第43話 対峙
――地上、三日目。合同調整、初日。
施設は、想像していたよりもずっと新しかった。
高い天井。
白い壁。
床には試合用の線が何本も引かれている。
窓から差し込む朝の光が、磨かれた床へ反射していた。
地下施設の訓練場とは、何もかもが違う。
あそこは灰色で、湿っていて、いつも薄暗かった。
「うわ。」
カエデが天井を見上げて口を開けた。
「明るっ。」
「文句か。」
レンが横から言う。
「褒めてんだよ。」
カエデは足元を踏み鳴らす。
「床が固ぇ。」
「いい床だ。」
「ここなら思いっきり殴れる。」
「壊すなよ。」
「壊さねぇよ。」
「たぶんな。」
「たぶんじゃ困る。」
その会話を、少し離れた場所で学園側の生徒たちが聞いていた。
誰も近付いてこない。
訓練場の中央に線が引かれているわけでもないのに、両陣営の間には二十メートルほどの空白があった。
地下施設の十名。
星ヶ丘学園の六名。
同じ空間にいて、誰も互いを見ようとしない。
ハルは木刀を握ったまま、その空白を見ていた。
三か月前まで、自分は向こう側にいた。
制服も同じだった。
同じ授業を受けて、同じ廊下を歩いていた。
今は、線のこちら側にいる。
(不思議な感じだな。)
そう思うだけで、何の感情も湧かなかった。
その時、扉が開いた。
入ってきたのは、見覚えのある男だった。
黒いジャージ。
短く刈った髪。
冷めた目。
「静粛に。」
その声を聞いた瞬間、ハルの肩がわずかに動いた。
神崎。
星ヶ丘学園、実技担当教師。
三か月前、演習場でハルへこう言った男だ。
――お前は見学でいい。
神崎は訓練場全体を見渡すと、感情のない声で告げた。
「本日より、両校の合同調整を開始する。」
「私が全体の進行を務める。」
地下側の一人が舌打ちする。
「学園の教師かよ。」
「不服なら申し出ろ。」
神崎は即答した。
「記録に残す。」
誰も何も言わなかった。
神崎の視線が、一度だけハルの上で止まる。
ほんの一瞬。
何の言葉もなかった。
覚えているのか、いないのか。
それすら分からない目だった。
「初日は、互いの実力把握を行う。」
「一対一の調整試合。」
「使用武器は模擬戦用の木刀。」
「能力の使用は許可する。」
「勝敗は記録するが、評価には直結しない。」
そこで一拍置く。
「ただし、記録は残る。」
「地下施設側の諸君は、それが何を意味するか理解しているな。」
カエデが小さく舌打ちした。
十名から六名。
その言葉を思い出さない者は、誰もいない。
「なお、この調整試合は当局が認可した公式の手合わせだ。」
「私闘には該当しない。」
「逆に言えば、線の外で手を出せば即失格だ。」
「忘れるな。」
神崎は端末を開いた。
「第一組を発表する。」
訓練場が静まる。
全員が自分の名前を待った。
「天城ハル。」
ハルは顔を上げる。
名前を呼ばれることに、まだ慣れない。
「――朝比奈美咲。」
空気が、止まった。
誰も声を出さなかった。
地下側も。
学園側も。
全員がその二つの名前の意味を、少なくとも噂として知っていた。
「……おい。」
カエデが眉をひそめる。
「本気か。」
レンは動かない。
ただ、神崎の顔を見ていた。
(偶然じゃねぇな。)
初日の第一組。
全員が見ている場所で、この二人。
(誰の指示だ。)
考えたところで、答えは出ない。
ハルは黙って前へ出た。
線の内側へ入る。
反対側から、美咲がゆっくりと歩いてくる。
手には木刀。
その持ち方を見て、ハルは少しだけ違和感を覚えた。
(……握りが、変わってる。)
三か月前の美咲は、剣を握る人間ではなかった。
治癒能力者。
後方支援。
実技でも、前線に立つことはほとんどなかった。
それなのに今、彼女の握りには型がある。
二人は五メートルの距離で向かい合った。
美咲は木刀を胸の前で構える。
