第45話 それぞれの戦い
――地上、五日目。合同調整、三日目。
朝の点呼が終わった直後だった。
「天城ハル。」
監視官が名簿から顔を上げる。
三上という名の、四十前後の男だった。
感情の起伏をほとんど見せない。
昨日も一昨日も、訓練場の隅で端末を叩き続けていた。
「はい。」
「本日、貴方は組手から除外します。」
訓練場の空気が、一瞬だけ止まった。
ハルは意味を掴み損ねて、聞き返す。
「……除外、ですか。」
「はい。」
三上は端末を見たまま続けた。
「昨日、精神評価に懸念事項が記録されました。」
「本日は観察のみとします。」
「組手への参加は認めません。」
周囲がざわつく。
地下側の候補者たちが顔を見合わせた。
カエデが一歩前へ出る。
「おい、何だそれ。」
「黒鋼候補。」
「ハルが何したってんだよ!」
「一昨日の調整試合における発言と行動です。」
「あれは試合中だろ!」
「試合中だからこそ記録されます。」
三上は初めて顔を上げた。
「代表候補は、大会において国内すべての中継に映ります。」
「感情の制御ができない者を、当局は出せません。」
その一言に、カエデは反論の言葉を失った。
正論だった。
腹が立つのは、正論だからだ。
「天城候補。」
「……はい。」
「一日、見学してください。」
「観察も評価対象です。」
「他者の戦い方を記録し、報告書を提出すること。」
「以上です。」
三上は端末へ視線を戻す。
それで終わりだった。
ハルは木刀を握ったまま、その場に立ち尽くしていた。
(一日。)
言葉が、少し遅れて意味を持ち始める。
(一日、戦えない。)
二十七日しかない。
その一日を、自分だけが使えない。
昨日レンから聞いた話が頭をよぎった。
――精神の安定性に懸念。
――城崎とお前の差は四ポイントだったな。
握った木刀が、急に重く感じられた。
「……ハル君。」
澪が心配そうに近付いてくる。
ハルは慌てて表情を作った。
「大丈夫。」
「一日くらい、どうってことない。」
「でも……。」
「見学も評価に入るって言ってただろ。」
「ちゃんと見てくる。」
その笑顔が、自分でも下手だと分かった。
澪は何か言いかけて、口を閉じる。
その時、離れた場所から笑い声が聞こえた。
「はは。」
城崎硝だった。
肩を回しながら、こちらへ視線を向けている。
「ついてないな、天城。」
「……。」
「今日は俺、三本組まれてる。」
指を三本立てる。
「四ポイント。」
「今日で埋まるかもな。」
ハルは何も言わなかった。
言い返す言葉がない。
城崎の言っていることは、事実だからだ。
城崎は満足したように背を向ける。
その背中を見送りながら、ハルはゆっくりと木刀を鞘へ収めた。
自分の武器が、今日は何の役にも立たない。
地下へ落ちてから、こんな感覚は初めてだった。
訓練場が八つの区画に分けられていく。
ハルは壁際の椅子に座り、渡された記録用の端末を膝へ置いた。
その視界の端に、学園側の列が入る。
朝比奈美咲が、今朝から戻ってきていた。
左肩に、包帯が巻かれている。
ハルは、その位置を正確に知っていた。
自分が打った場所だからだ。
――大丈夫か。
喉まで出かかった言葉が、そこで止まる。
(言えるわけがない。)
一昨日、自分はあれを振り抜いた。
打った瞬間、確かにすっきりしていた。
その事実を、まだ抱えたままだ。
今さら心配してみせるのは、あの一撃を「なかったこと」にする行為だった。
打っておいて、優しくもする。
それは一番、ずるい。
ハルは端末へ視線を落とす。
美咲がこちらを見たのかどうか、確かめなかった。
確かめる資格が、まだ自分にはないと思った。
胸の奥が、鈍く重い。
その重さの名前が、後悔なのか、それとは別のものなのか。
ハルには、まだ分からなかった。
教壇の位置に神崎が立つ。
「組み合わせを発表する。」
「第一区画。」
「雨宮雫。」
「――石田レン。」
レンが露骨に嫌そうな顔をした。
「げ。」
「なんだよ、その顔。」
カエデが吹き出す。
「昨日、澪と組んでた子だろ。」
「そうだよ。」
レンはため息をつく。
「一番やりにくい相手だ。」
「弱そうじゃん。」
「そういう問題じゃねぇ。」
レンは首の後ろをかいた。
「あいつ、こっちを見てない。」
「は?」
「見てるんだけど、見てるところが違う。」
カエデには意味が伝わらなかったようだった。
ハルには、少しだけ分かった。
昨日、澪と組んでいた雫のことを思い出す。
――それ、いつも言ってるんですか?
