第51話 レンの作戦
――地上、三十一日目。第三試合。
控室の床に、布が一枚広げてあった。
その上に、石田レンは自分の中身を並べている。
杭が六本。
糸が三巻き。
油の小瓶が四本。
火打ちの道具が一組。
細長く裂いた布が、束で二つ。
誰も、何も言わなかった。
〇勝二敗。
その数字が、部屋の空気を全部押さえ込んでいる。
壁際でカエデが目を閉じている。
包帯の腕を、膝の上へ投げ出したままだ。
その隣で、結が菓子の袋を持ったまま一度も口をつけていない。
最初に声を出したのは、レンだった。
「なあ。」
杭を数えながら言う。
「これで俺が負けたら、終わりか。」
誰も答えない。
「終わりだな。」
自分で答えて、笑った。
「笑うとこかよ、それ。」
カエデが目を開ける。
「笑うとこだろ。」
レンは杭を布へ包み始めた。
「この面子で、一番弱ぇのが俺だ。」
「殴って強い奴でもねぇ。」
「速い奴でもねぇ。」
包みを結ぶ。
「ただの物持ちだ。」
「レン。」
ハルが遮った。
「ああ。」
「勝てる。」
レンの手が止まる。
「……根拠は。」
「ない。」
ハルは即答した。
「でも、俺はお前が詰んだところを見たことがない。」
「迷宮でも、順位戦でも、第一試験でも。」
木刀を握り直す。
「お前はいつも、どこかから答えを拾ってきた。」
「今日も、拾ってこい。」
レンは、しばらく黙っていた。
「……買いかぶりだ。」
「否定しないんだな。」
「うるせぇ。」
カエデが立ち上がる。
そして包帯の腕で、レンの背中を押した。
「痛ぇだろ、それ。」
「痛ぇよ。」
「なら押すな。」
「うるせぇ。」
もう一度、押した。
「行ってこい。」
扉の前で、結が呼び止める。
「レン。」
「なんだ。」
「私さ。」
結は菓子の袋を握ったまま言った。
「勝ってきてって、言ったことないんだよね。」
「知ってる。」
「今日は言う。」
いつもの笑い方をしなかった。
「――勝ってきて。」
レンは、答えるまでに少し時間がかかった。
「……重ぇな、それ。」
「うん。」
「持ってくよ。」
壁際から、低い声が飛ぶ。
「石田。」
「なんだ、風間。」
「勝て。」
「以上か。」
「以上だ。」
そして、床に座ったままの白夜が顔を上げた。
「……石田。」
「白夜まで珍しいな。」
「何を持ってきた。」
「布と、糸と、杭と、油だ。」
「水を使う相手にか。」
「そうだ。」
白夜は、少しだけ間を置いた。
「――足りるのか。」
レンは答えなかった。
扉に手をかける。
「足りるかどうかは、向こうで決める。」
同じ時刻、闘技場の反対側。
星ヶ丘学園の控室で、黒崎仁が壁にもたれていた。
「二勝〇敗だ。」
腕を組んだまま、六人へ言う。
「悪くない。」
「だが、勘違いするな。」
黒崎の声は、褒める時も叱る時も同じ高さだった。
「これは、勝って当然の試合だ。」
「相手は収容者だと、外はそう見ている。」
「一敗すれば、その一敗だけが残る。」
「六勝しても、記事にはならない。」
「五勝一敗なら、一敗が見出しになる。」
「学園が三十年守ってきた記録は、そういう性質のものだ。」
そこで一度、言葉を切った。
「――守る価値があるかどうかは、俺に聞くな。」
「俺も知らん。」
壁際で、桐生陽介が笑った。
肋を押さえたままだ。
「……相変わらずだな、あんた。」
「何がだ。」
「正しいことしか言わねぇくせに。」
「一回も、嬉しそうじゃねぇ。」
黒崎は答えなかった。
代わりに、部屋の隅を見る。
「雨宮。」
「はい。」
雨宮雫が立ち上がる。
「石田に、一度負けてるな。」
「負けた。」
「勝てるか。」
「……分かんない。」
「そうか。」
黒崎は壁から背を離した。
「なら、見てこい。」
「お前には、それができる。」
雫は頭を下げた。
その手には、木刀がなかった。
闘技場の床は、まだ乾いていなかった。
如月冴が撒いた氷が解けて、薄い水の膜が張っている。
