第49話 呼吸
――地上、三十一日目。第一試合。
二万人の声は、上から降ってきた。
「犯罪者が出てきたぞ!」
「地下へ帰れ!」
「見せもんじゃねぇんだよ!」
「税金の無駄だ!」
黒鋼カエデは、闘技場の中央へ向かって歩いていた。
誰も隣にいない。
通路の扉は、もう閉まっている。
円の中に立つのは、自分一人だった。
声は途切れなかった。
東側から。
西側から。
真上から。
二万人が同時に喋っているのに、その全部が同じことを言っている。
――帰れ。
カエデは足を止めなかった。
顔も上げなかった。
ただ、口の端が少しだけ動いた。
「……うるせぇな。」
誰にも聞こえない声で呟く。
二万人の中で、その一言だけが誰にも届かなかった。
「でも。」
カエデは拳を鳴らした。
ゴキ、と乾いた音がする。
「聞こえてるってことは。」
ようやく顔を上げる。
照明が眩しい。
その向こうに、無数の顔がある。
名前も知らない。
顔も見えない。
それでも、全員がこちらを見ていた。
「――見てるってことだ。」
地下では、誰も見ていなかった。
朝六時に起きて、飯を食って、訓練して、寝る。
番号で呼ばれ、番号で記録される。
三年いた男が消えても、翌週には誰も名前を出さなくなる。
誰かに見られるということが、どういうことか。
カエデは、三年ぶりに思い出していた。
(上等だ。)
円の中央で立ち止まる。
(見てろよ。)
反対側から、桐生陽介が歩いてくる。
赤い髪を短く刈り込んだ男。
合同調整で三度戦い、三度とも負けた相手だ。
二人は五メートルの距離で向かい合った。
「四回目だな。」
カエデが先に口を開く。
「三回とも私が勝った。」
「三回とも一撃食らってからだろ。」
「食らってねぇよ。」
「食らってた。」
桐生は肩を回した。
その表情に、緊張はない。
だが、いつもの熱もなかった。
妙に静かだった。
「なあ。」
「あ?」
「一つ聞いていいか。」
桐生は真っ直ぐこちらを見た。
「お前ら、いつもあれ言われてんのか。」
指で観客席を差す。
罵声は、まだ止んでいない。
カエデは首を傾げた。
「あれって、あの声か?」
「ああ。」
「別に。」
あっさり答える。
「地下じゃ何も言われねぇ。」
「……何も?」
「話しかけてくる奴がいねぇんだよ。」
カエデは笑った。
「悪口も言われねぇ。」
桐生は、しばらく黙っていた。
そして、乱暴に髪をかき上げる。
「……そうかよ。」
「同情か?」
「違う。」
即答だった。
「腹が立ってるだけだ。」
「誰に。」
「知らねぇよ。」
桐生は炎を纏った拳を握る。
「――言っとくが、手加減はしねぇぞ。」
「知ってる。」
カエデは構えを取らない。
拳を軽く握って、だらりと下げているだけだった。
「今日は避けねぇぞ。」
「知ってる。」
彼女は笑った。
「私も、避けねぇ。」
――ブザーが鳴った。
カエデは、開始の音より先に踏み込んでいた。
床が砕ける。
防護結界に守られているはずの床に、放射状のひび割れが走った。
「はえぇ!」
桐生が下がりながら右手を突き出す。
「燃えろ!」
炎弾が三発、連続で放たれた。
カエデは避けない。
一発目。
右肩に直撃した。
制服の袖が一瞬で焼け落ち、皮膚が赤く変わる。
止まらない。
「――は?」
桐生の目が見開かれる。
二発目。
今度は腕。
肘から先が炎に包まれる。
止まらない。
三発目は、正面から顔面へ来た。
カエデはわずかに首をひねっただけだった。
炎が頬をかすめ、髪の先が焦げる。
その熱を突き抜けて、彼女は踏み込んだ。
「熱ぃ!」
叫んでいる。
だが、笑っていた。
「けど、それだけかよ!」
三か月前、地下の訓練場で言った言葉と同じだった。
――避けたら勝てねぇだろ。
あの時、桐生は「避けろよ」と怒鳴った。
今日は、怒鳴らなかった。
怒鳴る余裕がなかった。
(――嘘だろ。)
桐生の背中を、冷たいものが走る。
(三回戦った。)
(能力も、癖も、間合いも、全部知ってるつもりだった。)
(なのに、今日のこいつは――)
カエデが右腕を引き絞る。
(もっと止まらねぇ!)