――会う人みんなに。
あの一言は、能力の話ではなかった。
レンは面倒くさそうに区画へ入っていく。
その反対側から、雨宮雫が小走りでやってきた。
「よろしくお願いします!」
ぺこりと頭を下げる。
「……ああ。」
「石田さん、でしたよね。」
「レンでいい。」
「じゃあレンさんで。」
あっさりと距離を詰めてくる。
レンの眉が動いた。
(やりにくい。)
「開始。」
神崎の声が響く。
レンは動かない。
両手をポケットへ入れたまま、その場に立っている。
雫も動かない。
木刀を胸の前で構えたまま、少し首を傾げていた。
十秒。
二十秒。
周囲から声が漏れる。
「またかよ。」
「昨日の如月の時と同じだ。」
「動かねぇな、あいつ。」
レンは頭の中で盤面を組み立てていた。
(水属性。射程は短い。だが地形を選ばない。)
(剣の基礎はある。天城と打ち合った記録がある。)
(正面から行けば負ける。)
(だから――。)
右手をポケットから出す。
「収納。」
空間が揺らぐ。
現れたのは、細い金属の杭が三本。
レンはそれを無造作に足元へ突き刺した。
さらに収納から糸を取り出し、杭と杭の間へ張っていく。
わずか数秒。
自分の周囲に、三角形の陣地ができあがった。
「……罠、ですか。」
雫が目を丸くする。
「そう。」
レンは平然と答える。
「入ってこないなら、それでいい。」
「膠着したまま時間切れなら、俺の負けにはならない。」
「ずるくないですか?」
「褒め言葉として受け取る。」
雫は「うーん」と唸った。
そして、木刀を下ろした。
「じゃあ、私も動きません。」
「……は?」
「だって、入ったら負けちゃうんですよね。」
「それはそうだが。」
「なら動きません。」
あっさりしていた。
レンは眉をひそめる。
(噛み合わねぇ。)
こういう相手が一番厄介だ。
勝ちたがる相手は読める。
勝ちたがらない相手は読めない。
そして、レンには一つ問題があった。
(引き分けは、困る。)
順位は五位。
城崎が三本組んで上がってくる。
ここで一本を落とせば、じわじわ削られる。
(勝たなきゃいけないのは、俺の方だ。)
だが、こちらから出れば剣の間合いへ入る。
彼女を陣地へ引き込むには、動く理由を作るしかない。
沈黙が続く。
訓練場の他の区画からは、ぶつかり合う音が聞こえてくる。
この区画だけが、止まっていた。
「あの。」
先に口を開いたのは雫だった。
「話しかけてもいいですか?」
「試合中だぞ。」
「動いてないので。」
「……好きにしろ。」
雫は少しだけ笑った。
そして、思いもよらないことを言った。
「レンさんって、いつも出口の見える場所に立ちますよね。」
レンの表情が、初めて動いた。
「……何。」
「昨日も、一昨日も。」
雫は指を立てて数える。
「食堂では扉の斜め前。」
「訓練場では壁際。」
「移動車両では、一番後ろの通路側。」
「全部、外に出られる場所です。」
レンは答えなかった。
答えられなかった、というほうが正しい。
「あと。」
雫は続ける。
「空、見ないですよね。」
「……。」
「みんな見上げてるのに。」
「レンさんだけ、一回も見てない。」
訓練場の音が、遠くなった気がした。
レンは自分の呼吸が乱れているのに気付く。
(何なんだ、こいつ。)
地下施設で三年。
窓のない部屋で寝起きした。
天井は、常に頭上にあった。
外へ出て三日。
空が、広すぎる。
上に何もないというのは、支えが何もないということだ。
夜、宿舎の窓を開けたまま眠れなかった。
誰にも言っていない。
カエデにも。
ハルにも。
(――待て。)
その時、レンの思考が一段切り替わった。
(こいつ、なんで今それを言った。)
試合中だ。
膠着している。
この状況で相手の内面を突く。
それは会話ではない。
(――手だ。)
揺さぶり。
