第8話 黒崎、狩り開始
校舎の自動扉が静かに開く。
ギィ……。
その音だけで、周囲にいた一年生たちは思わず振り返った。
「黒崎……。」
「ついに来た。」
誰かが息を呑む。
一年主席、黒崎仁。
これまで校庭で戦況を眺めていた男が、ようやく校舎へ足を踏み入れた。
しかし、その姿は誰の予想とも違っていた。
走らない。
焦らない。
能力を発動する様子もない。
ただ静かに、一歩ずつ廊下を歩いていく。
コツ。
コツ。
革靴の音だけが静かな校舎へ響く。
「黒崎!」
一人の男子生徒が駆け寄る。
「天城は別棟へ逃げました!」
「今追っています!」
黒崎はその報告にすら反応を示さなかった。
視線は床へ向けられている。
「……。」
ゆっくりしゃがみ込む。
そして廊下の床を指先でなぞった。
土埃。
靴底の跡。
僅かに削れたワックス。
「……新しい。」
小さく呟く。
立ち上がり、数歩進む。
今度は壁へ視線を移した。
コンクリートには黒い焦げ跡。
壁の一部が崩れ、周囲には小さな破片が散らばっている。
炎能力による攻撃痕。
黒崎は破片の飛び散った向きを見つめる。
(右から左。)
(炎を避けた。)
(そのまま加速したな。)
何も知らない者には、ただ壊れた壁にしか見えない。
しかし黒崎の頭の中では、その瞬間の光景が組み立てられていく。
教師席でも、その様子を映像で見ていた。
「……走らない?」
若い教師が首を傾げる。
「追わなくていいんですか?」
神崎は腕を組んだまま答えた。
「必要ない。」
「え?」
「黒崎は追いかけているんじゃない。」
「読んでいる。」
モニターに映る黒崎は、さらに廊下を歩いていく。
視線は常に床。
壁。
天井。
そして開きっぱなしの教室の扉。
ある教室の前で立ち止まる。
扉は半開き。
中には倒れた机。
散乱した椅子。
棚から落ちた教材。
黒崎は部屋へ入ることなく、その光景だけを眺めた。
(ここで時間を稼いだ。)
(追跡隊が詰まった。)
(なら天城は……。)
ゆっくりと廊下へ視線を戻す。
左を見る。
右を見る。
そして迷うことなく右へ歩き出した。
「右か。」
その一言だけだった。
近くにいた生徒たちは戸惑う。
「え?」
「なんで分かるんだ?」
黒崎は説明しない。
ただ歩く。
その姿を見つめながら、教師たちの間にもざわめきが広がっていた。
「追跡している……。」
「能力じゃない。」
「観察だけで。」
神崎は静かに頷く。
「戦闘とは、力比べじゃない。」
「情報戦だ。」
「天城が地形を利用するなら。」
「黒崎は情報を利用する。」
「だから、この二人は似ている。」
その言葉に教師たちは驚く。
「似ている……?」
「ああ。」
「どちらも能力だけで戦う人間じゃない。」
神崎の目は真剣だった。
「天城は努力で情報を集めた。」
「黒崎は才能で情報を読む。」
「方法は違う。」
「だが、本質は同じだ。」
一方、黒崎はさらに奥へ進む。
階段の前で再び足を止めた。
床には泥の付いた足跡。
だが一つだけ違う跡が混ざっていた。
靴底の外側だけが強く擦れている。
(急停止。)
(いや、違う。)
(方向転換だ。)
黒崎は階段を見上げる。
そこには能力者たちが慌ただしく上り下りしている。
しかし黒崎は階段を使わず、その横にある非常階段の扉へ歩み寄った。
「そっちは誰も行ってません!」
男子生徒が慌てて声を掛ける。
黒崎は静かに扉へ手を掛けた。
「だから行く。」
ガチャ。
扉を開ける。
中は静まり返っていた。
誰もいない。
それでも黒崎は迷わず歩く。
非常階段を一段、また一段と上がっていく。
(天城。)
(お前なら人が集まる場所は避ける。)
(なら次に選ぶ道は限られる。)
その頃、別棟ではハルがなおも逃走を続けていた。
もちろん知る由もない。
自分の残した僅かな痕跡だけで、一人の男が着実に距離を縮めていることを。
そして、その男は能力ではなく、観察力だけで自分の居場所を暴こうとしていることを。
ハルは廊下を駆け続けていた。
息は荒い。
汗が額から顎へと流れ落ち、制服は汗で肌に張り付いている。
それでも足を止めることはない。
(あと二十分。)
(まだ逃げ切れる。)
自分に言い聞かせるように前を向く。
だが、その直後だった。
(……おかしい。)
ハルの足が一瞬だけ緩む。
違和感。
先ほどまで感じていた喧騒が、急に消えていた。
「いたぞ!」
「右だ!」
「能力を撃て!」
さっきまでは至る所から怒鳴り声が飛んでいた。
炎。
風。
雷。
能力が乱れ飛び、追跡隊同士が衝突し、混乱が絶えなかった。
しかし今は違う。
静かすぎる。
聞こえるのは自分の足音だけ。
コン、コン、コン――。
長い廊下へ、その音だけが反響する。
(追ってこない?)