「おらぁっ!!」
拳が空気を裂いた。
桐生は咄嗟に両腕を交差させる。
――間に合わなかった。
ドゴォンッ!!
衝撃音が、闘技場全体を揺らした。
桐生の身体が宙を舞い、防護結界へ叩きつけられる。
結界が波紋のように歪んだ。
そのまま床へ落ちる。
――音が、途切れた。
罵声が、消えたわけではない。
だが、その隙間に別の声が混ざり始めた。
「……おい。」
「今の見たか。」
「炎の中、歩いてなかったか?」
「見間違いだろ。」
「いや、三発当たってた。」
「当たってて、あれか?」
東側の観客席で、誰かが立ち上がった。
それを合図のように、あちこちで身を乗り出す動きが起きる。
選手用の指定区画では、白鳥澪が両手を胸の前で握り締めていた。
その隣で、城崎硝が舌打ちする。
「……あの馬鹿。」
だが、目は逸らしていなかった。
通路の入口では、ハルとレンが並んで立っている。
「……すげぇな。」
ハルが呟く。
「三発だぞ。」
「四発だ。」
レンが訂正した。
「一発目の前に、足元へ一発撃たれてる。」
「気付かなかった。」
「あいつも気付いてない。」
レンは腕を組んだまま、円の中を見ていた。
その顔に、笑みはなかった。
カエデは、動かなかった。
倒れた桐生が起き上がるのを、ただ待っている。
右腕が赤黒く変色している。
肩の皮膚が焼けて、めくれている。
痛みはある。
だが、痛みで止まったことは一度もない。
(――地下じゃ、こんなもんじゃなかった。)
三年前を思い出す。
思い出したくもない場所だ。
どうして自分がそこにいたのか。
理由は、単純だった。
庇っただけだ。
三年前。
夕方の駅のホームだった。
酔った男が、若い女を突き飛ばした。
線路の方へ。
カエデは考える前に走っていた。
女の腕を掴んで引き戻し、それから振り返って、男を一発だけ殴った。
――一発だった。
男は五メートル飛んで、柱にぶつかって、それきり動かなくなった。
死ななかったのは運が良かったからだと、後で言われた。
その日のうちに能力管理局が来た。
危険能力者。
制御不能。
収容決定まで、四日しかかからなかった。
助けた女の人が何と言ったのかは、知らない。
誰も教えてくれなかった。
地下でも、誰も教えてくれなかった。
あれが正しかったのか。
間違っていたのか。
教官も、看守も、同じ房の奴らも、誰一人。
(だから。)
カエデは拳を握り直す。
(今日、自分で決める。)
第一試験の三日目。
迷宮で、誰かの悲鳴を聞いた。
助けに行かなかった。
あの時、自分はこう言い聞かせた。
――試験中だ。
――一人助けたところで、その先はどうする。
正しかったのかもしれない。
だが、その夜は眠れなかった。
(もう、聞こえないふりはしねぇ。)
桐生が、床に手をついた。
「……っ。」
口の中を切っている。
血を吐き出しながら、それでも立ち上がった。
「――上等だ。」
カエデが笑う。
「立つと思ってた。」
「当たり前だろ。」
桐生は、両手を大きく広げた。
「なら、こっちも全部出す。」
その瞬間、空気の温度が変わった。
「炎域――展開!」
轟音とともに、闘技場の床全面から炎柱が噴き上がった。
円の中が、赤く染まる。
天井近くまで火が上がり、開いた天窓から黒い煙が吸い出されていく。
観客席の前列から悲鳴が上がった。
熱波が、二階席まで届いている。
「うわっ!」
「熱っ!」
「なんだこれ!」
闘技場の中央に、逃げ場はもうなかった。
前も。
後ろも。
左右も。
全部が炎だった。
三か月前、桐生はこれと同じ技をハルへ使った。
あの時、逃げ道を完全に潰されたハルは、直撃を受けて倒れた。
カエデは、その記録を知らない。
知っていても、たぶん同じことをした。
彼女は炎の壁を見渡し――
一番、火の厚い場所へ向かって走り出した。
「――嘘だろ。」
誰かが呟いた。
「あの中に入るのか!?」
「死ぬぞ!」
「止めろよ、誰か!」
カエデは止まらない。
速度を落とすことすらしなかった。
炎の壁へ、真っ直ぐ飛び込む。
――ゴォッ。
その姿が、赤の中へ消えた。
闘技場が、ざわめいた。
誰かが「帰れ」と叫んだ。
いつもと同じ言葉だった。
だが、今度は続く者がいなかった。
二万人の中で、その一人の声だけが浮いた。
