第52話 初勝利
――地上、三十一日目。第三試合、決着。
闘技場が、乾いていた。
天蓋から入る午後の日が、床の継ぎ目まで白く照らしている。
水の膜は、どこにもない。
水蒸気も、天井の穴へ吸い上げられて消えた。
雨宮雫は、その真ん中に立っていた。
手を、下ろしたまま動かない。
二万人が、まだ何が起きたのか分かっていなかった。
「……なんだ、あの子。」
「動かねぇぞ。」
「またこれかよ。」
野次が戻り始める。
その中で、雫だけが理解していた。
(ない。)
床にも。
空気にも。
壁の際にも。
いつもなら、手を伸ばせば必ずそこにあるものが、一つもない。
三か月前の合同調整で、彼女は石田レンに負けた。
あの時は、人を見て負けた。
今日は、場所を見ていた。
一秒も、目を離さなかった。
それなのに、場所そのものが無くなっている。
「……いつ。」
もう一度、同じ言葉が出た。
レンは、円の反対側で立っていた。
肩と脇腹と腿から、血が落ち続けている。
その足元に、彼の三年分が散らばっている。
「四十回だ。」
彼は、それだけ言った。
「え。」
「お前、俺の手を四十回見た。」
「光が出るたびに、見た。」
レンは掌を持ち上げてみせる。
空間が揺らいで、糸の束が現れ、また消えた。
同じ光が、二度出た。
「今の、どっちだ。」
雫が、息を呑む。
「出したのと、しまったの。」
「――どっちか分かったか。」
答えられなかった。
「分かんねぇんだよ。」
レンは掌を下ろす。
「出す時と、しまう時。」
「光が同じなんだ、これ。」
「三年間、誰にも言わなかった。」
雫は、自分の掌を見た。
そして、動いた。
ゆっくりと膝をつき、床へ手を当てる。
乾いた石が、掌の熱を吸っていく。
(――ある。)
彼女は、指先へ意識を集めた。
自分の額から、汗が伝っている。
首筋にも。
背中にも。
それを、一滴ずつ引き寄せる。
空気の中に残った、わずかな湿り気も。
そして――
彼女の視線が、レンへ向いた。
制服が、血で濡れている。
「……すみません。」
「何がだ。」
「使わせてもらいます。」
レンの服から、赤い滴が浮き上がった。
空中で、透明なものと混ざっていく。
全部を集めても、湯呑み一杯ほどだった。
「……そこまでやるか。」
「はい。」
雫は立ち上がった。
もう、床は見ていない。
真っ直ぐ、レンを見ている。
「私、水しか使えないので。」
通路の入口で、風間が目を細めた。
「――減った量が、そのまま質になったな。」
「どういうことだ。」
ハルが聞く。
「あの女は、水の硬さを変えられる。」
「量が多い時は、面で潰せた。」
「今は、一杯分しかない。」
風間は円の中を見たまま言った。
「一杯分を、極限まで硬くしてくる。」
「――針だ。」
その通りだった。
雫の掌の上で、水が形を変えていく。
球から、棒へ。
棒から、細く長い一本へ。
最後には、指ほどの太さもなかった。
光を通さない。
鋼の色をしていた。
「……綺麗だな、あれ。」
カエデが呟いた。
「見惚れてる場合か。」
「見惚れるだろ。」
彼女は手すりを握り直した。
「一番強いもんを、一発だけ作ったんだ。」
「あれ、私と同じだ。」
レンは、動かなかった。
右手をポケットへ入れたまま、彼女を見ている。
(あと、一回。)
頭の中で、そう数えていた。
四秒に一度。
彼女が水を集める間隔は、試合中ずっと一定だった。
湿度十九。
この乾き方なら、次に集められる量はもっと少ない。
(一杯で、終わりだ。)
(次はない。)
そして、それは彼女も分かっているはずだった。
実際、雫は数えていた。