いや。
違う。
追ってきている。
気配はある。
だが、さっきまでのような焦りが感じられない。
まるで――。
(狩られてる。)
その考えが脳裏をよぎる。
ハルは咄嗟に角を曲がろうとした。
だが、曲がった先で二人の男子生徒が待ち構えていた。
「いた!」
「止まれ!」
氷の槍が飛ぶ。
ハルは身体をひねり、紙一重でかわす。
そのまま反転し、来た道へ戻る。
すると今度は背後から三人。
「逃がすな!」
風刃が飛ぶ。
ハルは近くの教室へ飛び込み、窓際まで一気に駆け抜ける。
再び廊下へ。
何とか包囲を抜ける。
しかし――。
(違う。)
(今までと違う。)
さっきまでなら、この場面で追跡隊は一斉に突っ込んできた。
能力を乱発し、自滅する。
だが今回は違う。
誰も無理に追ってこない。
一定の距離を保ち、逃げ道だけを塞いでくる。
(包囲じゃない……。)
ハルの背筋を冷たい汗が流れる。
(誘導されてる。)
一本道へ。
袋小路へ。
少しずつ。
少しずつ。
逃げられる方向だけを残しながら、自分を進ませている。
「くそっ!」
ハルは進路を変える。
階段へ向かう。
だが、その瞬間。
「上は塞いだ!」
二階から能力者たちが駆け下りてきた。
ハルは舌打ちし、一階へ引き返す。
しかし一階にも待機していた生徒が現れる。
「こっちだ!」
「回り込め!」
その声を聞きながら、ハルはようやく確信する。
(誰かが指示してる。)
今までの一年生たちには、こんな統率はなかった。
能力を持ったばかりの新入生。
個人で動き、好き勝手に能力を放つだけだった。
だからこそ付け入る隙があった。
しかし今は違う。
一人ひとりの動きに無駄がない。
深追いしない。
焦らない。
ただ確実に、逃走経路だけを削ってくる。
(誰だ……。)
その答えは、すぐに頭へ浮かんだ。
「……黒崎。」
あの男しかいない。
あの場で腕を組み、自分の動きをじっと観察していた一年主席。
ハルは唇を噛み締めた。
(後ろから追ってない。)
普通の追跡なら、逃げる相手を後ろから追い詰める。
だが黒崎は違う。
自分では追わない。
逃げる先を読む。
そして、その場所へ先回りさせる。
(俺を走らせてるのか……。)
まるで迷路に放たれたネズミ。
逃げ道があると思わせながら、少しずつ出口を消していく。
その巧妙さに、ハルは初めて底知れない恐怖を覚えた。
額の汗を拭う暇もなく、再び走り出す。
まだ逃げられる。
そう信じて。
しかし、その頃。
別棟の非常階段を静かに上る黒崎は、小さく呟いていた。
「そうだ。」
「そのまま走れ。」
「逃げれば逃げるほど、お前の選べる道は減っていく。」
黒崎の表情に焦りはない。
獲物を追う猟犬のような鋭さもない。
ただ盤面を読み切った棋士のような静かな確信だけが、その瞳に宿っていた。
ハルは息を切らしながら廊下を駆ける。
肺が焼けるように熱い。
足も少しずつ重くなってきている。
(まだ走れる。)
(あと少し……。)
前方の角が見えた。
ここを右へ曲がれば、特別教室棟へ抜けられる。
そこから階段を使えば、まだ逃走経路は――。
ハルは勢いよく角を曲がった。
その瞬間だった。
「……。」
目の前に、一人の男子生徒が立っていた。
黒い制服。
落ち着いた立ち姿。
腕には木刀。
まるで最初から待っていたかのように、廊下の中央へ静かに立っている。
「見つけた。」
短い一言。
その声を聞いた瞬間、ハルの全身に悪寒が走る。
(黒崎……!)