その手が、震えていた。
ハルは何も言わない。
美咲も何も言わない。
昨日、目が合ったのに、言葉は一つも見つからなかった。
今日も同じだった。
訓練場の端では、澪が両手を握り締めている。
その隣でレンが腕を組んだ。
学園側では、雫が不安そうに前へ出ようとして、黒崎に肩を掴まれて止められていた。
「黒崎くん……。」
「見ていろ。」
黒崎はそれだけ言った。
視線は、二人から動かない。
「開始。」
神崎の声が響いた。
ハルは動かなかった。
美咲も動かない。
五メートル。
ただ、向かい合っているだけ。
十秒。
二十秒。
周囲がざわつき始める。
「何やってんだ。」
「試合だろ。」
ハルは一歩、前へ出た。
美咲の肩が跳ねる。
だが、構えは崩さない。
もう一歩。
三歩目で、間合いへ入った。
打てる。
いつでも打てる。
ハルは木刀を持ち上げた。
美咲は動かない。
目を閉じもしない。
まっすぐ、こちらを見ている。
――打てなかった。
振り下ろす直前で、腕が止まる。
自分でも理由が分からなかった。
ハルは一度距離を取る。
「……構えろ。」
自分の声が、思ったより低く出た。
「構えてるよ。」
「違う。」
ハルは首を振った。
「打つ気のある構えじゃない。」
美咲は答えない。
ハルはもう一度踏み込む。
今度は横薙ぎ。
速度を落とした一撃。
美咲は避けなかった。
木刀が肩に触れる直前で、また止まる。
「――くそ。」
ハルは飛び退いた。
息が上がっている。
戦っていないのに、心臓がうるさい。
「なんで避けない。」
「……。」
「防げるだろ。」
「その構えなら、受けられるはずだ。」
美咲はしばらく黙っていた。
やがて、震える声で言った。
「打っていいよ。」
「は……?」
「打って。」
その一言が、静まり返った訓練場に落ちた。
「私、ハルくんに何をされても。」
「文句なんて言えないから。」
言い終えた瞬間、彼女は目を伏せた。
その顔は、許しを乞う顔ではなかった。
罰を待つ顔だった。
ハルの中で、何かが音を立てた。
(――ああ。)
視界が、狭くなる。
周囲の音が遠のいていく。
ハルは自分でも驚くほど冷たい気持ちで、その言葉を受け取っていた。
(そうか。)
(お前は、まだそこにいるのか。)
あの日。
競技場の白い線の手前。
百二十四人が走り出した中で、たった一人動かなかった少女。
助けもしない。
捕まえもしない。
ただ、そこに立って見ていた。
三か月経った。
地下へ落ちた。
番号で呼ばれた。
殴られた。
死にかけた。
仲間ができて、名前を取り戻した。
そして戻ってきたら。
彼女はまだ、同じ場所に立っている。
打たれるのを待って。
自分では、何もしないで。
(違う。)
(俺が欲しかったのは、それじゃない。)
ハルは足を踏み出した。
速い。
美咲が反応するより早く、懐へ入る。
「っ!」
木刀が跳ね上がる。
その切っ先が、美咲の喉元でぴたりと止まった。
あと数センチ。
誰かが息を呑む音がした。
美咲は動かない。
まばたきもしない。
木刀の先が、彼女の首に触れそうな距離で震えている。
震えているのは、ハルの手だった。
「……美咲。」
声が掠れる。
「聞きたいことがある。」
「……うん。」
「お前、その木刀。」
「いつから握ってる。」
美咲の瞳が揺れた。
予想していない質問だったのだろう。
「……あの日から。」
小さな声だった。
「ハルくんが連れて行かれた日から。」
「毎日。」
「一日も休まなかった。」
ハルは奥歯を噛んだ。
「なんで。」
「……もう二度と。」
美咲の声が震える。
「立ってるだけになりたくなかったから。」
その答えを聞いた瞬間。
ハルの中で、抑えていたものが決壊した。
「じゃあ、なんで今、立ってるだけなんだ!」
訓練場に、ハルの怒声が響き渡った。