排水は、追いついていない。
白い水蒸気が、まだ場内に漂っていた。
天井は、閉じている。
解説席の声が、場内へ流れた。
「これは雨宮選手に有利ですね。」
「水属性にとって、この床は理想的です。」
「石田選手には、厳しい条件かと。」
レンは壁沿いに歩いて、円の中へ入った。
靴の裏が、水を踏む音を立てる。
(……最悪だ。)
それが、最初の感想だった。
観客席から、声が降ってくる。
「今度は動けよ!」
「さっきみたいなのはやめろよな!」
「金返せは二回言わせんな!」
前の試合が退屈だったせいで、二万人が苛立っている。
レンは、それを聞き流した。
反対側から、雨宮雫が歩いてくる。
礼をする。
「……あれ。」
レンが眉を寄せた。
「木刀は。」
「置いてきました。」
「……いいのか。」
「はい。」
雫は、両手を軽く広げてみせた。
「使い慣れてないので。」
「持ってても、邪魔になるだけです。」
「私、水しか使えないので。」
それだけだった。
誇りでも、決意でもない。
ただの申告だった。
レンは、答えなかった。
両手をポケットへ入れたまま、彼女を見ている。
その目が、一度だけ動いた。
「……そうかよ。」
それが、返事の全部だった。
「あと。」
雫が続ける。
「今日は、喋りません。」
「さっき喋ったろ。」
「これで最後です。」
「なんでだ。」
「レンさんは、人で勝つ人じゃないので。」
彼女は、足元の水を指した。
「場所で勝つ人です。」
「だから今日は、ずっとここを見ます。」
そして、本当に顔を上げなくなった。
ブザーが鳴った。
最初の一撃は、下から来た。
足元の水膜が、一瞬で立ち上がる。
薄い刃だった。
レンは短刀で受けた。
――弾かれた。
水に、鋼が弾かれた。
手首が痺れる。
「……硬ぇな。」
「硬さは、変えられるので。」
雫は床を見たまま答えた。
喋らないと言ったのは、彼女の方だった。
それを守れなかったことに、彼女自身が少しだけ驚いた顔をする。
二撃目。
刃が、短刀の腹を撫でた。
金属が、音を立てて変色していく。
錆びるのではない。
溶けていた。
「――塩か。」
三撃目が、肩の傷へ入った。
「――っ!」
塩が、傷の奥へ噛みついた。
視界が白く飛ぶ。
膝が落ちた。
観客席がどよめく。
「うわ、今の効いたぞ。」
「地下の奴、動けてねぇ。」
四撃目が来る。
もう、受ける物がない。
短刀は半分溶けて、握りだけになっていた。
レンはそれを捨てた。
そして、掌を前へ出す。
「――収納。」
水の刃が、手のひらへ触れた。
空間が揺らぐ。
光が漏れて、消えた。
斬られなかった。
刃が、丸ごと無くなっていた。
「……え。」
雫が、初めて足を止めた。
観客席が沸く。
「消した!」
「今の、何だ!?」
レンは息を吐いた。
(――使える。)
だが、五撃目が答えを出した。
面で来た。
水の膜が、横一線に薄く広がって走る。
レンの掌が触れたのは、その中央だけだった。
両手の幅。
それだけしか、しまえない。
残りが全部、身体へ入った。
肋が鳴る。
吹き飛んで、壁際まで転がった。
「……なるほどな。」
口の中が、鉄の味になっていた。
(盾は盾だ。)
(掌の大きさの盾だ。)
そこから、レンは逃げ続けた。
転がる。
壁際まで這う。
立ち上がる前に、次が来る。
また転がる。
観客席の声が、遠くから降ってくる。
「何やってんだ!」
「戦えよ!」
「みっともねぇぞ!」
「一回くらい前に出ろよ!」
三階の客が、腰を浮かせて叫んでいた。
二列目の男が、隣の女へ言う。
「さっきの子とえらい違いだな。」
「腕焼いてでも突っ込んでった子と。」
「……あの人、逃げてるだけだね。」
「そりゃ逃げるだろ。」
「勝てるわけねぇもん。」
レンは、聞いていなかった。
息が上がっている。
右手の感覚が、半分ない。
それでも、頭だけは止めなかった。
通路の入口では、カエデが手すりを掴んでいた。