いつ追いつかれた。
いや、違う。
追いつかれたのではない。
先回りされた。
ハルは反射的に進路を変えようとする。
だが。
黒崎の姿が、一瞬で視界から消えた。
(速い!!)
次の瞬間には目の前。
ブォン!!
木刀が一直線に振り下ろされる。
ハルも反射で木刀を抜いた。
ガキィィン!!
鋭い金属音にも似た衝撃が廊下へ響き渡る。
両者の木刀が激しくぶつかり合う。
衝撃でハルの腕が痺れる。
(重い……!)
能力は使っていない。
純粋な剣技。
それだけでここまでの圧力。
黒崎は表情一つ変えない。
そのまま二撃目。
横薙ぎ。
ハルは一歩下がって受け流す。
三撃目。
突き。
紙一重で身体をひねる。
四撃目。
袈裟斬り。
ガキン!!
木刀同士が火花を散らすようにぶつかる。
観客席から驚きの声が上がった。
「黒崎も剣を使えるのか!」
「能力じゃない!」
「剣だけで戦ってる!」
「しかも速すぎる!」
教師席でも空気が変わる。
「黒崎……。」
「能力に頼っていなかったのか。」
神崎は静かに頷く。
「当然だ。」
「能力は武器の一つ。」
「戦闘の全てじゃない。」
「だから主席なんだ。」
一方、ハルは黒崎の攻撃を必死に受け続けていた。
ガキン!
ガキィン!!
五合。
六合。
七合。
剣筋は美しい。
一切の無駄がない。
(強い。)
ハルは歯を食いしばる。
(今まで戦った誰よりも強い。)
腕力だけではない。
間合い。
重心。
視線。
呼吸。
全てが完成されている。
剣道の大会で何度も強豪と戦ってきた。
その経験があるからこそ分かる。
(この人……。)
(俺より上だ。)
その頃、黒崎もまた木刀を交えながら静かに考えていた。
(なるほど。)
ハルの剣は決して荒くない。
むしろ基礎は非常に堅実だ。
受け流しも正確。
無駄な力みもない。
逃げながらこれだけ対応できる一年生は珍しい。
(努力だけでここまで来たか。)
黒崎は心の中で小さく感心する。
(惜しいな。)
次の一撃を放つ寸前。
黒崎は自ら距離を取った。
タンッ。
二人の間合いが三メートルほど開く。
ハルは構えたまま動かない。
(来る……。)
そう身構えた。
しかし黒崎は木刀を肩へ担ぐだけだった。
「今のお前では勝てない。」
静かな口調。
見下した言い方ではない。
事実だけを告げる声だった。
ハルは木刀を握り直す。
「……戦うつもりはない。」
「知っている。」
黒崎は小さく頷く。
「お前の勝利条件は逃げ切ることだ。」
「だから俺と戦う理由はない。」
その言葉を残し、黒崎は一歩だけ横へ動いた。
廊下を塞いでいた身体が、わずかに開く。
逃げ道ができる。
(……?)
