第25話 I(アイ)メッセージと、赤面する北の獅子
雨降って地固まる……違うか
王城の応接室は、先ほどまでの氷点下のような殺気が嘘のように、奇妙な静寂と戸惑いに包まれていた。
「愛を伝える星の言語が違う……」
南の財を牛耳る美しき薔薇、ベアトリス公爵夫人が、俺の広げたホロスコープ(星の配置図)を見つめながらポツリと呟く。
彼女の向かいに座る北の獅子、アルベルト公爵も、腕を組んだまま気まずそうに視線を泳がせていた。
国を真っ二つに割る離婚戦争。
その原因が「お互いに愛しているのに、伝え方が絶望的に下手くそだっただけ」という事実を突きつけられ、二人の間にあった分厚い壁はすでに音を立てて崩れ去っていた。
「さあ、ここからは実践です」
俺は応接室のテーブルから立ち上がり、二人の間に立つと、もったいぶって両手を広げた。
「お二人の星の軌道を修正し、魂の周波数を合わせるための究極の儀式……『アサーション(自他尊重の対話魔術)』を執り行います」
「あさーしょん……。それは、どのような魔術なのだ?」
アルベルト公爵が、警戒しつつも興味深そうに身を乗り出す。
もちろん、そんな魔術はない。
アサーションとは、現代の心理カウンセリングやビジネスコミュニケーションにおいて用いられる、『相手を傷つけずに、自分の素直な気持ちを伝える技術』のことだ。
「ルールは非常に簡単です。今からお互いに不満や思いをぶつけていただきますが、その際、決して『相手を主語』にしてはいけません」
「相手を主語にしてはいけない? どういうことですの?」
ベアトリス夫人が首を傾げる。
俺は彼女に向かって、わざとらしく人差し指を立てた。
「例えば、『あなたはいつも私を無視する』とか、『お前はいつも勝手に出て行く』といった言葉です。これらは星の言葉で言えば『火星の攻撃魔法』。相手を主語にして責めると、人は無意識に心の盾を構え、反撃しようとしてしまいます」
「む……。確かに、そう言われるとカチンとくるな」
アルベルト公爵が渋い顔で頷いた。
夫婦喧嘩が泥沼化する最大の原因がこれだ。「あなたは」「お前は」と相手の行動を責めるから、相手も「そっちこそ」と自己防衛のために反撃してくる。
「では、どうすればいいのですか?」
「主語を『私』に変えるのです」
俺はテーブルの上のホロスコープをトントンと叩き、二人の目を見据えた。
「これを『月の共鳴魔法』と呼びます。『私は、あなたと話せなくて寂しい』『私は、君が出て行って悲しかった』。このように、自分の心(月)の感情だけを、素直に相手に伝えるのです。これなら、相手を責めていないため、言葉がすんなりと相手の胸に届きます」
「自分の、感情だけを……」
二人は顔を見合わせ、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
簡単なように見えて、プライドの高い大貴族にとって、自分の弱さ(寂しい、悲しい)を認めて相手にさらけ出すのは、魔法の詠唱よりも遥かに難しいことだ。
「さあ、アルベルト公爵。北の獅子たるあなたの勇気を見せてください。主語は『私』です。昨日、奥様が実家に帰ると言った時、あなたは本当はどう感じたのですか?」
俺が促すと、アルベルト公爵は顔を真っ赤にして口ごもった。
彼の屈強な身体が、まるで叱られた子供のように縮こまっている。
「……そ、それは……」
「怒りではありませんよ。怒りの奥にある、あなたの『月(本心)』の言葉です」
俺の静かな後押しを受け、アルベルト公爵は深く深呼吸をした。
そして、逃げ出したい気持ちを必死に抑え込むように、テーブルの下でギュッと拳を握りしめ、ベアトリス夫人を真っ直ぐに見つめた。
「……昨日、お前が……いや、『君』が南へ帰ると言った時」
声が微かに震えている。
戦場で何万の敵を前にしても決して怯まなかった男が、たった一人の妻の前で、己の心をさらけ出す恐怖と戦っていた。
「私は……自分の不甲斐なさに、酷く落ち込んだ。君を笑顔にできない自分が……とても、情けなくて、悲しかったのだ」
「あなた……」
ベアトリス夫人がハッと息を呑み、両手で口元を覆った。
いつも「ならば好きにしろ!」と怒鳴り返してくるはずの夫が、初めて見せた弱音。
「お前が悪い」ではなく「自分が悲しい」というアイ・メッセージの破壊力は、彼女の心の奥底にズドンと直撃したようだった。
「素晴らしいです、アルベルト公爵。では次、ベアトリス夫人」
俺はすかさずパスを回した。
鉄は熱いうちに打て。感情が動いている今こそ、最大のチャンスだ。
「あ、ええ……っ。わ、私、は……」
ベアトリス夫人もまた、顔を林檎のように真っ赤に染め上げ、扇を持つ手を震わせていた。
彼女もまた、気位の高さゆえに「寂しい」という言葉をずっと飲み込み、怒りという仮面で隠してきたのだ。
「私は……あなたが北の領地の防衛ばかりで、私に何も言葉をかけてくださらない時……」
