第44話 合同調整
――地上、四日目。合同調整、二日目。
朝の訓練場は、昨日より静かだった。
人数は同じ。
時間も同じ。
違うのは、視線の量だった。
ハルが入ってきた瞬間、学園側の何人かが動きを止めた。
地下側でさえ、いくつかの視線がこちらへ向く。
昨日の記録は、その日のうちに両陣営へ共有されている。
――天城ハル、勝利。
朝比奈美咲を一撃で沈めた無能力者。
そういう形で伝わっていた。
ハルは何も言わず、壁際で木刀の素振りを始めた。
美咲の姿は、まだない。
肩の打撲で、午前中は治療棟だと聞いている。
「よう。」
レンが隣へ並ぶ。
「寝れたか。」
「……あんまり。」
「だろうな。」
レンは欠伸をしながら壁へもたれた。
「顔に出てる。」
「そんなに?」
「昨日から、ずっと同じ顔だ。」
ハルは素振りの手を止めない。
答えたくなかった。
昨日、あの一撃を打った瞬間に自分が何を感じたか。
それを口にする勇気は、まだなかった。
「あれ?」
明るい声だった。
ハルは振り返る。
少し離れた場所で、一人の男子生徒が手を振っていた。
癖のある明るい茶髪。
背は高くない。
人懐っこい顔で笑っている。
「天城じゃん!」
ハルの手が止まった。
「久しぶり!」
男子生徒は当たり前のように歩み寄ってくる。
「元気してた?」
ハルは、何も言えなかった。
鷹取樹。
雷属性。
選別試験の実戦項目で、風属性の生徒を圧倒していた男だ。
三か月前まで、同じ学年にいた。
そして。
全校逃走試験の日。
百二十四人の中に、この男もいた。
二階の廊下で、雷撃を撃たれた記憶がある。
足元を這うように走ってきた青白い光。
あと半歩遅ければ、そこで終わっていた。
それなのに。
「地下ってどんな感じだった?」
鷹取は屈託なく尋ねる。
「やっぱ大変?」
「飯とか出るの?」
悪意はなかった。
嫌味でもない。
冗談ですらなかった。
ただ、久しぶりに会った同級生へ声を掛けただけの顔だった。
(……覚えてないのか。)
いや。
違う。
覚えている。
覚えていて、なお、何も感じていない。
あの三十分は、彼にとって「そういう行事」だったのだ。
参加して、走って、終わった。
それだけ。
ハルの背筋が、冷たくなる。
(そうか。)
(これが、普通なんだ。)
憎まれていたわけではない。
嫌われていたわけでもない。
ただ、誰も何とも思っていなかった。
それが一番、堪えた。
「――おい。」
低い声が割り込んだ。
カエデだった。
拳を握ったまま、鷹取を睨みつけている。
「お前。」
「今、何て言った。」
「え?」
鷹取はきょとんとする。
「地下がどんな感じかって……。」
「それを、こいつに聞くのか。」
「カエデ。」
ハルが名前を呼ぶ。
「よせ。」
「よせるかよ!」
「線の外だ。」
その一言で、カエデの動きが止まった。
線の外で手を出せば、即失格。
地下施設へ送還。
昨日、全員が聞かされたばかりだった。
「……っ。」
カエデは歯を食いしばり、拳を下ろす。
その手が、震えていた。
「ちっ。」
舌打ちだけを残して、離れていく。
鷹取は最後まで、何が起きたのか分かっていない顔をしていた。
「――鷹取。」
その肩を、別の男子生徒が掴んだ。
赤い髪を短く刈り込んだ、体格のいい男。
「あ、桐生。」
「来い。」
「何で?」
「いいから来い。」
桐生陽介は、鷹取を引きずるようにその場から離した。
数メートル進んだところで、低く言う。
「お前、いま何を言ったか分かってるか。」
「え、まずかった?」
「……いい。」
桐生はそれ以上言わなかった。
言っても伝わらないと分かったのだろう。
その様子を、少し離れた場所から見ている女子生徒がいた。
銀縁の端末を片手に持ち、姿勢を崩さず立っている。
如月冴。
氷属性。
選別試験で相手の視界を奪い、教師陣から高評価を得た戦術型だった。
「桐生君。」
彼女は端末から目を離さずに言った。
「時間の無駄です。」
「……何だと。」
「調整に集中してください。」
「あと二十八日しかありません。」
桐生が振り返る。
「お前な。」
「今の会話、聞いてただろ。」
「聞いていました。」
如月はようやく顔を上げた。
「その上で言っています。」
感情のない目だった。
「天城ハルは退学者です。」
「学園の判断は、規定に沿って行われました。」
「私たちが個人的な感情を持つ必要はありません。」
「規定が正しかったかどうかは――」
「私たちが判断することではありません。」
桐生の顔が赤くなる。
「ふざけんな。」
