第一話 千年に一度の子
その日、大地が震えた。地震ではない。歓喜でもない。それは――誕生の震えだった。この世界には、世界の中心にある、王都アルディスガルドを除いて、九つの国が存在する。
人々はそれを「九つの世界」と呼んでいる。
巨大な体躯で悠々と山に暮らす、力強き巨人族の住処、ヨトゥンヘイム。
自然と戯れ、森の声に耳を傾ける妖精族が暮らす、アールヴヘイム。
万物を闇に鎮めんとする黒妖精族が住まう、スヴァルトアルフヘイム。
天空に存在するアース神族の憩いの場、アスガルド。
歴史と文化を重ね、地上に暮らす人間たちの営みの場、ミズガルズ、そしてヴァナヘイム。
炎のスルト族が棲む、ムスペルヘイム。
そして王、ハデスが治める、ヘルヘイム。
王都アルディスガルドから南に遠く離れた小さな村、ミズガルズ。
静かな森に囲まれた家の中で、一人の女が息を荒げていた。
彼女の名は、ガイア。地を愛し、地に愛された女。産声が響く。
「――生まれたぞ!!」
助産師の声が上がる。赤子が泣く。それはそれは強く、力強く。小さな胸いっぱいに吸い込んだこの世界の空気を、ありったけの力で吐き出す。細いはずの身体のどこに、これほどの力が宿っているのかと思うほど、声は強く、まっすぐだった。
だが次の瞬間、部屋の空気が変わった。
「……指を見ろ」
その場にいた誰かが、諦観したように言う。
この世界には、千年に一度だけ生まれる者がいる、柔指。 指が異様に柔らかい子供。それは祝福か、災厄か。
助産師が恐る恐る赤子の手を取り、指を曲げる。
――ぐにゃり。
「……柔らかい!! この子は千年に一度の柔指ですよ!!!!」
空気が凍る。恐る恐る、もう一度確かめる。親指と中指を軽く合わせる。
パチン。
微かな音が、静寂をかすめた。小さな火花が、確かに散る。その直後。世界は、一瞬であるが沈黙に沈んだ。そして。
「千年に一度の柔指!?」
「本物なのか!?」
「これは今日のお知らせはこれでいっぱいになるな!?」
「闇に落ちなければいいがな……」
ざわめきが波のように広がり、恐れと興奮を帯びた声が部屋を満たす。
柔指は、人々を救う力を持つ。だが同時に、世界を滅ぼす可能性も持つ。扱う者によって変化する、諸刃の力なのだ。その時。ガイアがゆっくりと起き上がり、赤子を抱く。
周囲の声など、何も聞こえていないかのように。彼女は、優しく微笑んだ。
「あなたの名は――アンタエウス」
その瞬間、赤子は静かになった。まるでその名前を理解したかのように。それが自分の名であると知っていたかのように。ガイアは赤子を柔らかく包むように、そっと頬を寄せる。
「人々を救う、優しき男になるのよ」
母の願いは、ただそれだけだった。世界を揺るがす運命も、千年に一度の力も、そんなものは関係ない。
ただ――この子が、温良篤実であってほしい。それだけだった。その言葉に応えるように、赤子の指が、微かに動く。その瞬間。大地が、ほんのわずかに震えた。それは誰も気づかないほどの、微かな揺れだった。だが確かに、世界はその誕生に応えていた。
そして――遠く離れた場所で、その揺れを感知した者がいた。冥王宮ヘルヘイム――闇静一如の宮殿。その最奥、玉座の間にて、一人の王が悠然と目を開いた。
「……生まれたか」
王の名は、ハデス。全てを見通したかのように、静かに指を鳴らす。パチン。
「久しい感覚だ」
玉座の間に、ゆっくりと冥の気配が満ちていく。まるで闇そのものが、彼の目覚めを祝うかのように。
「千年の揺らぎ……か」
その瞳は、壁も距離も越えて、遥か遠くを見据えていた。彼の視線の先にあるのは――人間の国、ミズガルズ。小さな村で生まれた、一人の赤子。アンタエウス。
やがて、家の中に満ちていた興奮も、少しずつ落ち着いていった。
「祝いの準備をしろ!」
「守護団にも知らせるべきか……?」
「いや、まだ早い……」
人々の声は次第に外へ流れていく。誰もがそれぞれの思惑を胸に、家を後にしていった。そして――家の中には、ようやく静寂が戻った。ガイアは、そっとアンタエウスをベッドに寝かせる。小さな胸が、規則正しく上下している。生まれたばかりの命は、すでに静かな眠りの中にあった。
その時だった。ふと、ガイアは気づく。
――夫は?
先ほどまで、確かに家にいたはず。出産を見守っていたはず。
「……あなた? いないの?」
小さく呼ぶが、返事はない。家の奥へ歩く。台所。扉の前。外。どこにもいない。
不安が胸を締めつける。まるで冷たい水が、心の中へ流れ込んでくるかのように。寝室へ戻ると、ベッドの横に一枚の紙が置かれているのに気づいた。震える手で拾い、中身を確認する。そこに書かれていたのは、見慣れた筆跡だった。――夫の文字。
――ガイアへ。短い文だった。
『アンタエウスが大物になることを願っている』
それだけ。理由も、別れの言葉も書いていない。
紙が、かすかに震える。いや、震えているのは彼女の手のほうだった。
「……どうして」
声がかすれる。彼は知っていたのだろう。柔指が生まれる可能性を。ガイアは手紙を胸に抱きしめた。まるで、その紙の向こうに彼がいるかのように。だが、そこにあるのは冷たい紙だけだった。やがて、涙が自然と零れ落ちる。声を上げることもなく、ただ静かに、静かに。
その刹那、アンタエウスの寝息が聞こえる。
「あなたは……戻ってくるのよね?」
答えはない。だが、彼女は泣きながらも決意する。この子は、私が守る。どんな運命が待っていようと。