湯呑み一杯。
二百ミリリットルもない。
この量で、彼女ができることを全部並べてみる。
(面で潰す――足りない。)
(鎖にして絡める――届かない。)
(霧にして呼吸を止める――薄すぎる。)
(重くして叩く――重さが出ない。)
残ったのは、一つだけだった。
(硬くする。)
量が減った分を、硬さで埋める。
彼女の能力で、最後まで残る使い道はそれだけだ。
そして、それを一度使えば終わる。
外れれば、水は床へ落ちる。
落ちた水を集め直すには、四秒。
四秒あれば、石田レンは何でもできる。
(――攻めれば、減る。)
(守っても、減る。)
(待てば、乾く。)
どこにも逃げ場がない。
三分前まで、自分が相手を押し込んでいた形だった。
同じ形が、そっくり裏返って自分の側へ来ている。
(……ああ。)
雫は、そこで初めて理解した。
(この人、最初からこの絵を描いてたんだ。)
違う。
描いていたのではない。
逃げながら、床を転がりながら、血を流しながら――その場で描いた。
それを十分でやった人間が、目の前に立っている。
(――強くはない、のに。)
レンは、少しだけ笑った。
笑ったせいで、脇腹の傷が開いた。
「……悪ぃな。」
「何がですか。」
「性格が悪ぃんだよ、俺の勝ち方は。」
「知ってます。」
雫は、針を構えた。
「三か月前も、そうでした。」
「だな。」
「でも。」
彼女は、一度だけ息を吸った。
「今日は、卑怯だと思いませんでした。」
「……そうかよ。」
「はい。」
そして、走った。
速かった。
水を身体の周りに使わない分、彼女は軽い。
剣の構えではなかった。
ただ、腕を前へ突き出しただけの、走り込みだった。
三か月、木刀を握ってきた人間の動きではない。
水しか使ってこなかった人間の、それだった。
距離が、五メートル。
その瞬間、彼女の射程に入った。
だが、引き寄せる水がない。
手に持っている一本が、全部だ。
四メートル。
三メートル。
レンは、動かない。
右手をポケットへ入れたまま、真正面に立っている。
二メートル。
「――避けろ、あいつ!」
カエデが叫んだ。
「レン!」
ハルの声も飛ぶ。
届かない。
通路の入口で、結が両手を口へ当てた。
息を吸って、吐けなくなっていた。
一メートル。
レンは、右手をポケットから出した。
そして――前へ、掌を出した。
刃が、掌を貫いた。
手の甲から、先端が出ている。
音は、しなかった。
骨と骨の間を、正確に抜けていた。
「……あ。」
雫が、初めて声を漏らす。
それは勝利の声ではなかった。
彼女は、その一撃で相手を止めるつもりだった。
肩を狙っていた。
貫くつもりではなかった。
止まらなかったのは、レンの方だ。
彼は、自分から掌を差し出していた。
刃の位置へ、手を合わせにいっていた。
――触るために。
「あんた……。」
雫の声が、震えた。
「わざと。」
「悪ぃな。」
レンは、掌を握った。
貫かれた手で、貫いているものを掴む。
指が、水の刃を包み込んだ。
「――収納。」
空間が揺らぐ。
光が漏れた。
掌の中から、水が消えた。
残ったのは、穴だけだった。
血が、そこから落ちる。
雫の手には、何も残っていない。
「……え。」
彼女は、自分の指先を見た。
開いて、閉じて、また開く。
何度やっても、何も出てこない。
床にも。
空気にも。
自分の中にも。
「……え。」
同じ言葉が、三度目だった。
レンは、穴の空いた手を下ろした。
そして、収納から杭を一本取り出す。
その先を、彼女の喉元へ添えた。
「木刀、置いてきたんだったな。」
「……はい。」
「じゃあ、終わりだ。」