包帯の腕が、また滲み始めている。
「……なんで避けねぇんだ、あいつ。」
「分からない。」
ハルは、そう答えるしかなかった。
「いつもなら、当たる前に下がる。」
「分かってる。」
「じゃあ何で――」
「分からないって言ってるだろ。」
声が、思っていたより強く出た。
カエデが黙る。
ハルは、自分の掌を見た。
勝てる、と言った。
根拠はないと言って、それでも言った。
その口で送り出した相手が、円の中で転がされている。
結が、二人の少し後ろに立っていた。
菓子の袋は、控室へ置いてきていた。
両手で手すりを掴んだまま、彼女は一言も喋らない。
試合が始まってから、ずっとレンの手元だけを見ている。
(……何、してるの。)
(あんた、そういう戦い方する人じゃないでしょ。)
答えは、まだ見えなかった。
(正面は死ぬ。)
(刃が通らない。硬度をこっちが上回れない。)
(金属は溶ける。出した端から食われる。)
(掌でしまえるのは、両手の幅だけだ。)
(距離を取っても、水は床を伝って追ってくる。)
水の球が来た。
落ちる速度が、水ではなかった。
避けた場所の床が、陥没する。
(重さも変えられる。)
次は、糸のように細く伸びた水が来た。
鞭のようにしなって、背中を裂く。
その次は、霧だった。
顔の周りにだけ張り付いて、息ができなくなる。
振り払うと、今度は足元が泥になった。
抜けない。
膝まで沈んだところを、刃が薙いだ。
腿が裂ける。
(――何でもできるのか、こいつは。)
硬さ。
重さ。
粘り。
塩。
形。
同じ能力から、五つ違うものが出てきている。
(水ならなんでもできる。)
(――それが、こいつの能力だ。)
泥の中で、レンは自分の手を見た。
三年間、この手で用意してきたものが、一つも刺さっていない。
(――詰んでる。)
本当に、そう思った。
頭の中を、一つだけ通過していく。
(一番早いのは、こいつごとしまうことだ。)
(――生き物は、入らねぇ。)
それも、三年前に確かめた。
泥から足を引き抜きながら、レンは次を探した。
そして、開始前の会話が戻ってきた。
――木刀は、置いてきました。
――私、水しか使えないので。
レンの足が、一瞬だけ止まった。
(……待て。)
(こいつ、水を捨てたら何も残らねぇ。)
(殴らない。)
(斬らない。)
(掴まない。)
(道具も、持ってきてない。)
(――全国中継で、そう言った。)
勝利条件が、一行になった。
(水を、消す。)
次の刃を、掌でしまう。
そのまま横へ跳んで、レンは床の端を見た。
(水は、どこから来てる。)
床の膜。
如月冴が撒いた氷が、解けたものだ。
(なんで排水されてない。)
排水口の格子が、歪んでいる。
その縁が、黒い。
(――炎だ。)
桐生陽介の炎域。
闘技場一面を焼いた時、排水口の周りも焼けた。
金属が熱で歪み、煤が目を塞いだ。
(つまり、この水は自然には引かない。)
(放っておけば、ずっとある。)
(――なら、俺が持っていくしかない。)
三番手を選んだ理由が、今になって自分の手へ戻ってきた。
二試合分を、通路の入口から見てから戦える席だ。
そのために取った席だった。
あの時は、ただの情報だった。
誰がどう戦って、どう負けたか。
勝つための材料になるとは、思っていなかった。
炎で焼かれた排水口。
氷が解けて残った水。
二人の負けが、そのまま床に残っている。
(……カエデ。)
(結。)
(お前らが残したもんだ。)
(借りるぞ。)
レンは床へ掌を押し付けた。
空間が揺らぐ。
――何も起きない。
(固定されてる。)
(膜も薄すぎて、掴めねぇ。)
水の槍が、耳のすぐ横を抜けた。
髪が数本、持っていかれる。
(……吸わせるか。)
布。
(撒く。吸わせる。回収する。)
(回収の手は――糸だ。)
次の壁が、すぐに来た。
(収納は、手元にしか出せねぇ。)
(撒くには、そこまで走るしかねぇ。)
