第二話 柔指の英雄
それから、十七年の歳月が流れた。ミズガルズの空は、今日も青く美しい。王都ほどの華やかさはないが、市場通りは活気に満ち、人々の笑い声が響いている。野菜を売る声。鍛冶屋の金槌の音。子どもたちの笑い声。人々の何気ない日常が、そこにはあった。
――だが。
「出たぞ! 東通りだ!」
突如、悲鳴が上がる。街の外れから、武装した族が押し寄せてきた。略奪者と呼ばれている。属性を持たぬ者たちが徒党を組み、弱き者を襲う。
次の瞬間。風が巻き起こり、族の一人が宙に浮く。
「なっ……!? まさか柔指か!? これはまずいな…」
その前に、一人の少年が立っていた。白髪をハーフアップに結んだ少年。強い瞳。アンタエウスだったのだ。彼は静々と腕を伸ばし、指を大きく開く。そのとき、空気が震える。
ブォォォォンッ――
轟くような音とともに、強烈な風が生まれる。それは衝撃波のように通りを駆け抜け、略奪者たちへ叩きつけられた。男たちの身体が一斉に吹き飛ぶ。武器が宙を舞い、男たちは地面を転がった。あまりにも一瞬の出来事だった。通りに、再び静寂が落ちる。
「もう悪さなんてするなよ? 皆が悲しむ」
アンタエウスに、称賛歓声が湧き上がった
「次は手加減をせず全力で相手をすることになるだろう」
アンタエウスは笑い、まるで声にならぬ冗談を投げるかのような軽やかさを漂わせた。
「さすがアンタエウス! 頼りになるね~」
「柔指の英雄だ!」
「守護団に入れるんじゃないか!?」
市場通りには、まだ興奮した声が飛び交っていた。先ほどまで暴れていた略奪者たちはすっかり大人しくなり、人々は安堵と歓喜の入り混じった表情で少年を囲んでいる。アンタエウスは、その視線を少し照れくさそうに受け止めながら、頭をかいた。
「いえ、まだまだ未熟者ですよ」
その瞳は、どこか遠くを見ていた。
王都アルディスガルド。九つの世界すべてを守ると言われる組織、九界の守護団。そして――まだ一度も会ったことのない父。
夕暮れ。アンタエウスは家の扉を開ける。
「ただいま帰りました」
いつものように声をかける。すると、台所の奥から穏やかな声が返ってきた。
「おかえりなさい」
鍋から立ち上る湯気の向こうで、彼女は振り返る。その表情は、あの日と変わらない。十七年前、小さな赤子を抱いたあの日と同じ、優しい微笑みだった。アンタエウスはしばらく黙って立っていた。家の中には、静かな温もりがある。木の香り。夕食の匂い。母のいる場所。それは彼にとって、ずっと守られてきた場所だった。
だが――その沈黙の中で、アンタエウスの表情がゆっくりと変わり、真剣な顔になる。
「お母様」
ガイアの手が止まった。鍋をかき混ぜていた木の匙が、静かに止まる。その声色で、彼女は何かを察したのかもしれない。母というものは、時に言葉より早く子の心を理解する。アンタエウスは、包み隠さずまっすぐに言った。
「俺は――旅に出ることにします。最近話題になっている、九界の守護団に入るため、父親を捜すため、そして人々を救うために」
まっすぐな瞳だった。その目は、あの日。ガイアが名前を与えた赤子と同じ目をしていた。
ガイアはしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと息を吐く。
「そう……」
少し寂しそうに、だが誇らしげに微笑む。
「あなたは人がいいから……いずれ言うと思っていました」
意外な答えを前に、アンタエウスは少し驚く。
「反対、しないのですか? てっきり止められるとばかり……」
ガイアはゆっくり首を横に振った。
「あなたは、止めても行くでしょう?」
図星だった。アンタエウスの口元に、苦笑が浮かんだ。ガイアは静かに歩み寄る。そして、アンタエウスの頬にそっと手を当てた。その手は、昔から変わらない。優しく、温かい。
「気を付けて。必ず戻ってきて……」
その声は、不思議なほど震えていなかった。涙もない。ただ強い、母の声だった。アンタエウスは、その想いを受け取るように深くうなずく。
「必ず戻ります」
こうして、アンタエウスの旅が今、始まる――はずだった。




