第30話 銀の振り子と、魂を癒やす自律の魔法
昨日投稿できていなかったようで、本日29話、30話と連続投稿しております。
申し訳ないです。
国王の寝室は、重苦しい絶望の空気から一転し、固唾を呑んで奇跡を待つような、静寂に満ちた緊張感に包まれていた。
「さて、治療を始めます。神官長、部屋の隅にある燭台の火を、少しだけ落としてください。暗闇ではなく、星明かり程度の優しい薄暗さが必要です」
俺が指示を出すと、神官長は慌てて頷き、魔法で炎の勢いを絞った。
部屋の中に、暖かくぼんやりとした琥珀色の光が広がる。
「エリアーナ殿下、バルド団長。これより私は陛下の魂の深淵にアクセスし、凝り固まった重圧の鎖を解きほぐします。何があっても、絶対に音を立てないでくださいね」
「わ、わかりましたわ……。お父様を、どうかよろしくお願いします」
エリアーナ王女が両手を胸の前で強く組み、祈るように後ずさった。
バルド団長と神官たちも、壁際に張り付くようにして息を殺す。
俺はベッドの脇に用意させた椅子に静かに腰を下ろし、国王の顔の真上で、銀の振り子をゆっくりと揺らし始めた。
「陛下。私の声が聞こえますね。あなたは今、誰にも脅かされない、完全に安全な王宮の奥深くにいます」
「……うう……っ」
悪夢の中で黒い影に首を絞められている国王は、まだ苦しげなうめき声を漏らしている。
シーツを握りしめる両手は白く、全身の筋肉が岩のように硬直していた。
(現代心理学における『自律訓練法』。極度のストレスで交感神経が暴走している患者を、言葉の暗示によって強制的にリラックスさせる自己催眠テクニックだ)
これをファンタジー世界の住人に行うには、ただ「リラックスしてください」と言うだけでは効果が薄い。
彼らが信じてやまない『星の導き』や『魔術的なアプローチ』というオブラートに包んで、脳に強烈な暗示(プラシーボ効果)をかけてやる必要があるのだ。
「陛下。目の前で揺れる、銀の星の軌跡だけを感じてください」
チクタク、チクタクと。
一定のリズムで揺れる振り子が、かすかな風を切る。
国王の閉じたまぶたの下で、眼球がその動きを追うように微かに左右に揺れ始めた。
意識が、俺の声と振り子のリズムに完全に同調し始めた証拠だ。
「まずは、第一の星の導きです。『背景の公式』……あなたの心は今、波一つない夜の湖のように、完全に静まり返っています」
俺はゆっくりと、深く、子守唄を歌うようなトーンで言葉を紡いだ。
「国政の重圧も、帝国の影も、すべては遠い岸辺の出来事。今のあなたは、ただの穏やかな一人の人間です。心は、とても、とても静かです……」
「……しず……か……」
国王の唇から、微かな反復の言葉が漏れた。
俺は頷き、次のステップへと移行する。
「第二の星の導き。『重感の公式』です。あなたの頭に乗った見えない王冠の重さを、身体の隅々へと分散させましょう」
俺は国王の硬直した右腕にそっと触れた。
「両腕が、そして両脚が、大地の引力に引っ張られるように、ズッシリと重たくなっていきます……。重い、重い……。もう、無理に力を入れて支える必要はありません。すべての重みを、このふかふかのベッドに預けてしまってください」
「重、い……。私の、腕が……」
その瞬間。
シーツを限界まで強く握りしめていた国王の指先から、フッと力が抜けた。
白く血ののけ反っていた手がゆっくりと開き、ベッドの上にだらんと投げ出される。全身を縛り付けていた筋肉の硬直が、俺の言葉一つで嘘のように解けていく。
「お、おお……っ!」
壁際で見ていたバルド団長が、信じられないものを見たように目を見開いた。
神官長も、震える手で自分の口を覆っている。
教会の神官たちが三日三晩、どれだけ強力な回復魔法をかけても解けなかった身体の強張りが。
占い師が振り子を揺らし、ただ言葉を囁くだけで、みるみるうちに解きほぐされていくのだから。
(よし、いいぞ。自己暗示が完璧に効いている。次は、血流の改善だ)
極度のストレスと恐怖を感じている時、人間の血管は収縮し、手足は氷のように冷たくなる。
それを、副交感神経を優位にさせることで強制的に温めてやるのだ。
「第三の星の導きです。『温感の公式』。大地に預けたあなたの手足に、今度は太陽の星から、温かい、黄金色の光が注ぎ込まれます」