息を吐く。
(――逃げながら撒く。)
そして、もう一つ。
(床は取れる。空気中の水蒸気は、取れない。)
(こいつは湿度からも集めてる。)
(閉じた場所で、湿度を落とす方法は。)
レンは、天井を見上げた。
照明の梁。
その中央に、二本の線が走っている。
左右へ割れる構造だった。
(――開ける。)
(条件は。)
試合前の規定読み上げ。
誰も聞いていなかった項目が、頭の中で再生された。
――場内煙濃度が基準値を超過した場合、天蓋を開放する。
(煙。)
(油はある。布もある。)
(火は――中で消えねぇ。)
そこまで組み上げて、レンは最後の計算に入った。
(床の水を、全部だ。)
(膜の厚さは、一ミリもない。)
(円の直径が三十。面積で、七百。)
(――四百リットル前後。)
収納に入るのは、五百まで。
ドラム缶で二本半だ。
レンは、中身を思い出した。
三年分が、そこに入っている。
道具だけではない。
毛布。
着替え。
保存食。
空になった菓子の袋。
地下で支給されて、捨てられなかったものが、全部だ。
部屋を持たない男の、部屋だった。
空きは、二割もない。
(……入らねぇな。)
答えは、すぐに出た。
(何が要る。)
考える時間は、三秒だった。
(布。)
(糸。)
(杭。)
(油。)
(火。)
(――五つだ。)
(五つで足りる。)
それ以外を、数え直す。
(水筒は、捨てられねぇ。)
(捨てたら、こいつの弾になる。)
小さい。
残す。
(毛布。着替え。保存食。)
――要らない。
レンは、走りながら収納へ手を突っ込んだ。
そして、出しては床へ放った。
毛布が水を吸って、重くなる。
着替えが塩水に食われて、色を変えていく。
保存食の袋が、闘技場の隅まで転がっていった。
「……何してんだ、あいつ。」
「壊れたか?」
「荷物ぶちまけてるぞ。」
観客席が、笑い始めた。
解説席の声が、その笑いに乗る。
「石田選手、これは……。」
「混乱しているのでしょうか。」
「収納能力の中身を放出しています。」
「意図が読めませんね。」
「体力の消耗も限界かと思われます。」
通路の入口で、カエデが手すりを殴った。
「あいつの荷物だぞ、あれ!」
「カエデ。」
「三年分だぞ!」
結が、初めて口を開いた。
「……知ってる。」
「じゃあ何で――」
「知ってるから、黙ってるの。」
彼女の声は、震えていなかった。
「あの人が捨てるなら、要らないものなんだよ。」
「それだけ。」
最後に、小瓶が二本、掌に残った。
回復薬だった。
三年、切らしたことがない。
迷宮でも、順位戦でも、これがあったから帰ってこられた。
自分のために使ったことは、一度もない。
いつも、誰かへ投げるために持っていた。
容積にして、〇・二リットル。
――〇・二あれば、床の一部が入る。
レンは、一秒だけ迷った。
その一秒で、腕を水の刃が掠めた。
(……要らねぇ。)
落とした。
二本とも、塩水が飲み込んだ。
瓶の中身が水へ混ざって、色が薄く広がっていく。
それすらも、彼は掌で拾って収納した。
そこからが、本番だった。
レンは逃げながら、収納から布を出して撒いていく。
細長く裂いた布が、水の上へ落ちる。
「足場か?」
「濡れた床は滑るからな。」
だが布は、すぐに水を吸って沈んだ。
「意味ねぇだろ、あれ。」
次に、杭を六本、円周へ打ち込む。
糸を張った。
雫が水の刃で、それを全部切った。
「……同じ手ですね。」
彼女は、それだけ言った。
喋らないと言ったのを、また破っている。
自分でも気付いていない様子だった。
「悪いか。」
「悪くはないです。」
雫は、切れた糸の断面を確認した。
「もう、切りましたけど。」
レンは答えず、切られた糸を巻き取った。
その先に、水を吸った布がぶら下がっている。
彼はそれを収納へ戻した。
空間が揺らぎ、光が漏れて、消えた。
「片付けてんのか、あいつ。」
「几帳面な奴だな。」