彼女はポロリと一粒の涙をこぼし、アルベルト公爵の目を潤んだ瞳で見つめ返した。
「私は……自分が妻として必要とされていないのではないかと、とても不安で、寂しかったのですわ……っ」
「ベアトリス……!」
アルベルト公爵がガタッと椅子から立ち上がった。
そして、応接室のテーブルを大股で回り込むと、涙を流す妻の前に跪き、彼女の震える両手を己の大きな手で包み込んだ。
「すまなかった……! 私は、国境の魔物から君の故郷(南の穀倉地帯)を守ることだけが、君への愛の証明だと勘違いしていたのだ! 君を不安にさせていたなんて……私は、なんて愚かな男だ!」
「いいえ、あなた! 私こそ、あなたの不器用な優しさに気づけず、責めてばかりで……ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
二人はついに堪えきれず、応接室の真ん中で熱く抱擁を交わし始めた。
互いの顔を寄せ合い、涙を流しながら「これからは毎日愛の言葉を贈る」「私もあなたの背中を支えるわ」と、周囲の目も憚らずに甘い言葉を囁き合っている。
「……おおおおおっ!!」
部屋の隅で成り行きを見守っていたオズワルド宰相が、感動のあまり顔を覆って号泣し始めた。
「奇跡だ……! 五年間、冷戦状態だった北と南の巨大な氷壁が、たった数分で春の雪解けのように溶け去ってしまった……! 先生、あなたはやはり、この王国を救う神の使いだ!」
「いや、ただ主語を『私』に変えさせただけなんですけど」
俺はイチャイチャし始めた中年貴族の夫婦からそっと視線を逸らし、出されていた紅茶をすすった。
一方、俺の背後に控えていた第七クラスの生徒たち、レオンとミーアは、真っ青な顔をしてガクガクと震えていた。
「おい、ミーア……見たかよ。あの国で一番恐ろしいって言われてるアルベルト公爵が、あんなデレデレの顔になって泣いてるぞ……」
「見ました……。先生の『あさーしょん』っていう精神操作魔法、怖すぎます。相手の脳の構造を直接書き換えて、人格まで変えちゃうなんて……」
「絶対に、先生にだけは逆らっちゃダメだ。俺たちも一瞬で洗脳されちまう」
(お前ら、また変な勘違いしてないか!?)
俺が教え子たちのヒソヒソ話にツッコミを入れようとした、その時だった。
応接室の重厚な扉が、バンッ!! と勢いよく開かれた。
「先生ェェェッ!!」
もはや聞き慣れた地鳴りのような声と共に飛び込んできたのは、近衛騎士団長のバルドだった。
その後ろには、アイリス会長の姿もある。
「なんだ、バルド団長。また扉を蹴破って……」
「一大事でございます! 先ほど、王城の前に北と南の騎士団が数千の規模で集結し、今にも剣を交えようと睨み合っていたのですが……!」
バルド団長は息を切らしながら、部屋の中央で熱い抱擁を交わしているアルベルト公爵夫婦を見て、目を丸くして言葉を失った。
「その……両軍のトップであるお二人が、なぜそのように……熱烈に愛し合っておられるのでしょうか?」
アルベルト公爵は妻の肩を抱いたまま、振り返って豪快に笑い飛ばした。
「おお、バルドか! 心配をかけたな、離婚戦争は全面中止だ! それどころか、私は今からベアトリスを連れて、南の領地へハネムーンのやり直しに行くところなのだ! ガッハッハッハ!」
「は、はねむーん!?」
「ええ。先生の『アイ・メッセージ』の魔法のおかげで、私たちの魂は永遠の愛で結ばれましたのよ」
ベアトリス夫人も、まるで少女のように頬を染めて夫の胸に顔を埋めている。
バルド団長とアイリス会長は、ポカンと口を開けたまま、俺と公爵夫婦を交互に見比べた。
「……先生。あなたという人は……。国を二分する内戦の危機すらも、愛の奇跡で解決してしまうのですね……!」
アイリス会長が、両手を胸の前で組んで祈るような目を向けてくる。
「王国最強の軍神と、経済の女王。このお二人の心を完全に掌握されるとは……。先生、あなたこそが真の『王国の支配者』であらせられる!」
バルド団長が、感極まった顔で俺の足元に跪いた。
それに釣られて、オズワルド宰相も、レオンやミーアたちも、一斉に俺に向かって最敬礼を行う。
(いや、キューピッドってなんだよ! っていうか王国の支配者って、完全に謀反人の肩書きじゃないか!)
俺は紅茶のカップを握りしめながら、引きつった笑顔を浮かべることしかできなかった。
現代の心理学による夫婦カウンセリング。
それは結果として、王国の最も強大な二つの権力を、俺の熱狂的な信者へと変えてしまったのである。
俺の求めていた平穏なスローライフは、またしても愛と勘違いの暴走によって、天の彼方へと遠ざかっていってしまったのだった。
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次回お楽しみに。