ハルは一瞬だけ迷う。
なぜ逃がす。
なぜ今ここで捕まえない。
しかし考える時間はない。
ハルは黒崎の横を駆け抜け、そのまま廊下の奥へ走り去った。
足音が遠ざかる。
黒崎は振り返らない。
その代わり、小型通信機へ静かに告げた。
「Bルートへ向かった。」
「第三班、第四班。」
「予定通り閉じろ。」
通信の向こうからすぐに返事が返る。
『了解。』
黒崎はゆっくりと木刀を下ろした。
逃がしたのではない。
逃がしたかったのだ。
ハルが選んだその道こそ、黒崎が最初から用意していた"逃走経路"だった。
ハルは全力で廊下を駆ける。
黒崎との遭遇から数十秒。
胸の鼓動はまだ速い。
(今のは危なかった……。)
黒崎は捕まえようとしなかった。
あえて道を開けた。
その意味を考えようとした瞬間だった。
廊下の先から声が響く。
「いたぞ!」
ハルは反射的に足を止める。
前方。
十人近い能力者が廊下を塞いでいた。
炎。
氷。
風。
それぞれ能力を構えながら、じりじりと距離を詰めてくる。
「逃がすな!」
ハルは即座に左の教室へ飛び込む。
教室を突っ切り、反対側の扉を開ける。
廊下へ飛び出す。
しかし――。
「こっちだ!」
横の渡り廊下にも待機していた能力者たちが一斉に姿を現した。
「なっ……!」
さらに振り返る。
今来た道からも十数人が迫ってくる。
完全に挟まれた。
(包囲された……。)
いや。
まだ一方向だけ空いている。
体育館へ続く長い廊下。
そこだけ誰もいない。
(……そこしかない。)
ハルは迷わず走り出した。
その様子を別の階から見下ろしていた黒崎は、小型通信機を耳へ当てる。
「追い込め。」
静かな一言。
それだけだった。
だが、その言葉を境に一年生たちの動きが一変する。
『第一班、前方を封鎖!』
『第二班、右ルート確保!』
『第五班、体育館側へ移動!』
『了解!』
今までは、それぞれが勝手に走っていた。
見つければ叫ぶ。
能力を放つ。
追い掛ける。
ただそれだけ。
しかし今は違う。
誰一人として無駄に走らない。
役割が決まっている。
前衛。
側面。
後方。
逃げ道の封鎖。
まるで何年も訓練を積んだ部隊のようだった。
教師席では、その変化に全員が息を呑む。
「全然違う……。」
「さっきまでとは別の集団だ。」
「同じ一年生とは思えない。」
神崎は静かにモニターを見つめる。
「黒崎が中心に立った。」
「ただ、それだけだ。」
女性教師が驚いた表情を浮かべる。
「たった一人でここまで……。」
「これが指揮官だ。」
神崎は続ける。
「強い者が前に出れば勝てるわけじゃない。」
「全員を一つの意思で動かす。」
「それが本当のリーダーだ。」
モニターでは、ハルが何度も進路を変えようとしていた。
右へ。
能力者。
左へ。
能力者。
階段。
封鎖。
教室。
待ち伏せ。
そのたびに別の方向へ走るしかない。
(なんでだ……。)
ハルは歯を食いしばる。
(俺の行き先が全部読まれてる。)
偶然ではない。
一度なら偶然。
二度でも運が悪い。
だが三度、四度と続けば、それは必然だった。
(俺の考えが読まれてる。)
いや。
違う。
読まれているのではない。
考えさせられている。
逃げ道があると思った場所へ走らされている。
その事実に気付いた時、ハルの背中へ冷たい汗が流れた。
一方、黒崎は校舎二階の窓からハルを見下ろしていた。
木刀を肩に担ぎ、静かに呟く。
「焦り始めたか。」
通信機から報告が入る。
『黒崎、対象は予定ルートへ入りました。』
「ああ。」
『次はどうしますか?』
黒崎は一拍置いて答えた。
「予定通りだ。」
「逃げ道は一本だけ残せ。」
『了解。』
通信が切れる。
黒崎は窓から視線を外し、ゆっくり歩き始めた。
走る必要はない。