雫は、その光を見ていた。
試合が始まってから、もう四十回近く見ている。
出す時も、しまう時も、同じ光だった。
彼女はそれを、全部「出している」と読んだ。
(……多い。)
雫は、そう思っていた。
あの人は、物を出しすぎている。
布。杭。糸。毛布。着替え。
一つも、こちらへ届いていない。
全部、床へ落ちて終わっている。
(焦ってるのかな。)
そう考えて、すぐに打ち消した。
石田レンは、焦る人ではない。
三か月前の合同調整で、彼は一分間動かなかった。
こちらが痺れを切らすのを、ただ待っていた。
(じゃあ、なんで。)
彼女は、床を見る。
水はある。
自分の足元にも、彼の足元にも、円の端にも。
撃てば刃になり、集めれば槍になる。
条件は、何も変わっていない。
(――変わってない。)
そう確認して、雫は次の一撃を放った。
彼女は正しかった。
その時点では、まだ。
六度目に布を回収しようとした時、それは起きた。
レンは収納へ手を突っ込んだ。
油の瓶を探す。
中に、仕切りはない。
順番もない。
三年分が、無造作に詰まっているだけだ。
――半分を放り出したせいで、配置が全部ずれていた。
「これじゃない。」
糸。
「これでもない。」
火打ち。
その間に、水の槍が来た。
避けきれなかった。
脇腹を、持っていかれる。
血が、床の水へ広がった。
膝が落ちる。
視界が、一度白くなった。
音が、遠のいた。
三年間、この収納の中身を頭で並べ直してきた。
右の奥に糸。
手前に杭。
瓶は左の下。
目を閉じても取り出せるようにしてあった。
その配置を、さっき自分の手で壊したところだった。
(……間抜けが。)
自分を罵る余裕だけは、まだあった。
「……レンさん。」
雫の声が、遠くから届いた。
彼女は、追撃をしなかった。
「やめますか。」
「棄権すれば、そこで終わります。」
「……いや。」
レンは、床を掴んだ。
掌に、水が触れている。
空間が揺らいで、それが消えた。
(まだ、ある。)
(まだ足りねぇ。)
立ち上がった。
立ち上がる時に、床へ広がった自分の血を掌でなぞる。
空間が揺らぐ。
血が、消えた。
「……何を。」
雫が、初めて眉を寄せた。
「血も水だ。」
レンは、掌を握った。
「お前に、一滴もやらねぇよ。」
雫は、その言葉を頭の中で二度繰り返した。
意味は分かる。
自分の血を、相手の弾にさせない。
徹底している、と思った。
思っただけで、そこから先へは進まなかった。
彼女の視線は、床へ戻っている。
――この時、彼女は正解の五センチ横を見ていた。
東側の観客席で、白鳥澪が身を乗り出していた。
両手を手すりへ置いたまま、動かない。
三か月、痛みを見て暮らしてきた目だった。
人が痛みをこらえる時、身体のどこが先に動くかを知っている。
(……違う。)
澪は、そう思った。
(石田さんは、避けようとしてない。)
避けられなくて当たっているのではない。
当たる場所を、選んでいる。
水が来るたび、彼の掌が先に前へ出ている。
顔でも、胴でもなく、掌が。
(――手で、受けてる。)
わざと。
毎回。
澪には、その理由が分からなかった。
分からなかったが、一つだけ確信した。
(あの人、まだ負けてない。)
隣で、城崎硝が舌打ちをする。
「みっともねぇ試合だな。」
「……そうでしょうか。」
「あ?」
「石田さんは、痛がってません。」
「あんだけ食らって痛くねぇわけあるか。」
「痛いとは思います。」
澪は、円の中を見たまま答えた。
「でも、嫌がってません。」
城崎は、何か言い返そうとして、やめた。
学園側の観客席で、如月冴が端末を打つ手を止めていた。
「……計っています。」
「何を。」
隣の桐生が覗き込む。
「石田選手です。」
「あの人、さっきから懐中時計を出しています。」
「制限時間だろ。」
「違います。」
如月は画面を見たまま言った。
「制限時間なら、一度確認すれば足ります。」
