第11話 医食同源と、聖女の目覚め
「ん……ぁ……」
ふかふかのベッドの上で、銀髪の聖女がゆっくりと目を開けた。
彼女の視界に最初に飛び込んできたのは、見慣れた教会の質素な天井ではなく、王城のVIPルームの豪華なシャンデリアだった。
「気がつきましたか、聖女様」
「……あなたは」
ベッドの脇で、俺は温かい湯気を立てる木製のボウルを手に持っていた。
聖女はハッと身を起こそうとしたが、身体に力が入らず、再びシーツの上へと倒れ込んでしまう。
「動かない方がいいですよ。極度の貧血と過労で、身体のエネルギーが完全に空っぽになっていますから」
「私、は……異端審問の途中で……」
彼女が記憶を辿るように呟くと、部屋の隅で待機していた教会の聖騎士たちが、ワッと泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「おお、聖女様! お目覚めになられたのですね!」
「この男の言う通り、貴女様は突然お倒れになったのです! すぐに神殿へお連れしようとしたのですが、この男が『動かすな』と……」
聖騎士たちは俺を睨みつけながらも、聖女の無事に安堵の涙を流している。
俺は彼らの視線を適当にスルーし、手に持っていたボウルを聖女の顔の前にそっと差し出した。
「まずは、これを少しずつ飲んでください。王城の料理長に急いで作らせた特製のスープです」
「スープ……? いえ、結構です。私には神の奇跡たる『回復魔法』が……」
聖女は青白い顔で自らの胸元に手を当て、微かな光を灯そうとした。
だが、俺はピシャリと厳しい声でそれを制止した。
「絶対にダメだ。今の状態で回復魔法を使えば、あなたは本当に死にますよ」
「なっ……! 異端の占い師が、神の奇跡を否定するというのですか!」
「否定しているわけではありません。ただ、理屈に合わないと言っているのです」
俺はボウルをサイドテーブルに置き、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
ここからは、占い師としてのハッタリと、現代の科学知識をミックスした俺の独壇場だ。
「聖女様。回復魔法というのは、傷ついた肉体の細胞を強制的に活性化させ、治癒を早める術式のはずです。違いますか?」
「……ええ。神の力で生命力を高め、肉体を元の姿に戻すのです」
「では、その『新しく作られる肉体』の材料は、どこから来るのですか?」
俺の問いかけに、聖女は目を丸くして言葉を詰まらせた。
彼女たちは魔法を「奇跡」としてしか捉えていない。だが、物理法則を無視して無から有を生み出すことはできないはずだ。
「家を建てるには木材が必要です。それと同じで、人間の肉体を修復するためには『血液』や『筋肉』の材料となる栄養が必要不可欠なのです」
俺は彼女の細すぎる腕を指差した。
「あなたは断食と徹夜の祈りで、身体の中に材料が一切ない状態だった。そんな空っぽの状態で回復魔法を使えばどうなるか……。身体は足りない材料を補うために、あなた自身の命を削って無理やり細胞を作ろうとするでしょう」
「命を……削る……?」
「ええ。あなたの魔法は、患者を救う代わりに、あなた自身の寿命をすり減らしていたのですよ」
俺の残酷な宣告に、聖女も聖騎士たちも絶句した。
ファンタジー世界の魔法の原理なんて俺にはわからない。だが、過労と栄養失調の人間に、さらにエネルギーを使わせるような行為が自殺行為であることくらい、現代人なら誰でも知っている。
「だから、今は魔法を封印して、物理的に材料を補給してください。さあ、この『レバーとほうれん草の滋養スープ』を」
俺は再びボウルを手に取り、スプーンでスープを掬って彼女の口元へ運んだ。
「これは東洋の神秘の占術において、『医食同源』と呼ばれる究極の回復魔術です」
「いしょく……どうげん?」
「はい。日常の食事こそが最高の薬であり、肉体を形作る根源であるという考え方です。このスープには、あなたの失われた血液を生み出す『鉄の気』と、肉体を修復する『タンパク質の気』が限界まで濃縮されています」
ただの栄養素の名前を、それっぽく『気』という言葉に置き換えただけだ。
だが、その響きは彼女たちにとって、未知の強力な魔術のように聞こえたらしい。
