第50話 一番下手な戦い方
――地上、三十一日目。第二試合。
控室の扉が開いた時、最初に入ってきたのは煤の匂いだった。
黒鋼カエデが、自分の足で歩いてくる。
医療班の二人が両側についていたが、支えさせてはいない。
右腕は肘から先が、白い包帯で覆われていた。
左の頬にも、細い火傷の線が走っている。
「座れ。」
レンが椅子を引く。
「いらねぇ。」
「座れ。」
「うるせぇな。」
文句を言いながらも、カエデは壁際へ腰を下ろした。
背中を壁へ預けた瞬間、その肩が落ちる。
立っているだけで限界だったのだと、そこで分かった。
霧島結は、その横を通り過ぎようとして――足を止めた。
「カエデ。」
「……あ?」
「腕、見せて。」
「いい。」
「見せて。」
結は、珍しく引かなかった。
いつもなら、一度断られた時点で笑って引く。
情報は、無理に取るものではない。
取りにいけば、こちらの手が読まれる。
三年間、そうやってきた。
カエデは舌打ちをして、包帯の腕を投げ出すように差し出した。
結は、その上を指先でなぞる。
触れるか触れないかの距離だった。
包帯の下の熱が、指の腹まで伝わってくる。
「……ふうん。」
それだけ言って、手を離した。
「痛い?」
「痛くねぇ。」
「嘘つき。」
「うるせぇ。」
結は笑った。
いつもの顔だった。
自分でも、そう見えているはずだと思った。
「じゃ、行ってくる。」
「おう。」
扉へ向かう背中に、レンが声を掛ける。
「結。」
「なに?」
「――勝ってくる、とは言わないんだな。」
結の足が、一瞬だけ止まった。
振り返って、肩をすくめる。
「言わないよ。」
「なんでだ。」
「言ったことないもん。」
それだけ答えて、扉を出た。
通路には、闘技場の音がそのまま流れ込んでくる。
二万人分のざわめき。
その中を歩きながら、結は自分の言葉を反芻していた。
(言ったことない。)
本当だった。
勝つと口にすれば、負けた時に、その言葉が残る。
残った言葉は、必ず誰かに拾われる。
拾われたものは、いつか自分へ返ってくる。
最初から言わなければ、何も残らない。
三年間、そうやって生きてきた。
――いや。
三年より、ずっと前からだ。
闘技場の光は、通路より白かった。
結が円の中へ足を踏み入れると、上から声が降ってくる。
罵声は、まだ残っていた。
だが、明らかに薄い。
直前の試合が、何かを削っていた。
その代わりに、別の声が混ざっている。
「……小さくね?」
「あの子が二位だってよ。」
「弱そうだけど。」
「今の試合の後だろ。落差がすげぇな。」
結は歩調を変えなかった。
(うん。)
(そう思っててくれた方が、やりやすい。)
侮られることには慣れている。
むしろ、それが彼女の戦い方の土台だった。
背が低い。
力がない。
声が高い。
全部、相手の警戒を下げる材料になる。
三年間、その材料を一つも捨てなかった。
反対側の通路から、如月冴が出てくる。
歩き方に、一切の乱れがない。
右手に、銀縁の端末を持ったままだった。
「……それ。」
結が指を差す。
「試合中に持ってていいの?」
「規定に、禁止事項はありません。」
「確認したの?」
「三度。」
「……ほんとに面倒くさい人だなあ。」
結は口を尖らせた。
如月は表情を変えない。
そして、端末を開いた。
「霧島結。」
読み上げる声だった。
「能力、糸の生成および操作。」
「材質不明。強度は鋼線に相当。」
「同時展開の最大数、七本。」
「うち一本は、常に予備として保持。」
「実質、六本。」
「拘束に必要な最低本数は、四本。」
結の指が、止まった。
「――間違いありませんか。」
「……なんで。」
声が、少し掠れた。
「二十七日、記録を取りました。」
如月は画面から目を離さない。
「あなたは合同調整で、糸を九回使いました。」
「七本を展開したのは、二回。」
「六本が、四回。」
「五本以下が、三回。」
そこで、端末を閉じた。
「七本目を使った二回は、どちらも決着の直前でした。」
その目が、初めて結を見る。
「つまり、七本目は切り札ではありません。」
「――保険です。」
結の笑顔が、崩れた。
崩れたと自分で気付いた時には、もう遅かった。
「あなたは。」
如月が続ける。
「勝つための一本を、残していない。」
「逃げるための一本を、残している。」
言葉が、正確に刺さった。