「あの人は、七回確認しました。」
「全部、雨宮さんが水を撃った直後です。」
「……それが何だ。」
「雨宮さんが、次の水を集めるまでの間隔です。」
「四秒、四秒、五秒、四秒。」
「ずっと一定です。」
桐生が眉を寄せた。
「それが分かって、何の得がある。」
「――分かりません。」
如月は、初めて正直にそう言った。
「あの人の行動には、無駄が九つあります。」
「布。杭。糸。荷物。回復薬。」
指を折っていく。
「あの人は、無駄をしません。」
「つまり、私の記録の方が間違っています。」
桐生は、何も言い返せなかった。
地下側の通路の入口でも、風間嵐が眉を寄せていた。
「……妙だな。」
「何が。」
ハルが振り返る。
「あいつは、当たる前に下がる男だ。」
「今日は、当たってから下がってる。」
風間はそれ以上言わなかった。
答えが出ないことを、口にしない男だった。
レンが、油の瓶をようやく見つけた。
布の束に染み込ませる。
そして――収納へ入れた。
雫が身構える。
次に出てきた布の束は、出てきた瞬間から燃えていた。
「……え。」
彼女の足が止まる。
「いつ、火を点けたんですか。」
「入れる前だ。」
レンはそれを、床へ放った。
「中じゃ、火は消えねぇんだよ。」
炎ではなく、煙が上がった。
油を吸った布が、大量に燻る。
白い煙が、闘技場の天井へ向かって膨らんでいく。
「目くらましか。」
「水属性相手に、それは意味ねぇだろ。」
雫も、同じ判断をした。
水蒸気を集めて、煙を押し流そうとする。
その動きが、彼女の水をさらに減らしている。
(――使え。)
レンは煙の向こうで、そう思っていた。
(もっと使え。)
場内アナウンスが、事務的に入った。
「――場内煙濃度が基準値を超過しました。」
「規定に基づき、天蓋を開放します。」
「両選手は、試合を継続してください。」
低い駆動音が響く。
照明の梁が、左右へ流れていった。
天井が、中央から割れていく。
午後の日が、真上から入ってきた。
濡れた床が、一斉に光を跳ね返す。
闘技場全体が、白く灼けた。
「――眩し。」
雫が目を細める。
レンも、片手で顔を覆った。
条件は、五分だった。
観客席が沸く。
誰もが、光の方を見ていた。
開いた天蓋から、乾いた外気が流れ込んでくる。
場内に残っていた水蒸気が、天井の穴へ吸い上げられていく。
湿度計が、二十七から十九へ落ちた。
誰も、その数字を見ていなかった。
煙が晴れた。
雫が構え直す。
そして、いつも通り床へ手を伸ばした。
水が、応えない。
布が、一枚もない。
水膜が、どこにもない。
乾いた床が、日を跳ね返しているだけだった。
「……え。」
雫は、自分の手を見た。
それから、床を見た。
ずっと見ていた床だった。
一秒も、目を離さなかった床だった。
――四十回、光を見た。
全部、出していると思っていた。
「……いつ。」
煙の向こうで、レンが立ち上がる。
全身が濡れて、傷だらけで、片方の目が開いていない。
肩と脇腹と腿から、血が落ち続けている。
その足元に、彼の三年分が散らばっていた。
毛布も、着替えも、小瓶も、塩水に食われている。
それでも、立っていた。
その顔は、笑っていた。
二万人が、その笑いを見た。
誰も、意味が分からなかった。
「お前、床に置かれる物ばっかり見てただろ。」
彼は、掌を開いてみせる。
そこには、糸が一巻きだけ残っていた。
「――持っていかれる物は、数えなかったな。」
観客席の音が、初めて途切れた。
通路の入口で、ハルが手すりから手を離す。
(……拾ったのか。)
(あんな場所で。)
東側の席で、白鳥澪が立ち上がっていた。
学園側の席では、如月冴が端末を開いていた。
打つ手が、動かない。
彼女の記録は、まだ一行も埋まっていなかった。
闘技場の床は、乾いている。
湿度、十九。
雨宮雫の周りに、水は一滴も残っていなかった。