誰も声を出さなかった。
カエデが目を丸くする。
レンでさえ、動きを止めていた。
ハルが誰かに怒鳴る姿を、地下施設の誰も見たことがなかった。
「三か月毎日振ったんだろ!」
「その手、俺より豆が固いじゃねぇか!」
「それだけやって!」
「今、なんで一回も振らないんだ!」
美咲は答えられない。
瞳から涙が溢れる。
それでも、木刀は下ろさない。
下ろせない。
ハルは切っ先を突きつけたまま続けた。
声が、震えていた。
「俺はな、美咲。」
「別に、助けてほしかったわけじゃない。」
「百二十四人に囲まれて、お前一人が走ってきたって、何も変わらなかった。」
「そんなことは分かってる。」
一度、息を吸う。
「でもな。」
「――何か一つでいいから、俺のために選んでほしかった。」
美咲の身体が、大きく震えた。
「叫ぶでも。」
「泣くでも。」
「先生に食ってかかるでも。」
「殴りかかってくるでも、何でもよかった。」
「お前が、自分で決めて動いたなら。」
「俺は地下で、それを支えにできた。」
ハルは、そこで一度言葉を切った。
言うつもりのなかった一言が、勝手に出てくる。
「でもお前は、何も選ばなかった。」
「あの日も。」
「今日も。」
その瞬間だった。
パァンッ。
ハルの木刀が、下から弾き上げられた。
喉元にあった切っ先が跳ね上がる。
ハルは反射的に飛び退いた。
美咲が、木刀を振り抜いていた。
肩で息をしている。
顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
それでも、その目は真っ直ぐこちらを睨んでいる。
「……選んだ。」
低い声だった。
「え?」
「選んだって、言ってるの!」
美咲が叫んだ。
訓練場が震えるような声だった。
「私は選んだ!」
「ハルくんじゃなくて、自分を選んだの!」
「怖かったから!」
「地下に落ちたくなかったから!」
「能力を取られたくなかったから!」
「お母さんに泣かれるのが嫌だったから!」
一歩、前へ出る。
「全部自分で決めたの!」
「誰にも命令されてない!」
「だから私は、あの日ハルくんを捨てたの!」
その言葉に、ハルは動けなかった。
美咲はさらに踏み込む。
「それを!」
「『何も選ばなかった』なんて言わないで!」
「そんなの、私が三か月抱えてきたもの全部……。」
声が詰まる。
「全部、なかったことにされる。」
涙が床へ落ちた。
「私は、ちゃんと裏切ったの。」
「そこだけは、逃げてないの。」
ハルは、ようやく理解した。
彼女が三か月かけて手に入れたものが何だったのかを。
それは、許しではない。
罪の輪郭だった。
自分は加害者だと、はっきり認めること。
それだけを、彼女は握りしめて生きてきた。
だから奪われたくない。
「弱かっただけ」でも。
「仕方なかった」でも。
「何も選ばなかった」でもない。
――私は選んで、あなたを捨てた。
その一点だけは、誰にも譲れない。
(……そうか。)
ハルは木刀を握り直した。
(お前も、戦ってたのか。)
視界が、少しだけ明るくなった気がした。
そして。
「来い。」
ハルは、静かにそう言った。
美咲の目が見開かれる。
「……え。」
「打ってこい。」
「本気で来い。」
「そうしたら――。」
ハルは正眼に構える。
「俺も、本気で打つ。」
美咲の唇が震えた。
一度だけ、目を閉じる。
そして開いた時、その顔からは迷いが消えていた。
「……分かった。」
木刀を構え直す。
握りが変わる。
三か月間、毎朝振り続けた者の構えだった。
「行くよ。」
「ああ。」
「――ハルくん!」
美咲が床を蹴った。
速い。
ハルは素直にそう思った。
三か月前とは別人だった。
踏み込みは浅いが、迷いがない。
振りは荒いが、真っ直ぐだ。
上段からの一撃。
ハルは受けた。