防ぎようがなかった。
防ぎようがない理由も、分かっていた。
――全部、本当だからだ。
通路の入口で、レンが低く息を吐いた。
「……えげつねぇな。」
「何が。」
ハルが振り返る。
「開始前に、相手の一番深いところを言い当てた。」
「あれは挨拶じゃない。戦術だ。」
「始まる前から削りにいってる。」
レンは手すりを掴んだ。
「――俺と、同じことをしてる。」
ブザーが鳴った。
結の指が動く。
速い。
開始と同時に、糸を三本、床へ向かって放った。
杭の代わりに、闘技場の継ぎ目へ差し込むつもりだった。
その三本が床へ触れる、直前。
如月が片膝をつき、掌を床へ置いた。
「――氷域。」
音は、遅れて届いた。
闘技場の床が、中央から外側へ向かって白く走る。
一秒。
二秒。
三秒で、円の内側が全部凍った。
壁際まで。
継ぎ目も、亀裂も、全部が氷の下へ沈んだ。
結の糸が、氷の表面を滑って跳ね返る。
刺さらない。
「糸は。」
如月が立ち上がる。
「固定できて、初めて意味を持ちます。」
「氷の上に、杭は刺さりません。」
そして、掌を返した。
凍った床から、白い霧が立ち上る。
膝の高さから、すぐに肩の高さまで。
結の視界が、三秒で塗り潰された。
「……嘘でしょ。」
通路の入口で、レンが舌打ちした。
「桐生と同じだ。」
「同じ?」
「面で潰す型を、学園はどいつにも仕込んでる。」
「炎で焼くか、氷で埋めるか。」
「やってることは一つだ。」
レンは霧の中を目で追う。
「――逃げ場を消してから、待つ。」
結は動いていた。
視界がないなら、他を使えばいい。
音。
空気の流れ。
足裏の感覚。
三年間、暗い区画で散々やってきたことだ。
壁を探す。
壁へ糸を打ち込めば、そこが支点になる。
右手を振った。
糸が伸びる。
――滑った。
壁も、凍っていた。
(そっちも……。)
次。
支点がないなら、相手の身体へ直接絡める。
結は霧の中で目を閉じ、音を拾った。
右前方。
布の擦れる音。
糸を二本、放つ。
空を切った。
距離が、合わない。
霧の中では、音の反射が変わる。
自分が測っている距離が、そもそも間違っている。
(――そういうこと。)
次。
天井へ飛ばす。
闘技場の天井には、照明の梁が走っている。
あそこへ引っ掛ければ、氷の上でも身体を吊れる。
結は上を向いた。
糸を、全力で投げ上げる。
届かなかった。
この闘技場は、地下の訓練場の三倍の高さがあった。
二十七日、一度も上を見上げなかった自分に、そこで気付いた。
最後。
自分の身体へ巻く。
糸を足へ巻き付けて、氷の上でも滑らない足場を作る。
これだけは、成功した。
結は霧の中で、初めてまともに立った。
――そして、それも読まれていた。
足元の氷が、盛り上がる。
巻き付けた糸ごと、足首が氷に飲まれた。
「固定したのは、あなたです。」
霧の向こうから、声だけが届く。
「固定されたものは、埋められます。」
結は糸を切って、後ろへ跳んだ。
左の靴が、氷の中に残った。
片足だけ、素足になる。
冷たさが、そこから昇ってきた。
「三十七通り、想定しました。」
如月の声は、まだ乱れていない。
「今のは、四番目です。」
結は、答えなかった。
答える余裕が、なかった。
時間が経つ。
闘技場の中で、二つの影が動かない。
やがて、観客席から声が飛び始めた。
「何やってんだ!」
「動けよ!」
「つまんねぇぞ!」
「金返せ!」
直前の試合とは、まるで違う声だった。
あの時、二万人は怒っていた。
今、二万人は退屈していた。
三階の通路を、何人かが席を立って歩いていく。
売店へ行くのだろう。
誰も、闘技場を振り返らなかった。
二列目の男が、隣の女へ言った。
「さっきの子は良かったのにな。」
「うん。」
「今の、何やってんだ。」
「……分かんない。」
女は、それでも目を離さなかった。
だが、何を見ればいいのかは分からないようだった。
拍手は、一つも起きない。
起きる理由が、どこにもなかった。
結は、霧の中でそれを聞いていた。
(……そうだよね。)
(こういうの、誰も見たくないよね。)
(知ってる。)
(ずっと、知ってる。)
自分の戦い方は、こういうものだ。
地味で、遅くて、誰の目にも残らない。
残らないから、生き延びてきた。
――そして。
結は、指を数えた。
糸は、六本。
七本目は、まだ出していない。