俺は振り子を揺らしながら、国王の耳元でさらに優しく囁いた。
「両腕が、温かい……。両脚が、ポカポカと温かい……。黄金の魔力が、あなたの心臓から指先へと、ゆっくりと流れていきます。冷たい海の底から、あなたはすでに、温かい陽だまりの草原へと引き上げられました」
「あたた、かい……。光が……」
国王の浅く早かった呼吸が、次第に深く、ゆったりとしたリズムへと変わっていく。
滝のように流れていた冷や汗は止まり、土気色だった頬に、微かな血色が戻り始めた。
「そうです。とても温かい。あなたはもう、一人で王冠を支える必要はありません。あなたの国には、立派な騎士たちが、心優しい娘が、そして忠実な臣下たちが大勢います。彼らに、ほんの少しだけその重さを預けて、今はただ、お休みなさい」
「……ああ……」
国王の口から、深い、深い安堵のため息が漏れた。
悪夢の中で彼を苦しめていた『顔のない黒い影』は、俺の暗示によって温かい光の中に溶け去ったのだろう。
苦悶に歪んでいた国王の表情は、まるで揺り籠の中で眠る赤ん坊のように、穏やかで無防備なものへと変わっていた。
「……すぅ……、すぅ……」
やがて、規則正しく深い寝息が、静かな部屋に響き始めた。
それは、数週間ぶりに国王の魂に訪れた、本物の安息の眠りだった。
俺はゆっくりと振り子を止め、ローブの懐にしまった。
そして、額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、椅子から立ち上がった。
「……終わりましたよ。陛下を苦しめていた重圧の鎖は、完全に浄化されました」
俺が壁際で固まっていたエリアーナ王女たちの方へ振り向くと。
「お父様……! ああ、お父様っ!」
エリアーナ王女がドレスのまま床に膝をつき、両手で顔を覆って声を殺して泣き崩れた。
それは悲しみの涙ではない。愛する父親が、ようやく悪夢から解放され、穏やかな寝顔を取り戻したことに対する、深い感謝と歓喜の涙だった。
「先生……! あなたというお方は……!」
バルド団長が、音を立てないようにゆっくりと歩み寄り、俺の目の前で、巨大な身体を折り曲げて深く、深く平伏した。
「魔力を一切使わず、星の光と……その言葉の力だけで、陛下の魂を縛る呪いを打ち砕いてしまわれるとは……! やはりあなたは、神がこの王国に遣わした奇跡の体現者だ!」
「いや、ただの暗示というか、リラックス法を試しただけで……」
「教会の魔法すら及ばなかった魂の深淵に干渉し、真の癒やしを与える『究極の神聖魔術』! この老いぼれ、本日ほど己の無力を恥じ、また偉大な奇跡を目の当たりにして感動した日はありませんぞ!」
神官長までが、バルド団長の隣にひざまずき、俺のローブの裾を握りしめて号泣し始めた。
(いや、だから魔術じゃないんだってば……!)
俺の心の中のツッコミは、もはや完全に手遅れだった。
物理的な怪我を治すのが『魔法』なら、目に見えない心の傷を治す俺の現代心理学は、彼らにとって『魔法を超えた神の奇跡』にしか見えなかったのだ。
「先生。陛下は、いつ頃お目覚めになられるでしょうか?」
涙を拭いながら、エリアーナ王女がすがるような目で見上げてくる。
「……数週間分の疲労が蓄積していますからね。丸一日、あるいは二日ほどは、泥のように眠り続けるでしょう」
俺は王女に優しく微笑みかけ、静かに言い含めた。
「今は、このまま静かに休ませてあげてください。目覚めた時、陛下は今まで通り、いえ……これまで以上に力強い、この国の王として復活されるはずです」
俺がそう告げると、部屋にいた全員が、再び俺に向かって深く頭を下げた。
王国の最高権力者である国王の命と、その魂を救うという大任。
それが完了したということは、俺の『宮廷預言者』としての地位が、この先どれほどとんでもない高みにまで押し上げられるのか。
今はまだ、考えないでおくことにした。
俺自身も、慣れない催眠療法でひどく疲労していたからだ。
「……さて。俺も自室に戻って、マカロンの続きでも食べるとするか」
俺は誰もいない廊下に出ると、小さく欠伸をして、自分の平穏なスローライフ(仮)へと戻っていくのだった。
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次回お楽しみに。