聖女は戸惑いながらも、俺の差し出したスプーンを小さく口に含んだ。
「……あ」
その瞬間、彼女の瞳に驚きの色が広がった。
王城の料理長が腕によりをかけたスープは、臭みが一切なく、濃厚な肉の旨味と野菜の甘みが完璧に調和していた。
何より、空っぽだった彼女の胃袋に、温かい熱がじんわりと染み渡っていくのがわかったのだろう。
「おいしい……。こんなに温かくて、力が湧いてくる食べ物……初めてです……」
聖女の目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女はこれまで、人々のために祈り続け、自分の食事などただの作業としか考えていなかったのだ。
「私が間違っていたのですね……。神への祈りだけで人を救えると思い込み、最も大切な『肉体の声』を無視していました」
「気づけたのなら、今日から変えればいいだけですよ。手相によれば、あなたの運命の線はここから力強く伸びていきますから」
俺が優しく微笑むと、聖女はベッドの上で居住まいを正し、俺に向かって深く、深く頭を下げた。
「先生……。私の無礼を、どうかお許しください。あなたは悪魔などではない。生命の真理を理解し、正しい道へと導いてくださる……真の聖人様です」
「は?」
「おおおっ! 聖女様が、あそこまで異端の占い師を……いや、先生を認めたぞ!」
聖騎士たちも一斉に剣を収め、俺に向かって敬意に満ちた眼差しを向けてきた。
(いや、ただスープ飲ませて栄養学語っただけなんだけど!?)
またしても、俺の肩書きに『真の聖人』というとんでもないものが追加されようとしている。
俺は顔を引きつらせながら、なんとか誤魔化そうと口を開いた。
「あ、いや、俺はただの占い師でして。聖人とかそういう柄じゃないんで、元気になったら神殿に帰ってゆっくり休んで……」
「先生。どうか、どうかお願いがございます」
しかし、聖女は俺の言葉を遮り、ベッドから身を乗り出して俺の服の袖を強く握りしめた。
その顔には、先ほどの敵意は微塵もなく、藁にもすがるような必死な表情が浮かんでいた。
「私の命を救ってくださった先生の『医食同源』の知識があれば……王都の貧民街を救うことができるかもしれません!」
「貧民街……ですか?」
「はい。今、王都の外れにある貧民街で、恐ろしい奇病が蔓延しているのです。高熱と激しい腹痛を伴い、教会の回復魔法を使っても、翌日にはまた同じ症状で倒れてしまう……まさに呪いのような病が」
聖女は唇を噛み締め、悔しそうに俯いた。
「私たちがどれだけ祈っても、魔法で癒やしても、呪いは連鎖して人々を苦しめています。どうか、先生のその偉大なる占術で、貧民街の呪いを解き明かしてはいただけないでしょうか!」
(高熱、腹痛、そして回復魔法を使っても再発する……?)
俺の脳内で、これまでの知識がパズルのように組み合わさっていく。
治しても治しても再発するということは、原因が患者の体内ではなく、彼らの『生活環境』そのものにあるということだ。
「……もしかして、その貧民街の人たちって、同じ川や井戸の水を飲んでいませんか?」
「えっ? はい、貧民街には大きな共同の古井戸が一つあり、皆そこから水を汲んで生活していますが……それが何か?」
ビンゴだ。
俺は深い絶望と共に、天を仰いだ。
それは呪いでも悪魔の仕業でもない。
不衛生な環境と汚染された水が引き起こす、現代で言うところの『水系感染症』……コレラや赤痢のような、集団食中毒の類だ。
「聖女様。それは呪いではありません。風水における『水脈の穢れ』です」
俺が重々しく告げると、聖女と聖騎士たちは息を呑んだ。
治す方法は簡単だ。水を煮沸消毒させ、生活排水と飲み水を完全に分離する。現代の『公衆衛生』の基本中の基本を徹底させるだけである。
だが、それをこの世界の人々に理解させ、実行させるためには、俺が『宮廷預言者』として陣頭指揮を執らなければならない。
(俺の……俺の優雅なVIP生活が……!)
またしても安全な部屋から連れ出され、今度は感染症の蔓延するスラム街へと駆り出される運命が確定してしまった。
俺の思い描く平穏なスローライフは、もはや幻のように遠く、手の届かない場所へと消え去っていくのだった。