(逃げよう。)
合理だった。
この霧の中で、時間切れまで粘る。
拘束されなければ、引き分け。
引き分けなら、負けよりはマシだ。
地下側の戦績は、〇勝一敗のまま止まる。
残り四試合で、三勝すればいい。
(いつも通り。)
三年間、そうやって数えてきた。
勝てない時は、負けない場所を探す。
その方が、賢い。
その方が、生きていられる。
(――便利だな、お前。)
誰かの声が、勝手に混ざった。
もう顔も思い出せない大人の声だ。
結の能力は、子どもの頃から「便利」と言われ続けてきた。
人を見つけられる。
人を縛れる。
音も立てず、傷も残さず。
便利だ、と大人たちは言った。
褒められているのだと、しばらく思っていた。
違うと気付いたのは、もう少し後だ。
それは、道具に言う言葉だった。
十四の年。
言われた通りに、一人の男を縛った。
夜の倉庫だった。
顔は見えなかった。
誰なのかも、何をした人なのかも、教えてもらえなかった。
結の役目は、そこまでだった。
その人がどうなったのかは、今も知らない。
三日後、捕まったのは彼女だけだった。
指示した人間の名前を聞かれて、結は答えられた。
答えたのに、記録には残らなかった。
誰も迎えに来なかった。
誰も、間違いだったとは言わなかった。
(道具は、自分の話をしない。)
(中身を見せたら、そこを持って使われる。)
だから結は、自分から何も出さない。
笑って、はぐらかして、相手の話だけを引き出す。
情報は、こちらだけが持っていればいい。
持っている限り、まだ使われる側ではいられる。
――だから、あの日、朝比奈美咲が眩しかった。
最低だと自分で言って、それでも全部さらけ出した女の子。
差し出したら壊されると、あの子は考えたことがないのだ。
あんなふうに生きられる人間がいるのだと、初めて知った。
(いいなあ。)
あの時、口から出た言葉を、結はまだ覚えている。
「霧島さん。」
霧の向こうから、声がした。
「残り時間は、四分です。」
「……教えてくれるんだ。」
「隠す意味がありません。」
如月の声は、変わらなかった。
「あなたは、引き分けを狙っています。」
「私は、それを阻止できます。」
「ですが、そこには時間がかかる。」
一拍。
「――お互いに、それで構わないはずです。」
結は、目を閉じた。
この人は、正しい。
自分と同じことをして、自分より上手くやっている。
情報を集めて、武器にする。
感情を隠して、必要な時だけ出す。
やっていることは、まったく同じだ。
違うのは、たぶん一つだけ。
(この人は、勝つためにやってる。)
(私は――生きるためにやってた。)
霧の反対側で、如月冴は残り時間を数えていた。
三分四十秒。
このまま終わっても、判定で自分が取る。
有効打の記録が、こちらに四つある。
それで十分だった。
彼女は、勝ちの形を美しくすることに興味がない。
美しさは、記録に残らない。
残るのは、勝ったか負けたかだけだ。
――そのはずだった。
だが、如月は自分が少し苛立っていることに気付いていた。
理由が分からない。
分からないものは、彼女にとって不快の同義語だった。
(相手は、私の想定通りに動いている。)
(三十七通りのうち、四つを潰した。)
(何も、問題はない。)
それなのに。
あの少女は、まだ立っている。
左足は素足で、氷の上にある。
三分も経てば、感覚がなくなるはずの温度だ。
なぜ、まだ立っていられるのか。
その項目が、彼女の記録には存在しなかった。
その時、観客席の音が、少しだけ形を変えた。
結は顔を上げる。
霧の切れ目から、東側の観客席が見えた。
一人だけ、立っている人影がある。
白鳥澪だった。
何かを叫んでいる。
届かない。
二万人分の退屈な野次に潰されて、一言も届いていない。
それでも、立っていた。
結の視線が、通路の入口へ移る。
そこにカエデはいない。
もう控室へ運ばれた後だ。
それでも、思い出せてしまった。
炎の中を歩いた背中。
腕が焼けても、笑っていた顔。
二万人が、黙った瞬間。
(――ずるいなあ。)
結は、自分の指先を見た。
糸は、六本。
(あの子、ちゃんと殴りに行ったもんね。)
(負けたけど。)
(負けたのに、あんなに拍手されてた。)
包帯の下の熱を、まだ指が覚えている。
結は、息を吸った。
「――七本、全部使います。」
