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幼馴染を寝取られ、学園に殺された無能力の俺は最強になって帰ってくる  作者: ワールド


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第46話 焦り


 朝、ハルは誰よりも早く訓練場へ入った。


 まだ照明も半分しか点いていない。


 その中央に、神崎が一人で立っていた。


「早いな。」


「お願いがあります。」


 ハルは頭を下げた。


「上位の候補と、組ませてください。」


 神崎は端末から目を離さない。


「順位が上の者と当たっても、勝率は下がる。」


「知っています。」


「負ければ記録が残る。」


「知っています。」


 神崎はようやく顔を上げた。


 三か月前、演習場でハルへ「見学でいい」と言った男の目だった。


 感情は読めない。


「……順番に組ませる。」


「一人ずつだ。」


「まず、誰と当たりたい。」


 ハルは迷わなかった。


「――石田レンと。」


 神崎の眉が、わずかに動く。


「同じ地下施設の人間だぞ。」


「はい。」


「理由は。」


「一番、勝ち方が分からないからです。」


 神崎はしばらくハルを見ていた。


 そして、端末へ何かを打ち込む。


「第一区画。」


「今日の一本目だ。」


「ありがとうございます。」


 ハルが背を向けようとした時、背後から声が飛んだ。


「天城。」


 振り返る。


「一つだけ言っておく。」


 神崎は端末を閉じた。


「昨日の報告書、読んだ。」


「……はい。」


「石田レンの試合の記録に、こう書いてあった。」


 神崎は暗唱するように言った。


「――勝因は、能力でも罠でもない。」


 ハルは黙って聞いていた。


「あれを書けるなら、お前は組手より観察の方が向いている。」


「……褒めてますか。」


「事実を言っている。」


 神崎はそれだけ言って、教壇の方へ歩いていった。


 ハルはその背中を見送る。


(見学でいいとは、言われなかった。)