そして、黙った。
「――出てきた!」
誰かが叫ぶ。
炎の向こうから、人影が飛び出してきた。
全身が煤で黒い。
制服は半分焼け落ちている。
髪の先が縮れ、頬に火傷の跡が走っている。
それでも、笑っていた。
「見つけた。」
桐生の顔が、初めて恐怖に歪んだ。
三階の観客席で、若い女が隣の男の袖を引いた。
「……ねえ。」
「あの子、腕。」
「焼けてない?」
「焼けてるだろ。」
男は短く答えた。
「痛くないのかな。」
「痛いに決まってる。」
そう言ってから、男は少しだけ黙った。
円の中では、少女がまだ笑っている。
「……痛いに決まってるよな。」
その声には、さっきまでの調子がなかった。
二列前で、小さな子どもが父親の腕を掴んで尋ねる。
「あのおねえちゃん、わるいひと?」
父親は、すぐには答えなかった。
「なんで燃えてるのに、笑ってるの?」
答えは、返らなかった。
「なんで――」
拳が振り上げられる。
桐生は横へ跳んだ。
紙一重。
拳は空を切り、床を砕いた。
破片が飛び散る。
「避けたな。」
カエデが笑う。
「今日は避けねぇって言ったろ。」
「言った!」
桐生も笑い返した。
だが、その顔は引きつっていた。
「言ったけどな!」
「死ぬんだよ、当たったら!」
――そこから先、桐生は一度も攻撃を当てにこなかった。
距離を取る。
炎を撒く。
また距離を取る。
当てるためではない。
燃やし続けるためだった。
カエデは追う。
追って、追って、追い続ける。
一分。
右へ回り込んだ桐生を、壁ごと殴りに行った。
拳が防護結界を叩き、闘技場全体が鳴った。
二分。
炎柱を突き抜けて距離を詰めた。
あと一歩というところで、桐生が床を蹴って跳んだ。
三分。
もう何度目か分からない突進の途中で、カエデは初めて足を滑らせた。
すぐに立て直す。
誰も、それを異変だとは思わなかった。
闘技場の中は、もう炎の色しか見えない。
「――逃げんな!」
カエデが吼える。
「正面から来い!」
桐生は答えない。
答える余裕もなかった。
ただ、必死に炎を維持していた。
その額から、大量の汗が流れ落ちている。
(――苦しい。)
桐生の視界も、白く霞み始めていた。
自分で撒いた炎だ。
当然、自分も同じ空気を吸っている。
違うのは、消費量だけだった。
カエデは全身の筋肉を限界まで強化して走り続けている。
自分は、炎を出しているだけだ。
(先に潰れるのは、あっちだ。)
分かっている。
計算した。
二十七日かけて、何度も計算した。
それでも。
(……クソ。)
桐生は歯を食いしばった。
(これは、殴り合いじゃねぇ。)
三回、正面から殴り合って、三回負けた。
悔しかった。
だが、楽しかった。
――今やっていることは、それとは違う。
相手が息をできなくなるのを、ただ待っているだけだ。
殴り倒すのとは、まるで別のことをしている。
(分かってる。)
桐生は右手を上げ、また炎を撒いた。
(分かってるんだよ。)
九条の言葉が、頭の隅で鳴っている。
――星ヶ丘学園が地下施設に敗北した場合。
――代表選抜制度そのものを、見直しの対象とする。
自分が負ければ、後ろの五人が全部背負う。
黒崎も。
如月も。
朝比奈も。
(だから――)
炎の壁が、また一段厚くなった。
(勝つんだよ。)
通路の入口で、レンの表情が変わった。
「――まずい。」
「何が。」
ハルが振り返る。
「あいつ、当てにいってない。」
「え?」
「見てみろ。」
レンが指を差す。
「炎の当て方が雑だ。」
「威力じゃなくて、面積を優先してる。」
「最初からずっとだ。」
ハルは目を凝らした。
確かに、桐生の炎は広がり方が異常だった。
カエデを狙っていない。
闘技場そのものを焼いている。
「……何のために。」
「――空気だ。」
レンの声が掠れた。
「空気を焼いてる。」
「空気?」
「筋力強化は酸素を食う。」
「強くすればするほど、食う。」
レンは手すりを両手で掴んだ。
「あいつの能力は――」
その先を言うのが、怖いようだった。
「息を止められたら、終わりだ。」
円の中で、カエデは膝から崩れかけた。
「……っ。」
踏みとどまる。
だが、脚に力が入らない。
(あれ。)
拳を握ろうとする。