雫は、しばらく動かなかった。
それから、両手を上げた。
「――そこまで。」
九条の声が響く。
「勝者、石田レン。」
闘技場は、無音だった。
二万人が、誰も声を出さない。
誰も、何が起きたのか説明できなかった。
解説席が、遅れて口を開く。
「……勝ちましたね。」
「はい。」
「どうやって、でしょうか。」
「……申し訳ありません。」
「私にも、分かりません。」
その沈黙の中で、レンは杭を下ろした。
そして、円の中央まで歩いていく。
足取りが、まっすぐではない。
中央で止まり、彼は右手を開いた。
穴の空いた掌を、上に向けて。
「――収納。」
水が、出てきた。
最初は、こぼれる程度だった。
次の瞬間、それが滝になった。
止まらない。
乾いていた床が、みるみる濡れていく。
継ぎ目を伝い、壁際まで広がる。
水蒸気が立ち上り、闘技場の空気がまた重くなる。
四百リットル。
彼が試合中に、一滴ずつ持っていったものが、全部戻ってきた。
二万人が、それを見ていた。
誰も、声を出さない。
片手から出てくる水が、闘技場の床を一面に覆っていく。
十秒。
二十秒。
まだ出ている。
三階の客が、腰を浮かせたまま固まっていた。
「……嘘だろ。」
「あいつ。」
「あいつ、ずっと――」
言葉が、途中で止まった。
二列目の男が、隣の女の袖を掴んだ。
「なあ。」
「うん。」
「あいつ、荷物ぶちまけてたよな。」
「うん。」
「毛布とか、着替えとか。」
「うん。」
「――場所、空けてたのか。」
女は、答えなかった。
答えられなかった。
誰かが、それを口にした。
「盗んでたのか。」
「試合中、ずっと。」
「あの光。」
「毎回、しまってたのかよ。」
「十分間、全部か。」
「逃げてたんじゃねぇ。」
解説席の声が裏返る。
「石田選手の収納能力です!」
「布に吸わせて、糸で回収して、収納していたんです!」
「あの荷物も、容量を空けるためです!」
「煙も、天蓋を開けるためです!」
「湿度を落として、空気中の水分まで――」
言い終わる前に、闘技場が揺れた。
どよめきだった。
やがて、その中から音が生まれる。
――ぱち。
一つ。
二つ。
十。
百。
数えられなくなった。
拍手が、闘技場の半分を超えた。
この日、初めてだった。
「地下の奴が勝ったぞ!」
「今の、頭よすぎるだろ!」
「十分間ずっと逃げてたんじゃねぇ!」
「――集めてたんだ!」
罵声を上げていた者たちが、そのまま拍手をしている。
同じ口だった。
その中で、白鳥澪が両手を上げて叫んでいた。
声は、二万人分の音に飲まれて届かない。
それでも、叫んでいた。
(分かってた。)
(あの人、手で受けてた。)
(毎回、毎回、手で受けてた。)
澪は、自分の掌を見た。
人の痛みを引き取る手だ。
石田レンは、人の水を引き取る手で勝った。
似ている、と思った。
似ていて、まるで違うとも思った。
(私は、痛みを引き取ることしかできない。)
(あの人は、引き取ったものを、使った。)
隣の城崎は、腕を組んだまま円の中を見ている。
「……ちっ。」
舌打ちを一つ。
「気に入らねぇ。」
「そうですか。」
「あんな勝ち方、褒められるもんじゃねぇだろ。」
「はい。」
「十分間、逃げ回ってただけだぞ。」
「はい。」
澪は、否定しなかった。
城崎は、しばらく黙っていた。
それから、片手だけで手を叩いた。
二回だけ叩いて、やめた。
「……何も言うなよ。」
「言いません。」
雫は、戻ってきた水の中に立っていた。
自分の足元へ、それが広がっていく。
三分前まで、彼女のものだった水だ。
しゃがみ込んで、指先を浸けた。