 三か月前との違いは、それだけだった。


 それだけで、十分だった。



「――そこまで。」


 神崎の声が響く。


「勝者、石田。」


 ハルは床へ膝をついていた。


 開始から、十一秒。


 右足に糸が絡み、体勢を崩したところへ、上から二本目が落ちてきた。


 それで終わりだった。


 木刀は、一度も振っていない。


「弱い。」


 レンは糸を巻き取りながら、あっさりと言った。


「……ああ。」


「能力の話じゃない。」


 レンはハルを見下ろす。


「お前、俺と戦う準備を何もしてこなかっただろ。」


 ハルは答えられなかった。


 その通りだった。


 昨日、掲示板の前で「明日から全部拾う」と決めた。


 決めただけだった。


「俺は三年、この戦い方をやってる。」


「杭の位置も、糸の長さも、全部計算し尽くしてる。」


「そこへ、思いつきで突っ込んできた。」


 レンは短刀を収納へ戻す。


「勝てるわけがない。」


 容赦がなかった。


 地下にいた頃、レンがこんな言い方をしたことは一度もない。


「……厳しいな。」


「当たり前だ。」


 レンはようやく手を止めた。


「二十五日後、お前は代表として戦うか、客席で見てるかのどっちかだ。」


「今、優しくしてどうする。」


 その一言に、ハルは顔を上げた。


 レンは相変わらず眠たそうな顔をしている。


 だが、目だけは真剣だった。


「もう一本。」


 ハルが言う。


「今日はもう組めない。」


「明日。」


「……ああ。」


 レンは肩をすくめた。


「今度は、俺の杭の数を数えてこい。」


「三本じゃないんだな。」


「そこからだ。」


 レンは背を向けて歩き出す。


 その途中で、一度だけ振り返った。


「三年分の準備に、一日で勝とうとするな。」


「一日ずつ削れ。」


「そういうやり方しか、俺たちにはない。」



 七日目。


 もう一度レンに挑んだ。


 開始と同時に、ハルは動かなかった。


 まず、数えた。


 レンが収納から取り出す杭の数。


 地面へ刺す順番。


 糸を張る高さ。


「――五本。」


 小さく呟く。


 レンの眉が、初めて動いた。


「気付いたか。」


「昨日は三本だった。」


「昨日は三本で足りた。」


 レンは笑わない。


「今日は五本要ると思ったから五本出した。」


「それだけだ。」


 ハルは踏み込んだ。


 二本目の糸までは、避けた。


 三本目で足を取られ、四本目で終わった。


 十九秒。


 昨日より八秒長い。


「よし。」


 レンが糸を巻き取りながら言った。


「八秒だな。」


「……たった八秒だ。」


「たった八秒を、あと二十四日積め。」


 レンは指を折った。


「一日八秒なら、百九十二秒だ。」


「三分だぞ。」


「三分あれば、大抵の試合は終わる。」


 ハルは床に座り込んだまま、その数字を頭の中で繰り返した。


 三分。


 届く数字に、初めて聞こえた。



 八日目。


 カエデに挑んだ。


 三秒で吹き飛ばされた。


 壁まで転がって、しばらく起き上がれなかった。



 九日目。


 結に挑んだ。


 開始三秒で拘束された。


 第一試験の時、美咲が受けたのと同じ形だった。



 十一日目。


 結に二度目を挑んだ。


 六秒。


 一本目の糸は避けた。


 二本目で捕まった。



 十二日目。


 学園側と組まされた。


 相手は桐生陽介。


 炎の面制圧に押し込まれ、二本取られて一本返した。


 試合後、桐生が木刀を担いだまま近付いてきた。


「なあ、天城。」


「……何だ。」


「お前、なんで七位なんだ。」


 ハルは答えられない。


「俺、一本取られたぞ。」


「三か月前も、今も。」


 桐生は不満そうに頭をかいた。


「学園の実戦試験で一本取ったやつが、なんで下から数えた方が早い順位にいるんだよ。」


「……ポイントを取ってないからだ。」


「取れよ。」


 あまりにも単純な言い方だった。


 ハルは思わず笑ってしまう。


「そうだな。」


「笑うとこか?」


「いや。」


 ハルは首を振った。


「――そうだな、って思っただけだ。」



 十三日目。


 カエデに二度目を挑んだ。


 十秒持った。


 黒崎戦で見た「衝撃を骨で受ける」という言葉を頭に置いて、関節の向きだけを見ていた。


 結果は同じだった。


 だが、どこで負けたかは分かった。



 十四日目。


 初めて、勝った。


 相手は第十位の候補者だった。


 地下で一度も話したことがない男だった。


 土属性。


 地面を隆起させて足場を崩してくる。


 一本目を取られた。


 二本目、隆起の起点が足元ではなく相手の踏み込み足だと気付いた。


 三本目で、その足を先に潰した。


 それだけだった。


 試合が終わると、男は床に座り込んだまま、ハルを見上げていた。


「……お前。」


 息を切らしながら言う。


「無能力なんだろ。」


「ああ。」


「なんで、俺が負けるんだよ。」


 ハルは答えられなかった。


 言えることが、一つもなかった。


 その日の掲示板で、ハルの数字が少しだけ動いた。


 同じだけ、その男の数字が下がった。


 名前を、ハルは知らないままだった。


 同じ施設に十日以上いて、一度も話していない。


 それでも、その男の未来を、自分が一つ削った。


(……これが、上がるってことか。)


 勝った日の夜、ハルは初めて寝つけなかった。



 十五日目。


 如月冴と組まされた。


 氷の壁で退路を潰され、視界を奪われ、そのまま終わった。


 試合後、如月は端末に何かを打ち込んでいた。


「……何を書いてるんだ。」


「記録です。」


「俺の?」


「はい。」


 如月は顔を上げない。


「天城ハル。無能力。剣術のみ。」


「回避の初動が早い。相手の予備動作を見ている。」


「ただし、面での制圧に弱い。」


「炎、氷、風。範囲を取る能力に対して、逃げ場を潰されると対応できない。」


 あまりに正確だった。


「……全部、二十五日後に使うのか。」


「はい。」


 如月はようやく顔を上げた。


「隠す理由がありません。」


「あなたも、私を記録しているでしょう。」


「……ああ。」


「なら、対等です。」


 彼女は端末を閉じ、一礼して去っていった。


 嫌な相手だとは思わなかった。


 ただ、勝つのは難しいと思った。



 十六日目。


 鷹取樹と組まされた。


「よろしくー。」


 相変わらず、屈託がない。


 雷の速攻に二本取られた。


 試合が終わると、鷹取は笑いながら手を差し出してきた。


「天城、強くなったな!」


 ハルはその手を、少し遅れて握った。


 三か月前、この男に雷撃を撃たれた。


 その記憶は消えない。


 だが今日、自分は何も感じなかった。


 凍りつきもしなかった。


(……慣れたのか。)