相手の集中を削り、判断を鈍らせる。
昨日、如月冴は情報を交換しようと持ちかけてきた。
あれは分かりやすい駆け引きだった。
こちらは違う。
悪意がないから、防げない。
(悪意ゼロで人の急所を撫でてくる。)
(――厄介だ。)
だが、同時に。
(それは、こっちにも使える。)
レンの中で、盤面が組み変わった。
彼女はこちらを見ている。
人の状態を、正確に。
なら――。
(本当に揺れた顔を見せれば、必ず反応する。)
レンは、ゆっくりと息を吐いた。
演技はしなかった。
する必要がなかった。
目を、上げる。
訓練場の高い天井。
その向こうにある、窓の青。
三日間、一度も見なかったもの。
視界がぐらついた。
足元が抜けるような感覚。
実際に、右手が震えた。
「――っ。」
思わず一歩、後ろへ下がる。
その足が、自分で張った糸の外へ出た。
「レンさん!?」
雫の声が飛ぶ。
その瞬間、彼女は踏み出していた。
木刀を下げたまま。
構えも解いたまま。
純粋に、こちらへ手を伸ばそうとして。
(――かかった。)
レンの指が動く。
パチンッ。
張っていた糸のうち、一本だけが弾けた。
それは合図だった。
杭の内側に隠していた本命の糸が、一斉に跳ね上がる。
雫の足元。
そして頭上。
「えっ――」
反応する暇はなかった。
全身へ糸が絡みつく。
膝が折れ、その場へ崩れ落ちた。
「……あ。」
抵抗する間もない。
完全な拘束だった。
レンは震える右手をポケットへ突っ込み、ゆっくりと近付く。
収納から短刀を取り出し、その切っ先を雫の首元へ添えた。
「――そこまで。」
神崎の声が響く。
「勝者、石田。」
訓練場の他の区画から、驚いた声が上がった。
「今の、何が起きた?」
「石田が下がって、雨宮が出て、終わった。」
「意味が分からん。」
レンは短刀を収納へ戻す。
糸を解き始めた。
その手は、まだ少し震えていた。
「……すみません。」
最初に口を開いたのは雫だった。
「油断しました。」
「してない。」
レンは即答した。
「お前は、踏み込むべきじゃない場面で踏み込んだ。」
「油断とは違う。」
雫は起き上がりながら、少しだけ笑う。
「罠かもしれないとは、思いました。」
「なら、なんで出た。」
「本当に困ってる顔だったので。」
レンの手が、止まった。
「間違ってましたか?」
その問いに、レンは答えられなかった。
答えは、はっきりしている。
間違っていない。
あの瞬間、自分は本当に足元が抜けていた。
演技ではなかった。
自分の一番弱いところを、そのまま餌にした。
それが今日の勝ち筋だった。
(……最悪の勝ち方だ。)
三年間、地下でずっとやってきたことだ。
弱さを見せる。
相手が油断する。
その隙で生き残る。
いつもは、何とも思わなかった。
今日は、少しだけ後味が悪い。
「……間違ってない。」
結局、そう答えた。
「え?」
「お前の判断は正しい。」
レンは糸を巻き取りながら続けた。
「間違ってるのは、それを利用した俺の方だ。」
雫はきょとんとしている。
やがて、ゆっくりと首を横に振った。
「利用されたなら、それは私が弱いからです。」
「……。」
「レンさん、頭を下げなくていいですよ。」
その顔には、恨みも落胆もなかった。
レンは大きく息を吐く。
(――こいつ、本当にやりにくい。)
区画を出ようとした時、背後から声が掛かった。
「あの。」
「ん。」
「空、怖いのは普通ですよ。」
レンの足が止まる。
「私も、初めて海を見た時、動けなくなりました。」
「大きすぎて。」
「怖いのは、慣れてないだけです。」
「悪いことじゃないです。」
レンは振り返らなかった。
ただ、片手を軽く上げる。
「……覚えとく。」
それだけ言って、区画を出た。
壁際まで戻ってきたレンへ、ハルが声を掛ける。
「勝ったな。」