応えた。
当たり前のように、応えた。
「……ありましたね。」
「あったな。」
「ずっと、ここに。」
「ああ。」
「私の、五メートル以内に。」
雫は、水の中から手を上げた。
少しだけ、笑っていた。
「私、ずっと床を見てました。」
「知ってる。」
「置かれる物を、全部数えました。」
「布が二十七枚。杭が六本。糸が三巻き。」
「毛布と、着替えと、保存食と、小瓶が二本。」
彼女は指を折りながら言った。
「全部、覚えてます。」
「大したもんだ。」
「――持っていかれた分は、一度も数えませんでした。」
レンは、答えなかった。
「なんで、避けなかったんですか。」
雫が聞いた。
「触らなきゃ、しまえねぇからだ。」
レンは、穴の空いた掌を見せた。
「収納は、離れた物には届かない。」
「手で触るしかねぇ。」
「だから、当たりに行った。」
「肩も、脇腹も、腿も。」
「全部、そういうことだ。」
雫の顔から、色が引いた。
「……十分間、ずっと?」
「ずっとだ。」
「痛かったですよね。」
「痛ぇよ。」
「なんで、そんな。」
「そうしないと勝てねぇからだ。」
彼は、それ以上説明しなかった。
「これも同じだ。」
穴の空いた掌を、もう一度上げる。
「……そんなの。」
「聞くな。」
彼は、掌を握った。
「聞いたら、俺が卑怯じゃなくなるだろ。」
雫は、しばらくその顔を見ていた。
そして、頭を下げた。
「ありがとうございました。」
「なんで礼を言うんだよ。」
「木刀を置いてきたこと。」
「一度も、笑いませんでしたよね。」
レンは、何も言えなかった。
通路の入口へ戻る途中で、レンの膝が折れた。
そこから先が、動かなかった。
「レン!」
カエデが線を飛び越えそうになる。
「――線の外だ!」
ハルがその腕を掴んだ。
「離せ!」
「あと三歩だ。」
「あいつが、三歩歩けば終わる。」
「待て。」
レンは、床へ手をついた。
息が、浅い。
血が、足元へ溜まっていく。
(……回復薬。)
頭の中で、そう浮かんだ。
(――捨てたな。)
自分で笑って、その拍子に咳が出た。
赤いものが、床へ落ちる。
それでも、彼は立ち上がった。
一歩。
二歩。
三歩目で、通路の中へ入った。
カエデが受け止める。
「馬鹿かお前は!」
「……うるせぇ。」
「なんで薬捨てた!」
「二百ミリリットル、要ったんだよ。」
「意味分かんねぇよ!」
「分からなくていい。」
「分かるように言え!」
カエデの声が、通路に響いた。
包帯の腕で、彼を抱えたままだ。
その腕から、また血が滲んでいる。
「お前、あれ全部――」
「ああ。」
「三年分だぞ。」
「入れ物が要ったんだよ。」
「毛布も、着替えも、要らねぇもんかよ。」
「要らねぇ。」
レンは、即答した。
「要る物は、五つだけだった。」
「布。糸。杭。油。火。」
「それで足りた。」
カエデは、しばらく黙った。
それから、彼の背中を軽く叩いた。
「……そうかよ。」
叩き方が、行きより弱かった。
レンは、カエデの肩へ体重を預けた。
結が、両手で彼の腕を掴んでいる。
試合が始まってから、初めて口を開いた。
「レン。」
「……なんだ。」
「勝ってきたね。」
「言われたからな。」
結の指に、力が入った。
「重かった?」
「重かった。」
レンは、目を閉じたまま言う。
「――でも、置いてこなかった。」
結は、それきり何も言わなかった。
顔だけ、下を向いていた。
ハルが、その隣に立っていた。
「レン。」
「ああ。」
「痛くなかったのか。」
「痛ぇよ。」
即答だった。
「全部痛かった。」
「肩も、脇腹も、腿も、手も。」