 その事実の方が、少しだけ怖かった。



 夜。


 宿舎の廊下で、澪と会った。


 自動販売機の前で、彼女は缶を持ったまま立っていた。


「ハル君。」


「まだ起きてたのか。」


「眠れなくて。」


 澪は缶を両手で包んでいる。


「順位、見ましたか。」


「見た。」


 今日の掲示板で、ハルは六位に戻っていた。


 城崎が七位へ落ちている。


 そして。


「……私は、八位のままです。」


 澪は俯いた。


「あと二十五日で、二つ上がらないといけません。」


「上がれる。」


「無理ですよ。」


 澪は少しだけ笑った。


「私の能力、勝つための能力じゃないので。」


「相手を傷付けても、私も同じだけ痛いです。」


「勝っても、負けても、痛い。」


 ハルは何も言えなかった。


 慰めの言葉は、どれも嘘になる気がした。


「でも。」


 澪は顔を上げる。


「ハル君が六位に戻ったの、嬉しいです。」


「……。」


「本当に。」


 その笑顔に、嘘はなかった。


 だからこそ、ハルは何も返せなかった。


(俺が上がると、誰かが落ちる。)


(それが今日は、城崎だった。)


(明日は、こいつかもしれない。)


 缶を握る澪の手が、少しだけ赤くなっていた。


 冷たすぎたのだろう。


 それでも彼女は、手を離さなかった。



 十七日目。


 訓練場の隅に、いつもの場所がある。


 白夜才賀は、そこに座っていた。


 合同調整が始まってから、この男は一度も組手に参加していない。


 誰とも話さない。


 誰も話しかけない。


 ハルは、その前で足を止めた。


 しばらく迷って、口を開く。


「……なあ。」


 白夜は目を閉じたままだった。


 答えない。


「なんで、訓練しないんだ。」


 少し間があった。


「意味がない。」


 平坦な声だった。


「勝つ気がないのか。」


「勝つ。」


 即答だった。


「訓練しなくても。」


 ハルは言葉に詰まる。


 傲慢ではない。


 この男は、事実だけを口にしている。


 第一試験を思い出す。


 風間嵐と互角に打ち合い、最後に一撃を撃ち込んだ男だ。


「……体調が悪いのか。」


 ハルはそう聞いた。


 あの日、白夜は口から血を吐いていた。


 白夜が、初めて目を開けた。


 感情のない、氷のような瞳がこちらを向く。


「三回だ。」


「え。」


「あと三回。」


 白夜は自分の掌を見た。


「能力を使える回数だ。」


 ハルの背中に、冷たいものが走った。


「……数えてるのか。」


「数えている。」


「地下を出た日に、十二回あった。」


「今は三回だ。」


 あまりにも淡々としていた。


 買い物の残金でも数えるような口調だった。


「使い切ったら、どうなるんだ。」


 白夜は、少しだけ首を傾げた。


 その質問の意味が分からない、という顔だった。


「死ぬ。」


 ハルは、何も言えなかった。


「だから、三回で終わらせる。」


「星ヶ丘との試合で、二回。」


「決勝で、一回。」


「計算は合っている。」


 合っていない、とハルは思った。


 合っているのは数字だけだ。


「……それでいいのか。」


「他に使い道がない。」


 白夜は再び目を閉じかけて――止まった。


「天城。」


「……何だ。」


「一つ聞いていいか。」


 その声には、初めてわずかな抑揚があった。


「お前、観られたことはあるか。」


「……観られる?」


「ガラスの向こうからだ。」


 ハルの動きが止まる。


「白い部屋で。」


「毎日、同じ時間に。」


「誰も何も言わない。」


「ただ、記録を取る。」


 白夜は自分の首筋へ指を当てた。


 そこには、黒い数字が刻まれている。


「あれを覚えているか。」


 ハルは答えられなかった。


 覚えていない。


 そんな記憶はない。


 ――ないはずだった。


 それなのに、なぜか喉が渇いた。


「……ない。」


 ようやく、そう答える。


「そうか。」


 白夜は目を閉じた。


「ならいい。」