「ああ。」
「なんか、嬉しくなさそうだけど。」
「勝ちは勝ちだ。」
レンは椅子へ乱暴に座る。
そう言いながら、一度だけ天井を見上げた。
窓の向こうに、青が見えている。
今度は、すぐには視線を落とさなかった。
三秒。
それから、ゆっくりと目を伏せる。
ハルは何も言わなかった。
ただ、端末へ記録を打ち込む。
――石田レン、勝利。
その下に、もう一行だけ書き足した。
――勝因は、能力でも罠でもない。
「第三区画。」
「朝比奈美咲。」
「――霧島結。」
その組み合わせが読み上げられた瞬間、ハルの手が止まった。
美咲は今朝、治療棟から戻ってきたばかりだ。
「肩の状態は。」
神崎が短く問う。
「軽度の打撲です。」
三上が端末を見たまま答えた。
「医務官の許可は出ています。」
ハルは黙っているしかなかった。
止める権利も、心配する権利も、自分にはない。
区画の中央で、二人が向かい合う。
結はいつもの笑顔だった。
両手を後ろで組み、体重を軽く前後へ揺らしている。
「やっと。」
開口一番、そう言った。
「やっと組めた。」
美咲は身構える。
この四日間、この少女とは何度も同じ場所にいた。
会議室でも。
訓練場でも。
食堂でも。
一度も話しかけてはこなかった。
ただ、見られている感覚だけは、ずっとあった。
「……そんなに、私と戦いたかったんですか。」
「戦いたいわけじゃないよ。」
結はあっさり首を振る。
「話したかっただけ。」
「でも、こっちから話しかけると変でしょ。」
「試合なら自然じゃん。」
美咲は木刀を構えた。
この少女のことは聞いている。
第一試験、第二位。
ほとんど戦わずに、誰よりも多く魔装鉱石を集めた人物。
「開始。」
合図と同時だった。
結の姿が消える。
「――えっ。」
美咲が反応した時には、すでに足元へ違和感があった。
細い光。
糸だ。
床すれすれに、いつの間にか何本も張られている。
(いつ!?)
開始の合図から、二秒も経っていない。
美咲は咄嗟に後ろへ跳んだ。
だが、そこにも糸があった。
足首に絡む。
「っ!」
バランスが崩れる。
その瞬間、上から糸が降ってきた。
肩。
腕。
胴。
全身が締め上げられる。
「きゃっ……!」
膝から崩れ落ちた。
動けない。
指一本、動かせない。
顔を上げると、結が目の前にしゃがみ込んでいた。
「はい、終わり。」
にっこりと笑う。
「三秒くらいかな。」
「……速い。」
「うん、速いよ。」
結は悪びれもせず頷いた。
「勝者、霧島。」
神崎の声が響く。
だが、結は糸を解かなかった。
「あの。」
美咲が困惑する。
「もう、終わりですよね。」
「うん。」
「じゃあ、これ……。」
「もうちょっとだけ。」
結は美咲の正面へ座り込んだ。
膝を抱えて、こちらを覗き込む。
「聞きたいことがあるの。」
その笑顔は、変わらない。
変わらないのに、目だけが少しも笑っていなかった。
「動けない人からしか聞けないことって、あるでしょ?」
美咲の背筋が冷たくなる。
「……何を。」
「うん。」
結は指先で糸を弾いた。
ピン、と小さな音がする。
「三か月前から気になってた。」
「え……。」
「私、ハルに聞いたことがあるの。」
結は少しだけ首を傾げる。
「地下に来て、まだ何日目かの頃かな。」
「『朝比奈美咲って知ってる?』って。」
美咲の呼吸が、止まった。
「あの時のハルの顔、面白かったよ。」
「箸が止まって、指に力が入って。」
「それでも、何も言わなかった。」
結は美咲の顔を覗き込む。
「あれから三か月。」
「ハルは一回も、あなたを悪く言わなかった。」
「一回も。」
「それって、変じゃない?」
「……。」
「捨てられたのに。」
美咲は何も言えない。
「私、人を見るのが仕事なの。」
結の声は軽いままだった。
「誰が嘘をついてるか。」