獲物は、自ら檻の奥へ進んでいる。
教師席では、誰かが思わず呟いた。
「……これが主席か。」
誰も否定しない。
個人の強さ。
剣術。
観察力。
そして指揮能力。
その全てが噛み合った瞬間、百二十四人の一年生は初めて一つの組織となった。
もはや烏合の衆ではない。
黒崎という頭脳を得たその集団は、一人の獲物を追い詰めるための軍隊へと姿を変えていた。
その時、校舎中に放送が響いた。
『試験開始から十分が経過しました』
『残り時間は二十分です』
無機質な声が、静まり返った廊下へ広がっていく。
ハルは壁へ手をつき、荒い呼吸を繰り返していた。
「はぁ……はぁ……。」
額から落ちた汗が、床へ染みを作る。
制服の袖は裂け、肩の部分は焦げていた。
頬にも浅い傷が走っている。
何度能力をかわした。
何度包囲を抜けた。
何度、もう終わりだと思った。
それでも、まだ捕まってはいない。
(あと二十分……。)
数字だけを見れば、まだ三分の一しか経っていない。
だが、ハルの身体はすでに限界へ近づいていた。
足が重い。
呼吸が戻らない。
木刀を握る手にも、力が入りにくくなっている。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
止まれば終わる。
捕まれば退学。
ここまで積み重ねてきた全てが消える。
ハルは壁から手を離す。
その時。
廊下の奥から、ゆっくりと足音が聞こえてきた。
コツ。
コツ。
コツ。
急ぐ様子のない歩き方。
ハルは顔を上げる。
現れたのは黒崎だった。
制服には乱れ一つない。
息も切れていない。
木刀を肩に担ぎ、静かな目でハルを見ている。
「まだ逃げるか。」
ハルは息を整えながら、木刀を握り直した。
「当たり前だ。」
声は掠れていた。
それでも、迷いはない。
「俺はまだ捕まってない。」
「試験も終わってない。」
黒崎はしばらくハルを見つめる。
その瞳に侮りはなかった。
無能力者。
最弱。
退学候補。
周囲がどれだけそう呼んでも、目の前の少年はまだ立っている。
黒崎は小さく息を吐いた。
「そうか。」
木刀を肩から下ろす。
「なら追い続ける。」
黒崎が一歩進む。
ハルは構える。
だが、黒崎は襲い掛かってこなかった。
その場で足を止め、廊下の先へ視線を向ける。
「逃げろ。」
「……何?」
「お前の勝利条件は逃げ切ることだ。」
黒崎は淡々と告げる。
「なら最後まで逃げればいい。」
ハルは眉を寄せる。
まただ。
黒崎はいつも道を塞がない。
むしろ、自分から逃げ道を残している。
その意図が分からない。
分からないが、立ち止まっている時間もなかった。
後方から複数の足音が近づいてくる。
「いたぞ!」
「黒崎が追い詰めてる!」
「前を塞げ!」
ハルは黒崎から視線を外し、廊下の先へ向かって走り出した。
その背中へ、黒崎の声が届く。
「逃げろ。」
ハルの足音が廊下へ響く。
「逃げれば逃げるほど。」
黒崎は動かない。
ただ遠ざかる背中を見つめている。
「お前の逃げ道はなくなる。」
ハルは振り返らなかった。
前だけを見る。
角を曲がる。
次の棟へ続く長い廊下。
ここを抜ければ、まだ別の階へ移動できる。
(まだだ。)
(まだ逃げられる。)
そう自分へ言い聞かせる。
しかし、廊下の先。
左右の教室。
階段。
渡り廊下。
そこにはすでに、能力を構えた生徒たちが待機していた。
「来たぞ。」
「黒崎の言った通りだ。」
「ここで止める。」
炎が灯る。
氷が形成される。
風が渦を巻く。
ハルは走る速度を落とさない。
歯を食いしばり、再び木刀を抜く。
黒崎の予想を超える。
用意された道を破壊する。
それしかない。
だが、その時ハルはまだ、自分が黒崎の掌の上で走らされていることに気付いていなかった。