 それきり、何も言わなくなった。


 ハルはしばらくその場に立っていた。


 訓練場の天井では、記録装置の赤い光が点滅している。


 昨日より、また一つ増えていた。



 十九日目。


 夜の訓練場。


 照明は半分しか点いていない。


 ハルは一人で素振りをしていた。


 昼間の組手で見つけた癖を、身体へ入れ直す作業だった。


 シュッ。


 シュッ。


 乾いた音だけが、広い空間に響いている。


 三十分ほど経った頃、扉が開く音がした。


 振り返る。


 朝比奈美咲が立っていた。


 木刀を持っている。


 二人の視線が合った。


 どちらも、何も言わなかった。


 美咲は一瞬だけ迷うような素振りを見せて、それから訓練場の反対側の端へ歩いていく。


 そして、木刀を構えた。


 シュッ。


 風を切る音がもう一つ増える。


 ハルは自分の位置へ戻り、素振りを再開した。


 シュッ。


 シュッ。


 二つの音が、少しずつずれながら響く。


 合わせているわけではない。


 だが、どちらも止まらなかった。


 三十分。


 一時間。


 言葉は、一つもなかった。


 やがて、美咲が先に木刀を下ろした。


 汗を拭い、出口へ向かう。


 その途中で、一度だけ足を止めた。


「……六位、戻ったんだね。」


 ハルの手が止まる。


「……ああ。」


「そう。」


 それだけだった。


 美咲は扉を開けて、出ていく。


 ハルはしばらく、その扉を見ていた。


 言いたいことは、たぶん互いに山ほどある。


 それでも、今日はこれでいいと思った。


 彼女の肩の包帯は、もう外れていた。



 二十日目。


 夜。


 宿舎の裏手に、城崎硝が立っていた。


 木刀を肩へ担ぎ、壁にもたれている。


 ハルが通りかかるのを、明らかに待っていた。


「よう。」


「……何の用だ。」


「別に。」


 城崎は肩をすくめる。


「順位、抜かれた。」


「ああ。」


「悔しい。」


 あっさりと認めた。


「だからさ。」


 城崎は木刀を肩から下ろす。


「一本だけ、やらないか。」


 ハルの表情が変わった。


「――ここは、線の外だ。」


「そうだよ。」


 城崎は笑う。


「記録に残らない。」


「点も入らない。」


「ただの喧嘩だ。」


「……。」


「一本だけでいい。」


 その目には、追い詰められた者の熱があった。


 順位を落とし、あと二十一日しかない。


 それでも彼は、まだ何かを取り戻そうとしている。


「断る。」


 ハルは即答した。


 城崎の眉が動く。


「……怖いのか。」


「怖い。」


 ハルは、こちらも即答した。


 城崎が、意外そうな顔をする。


「ここで手を出したら、俺は地下へ戻される。」


「二十一日、全部無駄になる。」


「今まで積んできたもの、全部だ。」


 ハルは真っ直ぐ城崎を見た。


「そんな理由で殴られてやるほど、俺は暇じゃない。」


 沈黙が落ちた。


 城崎は木刀を握ったまま、動かなかった。


 夜風が、二人の間を吹き抜けていく。


 やがて。


 城崎は、ゆっくりと木刀を下ろした。


「……ちっ。」


 舌打ちを一つ。


「つまんねぇな、お前。」


「よく言われる。」


「言われるのかよ。」


 城崎は乱暴に髪をかき上げた。


 そして、背を向ける。


 数歩進んだところで、足を止めた。


「なあ。」


「……何だ。」


「お前、あの時と同じ顔してるな。」


 ハルは眉をひそめる。


「あの時?」


「地下だよ。」


 城崎は振り返らない。


「俺の喉元に、木刀を突きつけた時だ。」


 ハルは黙っていた。


「あの時も、お前は打たなかった。」


「今も、殴らない。」


 城崎の声には、感謝も敬意もなかった。


「――踏みつけないんだな、お前は。」


 ただ、事実を確認するような声だった。


「言っとくけどな。」


 城崎は歩き出す。


「俺は変わらねぇぞ。」


「弱い奴は嫌いだ。」


「今も嫌いだ。」


「二十一日後、お前を落として代表になる。」


「それは変わらない。」