彼は、穴の空いた掌を持ち上げた。
「一回残らず痛かった。」
そして、それを握る。
「――だから全部、取っといた。」
ハルは、答えられなかった。
喉の奥が、詰まっていた。
白夜が、壁際から声をかける。
「石田。」
「……なんだ。」
「足りたか。」
レンは、笑った。
「足りた。」
「ぎりぎりな。」
「そうか。」
白夜は、それだけ聞いて目を閉じかけ――やめた。
「石田。」
「まだあんのか。」
「試合前に、俺が何を聞いたか覚えてるか。」
「何を持ってきたか、だろ。」
「そうだ。」
白夜は、天井を見上げた。
天蓋は、まだ開いたままだ。
「布と、糸と、杭と、油。」
「水を使う相手に、水を吸うものと、燃えるものを持ってきた。」
「――その時点で、答えは出ていた。」
カエデが目を丸くする。
「お前、分かってたのか。」
「持ち物を聞いただけだ。」
「聞いて分かるかよ、そんなもん。」
「分かる。」
白夜は、それ以上説明しなかった。
レンが、包帯の手を上げる。
「……なあ。」
「なんだ。」
「なんで黙ってた。」
「言えば、当たった。」
「は?」
「先に言われた策は、当たらない。」
白夜は目を閉じた。
「三年、それを見てきた。」
誰も、その言葉の意味を追わなかった。
風間が、通路の奥から短く言う。
「石田。」
「まだあんのかよ。」
「当たってから下がる意味が、分かった。」
「――遅ぇよ。」
「そうだな。」
風間は、否定しなかった。
「だが、覚えた。」
「次は、俺が使う。」
「使うな。」
レンは、天井を見上げたまま言った。
「痛ぇんだよ、あれ。」
学園側の通路。
雫が戻ってくると、六人が待っていた。
誰も、責めなかった。
最初に口を開いたのは、如月冴だった。
「雨宮さん。」
「……なに。」
「記録を、渡します。」
彼女は端末を差し出した。
画面には、試合開始からの全行動が並んでいる。
その最後の一行だけが、他と違っていた。
――記録者、判断を誤る。
「……これ。」
「私が書きました。」
如月は、端末をしまわなかった。
「私は、あの人の行動を九つの無駄として記録しました。」
「九つとも、無駄ではありませんでした。」
「つまり、私が見たものが間違っていたのではありません。」
「私が、読み方を間違えたんです。」
そして、初めて頭を下げた。
「……申し訳ありません。」
「なんで如月さんが謝るの。」
「あなたに、記録を押し付けなかったからです。」
「試合前、私は渡そうとして、やめました。」
「あなたが要らないと言ったので。」
「――要らないと言われて、引いた私の判断です。」
雫は、少し考えてから答えた。
「私、渡されても読まなかったと思う。」
「……そうですか。」
「うん。」
二人は、そこで黙った。
やがて、如月が端末をもう一度開いた。
「一つ、聞いてもいいですか。」
「どうぞ。」
「あの人の光を、何回見ましたか。」
雫は、天井を見上げて数えた。
「……四十一回。」
「正確ですね。」
「見てたもん。」
「――四十一回のうち、何回が『しまう』でしたか。」
雫は、答えられなかった。
如月は、画面へ数字を打ち込む。
「私は、四十一回全部を『取り出し』として記録しました。」
「あなたも、そうでした。」
「二人とも、同じ間違いをしています。」
そして、端末を閉じた。
「同じ物を見て、同じように読み違えた。」
「――たぶん、私たちは似ているんだと思います。」
「……そうかもね。」
雫は、少しだけ笑った。
「あの人にも、同じこと言われた。」
「何と。」
「よく分かってる、って。」
桐生が壁から背を離す。
「なあ。」
「うん。」