「誰が何を隠してるか。」
「それを見抜いて、有利な時に使う。」
「地下ではそれで生きてきた。」
彼女は美咲の目を真っ直ぐ見た。
「だからね。」
「三か月ずっと、あなたのことを知りたかった。」
「ハルがそこまで庇う人が、どんな人なのか。」
そして、質問が飛んだ。
「朝比奈さん。」
「ハルのこと、好き?」
訓練場の音が、遠くなる。
美咲は目を見開いた。
答えられない質問だった。
少し前までなら。
一昨日までなら。
でも。
一昨日、自分は打ち倒された。
肩が痛い。
今も痛い。
その痛みが、なぜか彼女を素直にさせていた。
「……好き。」
美咲は答えた。
「今も?」
「今も。」
「黒崎君と付き合ってるのに?」
「うん。」
結の指が、止まった。
「仁のことも好き。」
「ハルくんのことも好き。」
「同じじゃない。」
「でも、どっちも本当。」
美咲は結を真っ直ぐ見た。
「最低だと思う。」
「そう思ってる。」
「でも、嘘はつかない。」
「嘘をついたら、また同じことをする気がするから。」
結は、何も言わなかった。
しばらく、その顔を見つめている。
やがて、指先の糸がゆるんだ。
美咲の身体を締め付けていた圧力が、静かに消えていく。
「……つまんない。」
結が呟いた。
「え?」
「隠さないんだもん。」
結は立ち上がり、糸を巻き取り始める。
「私、情報を武器にするの。」
「隠してるものを掘り出して、必要な時に使う。」
「でもさ。」
手が止まる。
「自分から全部出されたら、武器にならないんだよ。」
「……ごめんなさい。」
「謝らないでよ。」
結は口を尖らせた。
「余計につまんない。」
美咲は肩を押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。
結はその様子をしばらく見ていた。
そして、誰にも聞こえないくらいの声で言った。
「いいなあ。」
「え?」
「……何でもない。」
結は背を向けて歩き出す。
その背中を、美咲は見送った。
(今の。)
聞き間違いではなかったと思う。
あの子は、羨ましいと言った。
全部さらけ出せることが。
自分は、それができないから。
美咲はそう感じたが、確かめる術はなかった。
壁際で、ハルは端末に手を置いたまま動けずにいた。
距離があって、会話の中身までは聞こえていない。
それでも、美咲が何かを答えたことと、結がそれを聞いて動きを止めたことは見えた。
(何を、話してたんだろう。)
聞きたい。
聞けない。
ハルは端末へ視線を落とす。
記録欄には、まだ一文字も入力していなかった。
「第五区画。」
その名前が読み上げられた瞬間、訓練場全体がざわめいた。
「黒鋼カエデ。」
「――黒崎仁。」
誰かが息を呑む音がした。
地下側の第四位。
学園側の主席。
この三日間、誰もが心のどこかで待っていた組み合わせだった。
「おっ。」
カエデが首を鳴らす。
「来たか。」
その顔は、笑っていた。
「やっとまともなのが来た。」
黒崎は無言で区画へ入る。
制服の上着を脱ぎ、シャツの袖をまくった。
木刀を一度だけ振る。
空気が、鋭く裂ける音がした。
それだけで、周囲の生徒たちが半歩下がった。
ハルは端末を膝へ置いたまま、身を乗り出していた。
(黒崎の戦いを、外から見るのは初めてだ。)
三か月前は、自分が向かい合っていた。
あの時は必死で、何も見えていなかった。
「両者、構え。」
カエデは構えない。
拳を軽く握って、だらりと下げているだけだった。
「構えないのか。」
黒崎が問う。
「構えると遅くなる。」
「そうか。」
黒崎は正眼に構えた。
「開始。」
カエデが消えた。
ハルの目にも追えなかった。
地面が爆ぜる。
床の一部が砕け、破片が飛び散る。
次の瞬間には、黒崎の懐にカエデの拳があった。
「おらぁっ!」
ガァンッ!!
