第6話 絶望の逃走試験
翌朝。
星ヶ丘学園の競技場には、一年生全員が集められていた。
円形の闘技場を囲むように、生徒たちが並び、その中央には一人の少年が立っている。
天城ハル。
無能力者でありながら、最後の試験へ挑む男だった。
観客席には教師陣だけでなく、二年生や三年生の姿まである。
「本当にやるのか……。」
「こんなの試験じゃない。」
「処刑だろ。」
そんな声があちこちから聞こえてくる。
やがて教師・神崎が前へ出ると、競技場全体を見渡した。
「静粛に。」
一瞬で私語が止む。
神崎は手にした資料を開き、淡々と説明を始めた。
「これより、天城ハルに対する特別試験――全校逃走試験を実施する。」
会場の空気が張り詰める。
「試験時間は三十分。」
「武器の使用を許可する。」
「能力の使用も制限しない。」
その言葉に、生徒たちの表情が変わる。
さらに神崎は続けた。
「試験フィールドは、星ヶ丘学園の校舎全域。」
「教室、廊下、中庭、訓練棟、屋上――すべてを使用可能とする。」
生徒たちは顔を見合わせる。
「広いとはいえ……。」
「隠れ続けられるか?」
神崎は最後の一文を読み上げた。
「一年生百二十四名全員をハンターとする。」
「逃走者は――天城ハル、一名。」
一瞬の静寂。
そして次の瞬間、競技場は大きなどよめきに包まれた。
「百二十四対一!?」
「勝負になるわけがない!」
「こんなの最初から結果は決まってる!」
「能力なしで三十分も逃げ切れるわけないだろ!」
誰もが不可能だと思っていた。
ただ一人を除いて。
ハルは静かに競技場を見渡し、小さく息を吐く。
そして、ゆっくりと木刀を握り直した。
その瞳には、絶望ではなく、決して折れない闘志だけが宿っていた。
神崎の説明が終わっても、競技場のざわめきは収まらなかった。
「一年生全員って……。」
「無理だろ。」
「逃げ切れるわけがない。」
誰もが口々に、ハルの敗北を確信していた。
「三十分どころか、三十秒で終わるんじゃね?」
「最初に足の速い奴が囲めば終わりだろ。」
「いや、そんな面倒なことする必要もないって。」
一人の生徒が、少し離れた場所に立つ黒崎へ視線を向ける。
「黒崎一人で十分だ。」
その言葉に、周囲から笑い声が上がった。
「確かに。」
「あいつが本気を出したら、無能力者なんて一瞬だろ。」
「逃げる暇すらないんじゃないか?」
まるで試験の結果がすでに決まっているかのように、生徒たちは好き勝手な言葉を並べる。
捕まえた者には評価点が加算される。
そう聞かされた生徒たちの中には、すでに誰がハルを捕まえるかで言い争う者までいた。
「俺が最初に捕まえる。」
「お前じゃ無理だろ。俺の能力なら十秒で追いつける。」
「最初から校舎の出口を塞げば終わりだ。」
だが――。
全員が余裕を浮かべているわけではなかった。
「いや……。」
低い声を漏らしたのは、実戦試験でハルと戦った生徒だった。
周囲の視線が集まる。
「どうした?」
「まさか、あいつが逃げ切ると思ってるのか?」
問われた生徒は、ハルを見つめたまま答えた。
「油断するな。」
その声には、冗談など一切含まれていない。
「確かに能力はない。」
「でも、あいつは攻撃を見てから避けてた。」
「それも一度や二度じゃない。」
隣にいた別の生徒も、苦い表情で頷く。
「俺も見た。」
「炎の攻撃を真正面から避けて、懐に入り込んでた。」
「追いかけるだけなら簡単だと思わない方がいい。」
ハルと実際に戦った者だけは知っている。
能力がないから弱い。
そんな常識だけでは測れない何かを、あの少年が持っていることを。
「囲めば終わる。」
誰かがそう言った。
だが、その言葉に先ほどまでの勢いはなかった。
百二十四人の視線が、一斉にハルへ向けられる。
侮る者。
笑う者。
そして、警戒する者。
そのすべてを受けながら、ハルは何も言わず立っていた。
静かなその姿が、かえって一部の生徒たちに不気味なものを感じさせていた。
試験開始まで、あと十分。
競技場の外では、それぞれの生徒が最後の準備を進めていた。
武器の点検をする者。
能力の確認をする者。
仲間と作戦を立てる者。
そんな喧騒の中、一人の少女がハルへ駆け寄ってきた。
「ハル!」
振り返ると、息を切らした美咲が立っていた。
その表情には、いつもの笑顔はない。
不安と焦りだけが浮かんでいた。
「美咲。」
「やっと見つけた……。」
美咲は肩で息をしながら、ハルの制服をぎゅっと掴む。
そして、小さく首を振った。
「お願い。」
「……棄権して。」
その言葉に、ハルは少しだけ目を細める。
「棄権したら、その場で退学だぞ。」
「それでもいい!」
美咲は思わず叫んでいた。
「こんなの試験じゃない!」
「百二十四人を相手にするなんて、おかしいよ!」
周囲の生徒たちが二人を見る。
しかし、美咲は気にしなかった。
「お願いだから……。」
「もう十分頑張ったよ。」
「誰もハルを責めたりしないから。」
震える声でそう言う美咲を見つめながら、ハルは静かに首を横へ振った。
「それじゃ全部終わる。」
「え……。」
「ここで逃げたら、俺は自分に負ける。」
ハルは穏やかに笑う。
「能力がないからって、諦める理由にはしたくない。」