「あいつ、強かったか。」
雫は、しばらく考えてから答えた。
「……強くはない。」
「はっきり言うな。」
「たぶん、私の方が強い。」
彼女は、自分の手を見た。
「でも、勝てなかった。」
「それは、たぶん別のことだと思う。」
黒崎仁は、腕を組んだまま壁にもたれていた。
「黒崎。」
桐生が声をかける。
「一敗だな。」
「そうだな。」
「見出しになるんだろ。」
「なる。」
黒崎は、天井を見上げた。
「明日の朝刊は、この一敗で埋まる。」
「学園の三十年が、今日で終わったと書かれる。」
「……悪ぃかよ。」
「悪くない。」
黒崎は、そこで初めて壁から背を離した。
「終わって困るのは、記録の方だ。」
「人間じゃない。」
それだけ言って、通路の奥へ歩いていく。
その背中を見送りながら、桐生が呟いた。
「……本当に、一回も嬉しそうじゃねぇな、あの人。」
通路の奥で、黒崎は一度だけ足を止めた。
壁際に、朝比奈美咲が立っている。
左肩の包帯は、まだ取れていない。
「――次だ。」
「うん。」
「相手は分かってるな。」
「……分かってる。」
美咲は、それだけ答えた。
黒崎は、その顔を見なかった。
「勝てるか。」
三十分前、彼が雨宮雫へ聞いたのと同じ言葉だった。
だが、返ってきた答えは違った。
「――分かんない。」
「そうか。」
「勝ちたいのかも、分かんない。」
黒崎の足が、そこで止まった。
しばらく、二人とも動かなかった。
「美咲。」
選手を呼ぶ声ではなかった。
「……なに、仁。」
「――今日は、それでいい。」
それだけ言って、彼は歩き去った。
美咲は、壁にもたれたまま自分の左肩へ手を置いた。
八日前、そこを打たれた。
打った男が、次に円の中へ入ってくる。
場内アナウンスが、戦績を読み上げる。
――星ヶ丘学園、二勝一敗。
――地下施設、一勝二敗。
控室に運び込まれたレンは、医療班に囲まれていた。
掌の穴に、包帯が巻かれていく。
「三試合で、三人が担架だ。」
カエデが呆れたように言う。
「担架には乗ってねぇ。」
「乗せようとしたら暴れたんだろ。」
「うるせぇ。」
結が、菓子の袋をレンの膝へ置いた。
「……いつ買ったの、これ。」
「昨日。」
「なんで持ってるの。」
「私、収納ないから。」
「ずっと持ってた。」
レンは、少しだけ笑った。
その笑いで、また咳が出た。
ハルは、扉の方を見ていた。
残り三試合。
次は、自分だ。
四番。
相手の名前は、五日前から分かっている。
――朝比奈美咲。
九年、隣にいた女だ。
八日前、その左肩を木刀で叩き折る勢いで打った女だ。
打った瞬間、自分がすっきりしたことを、まだ抱えたままの女だ。
胸の奥が、また鈍く痛んだ。
いつもの痛みだった。
ハルは木刀を握り直す。
「レン。」
「……ああ。」
「一勝二敗で回してくれって、俺が言ったんじゃないよな。」
「お前が言ったんじゃない。」
レンは、目を閉じたまま答えた。
「俺が言った。」
「言った通りにしたのは、俺だ。」
そして、包帯の巻かれた手を上げる。
「――次は、お前が言え。」
ハルは、その手を見た。
穴の空いた掌に、白い布が巻かれている。
三年分を捨てて、それでも取ってきた一勝だった。
「……勝ってくる。」
声は、思っていたより小さかった。
「聞こえねぇ。」
「――勝ってくる。」
カエデが笑った。
結が頷いた。
風間は何も言わず、白夜は目を閉じたままだった。
扉が開く。
闘技場の音が、流れ込んでくる。
水を張り直した床の上を、二万人分の声が渡っていた。
地下施設、一勝二敗。
残り、三試合。
次は――天城ハル。