拳を握り締める。
「俺はあいつと戦ったんだ。」
「実戦試験で。」
「一本取られた。」
「能力なしで、俺の懐へ入ってきた。」
「規定がどうとか、そんな話をしてんじゃねぇ。」
如月は表情を変えなかった。
「感情論では勝てません。」
「そういう話をしてんじゃねぇって言ってんだよ!」
「桐生。」
その時、低い声が二人の間へ落ちた。
黒崎だった。
「……黒崎。」
「如月の言うことは正しい。」
桐生の表情が固まる。
「だが、お前の言うことも正しい。」
黒崎は二人を順番に見た。
「片方だけで勝てる試合じゃない。」
「二十八日で、両方持て。」
それだけ言って、歩き去っていく。
如月は端末へ視線を戻した。
「……納得はしていません。」
「俺もだ。」
桐生は乱暴に髪をかき上げる。
それでも、それ以上は言わなかった。
午前の調整が始まる。
訓練場は八つの区画に分けられ、それぞれで組手が行われていた。
ハルは自分の区画で木刀を振っていた。
相手は地下側の候補者。
三本取って、二本取られる。
悪くない。
だが、集中しきれない。
視界の端に、いくつもの視線があった。
(見られてる。)
学園側からではない。
地下側からだ。
順位表の下の方にいる者たちが、こちらを見ている。
六位。
その席を空けさせたい人間が、この訓練場に四人いる。
その事実を、ハルは今日になって実感していた。
「よう。」
背後から声がした。
振り返って、ハルは目を細める。
痩せた体格。
乱れた黒髪。
人を見下すような笑み。
「城崎。」
「久しぶり。」
城崎硝は木刀を肩へ担いだまま笑った。
「二週間も経ってないけど。」
「……何の用だ。」
「別に。」
城崎は肩をすくめる。
「順位表、見た?」
「見た。」
「俺、九位。」
城崎はにやりと笑った。
「お前、六位。」
「差は四ポイント。」
「……。」
「近いだろ。」
ハルは黙って木刀を握り直す。
城崎は続けた。
「勘違いすんなよ。」
「恨んでるわけじゃない。」
「あの時は負けた。」
「それは認める。」
一歩、近付く。
「でもな。」
「あそこで俺を潰しとけばよかったのに。」
「お前は潰さなかった。」
その目に、初めて熱が宿った。
「おかげで俺はまだここにいる。」
「二十八日後、俺は代表になる。」
「お前を落として。」
ハルは何も言わなかった。
城崎は満足したように笑い、背を向ける。
「じゃあな、天城。」
その背中を見送りながら、ハルは息を吐いた。
(そうか。)
(これも、あの日の続きなんだな。)
自分が選んだことの結果が、今、四ポイント差になって立っている。
後悔はしていない。
それでも、少しだけ肩が重くなった。
昼を挟んで、午後は合同の組手になった。
学園側と地下側を混ぜて組ませる。
神崎の指示だった。
「互いの戦い方を知れ。」
「相手を知らずに勝てる試合はない。」
最初に組まれたのは、黒鋼カエデと桐生陽介だった。
「おっ。」
カエデが拳を鳴らす。
「炎か。」
「言っとくが手加減はしねぇぞ。」
桐生も引かない。
「こっちの台詞だ。」
開始と同時に、桐生が炎を放つ。
カエデは避けない。
真正面から突っ込む。
「熱ぃ!」
「避けろよ!」
「避けたら勝てねぇだろ!」
拳が炎を突き破る。
桐生は咄嗟に飛び退いた。
その頬を、風圧だけがかすめる。
「……嘘だろ。」
地面に亀裂が入っていた。
「今の、当たってたら死んでたぞ。」
「当たってねぇじゃん。」
「そういう問題か!」
言い合いながらも、二人はすぐに構え直す。
噛み合っていた。
まっすぐな者同士は、案外早く分かり合う。
その隣の区画では、石田レンと如月冴が向かい合っていた。
こちらは対照的だった。
開始から一分、どちらも動かない。
「……仕掛けてこないんですね。」
「そっちこそ。」
レンは欠伸をする。
「先に動いた方が損だろ。」
「同意見です。」
「じゃあ、このままでいいか。」
「よくありません。」
如月は端末を仕舞う。
「あなたの収納能力について、聞かせてください。」
「試合中に情報交換すんのか。」
「効率的です。」
「……嫌いじゃないな、その考え方。」
レンは笑った。
その目だけは、まったく笑っていない。
(こいつ、こっちの手札を数えてやがる。)
(――こっちも数えてるけどな。)
もう少し離れた場所では、雨宮雫が困った顔で立っていた。
組手の相手は、白鳥澪。
「あの……。」
雫がおずおずと手を挙げる。
「白鳥さん、でしたっけ。」
「……はい。」
「私、あんまり強くないので……。」