 足音が遠ざかっていく。


 ハルはその背中を見送った。


 改心させたわけではない。


 仲間になったわけでもない。


 ただ、今日は殴られなかった。


 それだけの夜だった。



 二十一日目。


 残り十日。


 ハルは訓練場の隅へ向かった。


 壁にもたれ、腕を組んだまま動かない男がいる。


 風間嵐。


 合同調整が始まってから、一度も組手に参加していない。


 視線はいつも、一点だけを追っていた。


 黒崎仁。


「風間さん。」


 ハルが声を掛ける。


 返事はない。


「組手を、お願いしたい。」


「必要ない。」


 即答だった。


「なぜ。」


「お前と戦っても、俺は強くならない。」


 容赦のない言い方だった。


 だが、嘘ではない。


 ハルは息を吸った。


「じゃあ、条件を変えます。」


 風間の視線が、初めて黒崎から外れる。


「……何。」


「あんたの復讐を、見せてくれ。」


 訓練場の空気が、少しだけ変わった気がした。


 風間はハルを見る。


 初めて、まともに見た。


「……何だと。」


「俺には、形がないんだ。」


 ハルは正直に言った。


「三か月前、地下へ落とされた日。」


「絶対に復讐してやると思った。」


「今も、そのつもりでいる。」


「でも、目の前にあいつらが立っても、何も決まらない。」


「憎んでるのかどうかも、分からない。」


 一度、言葉を切る。


「あんたには、それがある。」


「三年間、一日も揺れなかったんだろ。」


「だから、見たい。」


「それが、どういうものなのか。」


 風間はしばらく黙っていた。


 やがて、壁から背を離す。


「――一本だけだ。」


 腰の木刀へ手を掛けた。


「後悔するぞ。」



 結果は、最初の一秒で決まった。


 ハルには、風間が動いたのが見えなかった。


 気付いた時には木刀が弾き飛ばされ、切っ先が喉元にあった。


「……っ。」


「一本。」


 風間は木刀を引く。


「終わりだ。」


「もう一本。」


 ハルは落ちた木刀を拾う。


「一本だけと言った。」


「もう一本。」


 風間は無言でハルを見た。


 そして、構え直した。


 二本目。


 ハルは間合いの外から入ろうとした。


 踏み込む前に、木刀の先を叩き落とされた。


 喉元。


「二本。」


 三本目。


 フェイントを入れた。


 右へ動くと見せて、左へ切り返す。


 地下で何度も使ってきた形だった。


 風間は動かなかった。


 切り返した先に、すでに切っ先があった。


「三本。」


 四本目。


 ハルは初めて、防御に徹した。


 打たせて、受けて、崩れたところを狙う。


 三か月かけて身につけた戦い方だった。


 ――打ってこなかった。


 風間はただ一歩踏み込み、ハルの木刀の腹を軽く押した。


 それだけで、構えが崩れた。


 崩れた先へ、切っ先が来た。


「四本。」


 ハルは一度も、木刀を振ることができなかった。


 振ろうとした瞬間には、もう弾かれている。


 防ごうとした瞬間には、構えを崩されている。


 剣を合わせているという感覚すら、一度もなかった。


 五本目。


 もう考えるのをやめて、真正面から突っ込んだ。


 結果は、一本目と同じだった。


 ハルは床へ膝をついた。


 息が上がっている。


 腕が痺れて、木刀を握れない。


 これが、地下施設最強だった。


 黒崎のような読み合いすらなかった。


 純粋に、速度と精度が違う。


「……もう一本。」


 それでもハルは、そう言った。


「立てないだろう。」


「立ちます。」


「無駄だ。」


 風間は木刀を鞘へ収めた。


「お前と俺の差は、才能じゃない。」


 初めて、風間の方から言葉が出た。


「時間だ。」


「三年間、俺は一日も休まなかった。」


「お前は三か月だ。」


「差が埋まるわけがない。」


 ハルは床を見つめたまま、拳を握った。


 悔しさよりも、納得の方が大きかった。


(そうだ。)


(時間だ。)


(積み上げた時間の差だ。)