ガキンッ。
衝撃が腕へ伝わる。
重い。
治癒能力者の腕力ではない。
これは、振り込んだ人間の一撃だ。
二撃目。
三撃目。
美咲は止まらない。
叫びながら打ち込んでくる。
「ずっと!」
一撃。
「毎日!」
一撃。
「ハルくんが、どこで、どうしてるかも分からないのに!」
一撃。
「私は、あの学校で笑ってたの!」
ハルはすべて受け止めた。
受けながら、聞いていた。
「仁の隣で!」
「みんなに囲まれて!」
「普通に生きてたの!」
「それが一番、許せない!」
四撃目。
美咲の木刀が、大きく振り上げられた。
全身の力を込めた一撃。
だが。
振りかぶった瞬間、脇が完全に空いた。
三か月では、そこまでは埋まらない。
(――ああ。)
ハルの身体が、勝手に動いた。
半歩、内側へ。
振り下ろされる木刀の内へ滑り込む。
美咲の目が、驚きに見開かれる。
その顔が、はっきりと見えた。
泣いている。
怒っている。
それでも、目を逸らしていない。
初めて、ちゃんとこちらを見ている顔だった。
(悪い。)
ハルは木刀を振り抜いた。
バァンッ!!
乾いた音が、訓練場中に響き渡った。
美咲の身体が横へ流れる。
木刀が手から離れ、床を滑っていく。
そのまま膝から崩れ、肩から床へ倒れ込んだ。
――静寂。
誰も動かない。
誰も声を出さない。
澪が思わず前へ出ようとして、レンに腕を掴まれた。
「待て。」
「でも……。」
「今行くな。」
レンは首を横に振る。
「あれは、あいつらの話だ。」
学園側では、雫が口元を押さえていた。
黒崎は、動かなかった。
止めることも、責めることもしない。
ただ、倒れた美咲と、立っているハルを見ている。
(……そうか。)
黒崎は心の中で呟いた。
(俺が言えなかったことを、あいつが言ったのか。)
美咲は、しばらく動かなかった。
肩を押さえたまま、床に転がっている。
やがて。
「……痛い。」
小さな声が漏れた。
子どもみたいな言い方だった。
「痛いよ、ハルくん。」
ハルは何も言えなかった。
美咲は震える腕で、ゆっくりと上体を起こす。
髪が乱れ、頬に涙の跡が残っている。
それなのに。
彼女は、笑っていた。
「やっと。」
「やっと、痛い。」
その一言に、ハルの喉が詰まった。
「三か月……。」
美咲は自分の肩を押さえる。
「ずっと、何も感じなかった。」
「ごはんも食べられて。」
「眠れて。」
「笑えて。」
「それが一番、怖かった。」
涙が、また溢れる。
「痛いって思えて、よかった。」
ハルは動けなかった。
木刀を握る手から、力が抜けていく。
(……何をやってるんだ、俺は。)
胸の奥が、ざわつく。
昨日と同じ痛みではない。
もっと汚い、別のものだった。
打った瞬間。
自分は確かに――。
すっきりしていた。
その事実に、身体が冷たくなる。
(今のが。)
(俺の復讐か。)
形がないと思っていたものが、初めて輪郭を持った。
そしてその形は、ハルが想像していたどれよりも、醜かった。
「勝負あり。」
神崎の声が響く。
「天城ハル。」
「――記録する。」
ハルは返事をしなかった。
木刀を下ろし、倒れた少女を見下ろす。
三か月前、この子の笑顔だけを支えに走っていた。
今、その子を自分の手で打ち倒した。
何も晴れていない。
何一つ、戻ってもいない。
ただ一つだけ、分かったことがある。
(俺は、あの日のことを許してない。)
(それだけは、はっきりした。)
ハルはゆっくりと手を差し出した。
自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。
美咲は一瞬だけ驚いたように目を見開き。
それから、その手を取った。
三か月ぶりに、二人の手が触れた。
どちらも、何も言わなかった。
訓練場には、まだ誰の声も戻っていない。




