第12話 貧民街の呪いと、火の浄化儀式
「うっ……。これは、想像以上に酷いな」
王都の外れにある貧民街に足を踏み入れた瞬間、俺は思わず鼻と口を布で覆った。
淀んだ空気には、泥と生ゴミ、そしてひどい排泄物の臭いが混じり合っている。
道の両脇には、青白い顔をして腹を押さえ、苦しそうにうめき声を上げる人々が数え切れないほど横たわっていた。
「先生、お気をつけください。この瘴気に当てられれば、健康な者まで呪いに蝕まれてしまいます」
俺の隣を歩く聖女が、不安げに周囲を見渡す。
彼女の後ろには護衛の聖騎士たち、そして、俺のスポンサーであるクラーク商会のアイリス会長が、大量の支援物資を積んだ馬車と共に控えていた。
「呪いではなく、ただの劣悪な衛生環境ですよ。アイリス会長、指示通りにアレを持ってきてくれましたか?」
「はい、先生! 商会の倉庫にあった『強い度数の蒸留酒』と『大量の石鹸』、そして『薪』をかき集めてまいりました!」
アイリスが胸を張って答える。
俺がこれらを用意させたのは、悪魔祓いのためでも、宴会を開くためでもない。
現代の公衆衛生における最強の武器、『消毒』と『手洗い』、そして『煮沸』を行うためだ。
広場の中央では、教会の神官たちが必死に回復魔法の光を放ち、倒れた人々の治療に当たっていた。
「くっ……! 治しても治しても、すぐに別の者が倒れていく! やはりこれは、強大な悪魔がこの土地にかけた呪いなのだ!」
年老いた神官が、疲労困憊で膝をつきながら絶望の声を上げた。
「違います。それは悪魔の仕業などではありません」
俺が静かに歩み寄りながら告げると、神官たちは驚いてこちらを振り向いた。
「な、なんだ貴様は! 神聖な治療の場に、怪しげな占い師が立ち入るでない!」
「神官長、おやめなさい! このお方は、真の命の理を理解されている宮廷預言者様です!」
聖女が一喝すると、神官たちは信じられないものを見たかのように目を剥いた。
あの厳格な異端審問官である聖女様が、ただの占い師を庇ったのだから当然の反応だろう。
俺は彼らの動揺を無視して、広場の中央にある大きな『共同井戸』へとツカツカと歩み寄った。
(やっぱりだ。ここがすべての元凶だな)
井戸の底を覗き込み、周囲の地形を確認した俺は、深いため息を吐いた。
井戸からわずか数十メートルしか離れていない緩やかな斜面の上に、ゴミ捨て場と、排泄物を処理するための簡易的な溝が設置されていたのだ。
雨が降れば、その溝から汚水が地中へと染み込み、そのまま低い位置にあるこの井戸の地下水脈へと流れ込む構造になっている。
「聖女様。風水の観点から見て、この土地の『水脈』は完全に死んでいます」
「水脈が……死んでいる?」
「ええ。上流にある不浄な土の気が、地下を通じてこの井戸の水に溶け込んでいるのです。東洋の占術ではこれを『水毒』と呼びます」
俺は神官たちに向かって振り返り、はっきりと宣言した。
「あなた方がどれだけ回復魔法で彼らの身体を癒やそうと、彼らがこの『水毒』を含んだ生水を飲み続けている限り、病は永遠に再発します」
「生水が原因だと!? 馬鹿な、水は神が与え賜うた清らかなる命の源だぞ!」
神官長が顔を真っ赤にして反論してくる。
未発達な文明において、透明な水に目に見えない毒(細菌)が潜んでいるという概念を理解させるのは難しい。
だからこそ、俺は占い師としての『ハッタリ』を全力で使うことにした。
「目に見えるものだけが真実ではありません。この水の中には、何万、何十万という『極小の悪霊(細菌)』がウジャウジャと蠢いているのです」
「き、極小の悪霊……!」
「それを退治せずに身体を癒やすのは、穴の開いたバケツに水を注ぎ続けるのと同じこと。今すぐ、この井戸の使用を禁じてください」
俺の強い口調に、神官たちは戸惑いながらも聖女の顔色を窺った。
聖女は俺の言葉に深く頷き、凛とした声で命じた。
「先生の仰る通りになさい! この井戸を封鎖し、クラーク商会が運んできた樽の水を配るのです!」
聖騎士たちが動き出し、井戸の周りにロープを張って封鎖する。
俺はさらに、広場に集まった人々に向かって大声を張り上げた。
「皆の者、よく聞け! これより私が、この土地の邪気を祓う『三つの清めの儀式』を伝授する!」
苦しそうに顔を上げていた貧民街の住人たちが、すがるような目で俺を見つめる。
