妖精族の地、アールヴヘイムの話だった。森と光に満ちた妖精たちの国。だが最近、その平和が脅かされているという。
黒妖精族が現れ、妖精族を襲っているという噂だ。真偽は分からない。だがもし本当なら、困っている人がいる。アンタエウスは少し考え、すぐに笑った。
「よし、決めた! アールヴヘイムに向かおう」
しかし、そこでひとつ大きな問題があった。ミズガルズからアールヴヘイムまでの距離は、約千二百マイル。徒歩では数か月。馬を使っても、数週間はかかるだろう。普通の旅人なら、まず資金や仲間を集めるところだ。
だが――アンタエウスは柔指であり、普通ではなかった。彼は、屈託のない笑みを浮かべて地面に手を触れた。
「地の力を使えば、浮くこともできる! 大地愛してるー!!」
指を開き、地面の風を操る。軽い衝撃と共に、彼の体はわずかに浮き上がった。空気がざわめき、足元から風が生まれる。
「よし、馬より早く進めるぞ! 待っててね! 妖精族さん!!」
そうつぶやき、アンタエウスは地の力で自分を支えながら、遠くの森へと向かっていった。
大地を蹴る音もなく、彼は静かに、だが確実に旅路を進めていく。
彼の胸には、――『必ず戻ってきて』――という母の言葉がしっかりと刻まれていた。
しかし、旅は順風満帆とはいかなかった。
距離にして九百マイルを進んだ、広大な平原の真ん中。アンタエウスは少しぼんやりと、遠くの山並みを眺めながら走っていた。その瞬間だった。
バコンッ!
横から何かが衝突した。
「ぶへっ!いきなりなんだ!?」
体は宙を舞い、森の木にぶつかってひっかかる。木の枝が体に絡みつき、痛みが走った。
アンタエウスは枝を払いながら顔を上げた。その視線の先にいたのは――巨大な氷の巨人。アイスラグナだった。全身は凍てつくような青白い肌。氷のような光を放つ目。巨体を揺らしながら、ゆっくりと腕を振り上げてくる。
その一撃だけでも、普通の人間ならひとたまりもないだろう。アンタエウスは飄々と立ち上がり、服の埃を払う。
「よーし……まずは指パッチンだな」
指を鳴らすと、手のひらから炎が迸る。
「ムスペルヘイムの劫火!!!!」
轟音とともに炎が放たれる。巨大な火柱が、一直線にアイスラグナへと襲いかかった。氷と炎がぶつかり合う。激しい蒸気が立ち上がり、空気が震える。
そして――巨大な氷の巨人は、ゆっくりと溶けていった。氷の体が崩れ、水となって地面へ落ちる。やがてそこには、ただ水たまりだけが残った。
アンタエウスは息を整え、少し笑う。
「ざっとこんなもんよ!! とはいえ、さっきのは結構痛かったな……」
ぶつかった場所をさすりながら苦笑する。
「逆に、妖精族に助けを求めたい限りだ!」
炎の煙が少し風に流され、平原に香ばしい匂いが漂う。そして、再び大地に手をつけ、風を起こして浮かび上がる。
目指すは、妖精族の地――アールヴヘイム。
大冒険の第一歩は、こうして小さな戦いで幕を開けた。
アンタエウスは、風を切りながら空中を進んでいた。大地の力を借りて浮かび上がった体は、滑るように空を進んでいく。
下には広大な森と草原が広がり、遠くの地平線まで続いていた。やがて、森の切れ目が見えてくる。
そしてその向こうに――妖精族の地、アールヴヘイムが姿を現した。光の森と呼ばれるその土地は、本来ならば美しい場所のはずだった。無数の木々が柔らかな光を放ち、妖精たちが空を舞う楽園。だが。その光景を目にした瞬間、アンタエウスは思わず息を飲んだ。
眼前の森には、黒妖精族に蹂躙された妖精族たちが、無惨にも倒れ伏していた。
小さな翼が折れ、羽が泥にまみれている。木々の根元や岩陰には、助けを求める声がかすかに聞こえる。
「――う、嘘だろ……思ってた以上に被害は大きいな」
アンタエウスは目を見開き、すぐに地面へ降下した。指先で微かに風を起こしながら、体を柔らかく着地させる。そしてすぐに、倒れている妖精族のもとへ駆け寄った。
「大丈夫ですか!? 返事をしてください!」
アンタエウスは小さな体をそっと揺らしながら声をかける。やがて、その妖精の一人が、かすかに目を開いた。今にも途切れそうな、怯えを滲ませた声が漏れる。
「……助けて……ください。まだ、死にたくない…」
アンタエウスは、その願いを受け止めるようにうなずいた。
「もちろんです…待っててください」
その瞳には、強い光が宿っていた。
アンタエウスはゆっくりと立ち上がる。そして、周囲を見渡した。倒れている妖精族たち。壊れた木々。荒れた地面。だが――この地獄のような惨劇はまだ終わってはいない。遠くから、金属がぶつかる音が聞こえる。まだ、戦っている者がいるようだ。
「――あそこにまだ戦っている人が!? 戦力的に加勢したほうが良いよな」
アンタエウスは小さな森の陰へと走った。そこには、一人の妖精族が必死に剣を振るっていた。だが、その相手は黒妖精族だった。
黒妖精族。身体能力に優れた種族。見た目は人間に近いが、背中には黒い翼が生えている。アンタエウスは旅に出る前、何冊かの本でその存在を読んだことがあった。黒妖精族には階級がある。階級によって鎧の形が違う。
そして――ここにいる黒妖精族は、最も弱い階級。ウィーク。空を飛ぶことができ、投擲能力にも優れている。一般人よりはるかに高い身体能力を持つ存在だ。だが、本によれば、上位階級になるほど恐ろしい能力を持つ。中でも厄介なのは――瞬間移動だ。階級の高い黒妖精族は、それすら使えると言われていた。
だが、今そんなことを考えている余裕が彼にはない。黒妖精族は鋭い剣を振り回し、妖精族へ容赦なく攻撃を仕掛けている。アンタエウスは一気に距離を詰めた。その瞬間。黒妖精族がアンタエウスの存在に気づく。そして疾風迅雷の如く、剣を投げつけた。
――シュッ!
鋭い音が空気を裂く。