 顔を上げる。


「……あんたは。」


 息を整えながら、ハルは問うた。


「黒崎に、何をされたんだ。」


 訓練場が、静まり返った。


 風間の動きが、止まる。


 ハルは続けた。


「三年間、それだけを考えてきたんだろ。」


「一日も休まずに。」


「そこまでさせる何かがあったはずだ。」


 長い沈黙があった。


 やがて、風間は答えた。


「何もされてない。」


 ハルは、意味が取れなかった。


「……え。」


「一度も会ってない。」


「言葉も交わしてない。」


「顔も、この前初めて見た。」


 風間はハルを見下ろす。


「それでも殺す。」


 その声には、狂気の熱がなかった。


 ただ、決定事項を読み上げるような平坦さだけがあった。


「意味が分からない。」


「分からなくていい。」


 風間は背を向けた。


 そして、歩き出す前に一度だけ足を止めた。


「一つ教えてやる。」


「……。」


「復讐ってのは、憎むことじゃない。」


 ハルは顔を上げる。


「毎日、同じことを考え続けることだ。」


「朝起きて、飯を食って、剣を振って、寝る。」


「その全部の合間に、同じことを考える。」


「三年間、一日も抜かずにな。」


 風間の声は、抑揚がなかった。


「お前にはそれがない。」


「……。」


「だから、お前の中にあるのは復讐じゃない。」


 ハルは、反論しようとして、できなかった。


 その通りだったからだ。


 この三か月、自分は復讐のことを毎日は考えていない。


 考えていたのは、生き延びることと、順位と、仲間のことだった。


「じゃあ。」


 ハルは絞り出すように問う。


「……俺の中にあるのは、何なんだ。」


 風間は答えた。


「知らん。」


 そして、それだけだった。


「自分で決めろ。」


 背を向けて、歩き出す。



 その時だった。


 ドクン。


 胸の奥が、鳴った。


「っ……。」


 ハルは膝をついたまま、胸を押さえる。


 息が詰まる。


 視界が揺れた。


 今日は五本も打ち合った後だ。


 疲労かもしれない。


 そう思おうとした。


 だが、違うと分かっていた。


 この鳴り方は、いつもと同じだ。


 ――風間の足音が、止まった。


 ハルは荒い息のまま顔を上げる。


 風間が、振り返っていた。


 黒崎を見ていた時とは、まったく違う目だった。


「……お前。」


 風間が、一歩戻ってくる。


「それは、いつからだ。」


「え。」


「その痛みだ。」


 ハルは壁へ手をつき、身体を起こした。


 痛みは、もう引き始めている。


「……三日前くらいから。」


「胸か。」


「ああ。」


「押さえる場所は、いつも同じか。」


「……たぶん。」


 風間の表情は変わらない。


 だが、その問い方が異常だった。


 医者のようだった。


 何度もそれを見てきた人間の聞き方だった。


「……知ってるのか。」


 ハルは尋ねた。


 風間は答えなかった。


 しばらく、ハルの胸のあたりを見ている。


 やがて、短く言った。


「――俺の知ってる奴が、同じ倒れ方をした。」


 ハルの息が止まった。


「誰だ。」


「……。」


「誰なんだ。」


 風間は答えない。


「風間さん!」


 ハルが立ち上がろうとした時には、もう背を向けていた。


「言えることはない。」


 それだけ残して、訓練場を出ていった。


 扉が閉まる音だけが、静かに響いた。



 ハルはしばらく、その場に座り込んでいた。


 照明はもう半分落ちている。


 誰もいない。


 ――そのはずだった。


「三人目だ。」


 声がした。


 ハルは弾かれたように顔を上げる。


 訓練場の一番端。


 いつもの場所に、白夜才賀が座っていた。


 いつからそこにいたのか、分からなかった。


 目は閉じたままだ。


 それなのに、口だけが動いていた。


「……何だって。」


 ハルは掠れた声で問う。


「三人目だ。」


 白夜は繰り返した。


「同じ倒れ方をした人間を見たのは、お前で三人目だ。」


 ハルの背筋が、凍りついた。


「あとの二人は。」


 白夜は答えない。


「――あとの二人は、どうなった。」


 沈黙が落ちる。


 やがて、白夜はゆっくりと立ち上がった。


 埃を払うでもなく、こちらを見るでもない。


 ただ、出口へ向かって歩き出す。


 そして、すれ違いざまに一言だけ言った。


「観られているうちは、生きていた。」


 それだけだった。


 白夜は振り返らず、扉の向こうへ消えていった。


 残されたハルは、動けなかった。


 天井を見上げる。


 四隅の記録装置が、赤く点滅している。


 昨日より、また一つ増えていた。


 その赤い光を見上げながら、ハルは自分の胸に手を当てた。


 もう、痛みはない。


 それが、少しも安心にならなかった。


 ――大会まで、あと十日。


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