「第一の儀式。今後、水を飲む時は必ず鍋に入れ、グツグツと泡が立つまで『火の気(煮沸)』を通すこと! 熱と炎の力が、水の中に潜む悪霊を焼き尽くし、完全に浄化してくれる!」
煮沸消毒。コレラや赤痢などの水系感染症を引き起こす細菌のほとんどは、十分な加熱によって死滅する。
「第二の儀式。神官たちをはじめ、患者に触れる者は全員、処置の前後で必ず『石鹸』と『強い酒』で手を念入りに洗い清めること! 己の手に付着した悪霊を他者にうつしてはならない!」
接触感染の予防。手洗いの徹底こそが、医療現場における最大の防御策だ。
「そして第三の儀式。排泄物やゴミは、絶対に井戸や川の近くに捨てないこと! 水脈から遠く離れた場所に深い穴を掘り、完全に『土の気』で封印するのだ!」
上下水道の分離。これが根本的な生活環境の改善に繋がる。
俺が三つの儀式(という名の基礎的な公衆衛生ルール)を言い渡すと、神官長は鼻で笑った。
「火を通す? 手を洗う? そんな子供の遊びのような真似で、この恐ろしい呪いが解けるはずがなかろう!」
「では、実際に試してみればいいでしょう」
俺はアイリスに指示を出し、広場にいくつもの大きな焚き火を作らせた。
そこで商会が持ち込んだ綺麗な水を沸騰させ、少し冷ましてから、白湯として患者たちに配り始める。
「さあ、この『炎で浄化された神聖な水』を飲みなさい。そして、身体を温かくして眠るのです」
脱水症状を起こしている彼らにとって、安全で温かい水分は、どんな魔法の薬よりも効果的な特効薬だった。
* * *
それから、三日が経過した。
「……信じられん。本当に、奇病の連鎖が……止まっただと!?」
広場の中央で、神官長が震える手で自らの杖を落とした。
俺が指示した『三つの儀式』を徹底させた結果、貧民街の状況は劇的に改善していた。
新たな発症者はピタリとゼロになり、倒れていた患者たちも、安全な水と温かいスープ(アイリス会長からの支援物資)を摂取することで、次々と自力で立ち上がれるまでに回復していたのだ。
教会の神官たちが何日も徹夜で祈り、魔力を枯渇させても治せなかった呪いが。
ただ『お湯を沸かして飲む』『手を洗う』という、魔力を一切使わない占い師の指示だけで、完全に消し去られてしまったのである。
「なんという……なんという奇跡だ! 先生、いや、大預言者様! 私の無知をどうかお許しください!」
神官長は泣き崩れ、俺の足元に深く額を擦り付けた。
貧民街の住人たちも、次々と俺の周りにひざまずき、涙を流しながら祈りを捧げ始めている。
「先生は命の恩人だ! 炎の浄化で、悪霊を退治してくださった!」
「あの方こそ、神が我々に遣わした真の救世主様だ!」
(いや、だからお湯を沸かして手を洗っただけなんだけど!?)
俺は押し寄せる感謝と崇拝の念に、顔を引きつらせながら後ずさった。
当たり前の衛生観念を教えただけなのに、なぜか『神をも超える奇跡の体現者』として扱われている。
「素晴らしいです、先生……!」
背後から、感極まった声がした。
振り返ると、聖女が両手を胸の前で組み、うっとりとした、いや、もはや狂信的とも言える熱い瞳で俺を見つめていた。
「魔力を一切使わず、自然の理(火と水)だけで人々を救済する……。教会の魔法すら及ばない、これこそが究極の神の御業!」
聖女はズイッと俺に詰め寄り、俺の両手を強く握りしめた。
「先生! どうか、本日から我が教会の『最高位神聖アドバイザー』にも就任していただけないでしょうか!」
「……はい?」
「先生の医食同源と清めの儀式を、国中の教会に広めなければなりません! ああ、先生と共に歩む未来が、星の導きに満ちているのが私にもわかります!」
(いや、星の導きとか絶対わかってないだろ!)
俺は心の中で激しくツッコミを入れたが、周囲の熱狂的な空気に完全に呑み込まれてしまっていた。
クラーク商会の専属顧問。
王室の宮廷預言者。
そして今度は、宗教国家の最高位アドバイザー。
俺の求めていた『安全でそこそこ贅沢なスローライフ』は、またしても重すぎる肩書きと権力によって、粉々に叩き潰されてしまったのである。
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次回お楽しみに。