霧の向こうで、如月の動きが止まった。
「……予備を、切りますか。」
「うん。」
「合理的ではありません。」
「知ってる。」
結は笑った。
いつもの笑い方ではなかった。
「今日は、そういう日なの。」
七本目の糸が、指先から伸びる。
三年間、一度も攻撃に使わなかった一本だった。
逃げるために取っておいた一本。
それを、結は前へ投げた。
そして、走り出す。
霧の中を。
真っ直ぐ、正面から。
「――何やってんだ、あいつ。」
通路の入口で、レンの声が跳ねた。
「正面から行った。」
「悪手か。」
ハルが聞く。
「悪手だ。」
レンは即答した。
それから、手すりを掴む手に力を入れた。
「……悪手だ。」
もう一度、そう言った。
声の色が、一度目と違っていた。
「勝てないのか。」
「勝てない。」
「なら、なんで――」
「知るかよ。」
レンは霧の中を睨んだまま言った。
「あいつは、三年間一度も正面から行かなかった。」
「一度もだ。」
「それが、あいつの一番賢いところだった。」
手すりが、軋む。
「今日、捨てやがった。」
少し離れた壁際で、白夜才賀が目を開けた。
試合が始まってから、ずっと閉じていた目だった。
「……ああ。」
誰にともなく、そう漏らす。
「あれは、勝ちにいってない。」
ハルが振り返る。
「じゃあ、何を。」
「終わらせにいってる。」
白夜は、それだけ言った。
そして、また目を閉じた。
七本の糸が、氷を叩いた。
結の糸は、細い。
だが、鋼線に相当する強度がある。
一本では、氷は割れない。
七本を同じ一点へ叩き込めば、割れる。
白い床が、砕けた。
霧が、その一点から吹き上がって割れた。
視界が、通る。
如月の姿が、真正面にあった。
距離、四メートル。
観客席が、初めてざわめいた。
誰かが立ち上がる音が、いくつも重なった。
「――ここまでは、想定内です。」
如月の掌が上がる。
氷の壁が、二枚。
結の正面に、順番に立ち上がった。
結は止まらない。
一枚目へ、糸を巻き付けて引き倒す。
二枚目は、避けなかった。
肩から、そのままぶつかった。
割れる。
破片が頬を切って、血が飛ぶ。
止まらない。
三メートル。
素足の左が、砕けた氷を踏んだ。
感覚が、もうなかった。
痛いのかどうかも、分からない。
二メートル。
(届く。)
一メートル。
――そこで、足が滑った。
氷の上だった。
全力の踏み込みは、氷の上ではできない。
当たり前のことだった。
だが結には、それを知る機会がなかった。
正面から踏み込む練習を、彼女は一度もしてこなかったからだ。
三年間、その必要がなかった。
体勢が、崩れる。
伸ばした指が、如月の襟をかすめた。
かすめて、そこまでだった。
「――修正します。」
如月の声が、すぐ耳元でした。
「四番目の想定に、追記。」
右手が、水平に振られる。
「あなたが正面から来る場合を、私は想定していませんでした。」
氷の槍が、一本だけ生成された。
その先端が、結の喉の前で止まる。
「ですが。」
如月は、真下の氷を見た。
「氷の上では、誰も踏み込めません。」
「――そこまで。」
審判の声が響いた。
「勝者、如月冴。」
結は、氷の上に倒れたまま動かなかった。
背中が冷たい。
息が上がっている。
こんなに走ったのは、いつ以来だろうと思った。
――ぱち。
どこかで、手を叩く音がした。
二つ。
三つ。
それから、少しずつ。
直前の試合よりも、ずっと少ない。
半分どころか、四分の一にも届いていない。
罵声も、まだ残っていた。
「何だ、最後だけかよ。」
「もっと早くやれよ。」
それでも。
(……初めてだ。)
結は、天井を見上げたまま思った。
(拍手なんて、初めてもらった。)
そして、少しだけ笑う。
(一番、下手な戦い方をした時に。)
如月が歩み寄ってきた。
手を、差し出される。
結はその手を取らずに、自分で起き上がった。
膝が濡れている。
制服が、氷解けの水を吸っていた。
「……霧島さん。」
「なに。」
「一つだけ、記録に残せなかったものがあります。」
「え?」
「あなたが、なぜ今日だけ正面から来たのか。」
如月は、端末を持ったまま立っている。
「私のデータには、ありません。」
結は、少し考えた。
いつもなら、はぐらかす場面だった。
笑って、質問で返して、何も渡さない。
その方が、次に使える。
――今日は、やめた。