握れる。
だが、上がらない。
(なんだ、これ。)
殴られたわけじゃない。
骨も折れていない。
火傷は痛いが、痛みで動けなくなったことなど一度もない。
それなのに。
(身体が……重い。)
息を吸う。
入ってこない。
もう一度吸う。
やはり入らない。
喉が焼けているのは、さっきからだ。
だが、それとは違う。
肺の中に、何かが足りない。
(――なんで。)
カエデには、理由が分からなかった。
最後まで、分からなかった。
自分が何にやられているのか。
彼女は一度も理解しないまま、膝をついた。
どさり、と重い音がした。
闘技場が、静まり返る。
罵声は、もう一つも聞こえなかった。
炎が、消えていく。
桐生が両手を下ろしたのだ。
熱が引き、視界が晴れる。
その中央に、少女が片膝をついていた。
全身が煤で黒い。
肩から先は火傷で赤黒く変色している。
肩が大きく上下していた。
息を吸おうとして、吸えていない。
桐生は、ゆっくりと歩み寄った。
彼の膝も震えている。
最後の一撃の衝撃が、まだ残っていた。
「……悪いな。」
その声には、勝ち誇る響きが一つもなかった。
「三回負けて、やっと分かった。」
カエデは顔を上げられない。
「お前は避けない。」
「殴っても止まらない。」
「燃やしても止まらない。」
「腕が焼けても、笑って突っ込んでくる。」
桐生は自分の掌を見た。
「だから、考えたんだ。」
「どうすれば止まるのか。」
そして、答えを言った。
「――止まる場所を、作るしかなかった。」
カエデは、しばらく黙っていた。
やがて、掠れた声で言う。
「……ずるいぞ。」
「ああ。」
「殴ってこいよ。」
「無理だ。」
桐生は正直に答えた。
「三回とも、それで負けた。」
カエデは、笑おうとして咳き込んだ。
血が混じっている。
「……そうか。」
両手を床につく。
「じゃあ、しょうがねぇな。」
そして。
――彼女は、立ち上がった。
闘技場が、どよめいた。
「立った!?」
「嘘だろ、今の状態で!」
桐生の顔から、血の気が引いた。
「おい、やめろ!」
「うるせぇ。」
カエデの声は、もうほとんど出ていない。
それでも足を前へ出す。
一歩。
二歩。
三歩目で、身体が傾いた。
倒れかける。
――その勢いのまま、彼女は踏み込んだ。
「おらぁぁぁっ!!」
最後の一撃だった。
速度も、体重も、いつもの半分もない。
それでも、桐生には避けられなかった。
彼もまた、限界だった。
ドンッ!!
鈍い音が響く。
拳が桐生の胴へ突き刺さり、その身体が吹き飛んだ。
床を二転、三転して、ようやく止まる。
闘技場が、完全に静まり返った。
二人とも、倒れている。
どちらも動かない。
――五秒。
――十秒。
最初に動いたのは、桐生の手だった。
床を掴む。
腕が震えている。
それでも、押し上げた。
膝を立てる。
立ち上がる。
ふらつきながら、それでも二本の足で立った。
カエデは、動かなかった。
腕が上がらない。
意識はある。
目も開いている。
それなのに、身体が言うことを聞かなかった。
「――そこまで。」
九条の声が響く。
「勝者、桐生陽介。」
一瞬、闘技場は無音だった。
二万人が、誰も声を出さなかった。
そして。
――ぱち。
どこかで、手を叩く音がした。
一つ。
それから、二つ。
三つ。
最初は数えられるほどだった。
やがて、数えられなくなった。
北側の一角から始まって、東へ、南へ広がっていく。
全員ではない。
拍手は、闘技場の半分にも満たなかった。
「なんで犯罪者に拍手すんだよ!」
そう叫ぶ声も、確かに聞こえた。
それでも。
三か月前まで番号で呼ばれていた少女に、二万人のうちの何人かが、手を叩いていた。
その中で、ひときわ大きい声が一つ飛んだ。
「カエデさん!」
白鳥澪だった。
指定区画で、一人だけ立ち上がっている。
周囲の観客が振り返るのも構わず、両手を叩き続けていた。
カエデは、床に転がったまま、その方向へ顔を向けた。
声は届かない。
姿も見えない。
それでも、片手だけを上げた。
拍手が、少しだけ大きくなった。
運営が担架を持ってくる。
カエデはそれを手で払いのけた。
「いらねぇ。」
「黒鋼候補、無理は――」
「いらねぇって言ってんだろ。」