「でも……!」
美咲の目には涙が浮かんでいた。
「でも死んじゃうよ!」
「みんな能力を使うんだよ!?」
「武器だって使うんだよ!?」
「ハルが傷つくところなんて……もう見たくない!」
涙が頬を伝い、地面へ落ちる。
それでもハルは優しく微笑んだ。
「美咲。」
「約束しただろ。」
幼い日の記憶が蘇る。
能力がないと判明して泣いていたハルに、美咲は「ずっと応援する」と言ってくれた。
その時、ハルは笑って答えた。
――絶対に諦めない。
その約束を。
「俺は絶対諦めない。」
真っ直ぐな瞳だった。
迷いも、恐れもない。
その言葉を聞いた美咲は、ついに堪えきれず涙を流した。
「……バカ。」
「本当に、バカなんだから。」
泣き笑いのような表情で呟く。
ハルは照れくさそうに笑いながら頭をかいた。
「そうかもな。」
「でも、このバカだけは最後まで貫くよ。」
美咲は何も言えなかった。
ただ、震える拳を胸の前で握り締める。
(お願い……。)
(無事でいて。)
(誰よりも頑張ってきたハルが、どうか報われますように。)
そう願いながら、美咲は涙を拭った。
ハルは最後に一度だけ振り返ると、小さく笑って試験会場へ向かって歩き出した。
その背中を、美咲はいつまでも見送っていた。
美咲と別れたハルは、一人で試験開始地点へ向かっていた。
競技場から校舎へ続く通路。
人気のない廊下を歩いていると、不意に前方から足音が聞こえてきた。
コツ、コツ、と一定のリズムで近づいてくる。
その姿を見た瞬間、ハルは立ち止まった。
「……黒崎。」
黒崎仁。
一年主席にして、誰もが認める最強の能力者。
黒崎もまた足を止め、静かにハルを見つめる。
しばらく沈黙が続く。
先に口を開いたのは黒崎だった。
「正直、意外だった。」
「お前が棄権しなかったことだ。」
ハルは肩をすくめる。
「逃げたら、そこで終わりだからな。」
「そうか。」
黒崎は短く返すと、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「お前なら、少しは楽しませてくれる。」
挑発でも侮辱でもない。
純粋に、強者が戦いを期待するような声音だった。
ハルは木刀を軽く握り直す。
「期待されるのは悪い気はしない。」
「俺は勝つ気で行く。」
その言葉に、黒崎は小さく首を傾けた。
「勝つ?」
「勘違いするな。」
「これは逃げる試験だ。」
「お前は戦う側じゃない。」
「追われる側だ。」
冷静な指摘だった。
普通なら、その言葉で心が折れてもおかしくない。
しかし、ハルは微笑んだ。
「だから?」
黒崎の眉がわずかに動く。
「最後まで逃げ切れば俺の勝ちだ。」
「試験のルールはそうだろ?」
「戦って倒すだけが勝負じゃない。」
「勝利条件を満たした方が勝ちだ。」
その返答に、黒崎はしばらく無言だった。
やがて、ふっと小さく笑う。
「……なるほど。」
「そういう考え方か。」
黒崎はハルへ背を向け、そのまま歩き出す。
「なら期待している。」
「三十分。」
「せめて俺が本気を出す価値くらいは見せてみろ。」
そのまま立ち去る黒崎の背中を見送りながら、ハルは静かに息を吐いた。
「言われなくても。」
「俺は最後まで諦めない。」
二人は反対方向へ歩き出す。
数分後には、一人は逃げる者として。
もう一人は追う者として。
運命の試験が、始まろうとしていた。
試験開始地点。
校舎正門前には、天城ハルが一人。
その数十メートル後方には、百二十四名の一年生が横一列に並んでいた。
全員が武器を手にし、能力の発動準備を整えている。
炎が揺らめく者。
雷をまとった者。
風を渦巻かせる者。
無数の魔力が周囲を震わせ、空気までも張り詰めていた。
その光景は、まるで一人の人間を狩るためだけに編成された軍隊だった。
教師・神崎が開始線の中央へ歩み出る。
静まり返った会場を見渡し、力強く宣言した。
「それでは――」
「特別試験『全校逃走試験』を開始する。」
ハルはゆっくりと目を閉じる。
腰に差した木刀へ手を添え、一度だけ深呼吸をした。
(落ち着け。)
(焦るな。)
(勝つ方法は、一つしかない。)
教師の右手が高く掲げられる。
「カウントを開始する。」
「十。」
会場が静まり返る。
「九。」
誰一人、動かない。
「八。」
百二十四人の視線が、一斉にハルへ突き刺さる。
「七。」
美咲は祈るように胸の前で両手を握り締める。
「六。」
黒崎は静かに目を閉じ、開いた。
その瞳には獲物を狙う猛獣のような鋭さが宿る。
「五。」
ハルは校舎への道を見据えた。
頭の中で、昨日から何度も考え続けた逃走経路を思い浮かべる。
「四。」
「三。」
鼓動が速くなる。
それでも恐怖に飲まれはしない。
「二。」
「一。」
神崎の手が勢いよく振り下ろされた。
「――ゼロ!」
カァァァァァン!!
開始を告げる鐘が競技場中へ響き渡る。
次の瞬間――。
ハルは地面を蹴り、一目散に校舎へ駆け出した。
そして、百二十四人の能力者たちも一斉に走り出す。
怒号と足音が大地を震わせた。
「行けぇぇぇ!!」
「囲め!」
「逃がすな!」
先頭を走る黒崎が静かに前を見据える。
その背後から、生徒たちの雄叫びが重なった。
「――捕まえろーー!!」