衝撃音。
だが、拳は空を打っていた。
黒崎は半歩だけ横へずれている。
「速い。」
黒崎が呟いた。
「だが直線だ。」
木刀が振り下ろされる。
カエデは腕で受けた。
鈍い音。
「かってぇな!」
「そっちこそ。」
黒崎は淡々と返す。
「腕で木刀を受けるな。折れる。」
「折れねぇよ。」
カエデは笑いながら二撃目を放つ。
右。
黒崎はかわす。
左。
かわす。
回し蹴り。
黒崎は木刀で受け流し、その勢いを利用して距離を取った。
「……なるほど。」
黒崎の目が細くなる。
「筋力強化だけではないな。」
「わかる?」
「衝撃を骨で受けている。」
「関節が壊れない構造になっている。」
「そういう能力か。」
カエデの笑みが消えた。
「……三合で見抜くのかよ。」
「見なければ勝てない相手だ。」
黒崎は木刀を持ち直す。
「褒めている。」
カエデはしばらく黒崎を睨みつけていた。
そして、両手を握り締める。
「――上等。」
空気が、変わった。
カエデの全身の筋肉が膨れ上がる。
足元の床に、放射状のひび割れが走った。
「本気でいく。」
「どうぞ。」
カエデが地を蹴る。
今度は直線ではなかった。
左へ。
右へ。
壁を蹴り、天井近くまで跳び上がる。
「上ぇ!」
落下と同時に振り下ろされる拳。
黒崎は木刀を頭上へ構えた。
ドゴォンッ!!
訓練場が揺れた。
黒崎の足元が陥没する。
木刀が、みしりと軋んだ。
全員が息を呑んだ。
受けた。
あの一撃を、正面から。
「……重いな。」
黒崎の声には、まだ余裕があった。
「だが。」
その瞬間だった。
黒崎の身体から、金色の光が弾けた。
バチィッ――。
雷光。
カエデの身体が痺れ、動きが一瞬止まる。
「なっ……!」
その一瞬で十分だった。
黒崎の木刀が、下から跳ね上がる。
カエデの顎をかすめ、身体が浮いた。
そこへ二撃目。
胴。
三撃目。
肩。
カエデの身体が吹き飛び、床を転がる。
ズザザザッ――。
訓練場の端まで滑って、ようやく止まった。
誰も声を出せない。
三合で見抜かれ、一瞬で決着がついた。
黒崎は木刀を下ろす。
「――そこまで。」
神崎の声が響いた。
「勝者、黒崎。」
カエデはしばらく倒れたまま動かなかった。
やがて、床に手をついて起き上がる。
「……くそ。」
口の中を切ったのか、血を吐き出す。
それでも、その顔は笑っていた。
「痺れた。」
「今の、何だよ。」
黒崎は答えた。
「雷だ。」
「知ってる。」
「痛かった。」
「威力は最小にした。」
「ふざけんな。」
カエデは立ち上がる。
足がふらついている。
それでも構え直そうとした。
「もう一回。」
「終わっている。」
「もう一回だ。」
「――黒鋼。」
黒崎の声が、少しだけ低くなった。
「お前は、俺の一撃を受けた。」
カエデの動きが止まる。
「頭上からの落下打を、俺は正面から受けた。」
「あれで木刀が軋んだ。」
「あと二回やられたら折れていた。」
黒崎は自分の木刀を見せる。
中央に、はっきりとひびが入っていた。
「本番でこれをやられたら、俺は武器を失う。」
「それは、勝ち筋だ。」
カエデは目を見開いた。
「……教えるのかよ。」
「隠しても、二十七日後には知られる。」
黒崎は木刀を鞘へ収める。
「なら、その上で勝ちたい。」
そう言って、区画を出ていった。
カエデはその背中をしばらく見ていた。
そして、拳を握り直す。
「……気に入らねぇ。」
その顔には、悔しさよりも別の色が浮かんでいた。
壁際で、ハルは端末を握り締めていた。
(三合。)
(三合で、カエデの能力の構造まで見抜いた。)
三か月前、自分は黒崎の掌の上で走らされた。
あれは能力ではなかった。
観察だった。
そして今、あの観察力に加えて、あの剣と、あの雷がある。
(……遠いな。)
率直にそう思った。
絶望ではない。
距離の測定だった。
(でも。)
ハルは自分の手を見る。
(測れるってことは、見えてるってことだ。)