「私もです。」
二人はしばらく黙り込んだ。
どちらも先に踏み込まない。
「あの。」
先に口を開いたのは澪だった。
「一つだけ、お願いがあります。」
「なんですか?」
「私に触らないでください。」
雫が目を丸くする。
「え……。」
「私の血が付くと、能力が発動します。」
「痛みが、そちらへ流れます。」
澪は自分の手を見つめた。
「事故が起きたら、私が試験を失います。」
「だから、距離を取って戦ってもらえたら助かります。」
雫はしばらく澪を見つめた。
そして、静かに頷いた。
「……分かりました。」
「ありがとうございます。」
「でも。」
雫は少しだけ首を傾げる。
「それ、いつも言ってるんですか?」
「え?」
「会う人みんなに。」
澪は答えられなかった。
雫はそれ以上聞かず、木刀を構える。
「じゃあ、遠くから行きますね。」
その声は、優しかった。
訓練場の隅では、二人だけが誰とも組んでいなかった。
風間嵐は、壁にもたれたまま動かない。
剣も抜いていない。
視線だけが、ずっと一点に向いている。
黒崎仁だった。
黒崎が動く。
風間の目も動く。
黒崎が止まる。
風間の目も止まる。
瞬き一つ分も逃していない。
教官が声を掛けた。
「風間候補。」
「調整に入りなさい。」
「必要ない。」
「記録に残りますよ。」
「構わない。」
それだけだった。
もう一人。
白夜才賀は、訓練場の一番端に座っていた。
膝を抱えるでもなく、ただ床に腰を下ろしている。
誰も近付かない。
地下側でさえ、彼を避けていた。
その視線が、一度だけ天井へ向く。
天井の四隅には、小さな記録装置が設置されている。
昨日はなかったものだ。
白夜はそれをしばらく見上げてから、また目を閉じた。
誰にも聞こえない声で、短く呟く。
「……増えたな。」
その一言に気付いた者は、誰もいなかった。
夕方。
調整が終わり、地下側の候補たちが宿舎へ戻る道を歩いていた。
カエデが大きく伸びをする。
「あー、疲れた。」
「あの炎の奴、しつこかった。」
「楽しそうだったじゃねぇか。」
レンが呆れたように言う。
「うるせぇ。」
結は袋いっぱいの菓子を抱えていた。
「見て見て。」
「学園の子が売店で買ってくれた。」
「お前、初日から何やってんだ。」
「情報交換。」
「絶対違うだろ。」
いつもの空気だった。
ハルは少し後ろを歩いていた。
昨日から、うまく笑えない。
その隣へ、レンが並んだ。
「ハル。」
「……ん。」
「一つ言っとく。」
レンは前を向いたまま続けた。
「昨日の試合な。」
「お前、勝った。」
「ああ。」
「――だが、評価は下がってる。」
ハルは足を止めた。
「……え?」
「監視官の記録、盗み見た。」
「盗み見たって……。」
「見えるところに置いてあった。」
レンはあっさり言う。
「そっちの責任だ。」
「それで。」
「何て書いてあった。」
レンは一度だけ、ハルを見た。
「――精神の安定性に懸念。」
ハルの息が止まる。
「評価項目にあっただろ。」
「連携。判断力。戦術。精神力。」
「お前は勝ったが、途中で怒鳴った。」
「訓練場中に響く声でな。」
「代表として相応しいかどうかを見る試験で、あれは減点だ。」
ハルは何も言えなかった。
昨日、確かに叫んだ。
抑えられなかった。
抑える気もなかった。
「城崎とお前の差は四ポイントだったな。」
「……ああ。」
「今日でどうなったかは、俺にも分からん。」
レンは肩をすくめた。
「言っておくが、責めてるんじゃない。」
「あれを言わなきゃ、あの子は一生あのままだった。」
「お前がやったことは、間違ってない。」
そして、少しだけ声を落とす。
「ただ、代償はある。」
「それだけは知っとけ。」
ハルは拳を握った。
勝った。
言いたかったことも言えた。
美咲は、初めて自分から打ちかかってきた。
それでも。
自分の順位は、下がっている。
(……正しいことをすると、席がなくなるのか。)
その考えが浮かんだ瞬間、ハルは首を振った。
(違う。)
(順位が下がったのは、俺が抑えられなかったからだ。)
自分の言葉で、自分の場所が削れた。
それだけの話だった。
夕日が、宿舎の白い壁を赤く染めている。
二十八日後。
あの円卓の向こう側と戦う。
そこに自分がいられる保証は、どこにもなかった。
「レン。」
「ん。」
「明日、組手の相手を選べるか。」
レンは少し驚いたように眉を上げる。
「誰とやる気だ。」
ハルは前を向いたまま答えた。
「――上位の奴と。」
「全員だ。」