床に手をつき、ゆっくりと身体を起こす。
膝が笑っている。
それでも、自分の足で立った。
歩き出す。
三歩目でよろけて、踏みとどまる。
誰も手を貸そうとしなかった。
貸したら怒られると、全員が分かっていた。
通路へ向かう途中、桐生とすれ違う。
彼も、肩で息をしていた。
「おい。」
カエデが足を止める。
「……何だよ。」
「今の。」
彼女は前を向いたまま言った。
「四回目でやっと出したな。」
「……ああ。」
「三回分、溜めてたのか。」
桐生は答えなかった。
答えられなかった、というほうが正しい。
カエデは笑った。
煤で汚れた顔で、火傷だらけの頬で、それでも笑った。
「上等だ。」
「次は、殴る。」
そして、歩き出した。
桐生はその背中を見送りながら、呟く。
「……次は、勝てねぇかもな。」
誰にも聞こえない声だった。
学園側の通路へ戻ると、如月冴が待っていた。
いつも通り、端末を胸に抱えている。
「お疲れ様でした。」
「……ああ。」
「想定通りの決着でした。」
桐生は答えなかった。
壁にもたれて、しばらく天井を見上げている。
「――なあ、如月。」
「はい。」
「俺、勝ったよな。」
「勝ちました。」
「一勝だよな。」
「一勝です。」
桐生は目を閉じた。
「……なんで、こんなに気分が悪いんだ。」
如月は、すぐには答えなかった。
端末の画面を一度だけ確認して、それから閉じる。
「記録には残りません。」
「そういうことを聞いてんじゃねぇ。」
「分かっています。」
彼女は、少しだけ間を置いた。
「……私にも、答えはありません。」
そう言って、通路の先へ歩いていく。
その背中に、桐生は舌打ちを一つだけ返した。
通路の扉が閉まると、音が遠くなった。
壁にもたれた瞬間、カエデの膝が完全に折れた。
「カエデ!」
ハルが駆け寄る。
「触んな。」
「でも――」
「焼けてんだよ、そこ。」
「あ、悪い。」
ハルが手を止める。
結が水筒を差し出した。
「はい。」
「……お前、こういう時だけ気が利くな。」
「いつも気は利いてるよ。」
「嘘つけ。」
カエデは水を口に含んで、半分吐き出した。
喉が焼けていて、飲み込めない。
風間は壁際に立ったまま、こちらを見なかった。
だが、扉が閉まる直前に一言だけ言った。
「――黒鋼。」
カエデが顔を上げる。
「あ?」
「炎の中へ入る判断は、間違っている。」
「知ってる。」
「……そうか。」
それだけだった。
風間はまた壁へ視線を戻す。
しばらくして、誰にも聞こえない声で付け足した。
「――だが、俺は同じことをする。」
白夜は、いつも通り目を閉じている。
その白夜が、珍しく口を開いた。
「黒鋼。」
「……なんだよ。」
「息が入らなかった時。」
目は閉じたままだった。
「怖かったか。」
カエデは少し考えて、答えた。
「別に。」
「……そうか。」
白夜はそれきり黙った。
彼の質問の意味を、この場で理解できた者は一人もいなかった。
ハルだけが、少しだけ引っ掛かりを覚えた。
(――白夜も、息ができなくなることがあるのか。)
その考えは、すぐに他のことに押し流されていった。
しばらく誰も何も言わなかった。
やがて、カエデが口を開く。
「レン。」
「ああ。」
「悪い。」
「謝るな。」
レンは即答した。
「一番に置いたのは俺だ。」
「相手の手を読み違えたのは、俺の方だ。」
そして、少し黙ってから続けた。
「……あと、一つ言っとく。」
「なんだよ。」
「今の試合で、客が黙った。」
カエデが顔を上げる。
「……は?」
「二万人だ。」
レンは扉の方を顎で示した。
「あいつら、お前が入場した時、全員で帰れって言ってた。」
「今は、言ってない。」
カエデは、しばらくその言葉の意味を掴めずにいた。
「――お前が、黙らせたんだ。」
レンは、それだけ言った。
カエデは何も答えなかった。
しばらく壁にもたれたまま、天井を見上げている。
やがて、煤で汚れた袖で、乱暴に顔を拭った。
汗なのか、そうでないのかは、誰も聞かなかった。
「……そうかよ。」
それだけ言って、目を閉じた。
扉の向こうから、拍手の残りが微かに聞こえている。
まだ、鳴っていた。
地下施設、〇勝一敗。
残り、五試合。
次は――霧島結。