三か月前は、それすら見えなかった。
夕方。
調整が終わり、訓練場から人が引いていく。
ハルは最後まで残って、報告書を打ち込んでいた。
雫とレン。
美咲と結。
カエデと黒崎。
三つの試合を、思い出せる限り細かく書いた。
書きながら、ずっと同じことを考えていた。
(俺は、今日何もしていない。)
「――ハル君。」
顔を上げると、澪が立っていた。
両手を身体の前で組んでいる。
「まだ、終わらないですか。」
「もうすぐ。」
「……そうですか。」
澪はその場から動かなかった。
帰るでもなく、座るでもなく、ただ立っている。
ハルは端末を閉じた。
「どうかしたか。」
「あの。」
澪は少し言葉を探していた。
「今日、大丈夫でしたか。」
「大丈夫って?」
「……戦えなくて。」
その一言に、ハルは一瞬だけ言葉に詰まった。
誰にも言っていない。
カエデにもレンにも、平気な顔をしていた。
「大丈夫だよ。」
「嘘。」
澪は即答した。
「え。」
「ハル君、朝からずっと同じ顔してます。」
ハルは思わず自分の頬に触れる。
「そんなに分かりやすいか。」
「私、人の痛みを見るのが得意なので。」
澪は少しだけ笑った。
それは冗談のつもりだったのだろう。
だが、言った本人が一番寂しそうな顔をしていた。
ハルは椅子から立ち上がる。
「……そっちこそ。」
「え?」
「今日、ずっと隅にいただろ。」
澪の肩が、わずかに動いた。
「見てた。」
「昼も、一人だった。」
澪は視線を落とす。
「みんな、外へ行くので。」
「売店とか、食堂とか。」
「人が多いところは……。」
「怖いか。」
「はい。」
素直に頷いた。
「地下は狭かったので。」
「誰がどこにいるか、全部分かりました。」
「でもここは、後ろから急に人が来るんです。」
その声が少し震えた。
「ぶつかったら、どうしようって。」
「私の血が、誰かに付いたらって。」
ハルは黙って聞いていた。
「ずっと、考えてます。」
「歩いてる間、ずっと。」
「食べてる間も。」
「寝る前も。」
澪は自分の両手を見つめる。
「……疲れました。」
それだけ言うと、慌てて顔を上げた。
「あっ、ごめんなさい。」
「ハル君の方が大変なのに。」
「私、何を。」
「澪。」
ハルが名前を呼ぶ。
澪の言葉が止まった。
「順番なんてないだろ。」
「え。」
「大変さに順番はいらない。」
ハルは自分でも意外なほど、はっきりそう言った。
「俺の方が大変だから、お前は言うなってのはおかしい。」
「……。」
「言えよ。」
澪はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……はい。」
二人はそのまま、誰もいない訓練場に立っていた。
窓の外は、もうかなり暗くなっている。
しばらくして、澪が口を開いた。
「ハル君。」
「ん。」
「一つだけ、聞いてもいいですか。」
「ああ。」
澪は真っ直ぐこちらを見た。
「一昨日から、胸を押さえてますよね。」
ハルの息が、止まった。
「二回、見ました。」
「公園で一回。」
「会議室で一回。」
澪は続ける。
「今日も、朝に一回。」
「……気付いてたのか。」
「言いましたよね。」
澪は少しだけ笑った。
「人の痛みを見るのが得意なんです。」
ハルは答えられなかった。
誰にも言うつもりはなかった。
レンにも。
カエデにも。
言えば、心配される。
心配されれば、順位に響く。
――そう考えている自分が、少し嫌だった。
「……分からないんだ。」
結局、そう答えた。
「痛みじゃない。」
「疲れでもない。」
「ただ、たまに胸の奥が鳴る。」
「会議室の時は、ある言葉を聞いた時だった。」
「言葉?」
「……能力研究所。」
その五文字を口に出した瞬間。
また、鳴った。
ドクン。
「っ……。」
ハルは膝をつきそうになる。
澪が反射的に手を伸ばしかけて――止まった。
触れられない。