「……仲間が、負けたから。」
「……。」
「それだけ。」
如月は、答えなかった。
しばらく、その場に立っている。
やがて端末を開き、画面へ何かを打ち込んだ。
「今の、記録するの?」
「はい。」
「何て?」
如月は、画面を見たまま答えた。
「――変数あり。」
「……何それ。」
「数値化できないものが、一つ含まれていた、という意味です。」
彼女は端末を閉じ、それを制服の内側へ仕舞った。
この試合が始まってから、初めて手放した。
「私の記録に、その欄を作ったのは初めてです。」
それだけ言って、背を向ける。
結は、その背中を見送った。
(……この人。)
少しだけ、分かった気がした。
自分と同じことをしている人間は、たぶん、自分と同じくらい何も出せない。
学園側の通路には、桐生陽介が立っていた。
脇腹を押さえたまま、壁へもたれている。
肋が二本入っていると診断されて、それでも医務室を出てきた。
自分の試合から、まだ三十分も経っていない。
如月が戻ってくると、彼は顔を上げた。
「……勝ったな。」
「はい。」
「一発も殴らずに。」
「はい。」
桐生は、しばらく黙っていた。
それから、低い声で言う。
「俺も、そうだった。」
「……。」
「相手が息できなくなるのを、待ってただけだ。」
如月は、答えなかった。
「なあ、如月。」
「はい。」
「俺たち、二勝したんだよな。」
「二勝しました。」
「――なんで、誰も嬉しそうじゃねぇんだ。」
通路の照明が、二人の間に落ちている。
如月は、内ポケットの端末に触れた。
開かなかった。
「……その項目は。」
声が、いつもより低かった。
「今日、作ったばかりです。」
「何だそりゃ。」
「まだ、何も書けていません。」
それだけ言って、彼女は先へ歩いていった。
桐生は、その背中を見送ってから、天井を仰いだ。
控室の扉が開く。
結が入ってきた時、誰も何も言わなかった。
最初に口を開いたのは、壁際のカエデだった。
「おい。」
「なに。」
「お前、最後、何してたんだ。」
「突っ込んだ。」
「見りゃ分かる。」
「なんで、って聞いてる。」
結は、椅子へ腰を下ろした。
しばらく、自分の指先を見ている。
「……初めてかも。」
「何が。」
「本気で勝ちたいと思って、負けたの。」
誰も、口を挟まなかった。
「今まで、勝てそうな戦いしかしてこなかったから。」
「勝てない時は、逃げてた。」
「その方が賢いと思ってたし、実際、賢かったと思う。」
指を、握る。
「――でも、今日は嫌だったの。」
「逃げるの。」
カエデが、包帯の腕をゆっくりと上げた。
結の頭に、乱暴に手を置く。
「痛ぇ。」
「自分でやったんじゃん。」
「うるせぇ。」
結は、その手を払わなかった。
レンが、無言で近付いてくる。
そして、彼女の膝の上へ何かを置いた。
菓子の袋だった。
「……いつ買ったの、これ。」
「昨日。」
「なんで持ってるの。」
「収納だからな。」
「……そういうことじゃなくて。」
「言わせるな。」
レンは、それだけ言って離れた。
結は袋を両手で持ったまま、しばらく黙っている。
それから、袋を開けた。
「食べる人。」
「食う。」
「私も。」
ハルが、少し遅れて手を挙げた。
誰も、負けたことに触れなかった。
場内アナウンスが、戦績を読み上げる。
――星ヶ丘学園、二勝。
――地下施設、〇勝二敗。
その声が、控室にも流れてきた。
残り四試合。
次に落とせば、三敗。
六試合のうち三つを失えば、逆転の目はほぼ消える。
空気が、重くなる。
その中で、レンが立ち上がった。
上着の襟を直し、両手をポケットへ入れる。
「レン。」
ハルが呼び止めた。
「ああ。」
「昨日、言ってたよな。」
「何を。」
「四番は、二勝二敗で回ってくるって。」
レンは、扉の方を向いたまま答えた。
「言った。」
そして、少し黙る。
「訂正する。」
「――一勝二敗で回す。」
「俺が勝つからだ。」
振り返らなかった。
扉が開き、闘技場の音が一瞬だけ流れ込む。
そして、閉じた。
控室に残った音は、菓子の袋が鳴る音だけだった。
ハルは、閉じた扉を見ていた。
次はレン。
その次が、自分だ。
そして、その向こうに朝比奈美咲がいる。
胸の奥が、また鈍く痛んだ。
ハルはそれを、誰にも言わなかった。
地下施設、〇勝二敗。
残り、四試合。
次は――石田レン。