自分の手は、人を助けるためには使えない。
「ハル君!」
「大丈夫。」
ハルは壁へ手をついて、息を整えた。
数秒で引いていく。
「……ほら。」
「大丈夫じゃないです。」
澪の声が震えていた。
「今、私、何もできなかった。」
その顔を見て、ハルは慌てて首を振る。
「違う。」
「そういう意味じゃない。」
「そうです。」
澪は伸ばしかけた手を、胸の前で握り締めた。
「私の能力は、痛みを分けることしかできません。」
「治せません。」
「軽くもできません。」
「ただ、同じだけ苦しくなるだけです。」
目に涙が浮かんでいた。
「役に立たないんです。」
ハルはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「白夜の時は、役に立った。」
澪が顔を上げる。
「あの時、お前が触らなかったら。」
「あいつがどれだけ苦しんでるか、誰も知らないままだった。」
「レンも、あの情報で動いた。」
「……でも。」
「痛みを分けるってのは。」
ハルは言葉を探した。
「治すことじゃないけど。」
「――一人にしないことだろ。」
澪の目から、涙が一粒こぼれた。
慌てて袖で拭う。
「……ずるいです。」
「何が。」
「そういうこと言うから。」
澪は俯いたまま呟いた。
「みんな、ハル君についていくんです。」
ハルは何と答えていいか分からず、頭をかいた。
「行くか。」
「はい。」
二人は並んで訓練場を出る。
肩が触れそうな距離で、触れない距離だった。
それでも、来た時よりは近かった。
宿舎の入口に、掲示板がある。
毎日、その日の暫定順位が張り出されることになっていた。
地下側の候補たちが、その前に集まっている。
「おい。」
最初に気付いたのはカエデだった。
「……なんだこれ。」
ハルと澪が近付く。
貼り出された紙には、十の名前が並んでいた。
第一位 白夜 才賀
第二位 霧島 結
第三位 風間 嵐
第四位 黒鋼 カエデ
第五位 石田 レン
第六位 城崎 硝
第七位 天城 ハル
第八位 白鳥 澪
ハルは、その二行を何度も読み直した。
六位ではなかった。
七位だった。
その一つ上に、城崎の名前がある。
「ハル……。」
カエデが言葉を失っている。
レンは腕を組んだまま、黙って紙を見上げていた。
背後から、笑い声が聞こえた。
「言った通りだろ。」
城崎硝だった。
「三本組んで、三本勝った。」
「お前は、一本も組めなかった。」
「それだけの話だ。」
ハルは振り返らなかった。
言い返す言葉が、一つもない。
今日、自分は何もしていない。
その結果が、この紙に出ているだけだ。
「あと二十七日。」
城崎は横を通り過ぎながら言った。
「せいぜい踏ん張れよ。」
足音が遠ざかっていく。
誰も口を開かなかった。
澪が自分の名前を見つめている。
第八位。
彼女もまた、外側にいた。
ハルはその横顔を見て、そして紙へ視線を戻した。
(一日で、一つ落ちた。)
(残り二十七日。)
拳を握る。
痛くはなかった。
悔しさよりも先に、はっきりした考えが一つだけ浮かんでいた。
(明日から、全部拾う。)
振り返ると、レンが小さく笑っていた。
「いい顔だ。」
「……そうか?」
「昨日よりずっといい。」
レンは掲示板を指差す。
「二十七日で二つ上がればいいだけだ。」
「簡単だろ。」
「簡単じゃない。」
「簡単だって言え。」
レンは肩をすくめた。
「言った方が、身体が動く。」
ハルは少しだけ笑った。
久しぶりに、自然に笑えた気がした。
「……簡単だ。」
「そうだ。」
カエデが背中を叩く。
「痛い。」
「気合いだ。」
「加減しろって。」
その声を聞きながら、澪も少しだけ表情を緩めた。
窓の外では、街の明かりが一つずつ灯り始めている。
二十七日後。
あの円卓の向こう側と戦う日まで、あと二十七日。
その舞台に立つ資格を、ハルはまだ持っていなかった。




